「JAPANデビュー」シリーズ全内容テキスト一覧
NHKプロジェクトJAPAN
「JAPANデビュー」シリーズ全内容テキスト記載URL一覧
●2009年4月5日(日)・午後9時00分〜10時13分放送
「第1回 アジアの“一等国”」
制作統括:田辺雅泰、河野伸洋
ディレクター :濱崎憲一、島田雄介
Part.1. http://jif.blog65.fc2.com/blog-entry-104.html
Part.2. http://jif.blog65.fc2.com/blog-entry-103.html
Part.3. http://jif.blog65.fc2.com/blog-entry-102.html
Part.4. http://jif.blog65.fc2.com/blog-entry-101.html
●2009年5月3日(日)・午後9時00分〜10時13分放送
「第2回 天皇と憲法」
制作統括:林新、河野伸洋、若宮敏彦
ディレクター :倉迫啓司
Part.1. http://jif.blog65.fc2.com/blog-entry-123.html
Part.2. http://jif.blog65.fc2.com/blog-entry-122.html
Part.3. http://jif.blog65.fc2.com/blog-entry-121.html
Part.4. http://jif.blog65.fc2.com/blog-entry-120.html
Part.5. http://jif.blog65.fc2.com/blog-entry-119.html
●2009年6月7日(日)・午後9時00分〜10時13分放送
「第3回 通商国家の挫折」
制作統括:増田秀樹 河野伸洋
ディレクター :小林竜夫、小倉洋平
Part.1. http://jif.blog65.fc2.com/blog-entry-154.html
Part.2. http://jif.blog65.fc2.com/blog-entry-153.html
Part.3. http://jif.blog65.fc2.com/blog-entry-152.html
Part.4. http://jif.blog65.fc2.com/blog-entry-151.html
●2009年6月28日(日)・午後9時00分〜10時13分放送
「第4回 軍事同盟 国家の戦略」
制作統括:林新、河野伸洋
ディレクター :宮本康宏、三須田紀子
Part.1. http://jif.blog65.fc2.com/blog-entry-171.html
Part.2. http://jif.blog65.fc2.com/blog-entry-170.html
Part.3. http://jif.blog65.fc2.com/blog-entry-169.html
Part.4. http://jif.blog65.fc2.com/blog-entry-168.html
「プロジェクトJAPAN・番組宣伝」
出演:濱崎憲一、益田秀樹、森内大輔、小田健市
http://jif.blog65.fc2.com/blog-entry-173.html
文字起し:夕刻の備忘録
http://jif.blog65.fc2.com/
「JAPANデビュー」シリーズ全内容テキスト記載URL一覧
●2009年4月5日(日)・午後9時00分〜10時13分放送
「第1回 アジアの“一等国”」
制作統括:田辺雅泰、河野伸洋
ディレクター :濱崎憲一、島田雄介
Part.1. http://jif.blog65.fc2.com/blog-entry-104.html
Part.2. http://jif.blog65.fc2.com/blog-entry-103.html
Part.3. http://jif.blog65.fc2.com/blog-entry-102.html
Part.4. http://jif.blog65.fc2.com/blog-entry-101.html
●2009年5月3日(日)・午後9時00分〜10時13分放送
「第2回 天皇と憲法」
制作統括:林新、河野伸洋、若宮敏彦
ディレクター :倉迫啓司
Part.1. http://jif.blog65.fc2.com/blog-entry-123.html
Part.2. http://jif.blog65.fc2.com/blog-entry-122.html
Part.3. http://jif.blog65.fc2.com/blog-entry-121.html
Part.4. http://jif.blog65.fc2.com/blog-entry-120.html
Part.5. http://jif.blog65.fc2.com/blog-entry-119.html
●2009年6月7日(日)・午後9時00分〜10時13分放送
「第3回 通商国家の挫折」
制作統括:増田秀樹 河野伸洋
ディレクター :小林竜夫、小倉洋平
Part.1. http://jif.blog65.fc2.com/blog-entry-154.html
Part.2. http://jif.blog65.fc2.com/blog-entry-153.html
Part.3. http://jif.blog65.fc2.com/blog-entry-152.html
Part.4. http://jif.blog65.fc2.com/blog-entry-151.html
●2009年6月28日(日)・午後9時00分〜10時13分放送
「第4回 軍事同盟 国家の戦略」
制作統括:林新、河野伸洋
ディレクター :宮本康宏、三須田紀子
Part.1. http://jif.blog65.fc2.com/blog-entry-171.html
Part.2. http://jif.blog65.fc2.com/blog-entry-170.html
Part.3. http://jif.blog65.fc2.com/blog-entry-169.html
Part.4. http://jif.blog65.fc2.com/blog-entry-168.html
「プロジェクトJAPAN・番組宣伝」
出演:濱崎憲一、益田秀樹、森内大輔、小田健市
http://jif.blog65.fc2.com/blog-entry-173.html
文字起し:夕刻の備忘録
http://jif.blog65.fc2.com/
【転載歓迎】「プロジェクトジャパン番宣」濱崎氏の大罪
語り・濱中博久:
