1 桜沢如一氏のこと
ここに桜沢如一氏について書いた文章を紹介します。これは「新栄養」という雑誌に昭和60年の10月、11月、12月と3カ月にわたって連載されたものです。これを書いたクレマン・S・Kという人は河内省一先生です。河内先生と日野先生はどちらも桜沢氏の指導を受けた医者ですが、河内先生は日野先生より先輩になります。
桜沢如一氏が書いた本を読んだことがある人は、ぜひ読んでいただきたい。H博士というのは、日野 厚先生のことです。私は昭和60年12月に日野先生から読んでみるようにとコピーを頂きました。「食養の」再建 第一回
誤った食養の罪悪 GOは天才か嘘つきか
クレマン・S・Kはじめに
GOこと桜沢如一氏(以下Gと略記す)が亡くなって二十年近くたった。
その生前の事実――今回のそれは三十二年も前の一つの治験にすぎないが、これを今日とり上げて貴重な誌面を埋めようとしている理由は、いくつもあるのだ。
要約すれば、Gの亡霊とでもいうべき誤った食生活指導者が大勢いて、Gの生前と同様に、あるいはもっと広範囲に、国の内外で犠牲者がつづいているからである。
若いころGに協力し、Gの名で二、三の著書を書いた責任が私にはある。そしてG式食養という名の偏食を人にすすめてきたことの反省をありのままにのべて「食養」を考える上で、ひとしく参考にしていただきたいと考えたのである。
天才的といわれたGの活動の中で、功≠フ一面も知ってはいるが、しかし許されてはならない罪≠ヘ、無用な人命の犠牲であった。このGの誤った食養の犠牲は、可及的すみやかに防止しなくてはならない。
第二の理由は、私もGの死亡年齢を二歳過ぎていて、遠からずGもいる絶対の世界に没入するわけである。生き証人も私のほかに二名生存するこのあたりで、一つの治験≠記録し、その治験にからむGの一論文を紹介しなければならないと考えている。
そのことによって、Gの性格、人間性をうかがい知ることができるし、他の著述についても、そうした性癖のあることを前提として、紙背に徹する読み方をされたいと願うからである。
Gによってつくられた独特の食養の犠牲者は今日も各地で続発し、かえって病状を悪くしては、正しい食養の完成をねがう私ども数人の医師のもとを訪ねてくる。
真面目な性格の患者たちに、極端な偏食を教えてかえって障害になっていることに、多くの食養指導者は気づかねばならない。江口俊治先生に紹介されてGを知る
昭和六年一月五日、九州の古い禅師にたどりついて、九死に一生を得た私はその四月京都山科の一灯園・西田天香氏の講演を母校国東中学校で聞いた。
そして機関紙『光』に掲載された「手のひら療治修行会」記録を読んで独修し、数人の治験を得て江口先生に長文の手紙を書いて以来、文通を重ねていた。
七月中旬に復活再起の確証を得て、翌年四月から二年間二度目の中学生活を終え、昭和九年に平壌医専に入学した。翌十年の五月、当時の京城朝鮮神宮社務所で開かれた「手のひら療治修行会」に参加し、主催者西山重道氏(九十歳・目黒在住)によって江口先生に紹介された。
先生は「よく覚えているよ。九州の禅寺から何度も手紙を貰っている。いよいよ玄米食を医学的に研究できるわけだね。ついては桜沢如一という男が昨年フランスから帰って、荏原の下神明に住んでいる。彼の経験を吸収した上で専門的に掘り下げるとよいだろう」
忙しい中からアドレスを書いて下さった。
その翌月には、箱一ぱいの食養雑誌や著書が届いた。「平壌手の会」「平壌食養会」、それに入学とともに始めた「江山会」(座禅)の三つは筆者の学生生活の生き甲斐となっていた。
翌昭和十一年七月中旬に大井町線下神明駅近くにGを訪ねた。そこには栄子夫人、忠一・信一の小学生の息子、編集に遠坂良一君(戦後茨城県共産党書記長)、炊事に平井美枝子さん(遠坂未亡人・水戸在住)らがいた。
その八月には本部は麻布霞町十九に移転し、十二年の夏休みには林仁一郎氏が準備した田村町四丁目の会館に移転した。私たちは引越しトラックの荷物の上にGらと乗って大いに活躍した。陰か陽か分からん! ころげ回って苦しむG
昭和二十四年頃からGは真生活協会―別名をMI(メイゾン・イグノラムス=愚か者の館)と呼び、研究生として男女四十数名が集まっていた。
戦後のGは食養を基盤にした世界平和の実現に傾斜し、昭和二十八年還暦を期して日本の国籍を放棄し、世界市民になる≠アとを宣言し、八月下旬に英国籍のサードハナ号で横浜から出国、と決めて準備を進めていた。
その頃、疎開先の別府市で開業していた私は、GからMIの留守部隊長としての上京を望まれた。
子どもらの教育を考えて上京を考慮していた私は、Gの希望を入れて二十八年八月、父祖三代の医家のすべてを集約していた温泉付四百坪の土地と新築百坪の診療所兼住宅を売却して上京。親子六人と青年S君を同伴して、MIに住み込んだ。協会は糸賀一雄理事長、円山博・天野慶之らの理事・山本悌次郎監事らによって運営されていた。
船の都合で出国の遅れていたGは、九月八日リマ夫人の両親にお別れをし、そのまま信州への講演を予定して出発したが、十日の朝、山梨県日下部のGから「飯田行きの準備をして待て」の電報が入った。何が起こったのか?
