物言わぬクワガタに癒され・・
私たちの教会は大きな苦しみの中にいます。前任牧師に起因する問題です。次から次と明らかになる事実に、眠れない日々が続きます。3月の年次総会は2回にわたりました。また今年度に入って、6月に臨時総会、そして一昨日も再び臨時総会が開かれました。更にもう一度臨時総会を開催することが決まりました。
6月と7月の臨時総会は私が議長でした。昨日のある採決前まで議長の役割に徹し、一切自分の意見は表明してきませんでした。最後に牧師として意見を求められたのですが、そこでの発言が図らずも「爆弾発言」(ある信徒の方の形容)となってしまいました。つまり、進退を賭ける意思表示をしたのです。
私たちの教会を含め、いわゆる「会衆政治」を採用する教会には重大な誤解が多々見受けられます。それは、会衆制を単なる民主主義と履き違えていることです。私の理解では(そして所属教派のある部会で某信徒の方がいみじくも喝破されたように)、会衆制とは、教会員による議論が尽くされた時点で、最後に牧師が「それではこれで行きましょう」と決断したなら、たとえそれが自分の考えと合わなくても牧師の決断に従うこと、であります。この姿勢がなければ会衆制は機能しないと私は考えます。従って会衆制とは、何でも多数決原理で採決する民主主義とは異なります。投票の形態はとるでしょう。しかし、牧師の決断に賛成票を投じる投票であります。
私は牧師になるまで、すでに神学校は卒業していましたが、一人の信徒として教会の役員を務めていました。役員会までは牧師や他の役員たちと侃々諤々の議論をしました。牧師と意見が異なったままで総会に臨まざる得ない時もありました。しかしいったん総会が始まり、議論が尽くされた後に、牧師がそれでも自分の方針を表明されたなら、反対票を投じないことを自分に言い聞かせてきました。牧師は最終的に全責任を負う覚悟であり、その牧師を支えるのが役員であり、また教会員でなければならないからです。会衆制とはそういうものだと思います。またそうでなければ、会衆制は機能しません。
前任牧師は昨年度でいったん退職し、今年度より伝道所の協力牧師として再招聘されました。そして主任牧師としての私が進退を賭した意思表示とは、この前任牧師の<解任>であります。今年の3月から計18回もの臨時執事会(役員会)を持ってきました。午前様になることもしばしばです。そして2回の臨時総会を通じて私は議長をしながら、祈りつつ主の導きを求めつつ、じっと教会員の意見に耳を傾けてきました。そして最終的に「解任すべきである」と決断しました。採決を経て、解任を議題とする総会が日を改めて開催されることになりました。解任案が否決された場合、私は自分の会衆制理解をもって不信任と受け止め、出処進退を明らかにすることとなります。出処進退を表明したのは(ある教会員が甚だ誤解したように)「脅し」であるとか「世論操作」では決してなく、私自身の会衆制度の理解によるものであります。
臨時総会が一応終わり、昨日は霊的にも体力的にも(最近不眠症に苦しんでいます)疲労の極致でありました。家庭集会での奉仕を終えた後、仮眠を取り、夕方は家でオオクワガタの変態(幼虫が蛹になる様子)をぼーっと観察してました。侃々諤々の総会の後、物言わぬクワガタに癒された一日でした。
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