今から150年前、西暦1859年、横浜開港。この年、海外との自由貿易が始まり、日本は世界の荒海に乗り出して行きます。近代国家を目指したジャパン。この国を世界はどう見ていたのか。グローバルな視点で、開港から1945年敗戦までの、日本の実像に迫ります。NHKスペシャル「JAPANデビュー」。第一回のテーマは「アジア」です。
日本列島の南西に位置する台湾。日清戦争に勝利した日本は、半世紀に渡り台湾を統治しました。近代日本、最初の植民地です。
西洋列強を目指し、世界の一等国になろうとした日本。台湾の統治は、その命運を握っていました。首相・伊藤博文の言葉です。
「台湾の統治に失敗すれば日の丸の御旗の光が失墜する」
そんな日本の台湾統治を、西洋列強は詳細に観察していました。
「まったくの未経験者に台湾が統治され、きわめて残念だ」
1937年、日中戦争が勃発。以後、台湾は日本のアジア進出の拠点となっていきます。二万六千冊に及ぶ台湾総督府文書。日本の台湾統治の実態を解き明かす、貴重な資料です。さらに近年発見されたフィルムには、皇民化政策によって、日本精神が叩き込まれていく台湾人の姿が映し出されていました。
★台北一中同窓会の風景
卒業生(日本語で語る):
「嫌だ、差別。ばかにしよって」
太平洋戦争では、およそ二十一万の台湾人を、日本軍に入隊させました。
★公園の風景
群衆の一人、日本語で語る:
「当時の大日本帝国軍人。生き残った兵です。ハハハ」
群衆の一人、日本語で歌う:
「守るも攻めるもくろがねの……」
★NHK編集スタジオ
ディレクター濱崎憲一:
「一番印象的だった、ことはですね。台北市の公園に行った時なんですけれども、こう、御年配の方達が私達が取材していると、ふーと、こう集まってきて、流暢な日本語でこう話し掛けてくると。日本時代懐かしいですね、なんてことも、ずっとおっしゃってるんですけれども、こう、ふとした拍子に、えー、ホントに唐突にって言ってもいいと思うんですけれども、日本統治時代の、日本の支配に対する批判をね、ふっと、こう」
群衆の一人、日本語で語る:
「人を馬鹿にしているんだ、日本は。命を、命を掛けて国のために尽くしたんだよ」
ディレクター濱崎憲一:
「それは本当にね、驚くような変わりぶりで、僕らも本当にそれは、なんだろうな、とずーと考えてきたこと、ですね。で、その番組御覧頂く方にも、是非そのあたりをね、一緒に見て、考えて頂けたらなあと、思うんですけども」
日本は、これからアジアの人々と、どう向き合っていけばよいのか。シリーズJAPANデビュー。第一回「アジアの“一等国”」。放送は4月5日、日曜夜9時です。
★ ★ ★ ★ ★
★編集スタジオ
語り・礒野佑子:
プロジェクトジャパンは、歴史をグローバルな視点で見詰めることを大切にしますが、映像化する際には、コンピュータ・グラフィックスで、分かり易く伝えることを心掛けます。
★CGチーフ・エンジニア 小田健市
プロジェクトJAPAN 総合デザイナー森内大輔:
「えっとこれは、ナビゲーションシステムといって、今回の番組のために、えっと開発したものです。150年間の時代の中でですね。様々な年代、様々な場所で、起こった出来事を、地図と年表と画像、これを一つのインターフェイスに収めてですね、時間と空間を越えて、色々な事象を説明出来るように、考えました」
オムニバスCDの人気シリーズ、イマージュ。第一線で活躍するアーティスト達が、プロジェクトジャパンの壮大なテーマを奏でます。
★羽毛田丈史 加古隆 松谷卓 Aura 宮本笑里 小松亮太 ゴンチチ 古澤巌
NHKスペシャル「プロジェクトジャパン」、5月以降のテーマは、「天皇と憲法」「貿易」「軍事」です。
語り・濱中博久:
第2回は、天皇と憲法がテーマです。150年前、世界にデビューした日本は、近代国家としての骨組である議会や内閣、そして天皇の位置付けを憲法に定めました。その大日本帝国憲法の制定時の資料が、世界の様々な国に残されていました。
そして、憲法起草の中心人物であった井上毅が残した、六千点にも及ぶ資料。これら膨大な資料を、日本や世界の論客によって繙きながら、大日本帝国憲法による国家体制が、どのように、そして何故崩壊していったのかを検証します。
★山室信一 御厨貴 立花隆
続く第3回のテーマは、日本経済の基礎となった貿易です。
チーフプロデューサー益田秀樹:
「あの、今進んでいる金融危機の中でですね、日本の経済はその、海外への輸出が滞ってしまうと、たちまちダメになってしまうってことを、ひしひしと日々実感されているわけですけれども、まあ、こういう経済の仕組になったのは、昨日や今日のことではなくて、横浜を開港して、世界と自由貿易を始めた150年前に、もう始まっていましてですね」
自由貿易により国内の金銀が流出。日本は経済危機に陥ります。国を立て直す鍵は、海外との貿易でした。
チーフプロデューサー益田秀樹:
「総合商社、まあ世界に類の無いですね、ビジネススタイルを作り出して、それでアメリカ、イギリスなどを猛追していったんですけども、それが、世界恐慌で、どんどん世界から締め出されて、太平洋戦争への道を歩んでしまうと、いう過去がありました。まあ、取材ではですね。その商社マンが辿った酷寒の地から、灼熱の熱帯までですね、足跡を辿ったんですけれども、そこから、まあ、この開国からですね、三度目の経済危機の中で、少なくとも、まあ再びですね、太平洋戦争に行ったような過程を辿らないためにはですね、どうやっていったらいいのかと、考えてみたいと思っています」
第4回のテーマは、軍事。富国強兵を目指しながら、世界のパワーバランスの中で、次第に孤立していく日本の姿を描きます。
ナビゲーション・礒野佑子:
これからプロジェクトジャパンでは、150年の歴史をグローバルに見詰めて、未来へのヒントを探ります。謂わば「未来へのプレーバック」です。この他、プロジェクトジャパンでは、様々な関連番組を予定しています。
ETV特集では、今月から10回シリーズで「日本と朝鮮半島2000年」をお送りします。古代から海を越えて、密接に結び付いていた日本と朝鮮半島。仏教伝来、朝鮮通信吏など知られざる交流を描きます。また「世界と出会った日本人」というミニ番組も放送します。近代日本を作った先人達の物語です。
今から150年前、西暦1859年、横浜開港。この年、海外との自由貿易が始まり、日本は世界の荒海に乗り出して行きます。近代国家を目指したジャパン。この国を世界はどう見ていたのか。グローバルな視点で、開港から1945年敗戦までの、日本の実像に迫ります。NHKスペシャル「JAPANデビュー」。第一回のテーマは「アジア」です。
日本列島の南西に位置する台湾。日清戦争に勝利した日本は、半世紀に渡り台湾を統治しました。近代日本、最初の植民地です。