Gとリマは十日の夕方MIに帰ってきた。リマの語るところでは――日下部の深夜に始まったGの下腹部痛は激痛が二十時間も続き、リマの手のひら治療はもちろん、梅生番茶(1)・デンシー(2)の大量服用・生姜湯の熱湿布など、知るだけの応急処置はつくしたがまったく無効であった。
十日の帰途、順天堂病院内科で救急患者として受診したが、発作の緩解時であったので、受けた注射が効いたのかどうかは分からなかったという。
私はいろいろのデータ(3)とリマの話からおそらく大建中湯証か、これに近い腹部腹部疝痛を考えた。リマは心配している。今は疲れ切って眠っているが、深夜に再発作が起こるかもしれない、万一のときはよろしく、とのことであった。
MIの医務部長を兼務していたその頃の私は、別府時代の大量の漢薬と応急処置に必要な麻薬と洋薬を備え、外来及び入院十九ベッドを使って診療活動を行なっていたので特別の準備はいらなかった。十一日の午前三時半、リマが起こしにきた。
「うーん、痛い。苦しいっ! クレマン何とかしてくれ !」といいながら長身のGが転々ところがるのである。脈診の後、腹部をみた瞬間、やはりそうだったか。「頭足上下にあって動くこと怪の如し」とは正にこのことである。別府時代の十年間に数例経験している。「大建中湯」の正証であった。
腹診すれば、心窩部に多少の抵抗はあるが、全体に無力性・軟弱で弛緩している。臍下部から右側腹部にかけて膨隆して緊張した腸壁を触れる。ググーッ、キュウというようなグル音が聞こえてガスが多少移動している。いわゆる腸疝痛の発作であり、イレウス(腸重積)や捻転を起こす可能性も考えられた。
キヨ子(薬剤師・クレマンの妻)に大建中湯と半夏瀉心湯(いずれも大服=#{量)を調剤し。煎出するように指示し、煎じ上がるのを待っていると
「クレマン!君、医者なんだろ、注射でも何でもかまわん。はやく痛みを止めてくれ!」
と怒るように訴える。やはりGも普通の人間だ。これが人間Gのありのままの姿である。すると、日頃のGとはいったい何なのだろうか?
「G!原因は陰ですか、陽過剰ですか?」
すでに考え得るかぎりの陰陽両面からの処置は尽くしての呻吟だから、質問が酷であることを十分承知の上である。だがクレマンとしては一応Gから聞いておかねばならない。
「陰陽の判断もなく行われる治療は治療ではない£Pなる対症療法≠ナあり、対症療法はそれ自体が罪悪である」とするGの持論を、私も十分に評価し、可及的にそれを貫いてきたが、「人は神ではない」のだ。
Gでさえもこうして現に激痛に苦悶する一介の人間にすぎないではないか。概念・観念論だけで突っ走ることの許されないのが、この人間世界ではないのか、それをGにわかってもらいたい一念が質問になったのである。
「陰か陽かわからん!とにかく痛みを止めてくれ」という。
「麻薬を使いますよ」と一言ことわってから、私は塩酸モルヒネ1.0ccを皮下注射した。
「ちっとも効かんじゃないか」と叱りつけるような語調であるが、まだ一分も経ってはいない。四、五分間様子をみたがGの苦悶は一向に変わらない。腹部の蠕動不穏は依然つづいている。
「もっと強いのを使いましょう」
思い切って強いパントポン・スコポラミン1.0ccを注射したが、今度は針をぬいて一分もしないのに―
「ウーン楽になった。効いたぞ! ありがとう」初めて日頃の顔に戻った。半夏瀉心湯と大建中湯を大陰性と決めつけたG
このとき、キヨ子が二通りの漢方煎剤を持ってきた。Gはこれは何という処方か、何と何が入っているのか、といちいち聞いてから(4)
「さすが漢方だ、すごい陰性を揃えているね。ではその半夏の入っている方をまず頂戴しようか」といって、大建中湯を先にすすめた私の言葉を無視して、半夏瀉心湯を先に、しかも一日分を一気に呑み干して、「生姜の香りがするね」という。
次いで「その山椒の実の入った奴を少し……」といって、これも一日分の半量位を一気に飲んで平然としていう。
「少しピリピリするね。これじゃ腹の虫もびっくりするだろう」などと、少しゆとりが出たようであった。
こうしてGの激しかった腹痛発作はおさまった。私にはまたとない治験であったが、大建中湯の偉力をGに知らせる機会を麻薬に奪われたことは残念であった。
しかし、その後の経過から総合判断すれば、前述の漢方二剤の効力と、このとき以来の食養がGにこの発作を再発させずに済んだものと考えた。
私はこのとき、Gは漢方を全く知らないことを知った。知らなくとも批判できないことはあるまいが、少々乱暴ではないかと考えた。Gが落ち着いたところでまた聞いた。
「ときにG,今度の腹痛発作の原因は陰ですか、陽過剰の結果ですか」
「そうだね……モヒやパンスコという強陰性が効いたのだから、陽性過剰だろう」といったものの、日頃の断定的な歯切れのよさが感じられない。ウイスキーは即効陰性?