西洋列強を目指し、世界の一等国になろうとした日本。台湾の統治は、その命運を握っていました。首相・伊藤博文の言葉です。
「台湾の統治に失敗すれば日の丸の御旗の光が失墜する」
そんな日本の台湾統治を、西洋列強は詳細に観察していました。
「まったくの未経験者に台湾が統治され、きわめて残念だ」
1937年、日中戦争が勃発。以後、台湾は日本のアジア進出の拠点となっていきます。二万六千冊に及ぶ台湾総督府文書。日本の台湾統治の実態を解き明かす、貴重な資料です。さらに近年発見されたフィルムには、皇民化政策によって、日本精神が叩き込まれていく台湾人の姿が映し出されていました。
★台北一中同窓会の風景
卒業生(日本語で語る):
「嫌だ、差別。ばかにしよって」
太平洋戦争では、およそ二十一万の台湾人を、日本軍に入隊させました。
★公園の風景
群衆の一人、日本語で語る:
「当時の大日本帝国軍人。生き残った兵です。ハハハ」
群衆の一人、日本語で歌う:
「守るも攻めるもくろがねの……」
★NHK編集スタジオ
ディレクター濱崎憲一:
「一番印象的だった、ことはですね。台北市の公園に行った時なんですけれども、こう、御年配の方達が私達が取材していると、ふーと、こう集まってきて、流暢な日本語でこう話し掛けてくると。日本時代懐かしいですね、なんてことも、ずっとおっしゃってるんですけれども、こう、ふとした拍子に、えー、ホントに唐突にって言ってもいいと思うんですけれども、日本統治時代の、日本の支配に対する批判をね、ふっと、こう」
群衆の一人、日本語で語る:
「人を馬鹿にしているんだ、日本は。命を、命を掛けて国のために尽くしたんだよ」
ディレクター濱崎憲一:
「それは本当にね、驚くような変わりぶりで、僕らも本当にそれは、なんだろうな、とずーと考えてきたこと、ですね。で、その番組御覧頂く方にも、是非そのあたりをね、一緒に見て、考えて頂けたらなあと、思うんですけども」
日本は、これからアジアの人々と、どう向き合っていけばよいのか。シリーズJAPANデビュー。第一回「アジアの“一等国”」。放送は4月5日、日曜夜9時です。
★ ★ ★ ★ ★
★編集スタジオ
語り・礒野佑子:
プロジェクトジャパンは、歴史をグローバルな視点で見詰めることを大切にしますが、映像化する際には、コンピュータ・グラフィックスで、分かり易く伝えることを心掛けます。
★CGチーフ・エンジニア 小田健市
プロジェクトJAPAN 総合デザイナー森内大輔:
「えっとこれは、ナビゲーションシステムといって、今回の番組のために、えっと開発したものです。150年間の時代の中でですね。様々な年代、様々な場所で、起こった出来事を、地図と年表と画像、これを一つのインターフェイスに収めてですね、時間と空間を越えて、色々な事象を説明出来るように、考えました」
オムニバスCDの人気シリーズ、イマージュ。第一線で活躍するアーティスト達が、プロジェクトジャパンの壮大なテーマを奏でます。
★羽毛田丈史 加古隆 松谷卓 Aura 宮本笑里 小松亮太 ゴンチチ 古澤巌
NHKスペシャル「プロジェクトジャパン」、5月以降のテーマは、「天皇と憲法」「貿易」「軍事」です。
語り・濱中博久:
第2回は、天皇と憲法がテーマです。150年前、世界にデビューした日本は、近代国家としての骨組である議会や内閣、そして天皇の位置付けを憲法に定めました。その大日本帝国憲法の制定時の資料が、世界の様々な国に残されていました。
そして、憲法起草の中心人物であった井上毅が残した、六千点にも及ぶ資料。これら膨大な資料を、日本や世界の論客によって繙きながら、大日本帝国憲法による国家体制が、どのように、そして何故崩壊していったのかを検証します。
★山室信一 御厨貴 立花隆
続く第3回のテーマは、日本経済の基礎となった貿易です。
チーフプロデューサー益田秀樹:
「あの、今進んでいる金融危機の中でですね、日本の経済はその、海外への輸出が滞ってしまうと、たちまちダメになってしまうってことを、ひしひしと日々実感されているわけですけれども、まあ、こういう経済の仕組になったのは、昨日や今日のことではなくて、横浜を開港して、世界と自由貿易を始めた150年前に、もう始まっていましてですね」
自由貿易により国内の金銀が流出。日本は経済危機に陥ります。国を立て直す鍵は、海外との貿易でした。
チーフプロデューサー益田秀樹:
「総合商社、まあ世界に類の無いですね、ビジネススタイルを作り出して、それでアメリカ、イギリスなどを猛追していったんですけども、それが、世界恐慌で、どんどん世界から締め出されて、太平洋戦争への道を歩んでしまうと、いう過去がありました。まあ、取材ではですね。その商社マンが辿った酷寒の地から、灼熱の熱帯までですね、足跡を辿ったんですけれども、そこから、まあ、この開国からですね、三度目の経済危機の中で、少なくとも、まあ再びですね、太平洋戦争に行ったような過程を辿らないためにはですね、どうやっていったらいいのかと、考えてみたいと思っています」
第4回のテーマは、軍事。富国強兵を目指しながら、世界のパワーバランスの中で、次第に孤立していく日本の姿を描きます。
ナビゲーション・礒野佑子:
これからプロジェクトジャパンでは、150年の歴史をグローバルに見詰めて、未来へのヒントを探ります。謂わば「未来へのプレーバック」です。この他、プロジェクトジャパンでは、様々な関連番組を予定しています。
ETV特集では、今月から10回シリーズで「日本と朝鮮半島2000年」をお送りします。古代から海を越えて、密接に結び付いていた日本と朝鮮半島。仏教伝来、朝鮮通信吏など知られざる交流を描きます。また「世界と出会った日本人」というミニ番組も放送します。近代日本を作った先人達の物語です。
【転載歓迎】「JAPANデビュー第4回」全内容-Part.1
%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%
★オープニングタイトル
JAPANデビュー
未来を見通す鍵は歴史の中にある
世界の連鎖が歴史をつくってきた
150年前 世界にデビューした日本
私たちはどう生きた
そしてどう生きる
NHKスペシャル
シリーズJAPANデビュー
第四回 軍事同盟 国家の戦略
%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%
★砲撃演習
語り・濱中博久:
日本が世界の荒波に船出した150年前。
鎖国していた日本の扉をこじ開けたのは、西洋列強の軍事力でした。
その後、戦争に次ぐ戦争の時代を迎える日本。
列強と結ぶ同盟関係が国家の命運を大きく左右しました。
日本が初めて結んだ軍事同盟「日英同盟」は、日露戦争に勝利をもたらします。
★日露戦争(1904-05)
続く第一次世界大戦でも戦勝国となり、日本は世界の五大国の仲間入りを果たしました。
★第一次世界大戦後(1914-18)
その後、日本が接近したのがドイツです。
★日独伊三国同盟(1940)
しかし、世界の複雑な外交戦略の中で、列強の思惑を読み違え、次第に国際社会で孤立していきます。
その舞台裏には、最新の軍事技術「レーダー」を巡る駆け引きもありました。
★太平洋戦争(1941-45)
同盟に国家の生き残りを託しながら、破滅への道を突き進んだ、日本の歩みを辿ります。
★第1部 日英同盟の時代
日本海海戦を闘った日本の連合艦隊の旗艦「三笠」。
ロシアのバルチック艦隊を打ち破った5月27日。104年経った今も、歴史的な海戦の記念日として式典が行われています。海上自衛隊の幹部をはじめ、400人を越える人が集まりました。
★日本海海戦記念式典会場(国歌斉唱「君が代」)
海上自衛隊横須賀地方総監・松岡貞義海将:
「明治の帝国海軍の先人は、軍隊の究極の目的である戦闘において勝利するため、ひたすら坂の上の雲を目指して、戦備を整え、厳しい訓練を重ね、遂に国家存亡を賭けた日本海海戦において圧倒的勝利を得ました」
この日、日本の勝利に貢献したとされる「測距儀」が披露されていました。
説明者の声:
「それを動かして、像を合わせて下さい」
測距儀とは、目標までの距離を測る機器で、敵艦の位置を知るのに使われました。
説明者の声:
「今度、左を見たら距離が出ますから」
日本海海戦の時、東郷平八郎率いる連合艦隊には、イギリスから輸入された高性能の測距儀が配備されていました。
三笠の測距儀を製造したメーカーは、今、軍需企業タレス社に所属しています。日本支社長のミッシェル・テオバルさんです。
タレス・ジャパン社長・ミッシェル・テオバルさん(英語:NHKによる翻訳):
「敵より優位に立つには最新の技術が必要です。司令官を決定的な瞬間に支える技術が日本にあったことを、あの有名な絵は示しています」
★神戸(3月30日)
同じタレス社が製造した最新式の潜望鏡。今年三月に就役した海上自衛隊の最新型の潜水艦「そうりゅう」に装備されています。最新の軍事技術を巡るイギリスとの深い繋がりは、今も脈々と続いています。
★日英同盟(1902・明治35年)
日本がイギリスと同盟を結んだのは、今から107年前、明治35年のことです。明治維新以来、列強と初めて結んだ対等の条約でした。第三条にこうあります。
「同盟国が他国と交戦し、第三国が参戦した場合には共同で戦闘にあたる」
当時、朝鮮半島への進出を図っていた日本は、中国東北部、当時の満州からさらなる南下を目論むロシアとの緊張を高めていました。弱肉強食の帝国主義の世界で、生き残りを図るため、大国の後ろ盾を得ることは、日本の悲願でした。
★ロンドン
一方のイギリス。世界に手を広げていた大国が、日本と同盟を結んだ背景には、当時、各地で直面していた危機がありました。
語り・礒野佑子:
イギリスと日本の利害は、ロシアが脅威という点で一致していました。この頃ロシアが、同盟国フランスの出資で建設していたシベリア鉄道。完成すれば、ロシアは世界最強とされた陸軍を、極東に自由に送り込めました。イギリス最大の植民地インドを窺うことも可能になります。さらに、世界各地で同時多発的に起きた紛争が、イギリスを苦しめます。1899年に南アフリカ地域で起きた「第二次ボーア戦争」。ダイヤモンドと金を巡る闘いにイギリスは40万の兵士を動員。膨大な戦費を支出します。
翌年、中国で外国人を排斥しようという義和団事件(1900)が起こります。ボーア戦争への対応に追われたイギリスは、限られた兵員しか送れず、自国民の保護さえままなりませんでした。イギリスは、世界各地の軍事態勢を見直し、香港などに配備されていた、中国艦隊に着目します。
★イギリス中国艦隊(香港)
本国から遠く離れ、その維持には膨大なコストが掛かっていました。
語り・濱中博久:
この時、イギリスで何が検討されたのか。海軍大臣が作成した報告書に、その詳細が記されていました。
海軍大臣セルボーンの報告『極東における海軍力のバランス』(1901年9月4日):
「我々に今必要なのは、中国近海の海軍力を、最小限のものにすること。これを実現するのが、日本との同盟である。そうすれば我々の軍艦を、これ以上中国に配備する必要はない」
ロンドン大学名誉教授のイアン・ニッシュさんです。明治から昭和に至る日本とイギリスの関係を、半世紀に渡り研究してきました。
ロンドン大学名誉教授(日英関係史)イアン・ニッシュさん(英語:NHKによる翻訳):
「報告書に書かれていたのは、こういうことです。問題を解決する最善の方法は、日本との同盟を成立させ、東アジアの安全保障の責任を、日本と分担することである。イギリスが、経済的な支出をすること無く、帝国を如何に維持するか。同盟の本質はそこにありました」
日英同盟。そこには、アジアの新興国日本を、自らの世界戦略に組み込むイギリスのしたたかな計算がありました。
★日露開戦(1904年2月)
1904年2月。日露戦争が、日本の先制攻撃で始まります。戦場は、朝鮮半島から満州へと拡大。戦局は、大国ロシアに対して、日本の勝利が続く、予想外の展開となりました。
★サンクトペテルブルク(ロシア)
1904年の秋、ロシアは挽回策に打って出ます。当時、世界最強とされたバルチック艦隊を極東に派遣。戦艦「スボーロフ」や巡洋艦「オーロラ」など、およそ40隻の大艦隊が日本に向かいます。この大遠征の正否の鍵を握っていたのが、ロシアの同盟国フランスです。およそ3万キロの大航海。バルチック艦隊が向かう先々に、フランス領の港が点在しています。そこで、水や食料、燃料の石炭などの補給を受け、兵士を休ませることが出来ると、ロシアは考えていました。ところが、イギリスがその前に大きく立ち塞がります。
日露開戦後の1904年4月。「英仏協商」が成立。イギリスとフランスが手を結んでいました。英仏協商がある以上、フランスは、イギリスの同盟国日本の攻撃に向かうバルチック艦隊を支援しずらくなります。艦隊は、フランス領の港に思うように立ち寄れなくなり、積めるだけの石炭が積み込まれました。深く沈み込んだ船。同盟国フランスの支援を失ったバルチック艦隊の姿です。補給が限られた過酷な航海で、兵士達は消耗していきます。
巡洋艦「オーロラ」艦長・エゴリエフの書簡より:
「もう何ヶ月も乗組員は船を降りていない。デッキは石炭で埋め尽くされており、何時も粉塵の中に居て、肺結核になるのがとても恐ろしい。艦隊のどの階級からも、死者が沢山出ている」
日本近海に到着する前に、バルチック艦隊の兵士達は、体力も戦意も失っていました。