半ボトルラッパ飲みのG
「すると。食養的で即効性のある陰性は何でしょうか」
「そうだッ! ウイスキーだ、スコッチのホワイトホースだ!」
今度は即答的にスパッときた。ウイスキーが食養的な陰性?
「クレマン、キヨ子にホワイトホースを買ってきてもらいたい。すぐに! 新宿三越近くのPXだ。十時開店だ」
キヨ子は九時頃MIを出たが、上京してわずか三週間目である。新宿駅の出口にさんざん迷ったのち、十一時近くになって帰って来た。
ウイスキーを手にしたGはいきなりラッパ飲みを始めた。半ボトルを飲んだところで、さも満足そうに―
「どうだ、僕の陽性さが分かるだろう。これだけのスコッチを飲んでも少しも酔わないではないか」
私は唖然として、それに抗弁することさえ忘れていた。Gの陰陽論とは、かくも便利重宝なものだったのか。これは詭弁であり、観念の遊戯ではないか(5)。(注)
(1)中位の梅干し一個、生姜卸汁一茶匙、純醤油二匙、沸騰炮じ番茶煎汁150ml。
(2)茄子のへたを塩漬け一年以上、黒焼きした粉末。戦前は「ほまれ」という歯磨き専用物、古く伝わって来たもの。これを強陽性に断定してGは食薬的に使った。筆者には服用の体験、治験全くない。
(3)出国と決まって以来のGは、数ヶ月間殆ど夕食はMIでとらず、美食邪食の外食。さらに驚いたのは持っていた百円に一枚の東京都菓子販売組合のチケットを一束、百枚ほどを「子供らに……」といってキヨ子が貰った。食養の大先生が菓子を贈物にしたはずはないのだが。
(4)半夏瀉心湯は半夏、乾姜、黄連、黄ごん、人参、大棗、甘草からなる。Gは半夏と生姜(実は乾姜だが)を陰性と考え、この処方全体を「大陰性」と独断した。大建中湯は蜀椒(山椒)の実、乾姜、人参、膠飴(自然加工の米あめ)に対して、素人判断で大陰性の飲み物と決めつけたGは漢方を知らなかったという以外はない。古人の配剤の妙を知るには余りにも粗雑すぎたか。
(5)無双原理、PU(宇宙の原理)は一つの概念である。観念論でもよい。問題はこの概念によって個々の病人を詳細に判別して、千変万化する生体の反応、症状に生活ことに食生活を一致し、調和させる指導が必要である。そのためのPUであると説きながら、G食養は世にいう桜沢式塩漬け法=B一定形式にとらわれた食事を強制するところに思わざる失敗が発生する。
食物だからと安易に取り組んでは人を誤る。相手はどのような先天的異常体質を、ことに体内酵素系列に欠落因子を潜在させている個人であるかは、外見や粗雑、強引な対応だけだは見出せないことも多い。
食物アレルギー患者に対して、たまたま七号、六号食といわれている玄米飯だけあるいは極めて限られた少量の副食による指導が成功してもそれは「除去食餌」としての役目を果たしたに過ぎないことを知らねばならない。
すべての重病人にこれらを強制し、失敗して死亡診断書を医師に依頼するような不見識な指導は罪悪であると考えるのが当然である。(次号では、Gがどのように事実を歪曲し、自己を神格化すべ捏造したか。インドのカルカッタから航空便で送ってきたものを抄録して批判し、新旧二、三の代表的な犠牲者の証例を紹介する)
「食養」の再建 第二回
G式栄養失調・塩漬け療法 ミイラにされた赤ん坊
クレマン・S・K桜沢如一の手記
昭和二十八年十二月一日発行のコンパ(真生活協会機関誌)には桜沢如一(G)の手記『恐竜の如き黒い回虫―私の失敗』(37頁)が発表されている。〔 〕内は私、クレマンの注記である。
一、二十時間私は七転八倒した
九月八日午後一時下腹が痛み出した。デンシーを一サジ又一サジ、私は山モリ五サジ位のんだ。この痛みは夜七時から七転八倒しつつ翌朝九時まで二十時間つづいた。対症療法は一切やらない私だが原因が判らないから仕方なしにやって来た。
モットモ原因が陰であるという判断もあるにはあった。昭和十五年頃真瓜を食べて下痢と腹痛に苦しんだ時、高級レストランのハンバーグをやって見たところ、トタンに痛みがおさまった。それからは外出中に痛くなるとイツモ、玉子とハンバーグをやった。だから腹痛の原因を陰と考えた。二、私はガンをもっていた
実は私はガンをもっていた。二十五歳の頃、故岡部剛雄医師にガンの初期かも知れないナ≠ニ言われた。ソレカラ四十年私は人知れずガンと闘って来た。
五十歳頃以後はイツモ急にガンがアバレ出して……四十年間私は塩をきかせるコトだけで大陽性を身につける修行をして来たのだ。
〔G式食養が「塩漬け療法」と批判される一端を告白している〕
実は一月頃から私は時々甘いモノ、クダモノ、ビール、を取り始めた。その理由は、当時理事長だった糸賀一雄氏の白髪がGの指導六ヵ月を経過しても少しも軽くならないので、Gは陰性食を多食して自ら白髪治しの人体実験を始めた。
〔これは、世の多くのカリスマ的人間の常用する言い訳である〕
一つ二十五円もする三笠を一箱六コも買って来てもみな食べてしまう。その上クダモノ、ビール、……オマケニ、それをワルイとはツユ思っていない。健啖家でなければ大人物になれない……と私は思い込んでいる。
〔前号に記した菓子抽選券の束と符節が合って来た。かくて出国と決めたこの年の一月から九月の間に、大建中湯の証が準備されて行った。三、私は原因をつきとめる
デンシーが効かない……陰性の原因ではない……スルト回虫か。トニカク原因が判らない限り手を出さない人間だ。医者や注射が傍にあっても私はケッシテ救いを求めはしない。
自分が自分を治せないなら、自分で自分の苦しみの原因さえ分からないなら、四十年ドノ面さげて病人の相手をして来たか?