一方、東郷平八郎率いる日本の連合艦隊は、バルチック艦隊を迎え撃つ準備を、着々と整えていました。対馬沖での海戦。連合艦隊が発射した砲弾が、次々とロシア艦に命中します。日本の圧勝でした。
イギリスは、日本の勝利によって、極東における自らの地位が保たれたと評価します。後に首相となるウインストン・チャーチルは、日英同盟が検討された時、初当選したばかりの新人議員として、同盟に賛成の一票を投じていました。
チャーチル著『The World Crisis 1911-18』より:
「イギリスは、日本との同盟条約を守りつつ、同時にフランスとも、良好な関係を築いていた。ヨーロッパで唯一先見の明を持っていたイギリスは、日本の軍事力を正確に見極め、力と安全を手に入れた」
日本では列強の一つロシアを打ち破った快挙に、国中が沸き返りました。日露の闘いを、太平洋を挟んだ彼方で見つめていたアメリカ。大統領セオドア・ルーズベルトは、日本とロシアが闘い意味を、アメリカの国益に照らして、こう見ていました。
「日本とロシアが闘い、両国は国力を可能な限り使い果たすことは、我がアメリカの利益である」
日本海海戦から二ヶ月余り。ルーズベルトの斡旋により講和会議が開かれます。日本の全県代表は、小村寿太郎。戦勝に沸いた日本の国民は、賠償金獲得の期待を膨らませていましたが、これに応えることは出来ませんでした。
★東京朝日新聞(1905年9月6日)
この結末に、国民の不満が爆発しました。講和に反対する特集記事。「命の大安売」という言葉には、肉親の命を国に差し出しながら、何も報われなかった、という強い嘆きが込められています。
日露戦争による日本の戦死者は、およそ8万人。静岡県藤枝市の「常昌院」では、今も慰霊が続けられています。この地域から出征し帰らぬ人となった兵士の木人形。その数223。遺影を元に、一つずつ手で彫られました。
新聞への投書・横浜市民(遺族):
「余が唯一の弟は、昨年戦死せり。今度の如き屈辱の平和を見るに至っては、彼も虚しく犬死にせしかと、実に憤慨に堪えず。国民は政府当局者を信頼して、子を殺し、夫を殺し、あらゆる犠牲を供して、戦勝の結果を待ちしに、国民の犠牲を顧みざらんとは」
国民に多大の負担と犠牲を強いたロシアとの戦争。賠償金を獲得出来ませんでしたが、日本は満州を巡る権益を手にしました。その後の日本の外交に取って、重要な要素となる満州の権益。遼東半島にある大連、旅順の租借権と、長春と旅順の間の鉄道、後の南満州鉄道の権益がその主なものです。しかし、これらの中、早いものは1923年に期限を迎え、中国に返還しなければなりませんでした。
この満州の権益を巡る交渉を担うのが、加藤高明です。
加藤は、日露講和のポーツマス会議の4年後、友人に宛てた私信で、満州の権益について、強い危機感を訴えていました。
貴族院議員 山本達雄宛・加藤高明書簡:
「満州問題について、このままでは日本が、顔色を失うことにもなりかねない。実に危険千万である」
1913年1月。当時駐英大使だった加藤は、この問題についてロンドンで、イギリス政府の意向を探っていました。外務大臣のグレイと面談。日本が、将来満州の権益を中国に返還しない可能性があると伝えました。グレイの回答です。
駐日大使宛・グレイ外務大臣の報告より:
「一度手にした領土を去ることの難しさは理解しているつもりだ。しかし、満州の問題は、まだ差し迫ったものではないから、今議論をする必要は無いだろう」
★オープニングタイトル
JAPANデビュー
未来を見通す鍵は歴史の中にある
世界の連鎖が歴史をつくってきた
150年前 世界にデビューした日本
私たちはどう生きた
そしてどう生きる
NHKスペシャル
シリーズJAPANデビュー
第四回 軍事同盟 国家の戦略
%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%
★砲撃演習
語り・濱中博久:
日本が世界の荒波に船出した150年前。
鎖国していた日本の扉をこじ開けたのは、西洋列強の軍事力でした。
その後、戦争に次ぐ戦争の時代を迎える日本。
列強と結ぶ同盟関係が国家の命運を大きく左右しました。
日本が初めて結んだ軍事同盟「日英同盟」は、日露戦争に勝利をもたらします。
★日露戦争(1904-05)
続く第一次世界大戦でも戦勝国となり、日本は世界の五大国の仲間入りを果たしました。
★第一次世界大戦後(1914-18)
その後、日本が接近したのがドイツです。
★日独伊三国同盟(1940)
しかし、世界の複雑な外交戦略の中で、列強の思惑を読み違え、次第に国際社会で孤立していきます。
その舞台裏には、最新の軍事技術「レーダー」を巡る駆け引きもありました。
★太平洋戦争(1941-45)
同盟に国家の生き残りを託しながら、破滅への道を突き進んだ、日本の歩みを辿ります。
★第1部 日英同盟の時代
日本海海戦を闘った日本の連合艦隊の旗艦「三笠」。
ロシアのバルチック艦隊を打ち破った5月27日。104年経った今も、歴史的な海戦の記念日として式典が行われています。海上自衛隊の幹部をはじめ、400人を越える人が集まりました。
★日本海海戦記念式典会場(国歌斉唱「君が代」)
海上自衛隊横須賀地方総監・松岡貞義海将:
「明治の帝国海軍の先人は、軍隊の究極の目的である戦闘において勝利するため、ひたすら坂の上の雲を目指して、戦備を整え、厳しい訓練を重ね、遂に国家存亡を賭けた日本海海戦において圧倒的勝利を得ました」
この日、日本の勝利に貢献したとされる「測距儀」が披露されていました。
説明者の声:
「それを動かして、像を合わせて下さい」
測距儀とは、目標までの距離を測る機器で、敵艦の位置を知るのに使われました。
説明者の声:
「今度、左を見たら距離が出ますから」
日本海海戦の時、東郷平八郎率いる連合艦隊には、イギリスから輸入された高性能の測距儀が配備されていました。
三笠の測距儀を製造したメーカーは、今、軍需企業タレス社に所属しています。日本支社長のミッシェル・テオバルさんです。
タレス・ジャパン社長・ミッシェル・テオバルさん(英語:NHKによる翻訳):
「敵より優位に立つには最新の技術が必要です。司令官を決定的な瞬間に支える技術が日本にあったことを、あの有名な絵は示しています」
★神戸(3月30日)
同じタレス社が製造した最新式の潜望鏡。今年三月に就役した海上自衛隊の最新型の潜水艦「そうりゅう」に装備されています。最新の軍事技術を巡るイギリスとの深い繋がりは、今も脈々と続いています。
★日英同盟(1902・明治35年)
日本がイギリスと同盟を結んだのは、今から107年前、明治35年のことです。明治維新以来、列強と初めて結んだ対等の条約でした。第三条にこうあります。
「同盟国が他国と交戦し、第三国が参戦した場合には共同で戦闘にあたる」
当時、朝鮮半島への進出を図っていた日本は、中国東北部、当時の満州からさらなる南下を目論むロシアとの緊張を高めていました。弱肉強食の帝国主義の世界で、生き残りを図るため、大国の後ろ盾を得ることは、日本の悲願でした。
★ロンドン
一方のイギリス。世界に手を広げていた大国が、日本と同盟を結んだ背景には、当時、各地で直面していた危機がありました。
語り・礒野佑子:
イギリスと日本の利害は、ロシアが脅威という点で一致していました。この頃ロシアが、同盟国フランスの出資で建設していたシベリア鉄道。完成すれば、ロシアは世界最強とされた陸軍を、極東に自由に送り込めました。イギリス最大の植民地インドを窺うことも可能になります。さらに、世界各地で同時多発的に起きた紛争が、イギリスを苦しめます。1899年に南アフリカ地域で起きた「第二次ボーア戦争」。ダイヤモンドと金を巡る闘いにイギリスは40万の兵士を動員。膨大な戦費を支出します。
翌年、中国で外国人を排斥しようという義和団事件(1900)が起こります。ボーア戦争への対応に追われたイギリスは、限られた兵員しか送れず、自国民の保護さえままなりませんでした。イギリスは、世界各地の軍事態勢を見直し、香港などに配備されていた、中国艦隊に着目します。
★イギリス中国艦隊(香港)
本国から遠く離れ、その維持には膨大なコストが掛かっていました。
語り・濱中博久:
この時、イギリスで何が検討されたのか。海軍大臣が作成した報告書に、その詳細が記されていました。
海軍大臣セルボーンの報告『極東における海軍力のバランス』(1901年9月4日):
「我々に今必要なのは、中国近海の海軍力を、最小限のものにすること。これを実現するのが、日本との同盟である。そうすれば我々の軍艦を、これ以上中国に配備する必要はない」
ロンドン大学名誉教授のイアン・ニッシュさんです。明治から昭和に至る日本とイギリスの関係を、半世紀に渡り研究してきました。
ロンドン大学名誉教授(日英関係史)イアン・ニッシュさん(英語:NHKによる翻訳):
「報告書に書かれていたのは、こういうことです。問題を解決する最善の方法は、日本との同盟を成立させ、東アジアの安全保障の責任を、日本と分担することである。イギリスが、経済的な支出をすること無く、帝国を如何に維持するか。同盟の本質はそこにありました」
日英同盟。そこには、アジアの新興国日本を、自らの世界戦略に組み込むイギリスのしたたかな計算がありました。
★日露開戦(1904年2月)
1904年2月。日露戦争が、日本の先制攻撃で始まります。戦場は、朝鮮半島から満州へと拡大。戦局は、大国ロシアに対して、日本の勝利が続く、予想外の展開となりました。
★サンクトペテルブルク(ロシア)
1904年の秋、ロシアは挽回策に打って出ます。当時、世界最強とされたバルチック艦隊を極東に派遣。戦艦「スボーロフ」や巡洋艦「オーロラ」など、およそ40隻の大艦隊が日本に向かいます。この大遠征の正否の鍵を握っていたのが、ロシアの同盟国フランスです。およそ3万キロの大航海。バルチック艦隊が向かう先々に、フランス領の港が点在しています。そこで、水や食料、燃料の石炭などの補給を受け、兵士を休ませることが出来ると、ロシアは考えていました。ところが、イギリスがその前に大きく立ち塞がります。
日露開戦後の1904年4月。「英仏協商」が成立。イギリスとフランスが手を結んでいました。英仏協商がある以上、フランスは、イギリスの同盟国日本の攻撃に向かうバルチック艦隊を支援しずらくなります。艦隊は、フランス領の港に思うように立ち寄れなくなり、積めるだけの石炭が積み込まれました。深く沈み込んだ船。同盟国フランスの支援を失ったバルチック艦隊の姿です。補給が限られた過酷な航海で、兵士達は消耗していきます。
巡洋艦「オーロラ」艦長・エゴリエフの書簡より:
「もう何ヶ月も乗組員は船を降りていない。デッキは石炭で埋め尽くされており、何時も粉塵の中に居て、肺結核になるのがとても恐ろしい。艦隊のどの階級からも、死者が沢山出ている」
日本近海に到着する前に、バルチック艦隊の兵士達は、体力も戦意も失っていました。
一方、東郷平八郎率いる日本の連合艦隊は、バルチック艦隊を迎え撃つ準備を、着々と整えていました。対馬沖での海戦。連合艦隊が発射した砲弾が、次々とロシア艦に命中します。日本の圧勝でした。
イギリスは、日本の勝利によって、極東における自らの地位が保たれたと評価します。後に首相となるウインストン・チャーチルは、日英同盟が検討された時、初当選したばかりの新人議員として、同盟に賛成の一票を投じていました。
チャーチル著『The World Crisis 1911-18』より:
「イギリスは、日本との同盟条約を守りつつ、同時にフランスとも、良好な関係を築いていた。ヨーロッパで唯一先見の明を持っていたイギリスは、日本の軍事力を正確に見極め、力と安全を手に入れた」
日本では列強の一つロシアを打ち破った快挙に、国中が沸き返りました。日露の闘いを、太平洋を挟んだ彼方で見つめていたアメリカ。大統領セオドア・ルーズベルトは、日本とロシアが闘い意味を、アメリカの国益に照らして、こう見ていました。
「日本とロシアが闘い、両国は国力を可能な限り使い果たすことは、我がアメリカの利益である」
日本海海戦から二ヶ月余り。ルーズベルトの斡旋により講和会議が開かれます。日本の全県代表は、小村寿太郎。戦勝に沸いた日本の国民は、賠償金獲得の期待を膨らませていましたが、これに応えることは出来ませんでした。
★東京朝日新聞(1905年9月6日)
この結末に、国民の不満が爆発しました。講和に反対する特集記事。「命の大安売」という言葉には、肉親の命を国に差し出しながら、何も報われなかった、という強い嘆きが込められています。
日露戦争による日本の戦死者は、およそ8万人。静岡県藤枝市の「常昌院」では、今も慰霊が続けられています。この地域から出征し帰らぬ人となった兵士の木人形。その数223。遺影を元に、一つずつ手で彫られました。
新聞への投書・横浜市民(遺族):
「余が唯一の弟は、昨年戦死せり。今度の如き屈辱の平和を見るに至っては、彼も虚しく犬死にせしかと、実に憤慨に堪えず。国民は政府当局者を信頼して、子を殺し、夫を殺し、あらゆる犠牲を供して、戦勝の結果を待ちしに、国民の犠牲を顧みざらんとは」
国民に多大の負担と犠牲を強いたロシアとの戦争。賠償金を獲得出来ませんでしたが、日本は満州を巡る権益を手にしました。その後の日本の外交に取って、重要な要素となる満州の権益。遼東半島にある大連、旅順の租借権と、長春と旅順の間の鉄道、後の南満州鉄道の権益がその主なものです。しかし、これらの中、早いものは1923年に期限を迎え、中国に返還しなければなりませんでした。