〔これが、前号に記した事実から一ヶ月も経過しない十月頃、インドのカルカッタでGによって記されている。常人の考え及ばない複雑な伏線であり詐術なのであるが何と矛盾・混乱の告白であるか〕四、食物療法の薬用品はミナ陽性
〔リマとの対話形式で〕陰性の原因じゃなかったのだナ。やっと分かった。じゃハンバーグエッグ?四十年間の陽性過多症なんだ。アリガタイことだナア。四十年努力すると体質もスッカリ変わるんだ。念のために虫下しをやってみよう。虫が出なかったらイヨイヨ陽性過多にマチガイなしだ。
ソレカラこんなスゴイ苦しみに会ったフツー人がたどる道―医―薬―病院―死への道を考えて見た。探検だ。医者に行って見よう。
〔Gはとにかく痛みの原因を陽性過多に誘導したいのだ。
それにしても、本気で回虫症を考えるあたり、実に幼稚な医学知識というほかないし、医者にかかるにも、医学を否定し、強がりを主張し続けた数十年の、自らの持論に対する苦しい弁解が必要になる。自らの敗北を完全に認めている。
このように登場の舞台を捏造した上で、東京に着くとサントニン一缶二回分を買って一度に服用し、順天堂病院を受診。
ここでも医師に一体ナンでしょう? 癌ですか?回虫ですか?≠ニ本気で聞いたらしい。しかし発作の収まっている腹部の触診では、ことに昭和二十八年頃、漢方を学んでいる医師のいなかったであろう大学病院では、前夜の発作が「大建中湯証」であったろうとの推察は不可能であったと思われる〕
十一日朝三時半頃又痛みが来たので目がさめる。
〔陰寒証に属する大建中湯証の発作は一日の中の最陰性時、午前二〜三時頃に起こりやすい傾向がある〕五、漢方の卓効とウイスキー
四時、五時、痛みが続く。しかしノタウチ廻るほどではない。手モトにナニも陰性のタベモノがない。ウイスキーがほしいナア。
八時前クレマンが来る。ああ、いい処だ。ボクの体を見てごらん。長い間君はボクを知っているけれど、体をマダ見たコトがないだろう。クレマンはクワシク診る。もう十数年の経験があるし、漢方も研究している。ケレドモ私の病気はスグには分からないだろう。
ドォ? 漢方ならコンカ時ナニを盛るの?
〔前記の十一日早朝の事実と対比して読者はこのGの天才的詐術に驚かれるであろう。時間をずらし、痛みを軽くし、陰か陽か分からんとのた打ち廻ったGが、ここでは「陽過剰」を前提として、陰性のウイスキーをこの段階で臭わしている。
三時半にリマが起こしに来たことを無視して、八時頃クレマンが来る、とした上で悠然と主客を転倒している〕
漢方薬はミナ食物だ。中国医学はスゴイ。……〔と中国の中西合作を讃え、日本の過去の医政や現状を批判してから〕
……注射もしましょうか?――それは西洋の強い陰性の化学薬品で、神経毒だナ。それはおもしろいナ、漢方と西方のコンクールだナ……。
あとになって分かったことだが、この時クレマンは強パントポン、アトロピン〔Gの錯覚、スコポラミン〕というおそろしい陰性のものを注射した。
しかし、五分たっても十五分たっても一向キキメがない。モー一本やらないとダメだナ。そこでモー一本。三分……十二分、ヤット痛みが感じられなくなった。
こんな時、G、食養だったら何をやります。こんどはクレマンがスカサズ切りこむ――ウイスキーだ、言下に私は答えた――じゃ買ってきましょう……。
〔漢方薬はミナ食物だという乱暴な発想は、漢方を知らなかったGには仕方のない誤りとしても、洋薬の麻薬によって自分の生命の危険を救われた、となってはGの敗北になることを計算の上で、順序を逆転して漢方薬を前に出して賞讃し、洋方の注射の偉力をぼかして殆んど効果がなかったように捏造している。
また、主客を転倒してクレマンにウイスキーを買ってきましょう、と言わせていることなど、どこまでも、詐偽的思考であり、とても人命を預かり、病者にサービスすることの出来るような性格の持主とは考えられない〕六、恐龍の如き回虫の正体
六月以来三ヵ月におよぶ奇怪な腹痛が半夏瀉心湯、大建中湯、スコッチウイスキー半分でスッカリ治ってしまった。九月十日は私にとって大きな記念日だ。……しかしアザヤカだナ、食養なるかな! 無双原理なるかな! 自然医学はスゴイナ。
〔何という、いけずうずうしい結論的な讃辞なのだろう〕
ナゼ私は助かったか。
@原因をつきとめない限り手当てをしなかったから。
A陽性過多であったから助かったのだ。陰性過多は消えさるのみ。
Bこの世は陽の世界! 動物は陽! 人間は動物中で最も陽。
Cこの世という相対界は物も人も一切がムスビという極陽によって作られているのだら、陽のとりすぎで死ぬということはないのだ。動物性陽にはSやPの陽が入っているから、動物性陽の極は逆転して破カイ、分裂になる。
D植物性の陽、火、塩、活動的などの物理的陽はイクラとっても心配ない。最後のドタン場になればリッパナ判断力が出る。
E植物性の陽や塩の陽ならイクラきかせても、つみ重ねても、固めても、貧乏(時間とモノ)という大きな陰さえあればケッシテ心配ない。
〔以上Eまでの中で、@Aは大嘘でDEに至っては、これがG式食養の一大盲点であり、G直接の人柱多出の原因であったのみか、今日に至るまで続けられているG式食養の罪悪の根源である〕名取太郎君の死
昭和十三年四月上旬、(社)食養会(田村町四丁目)医務部員になったクレマンは医師になって一ヵ月、注射器さえ持っていないかけ出しの食医だった。一年先輩の林仁一郎医師の縁で入院したいという名取太郎君を迎えに、甲府まで行けという命令をGと林から受けた。
初めての甲府駅でタクシーを拾い、この地方の素封家・名取家に向かった。一人息子の太郎君は十七歳ぐらい、結核でやせ細り、顔色蒼白、末期を思わせる重症だった。父も結核で死亡、四十歳ぐらいの母と二人切りだった。
病床からタクシーまで、さらに甲府駅や新宿駅の乗り換えから、新橋駅でのタクシーへ、すべて私が背負って三階のベランダに寝かせてやった。
Gの食箋は例によって「ゴマ塩三勺」式の塩からい食物。果物はおろか生野菜一切れさえ与えられない。その上、水分も番茶一日に一合五勺であったから、太郎君は日に日にやせて行った。二週間目頃から口内炎を起こし、温かいものや塩気が沁みて食べられない。
三十九度内外の熱が出て、激しい咳に苦しむが、蓮根湯・芋薬(1)などをGの指示で与えても全く効果がない。
入院一ヵ月のころ、太郎君はいよいよ重態に陥った。
ところがGは、その頃執筆旅行と称して本部にいないし、林氏は事業部の仕事が忙しく、これまたほとんど姿を見せない。頼りにしてきたG先生や林先生がいない病室に、見習いの私独りではどうにもならない。太郎君母子の不安はつのる。
思い余った私は近くの慈恵医大内科講師だった古閑義之博士(2)に往診を頼んだ。入院をすすめられたが、クレマンの独断は許されないし、林氏もGの留守中なので決断が下せない。
古閑博士は静注をして帰られたが「余命数日だろう」という。
太郎君はそれから数日後に亡くなった。抗生物質の無かった戦前の結核だから、いずれは助からぬ太郎君だったろうが、自宅で放任しておいても、おそらくあと数ヵ月は生きられたであろう。
食塩過剰と栄養失調が太郎君の死期を早めたであろうことは、クレマンにも十分考えられた。クレマンも、太郎君の年頃に胃潰瘍と結核を患い、寺で玄米食半年の後再起した経験をもっている。しかし、生野菜の制限はなく、病人ということで魚貝類の差し入れも許されていた寺の生活であった。
太郎君のほかにも、当時半年間に二、三人の青年が結核で死んで行った。
どの病人の場合も、いよいよ重態に陥るとGは旅行や出張で姿を見せなかった。病人や家族の不満と恨みは共通していた。Gという人間は大言壮語はするが、いざという時には逃げ廻ってその責任を回避する冷酷な人間であると考えた。
その年の九月初めに、「半日を慈恵の内科で、主として結核を学びたい。父も弟も結核で倒れたクレマンにとっては弔い合戦ですから」と相談したが、Gは言下に拒絶した。
しかし「Gの食養はあら方判ったので、当分西洋医学をやります」と宣言してクレマンは慈恵加藤内科に入り、主として結核病棟に通うことになった。(注)
(1)咳に効く。ふつうは生蓮湯、蓮根の絞り汁茶匙二〜三杯、生姜汁同一〜二杯、塩半匙に熱湯150ccを注ぐが、この場合は口内炎で生姜に耐えられないので蓮根汁に熱湯、塩なし。
芋薬は石塚式芋パスターとして、「赤本」にも紹介されている。里芋の皮をむいてすり卸し、生姜卸を芋の一〜二割加えてから小麦粉でねってパスターにし、患部に貼る。二〜三時間でとりかえる。消炎作用がある。
(2)森田式神経衰弱根治法で学生時代から交流していた。ミイラにされた赤ん坊
戦前はG式食養の犠牲者は結核患者に最も多かったが、戦後では乳幼児の犠牲が特に惨めな印象として残っている。
昭和二十三、四年頃、Gは東横線日吉に住んでいた。音楽家のS夫妻はここに同居してGに協力していた。食養家に今日も愛唱されているいくつかの歌の作曲はS氏によるが、このS夫妻の乳児が次々とG式食養の犠牲になった。
G式食養では十分な母乳が出ないので玄米スープ、玄米クリーム(1)に依存する。カロリーと蛋白、さらにビタミンCなどの欠乏で栄養失調に陥り、空腹に乳児はピーピー無く。狭い住居で終日泣かれるのでGのヒステリーが起こる。赤ん坊は押し入れに寝かされてふすまを閉める。
その死体はまるで猿のミイラのようだった、とS夫人の実弟H医博その他から聞いている。それが何と二人か三人続いたという。