この満州の権益を巡る交渉を担うのが、加藤高明です。
加藤は、日露講和のポーツマス会議の4年後、友人に宛てた私信で、満州の権益について、強い危機感を訴えていました。
貴族院議員 山本達雄宛・加藤高明書簡:
「満州問題について、このままでは日本が、顔色を失うことにもなりかねない。実に危険千万である」
1913年1月。当時駐英大使だった加藤は、この問題についてロンドンで、イギリス政府の意向を探っていました。外務大臣のグレイと面談。日本が、将来満州の権益を中国に返還しない可能性があると伝えました。グレイの回答です。
駐日大使宛・グレイ外務大臣の報告より:
「一度手にした領土を去ることの難しさは理解しているつもりだ。しかし、満州の問題は、まだ差し迫ったものではないから、今議論をする必要は無いだろう」
【転載歓迎】「JAPANデビュー第4回」全内容-Part.2
★第一次世界大戦(1914-18)
1914年7月。第一次世界大戦が勃発。西洋列強は、多くの軍事力をヨーロッパでの戦争に費やし、東アジアに一時的な力の空白が生まれます。外務大臣に就任していた加藤は、これを満州の権益を確保する絶好の機会と捉えました。1914年8月。日本はドイツに宣戦を布告し、第一次世界大戦に参戦。およそ5万の兵をドイツの拠点、青島がある山東半島に派遣します。そして、ドイツ軍を圧倒し、二ヶ月で山東半島全域を征圧しました。その二ヶ月後の1915年1月。日本は中国に対して、所謂「二十一ヶ条の要求」を突き付けます。主な内容は、旅順、大連の租借や、所謂満鉄の期限を99年延長するなど、日露戦争で獲得した満州の権益を長きに渡って確保しようとしたものでした。
さらに加藤は、この時、第五号と呼ばれる、より踏み込んだ内容の要求を中国に突き付け、交渉を進めていました。中国政府や軍の顧問として、日本人を招くこと。日本から一定の量の兵器の供給を受けること。外国の資本を導入する時は、先ず日本に協議すること。中国側は、内政への干渉だと強く反発します。
この第五号に対して、イギリスの外務大臣グレイは、日本に対する強い不信感を露わにします。
「問題は第五号である。この中には、厳密な意味が疑わしいものがある。日本人顧問の要求などは、中国を日本の保護国にしかねないのではないか」
マンチェスター大学元教授(日英関係史)ピーター・ロウさん(英語:NHKによる翻訳):
「第五号の問題点は、条文の中身が明確に定義されていない極めて曖昧なものだったということです。その曖昧さを利用して、日本が将来中国に対して、さらに要求をするのではないか、とイギリスは疑いました。この要求が、急速な日本の拡大を惹き起こしかねないと、危惧したのです」
二十一ヶ条の要求をまとめていた加藤達の下には、軍部をはじめ、様々な業界や団体から、中国に対する要望が数多く寄せられました。中国の陸海軍に日本人を招聘すること。こうした要望が、二十一ヶ条の要望の第五号に取り上げられることになったと考えられています。
京都大学大学院准教授(日本政治外交史)奈良岡聰智さん:
「第五号というのは、加藤個人が積極的に発案したというよりはむしろ、軍、実業界、あるいは与党の同志会、宗教界、教育界、など、あの、様々な方面からの意見を、聞かざるを得ない状況になって、そういう要求を、政府で集約した結果、出来たものだと。まあしかし、その中で、この対外的に何処までのことが出来るのかと、いう意識が非常に甘くなり、そして国内のいろんな強硬論に引っ張られて、その結果、あー、従来日本が学んできた帝国主義外交の範囲を逸脱してしまう、ようなことをしてしまったというのがこの第五号だと思うんですね」
イギリスの外務大臣グレイの強い抗議を受けて、加藤は第五号を取り下げることを余儀なくされます。しかし、その後、中国に対して、武力行使を匂わす最期通帳を突き付け、残りの要求を受諾させました。
アメリカのウイルソン政権は、これに猛反発し、日本に対してこう表明します。
「アメリカは中国の主権を脅かす日本の政策を一切承認しない」
二十一ヶ条の要求は、太平洋を挟んで緊張を高めていた日本とアメリカの間に新たな火種を残すことになりました。この時、イギリスは、第一次世界大戦を乗り切ることを優先し、同盟国の日本から、更なる協力を引き出す道を選びました。その方針が、東京のイギリス大使館で作成された報告に記されています。
グリーン駐日大使の報告:
「我々は足踏みをして時期が来るのを待つ。戦争の厳しい曲面を乗り越えるまで」
ロンドン大学名誉教授(日英関係史)イアン・ニッシュさん(英語:NHKによる翻訳):
「当時の、第一次世界大戦の戦況は悪く、イギリスとしては、日本を仲間に入れておくこと。つまり日本との関係を乱さないことが重要でした。時間稼ぎをするとは、こういうことです。日本に対しては、暫くの間、兎に角何もしないでそっとしておく。つまり問題は棚上げしておこう、というものでした」
第一次世界大戦が勃発した時、海軍大臣となっていたチャーチルは、日本の海軍省に宛てた書簡で、こう述べていました。
「現在、我が国の関心は、北海と地中海での作戦に移っている。しかし、将来必要な時には、日本海軍の強力な援助を頼りにしている」
チャーチルが考えた日本を必要とする時は、直ぐに訪れます。1916年、ドイツ製潜水艦「Uボート」が大西洋や地中海において、連合国側の一般艦船を集中的に攻撃する作戦を展開します。1917年1月。イギリスは、日本艦隊の地中海への派遣を要請。日本政府がこれに応じ、駆逐艦8隻を中心とする第二特務艦隊が編成されました。
向かったのはマルタ島。イタリア半島とアフリカ大陸に挟まれた要衝の地です。イギリスの地中海艦隊の司令部が置かれ、連合国軍の拠点となっていました。
第二特務艦隊がマルタに到着したのは、1917年4月。隊員の総数はおよそ1000人。ヨーロッパの戦場に、兵員や物資を運ぶ連合国の艦船の護衛が任務でした。地中海での戦闘は、どのようなものだったのか。駆逐艦「松」に乗っていた近藤英次郎が、その詳細を綴った記録を残しています。
―失礼します。あっどうもこんにちは。
近藤英次郎の長男の勲さんです。
―今日、ちょっと色々お話しを聞かせて……
勲さんは、父親が地中海遠征の労を労う勲章を貰った年に、生まれました。
近藤勲(89)さん:
「これは、あの、金鵄勲章ね」
―金鵄勲章ですか
「ええ、この勲章ね。あの勲のね、あの勲章のくん、付けて頂いて。な、名前にちょっと押されてますけどね」
近藤が乗る駆逐艦「松」と、常に行動を共にしていた「榊」。二隻はマルタ到着の二ヶ月後に、Uボートの脅威を思い知らされます。