だからG式食養のグループが信仰集団と批判されることになるのであろうか。
その時のS夫妻の心理もクレマンには理解しかねるが、それを平然として同志に強いて、反省することの出来なかったGの性格は正常とは考えられない。
惨酷な人体実験というほかあるまい。(1)玄米スープ 軽く炒った玄米に十倍位の水を加えて、十分位沸騰させた煎汁。クリームは玄米一合を約700mlの水でゆっくり煮て完全に米粒が軟化し、粥になったものを絞ってクリーム状にし、1%ぐらいの塩を加えてもう一度煮沸する。
古い同志や研究生も
ロンドンのRは「こんなに真面目に玄米食で食養を守って来たのに、どうしてこんな病気に苦しまねばならないのか」と、老いの独り身をリウマチで苦しんでいるし、関西のA君は結核で療養所に入院し、食養料理の講師Kはカリエスで入院し、ドイツで食養指導をしていたN君は重症の肝硬変と骨そしょう症で苦しんでいる。
元大学教授M氏は塩の取り過ぎで腎と皮膚障害に苦しんだが、H博士の忠告で塩を減らして健康になったと聞く。
当のH博士は学生時代のG式食養でこわした腎障害のために、四十年後の今日も苦しみ続け、無塩食に近い玄米食を続けているなど、G式の犠牲者は専門家やセミプロとも言える旧研究生にまでおよんでいる。
たくさんの旧研究生の死亡者については一々記すことを省いた。五十八年二月、若い医師夫人がクレマンのクリニックに現れた。主人の医師が食養の実行で完全な体になってから子供をつくろう≠ニ宣言して結婚生活が始まった。翌月からメンスが止まり、冷え症で無気力に陥った。
すでに六ヵ月メンスがないという。血圧は最高が90、最低は60、脈拍は50台で貧血している。聞くとじゃこ一匹も食べない完全な玄米菜食を実行している≠ニいう。
これが医師である若い主人の指導下で起こっている現実に私はショックをうけた。
H、U、K、Aなど古い食医たちと話してみると、それぞれの医師のもとに「G式食養で失敗した人たちが、今日でも年間かなり訪れる」という。Gの亡霊に取りつかれた犠牲者は決して過去のものではないのである。食養の再建 最終回
食養は固定すべきではない 生神様にされそうになったお話
クレマン・S・K二木式と桜沢式食養
食養の両巨頭といわれた二木・桜沢両氏の食養が全く両極端に対立していたので、「どちらの説に従えばよいのか」という質問を、長いあいだ病人や講演会の聴衆に聞かれたが、両氏の亡くなった今日もなお、時々同じ迷いに陥っている人がいる。それではお答えしよう。
二木式食養といわれているものは、陰性に片寄った食法である。それは、食塩・みそ・醤油などの塩気は無用で、有害であるとし、二分間煮の野菜・果物は大いに食べよ、水も飲め。そして動物性食品も否定するというのであるから、陰性療法に入る食法ということになる。
二木式の実行で、無気力になり、立って歩けないほどに筋肉の収縮力を失った人や、土左エ門のように水ぶくれして坐ったきり容易に立ち上がれない失敗者などを、今日までにたくさん診てきた。
二木先生のように生まれつき陽性で、大変な闘志と、稀に見る強い意志の持主であったからこそ実行できたし、幼児の動物性食品過剰から起こっていた皮膚病や腎臓病を征服して、九十四歳の長命を全うされたであろう。
これとは反対に、生まれつき陰性の桜沢氏から「陽性の食養」が生れたのも自然だといえよう。「玄米とごま塩だけで、いつ、だれが、どこでも、いかに長く実行してもよい。これが最高の食養だ」と主張した頃から「桜沢式食養」という固有名詞が生まれ、そのときすでに食養から外れて行ったのである。
「一が二を生み、二が三を生む」と古人はいったが、石塚左玄の食養が二木・桜沢の陰・陽両極端を生み出したもので、「易」の示すところ、自然の成り行きであった。
二木式を左手に、桜沢式を右手として、自由に陰陽を使い分けて誤りなく、常に人をより健康に、美しくするというのが第三代の食医の理想ではあるが、道はきびしく、まことに至難というべきである。
食養だけでなく、すべての健康法、あるいは治療法にしても、常に人の環境や職業その他の生活条件と、その人の生まれつきや、生後の食生活がつくり出している体質や病状を、常に陰陽的に判断して、流動する生命の動きの中で調和をつくり、健康と美を保ちつづける努力が必要であろう。
局所にとらわれたり、立場が固定しては、その健康法は功罪相半ばすることになると思う。陰陽両極端な食養経験
昭和六年、泉福寺時代の玄米食の指導者であった吉田幸正居士は女学校長のOBであった。玄米小食で頭脳が冴えることを常に説かれていた。私は学年試験の二週間前から試験の終わるまでの六週間に約1`cの体重減覚悟の上で、主として菜食の玄米小食を実行した。(その頃年齢は二十五歳、慎重163a、体重は45`c)
試験問題に向かうとそれまでに読みかつ聴いた関連事項が整理されて滝のように脳裏に流れる。私はただそれを記録する。
これは決して私一人の体験ではない。戦後の別府時代、大学受験生H君の体験もその一例である。
「本を読んでいると、文字が勝手に頭に飛び込んで来るような感じになった。記憶しようという努力は全く必要がなくなった」とよろこんだH君は、周囲の予想に反して見事九州大学に優秀な成績で入学した。四年間の平壌生活を終えた私は、G式食養の徹底した実行を試みた。玄米は一日一合、純植物性の塩辛い副食は主食の1/5(しかし一般食の野菜量より素材の実量ははるかに多い)、その上に一日当たり40%の焼き塩入りゴマ塩三勺,水分は三年番茶一日一合五勺。O夫人手作りの弁当持参で鮮鉄の特急車に乗り込んだ。
八時間後に釜山から関釜連絡船で八時間。すでに一日分の番茶は飲みつくしている。
門司駅から日豊線の列車で数時間、のどはますます乾き、小便が近くなり、次第に尿の色は濃くなった。便器に勢いよく流れる水に身ぶるいして思わず両手ですくい上げたい衝動にハッとわれに返った。水の精気に打たれた思いであった。
平壌を出て二十六時間、卒業を祝う母の手作り料理の前に、私は大きいネーブル・オレンジを夢中で食べ、チシャ(サニーレタス)の酢みそ和え二皿をむしゃぶり食べた。この時の祝膳と食後の煎茶二杯の甘かったことは永久に忘れることができない。昭和十三、四年ごろ、滋賀県立近江学園(精薄児施設)では、園長・糸賀一雄氏とGの指導で園児らの教育に正食の効果を期待してG式食養が採用された。
のどの乾きに堪えかねた子どもたちは清掃中の雑巾バケツの水を飲み始めた。この動物的本能で両氏の計画は挫折した。無塩生野菜・小食の実験
昭和二十五、六年頃別府市で開業中、患者に中に「霊能者」と呼ばれる治療家による被害者が続出した。
B夫人はガン性腹膜炎の末期で大量の腹水に苦しんでいた。食養と漢方に「手のひら療治」を助手のA君と毎日一時間ずつ奉仕、二週間後は復位も10a減って危機を脱し、食欲も出始めた。ある日の往診時、病人の症状が急変していた。食養を守っていないことは歴然としている。
その問答中に玄関に来客があり、主人が慌てて目くばせをして来客は去ったが、その時ふり返った私は白装束をちらっと見た。ついで斜上の神棚には1g入る一対の白い水瓶が供えてある。主人の告白ですべてが判った。三日前からある霊能者による御神水を一日2gずつ病人に飲ませ、毎日三十分ずつ「淨霊」(一種の手のひら療治)をうけていた。
昔から、霊能開発手段として、塩断ち≠るいは生菜食≠ナ滝に打たれるなどが語りつがれている。霊能といわれる精神状態≠ェ心身のいわゆる陰性状態であることは推測していたが、私はこれを体験実証することにした。
一日に玄米五勺の粥と副食は百%生野菜、火力は粥だけで塩分はゼロ。二週間に体重は1`c減るが心身は冴え切ってくる。
ある日、ふと高下駄をはきたい衝動にかられて、二十年以上前に父がはいたはな皮つきの高下駄≠探し出して、舗装道路を歩くと、二本の歯が邪魔になる。一本歯にして歩いた時私は驚いた。
天狗さん≠竢C験者たちが山路を一本歯で闊歩したのはこれだったかと気付いたが、一本歯を常用するほどの奇行には走らなかった。
その頃の私は自転車で往診していた。たまたまN夫人の求めで往診、繁華街の人ごみを縫って、すいすいと出前屋さんのように進んでいる自分に気付いた。前を歩いている人の足が動く前に、次は左右どちらに踏み出すのかが、ひらめくので、衝突することもなく自転車を乗り進めている。
駅構内に住むN氏は日通支店長、夫人は、私のは例の心臓神経症の発作ですから、先に女中を診て下さいという。
ふすまを開けて女中さんが現れたとたんに、私は吐気を催し、生つばきが口に溢れ、心臓の動悸がする。朝から別に変わったものは飲み食いしていない、どうしたことだろう。背後の窓を開けて二、三度唾液を吐いたが一向に収まらない。
見れば女中さんは部屋の入口に立っている。招いて私の前に坐らせた時、私の動悸は一段と強くなった。そうか。この人の症状を受けているのか=B全身が手のひら療治の手≠フようになっているのだ。
私は一つの生体実験を思いついた。「食物と病気」について話しながら、三十分が経過した。急に、ほっと開放感を自覚し、気分爽快になった。病人の症状もきれいにとれていた。その間病人の体には全く触れなかった。
その病人は医師に心臓カッケと言われ、三日前から便秘してムカムカしていた。食養の実行と二週間分の漢方薬で、ひどいお血症状から開放された。
N夫人は感覚の鋭い人で私が気付く前から「K先生は大変なことになった。聴診器や注射器さえいらない医者になった」と思ったと語った。
この経験から約二週間に、精神分裂症の病人二人(I夫人とN君)が手をふれることなく、対話三十分内外、三〜五回、の繰り返しで根治した。もちろん、証に応じた食養の実行と漢方薬は併用した。そのほか各種の慢性病者が約二十名病気から開放され、食養の実行者になった。生き神様にされる計画
そのころ、助手のA君がK県議をつれて私を訪ねた。先生は白装束で一日に七、八時間坐ってくれればよい。あとはすべて吾々がやります≠ニいう。きけばK氏の所有する扇山の麓の数万坪に神殿を造って、私を生き神さんに仕立てようという計画である。
私は言下に断った。
生長の家の『生命の実相』第六巻に記されている天下の霊媒・亀井三郎が遮光メガネをかけて、私のクリニックに現れたのは翌年の三月末日、弱視とインポテンツに悩んでいた。
翌四月一日には彼の興行・霊の物理実験のインチキ性を暴露する計画が完了していた私の前に、前日現れたのである。何が霊能者だ!≠ニすでにこの時私は彼を見破ったし、いわゆる霊能なる現象が陰・虚に近い身心者に現れる一例を診た。
その後、大分県下の霊能者といわれていた四十名近くを私は半年がかりで探訪し、上の結論を確かめたのであった。
考え方によれば、極めて面白い重宝な能力を得た私が、どうしてこれを放棄したのか。現実の社会生活に耐えられないことを体験したからである。
ある朝、大分市への往診のため、早朝の電車に乗ったが酸敗した魚臭に吐き気を催し始めた。市内亀川の魚行商婦人たちが数人乗っていた。彼女から一番離れた席に移動しても私の症状は一向に変わらない。
私は途中下車してタクシーを読んで貰って往診の目的を果たしたが、これほど陰虚症に陥ってはどうにもならないと考えた。
そうした状態から脱出することは簡単である。一日一合〜一合半の玄米飯と一日一回の白身の魚を加えた菜食で十分である。特別に塩分を多くする必要はなく、一日一回の生野菜は私の場合は必要である。食養は人の条件で変わる
以上、私は両極端の陰陽食養を、ある目的をもって実験し、結果の一端を述べた。
各自の責任で、何かの目的をもって、一定期間を限って実行されることは自由であるが、人はそれぞれ長い生物的な歴史、いわゆる体質を千人千様に抱いているので、追試される万人が私と同じ状態を経験できるとは限らない。
しかし、食物の人の身心に与えるおそろしいほどの影響力の傾向はほぼ判断できる資料にはなっているだろう。
健康法としての食養と病人を治すための食養は、一線上にある共通性は持っているものの、病人は正常者に比べて、すべての点で敏感な反応を示すので自己を無にして、病人の身心の動きを見取って、食の調和を細かく病状に合わせる必要がある。
一番おそろしいのは固定した主義や型を指導者が持っていることである。古語に「執すれば暗し」という。生命を対象とする指導者にとって、何かに執着していることが最もおそろしい。おわりに
二十一世紀を目前にした今の日本、文明国人に共通する食養・栄養学への重要な条件は、環境汚染、農薬と除草剤、化学肥料の偏向、食品添加物、人工調味料などの生命否定的な害、毒物の直接及び間接的な影響である。
これらのことは私の専門外の分野であるが、私はできる限りの研究と実践普及につとめてきた。すなわち、戦前から自然農法をすすめ、十年前からは日本有機農業研究会に関与して、その普及につとめ、個人としては自家菜園に力を注ぎ、市販の既成食品は極力排除し、手作り料理を家庭でも、病人にも極力すすめている。
また、治療を本職とする私は五十年来、食養を基本に漢方や鍼灸を併用し、時に日本では入手し難い新しい栄養学・医学によるミネラルや一部のビタミン類を輸入して使う。西洋医学的諸検査や応急処置も臨機応変に使ってきた。
これらは本来の食養外のことであろうが、食養指導を本職にし、病人を相手とする一部の人びとは、食養の治病力や自分の能力の限界を常に反省しつつ、人命の尊厳さを忘れてはならないと考える。
以上河内省一氏の文章を紹介しました。
桜沢式の食養で体をおかしくした人は、私も何人か診た経験があります。女性の場合、痩せて生理がなくなった人がいました。脚がむくんだ人もいました。
桜沢式食養をまじめにやらないでいい加減にやっている人は、比較的健康状態が良いのではないかと思っています。
桜沢式食養をまじめにするのだったら、1か月までで止めること。いい加減にやっても3か月まででやめるべきでしょう。
この文章を読んでかなり危ない療法であるという感じを持たれたのではないでしょうか。平成21年2月
文責 長岡由憲