船首を大きく吹き飛ばされた「榊」。敵に捕捉されていたことに気付かず、いきなり魚雷を撃ち込まれました。59人が命を落とし、15人が重軽傷を負いました。
近藤勲さん:
「ちょうど頭の真ん中に、10センチばかりのね、傷がありましてね。それはもう、榊がやられた時の破片受けた傷だよっつってました。」
この時、近藤は榊に乗り込み、遺体を収容しました。
1917年6月12日:
「惨状目も当てられず、肉片飛散し、鮮血甲板を染む。内蔵露出し、全身焼爛し氏名を判じ得たる者、僅かに18名。肉片、大型毛布に包む」
マルタに派遣されたおよそ一年半の間、第二特務艦隊は、連合国の艦船788隻を護衛。護送した人員の数は70万人にのぼりました。その働きぶりは、ヨーロッパで「地中海の守り神」と賞賛され、特務艦隊を讃える歌まで作られました。しかし、地中海での任務は過酷を極めました。何時魚雷攻撃を受けるか分からない、常に死と隣り合わせの恐怖。極限状況の中で、兵士が消耗していく様子が、近藤の日記に克明に綴られています。
『地中海遠征日記』1917年8月18日:
「約二週間、敵船を避くるため、連日、夜行のみに始終し、疲労甚し。これ皆、英国のためなどと思うと、時々馬鹿らしくなれり」
岩手県二戸市。地中海遠征に参加し、マルタで病死した五日市規矩司の故郷です。
★五日市規矩司大尉
妹の沢田季子さんは、18人兄弟の末っ子。兄の規矩司は次男でした。
沢田季子(87)さん:
「右側が規矩司兄さんだと思います。右側の方が兄だと思います」
享年三十一。許嫁を東京に残していました。五日市家には、マルタから送り返されてきた軍服などの遺品が当時のままに残されています。
沢田季子(87)さん:
「こんな色で、もう少しね、あかるーいあの、あれで。これやっぱり、何年も経っているから、こんな色になったと思いますよね。随分綺麗なあれだなあと思って私」
国家間の同盟故に、遠く離れた異国の地、マルタで失われた若い命でした。
第二特務艦隊の犠牲者の数は、78人にのぼりました。しかし、この兵士達の死が報われることはありませんでした。第二特務艦隊が地中海に派遣されていた最中の1917年8月。イギリスの駐日大使グリーンが、東京からロンドンの外務次官に宛てた書簡です。
二十一ヶ条の要求を巡り、日本政府と折衝したグリーンは、日英同盟の将来を否定。アメリカを巻き込んで、東アジアの安定を図ることを提案していました。
★イギリス駐日大使カニンガム・グリーン
1917年8月30日 駐日大使グリーンの書簡:
「現在のうわべだけの日本との友好関係は長続きしない。我々はこれを近いうちに解消し、アメリカを味方に付けて、極東における勢力の均衡を取り戻すことになるだろう」
第一次世界大戦を通じて、世界の盟主となったアメリカ。戦勝国として、新しく五大国の一員となった日本。両国の間には、緊張が高まっていました。イギリスは、大戦中からアメリカと着々と関係を深めていました。外務大臣のバルフォアは、イギリスが将来取るべき道について、こう述べています。
★イギリス外務大臣 アーサー・バルフォア
「日本がアメリカを攻撃した場合、我々はアメリカ側に着く」
第一次世界大戦終結から三年後の1921年。太平洋の現状維持を定めた四ヶ国条約がアメリカで結ばれ、日英二国間の同盟が廃棄されることが決まります。日露戦争以来、20年に渡って後ろ盾となってきた同盟国を、日本は失いました。
語り・礒野佑子:
イギリスとの同盟を失った1920年代以降、日本はドイツに接近します。日本が求めたのは、最新の軍事技術です。潜水艦Uボートの建造技術も、その一つでした。しかし、当時ドイツは、ベルサイユ条約によって潜水艦の保有は出来ず、その他の軍備も厳しく制限され、軍事技術の輸出も禁じられていました。
★ベルサイユ条約・ドイツの軍備を厳しく制限
日本とドイツは、水面下の交流を活発化させます。そして、1936年。社会主義国ソビエトを共通の敵とする日独防共協定を締結。結び付きをさらに強めました。ところが、ドイツは軍事技術を巡って、他の国とも関係を深めていました。その一つが、敵対するはずのソビエトだったのです。この時期、日本にもソビエトにも同時に接近していたドイツ。日本は、ドイツの多面的な軍事・外交戦略に対し、難しい国の舵取りを迫られることになります。
1914年7月。第一次世界大戦が勃発。西洋列強は、多くの軍事力をヨーロッパでの戦争に費やし、東アジアに一時的な力の空白が生まれます。外務大臣に就任していた加藤は、これを満州の権益を確保する絶好の機会と捉えました。1914年8月。日本はドイツに宣戦を布告し、第一次世界大戦に参戦。およそ5万の兵をドイツの拠点、青島がある山東半島に派遣します。そして、ドイツ軍を圧倒し、二ヶ月で山東半島全域を征圧しました。その二ヶ月後の1915年1月。日本は中国に対して、所謂「二十一ヶ条の要求」を突き付けます。主な内容は、旅順、大連の租借や、所謂満鉄の期限を99年延長するなど、日露戦争で獲得した満州の権益を長きに渡って確保しようとしたものでした。
さらに加藤は、この時、第五号と呼ばれる、より踏み込んだ内容の要求を中国に突き付け、交渉を進めていました。中国政府や軍の顧問として、日本人を招くこと。日本から一定の量の兵器の供給を受けること。外国の資本を導入する時は、先ず日本に協議すること。中国側は、内政への干渉だと強く反発します。
この第五号に対して、イギリスの外務大臣グレイは、日本に対する強い不信感を露わにします。
「問題は第五号である。この中には、厳密な意味が疑わしいものがある。日本人顧問の要求などは、中国を日本の保護国にしかねないのではないか」
マンチェスター大学元教授(日英関係史)ピーター・ロウさん(英語:NHKによる翻訳):
「第五号の問題点は、条文の中身が明確に定義されていない極めて曖昧なものだったということです。その曖昧さを利用して、日本が将来中国に対して、さらに要求をするのではないか、とイギリスは疑いました。この要求が、急速な日本の拡大を惹き起こしかねないと、危惧したのです」
二十一ヶ条の要求をまとめていた加藤達の下には、軍部をはじめ、様々な業界や団体から、中国に対する要望が数多く寄せられました。中国の陸海軍に日本人を招聘すること。こうした要望が、二十一ヶ条の要望の第五号に取り上げられることになったと考えられています。
京都大学大学院准教授(日本政治外交史)奈良岡聰智さん:
「第五号というのは、加藤個人が積極的に発案したというよりはむしろ、軍、実業界、あるいは与党の同志会、宗教界、教育界、など、あの、様々な方面からの意見を、聞かざるを得ない状況になって、そういう要求を、政府で集約した結果、出来たものだと。まあしかし、その中で、この対外的に何処までのことが出来るのかと、いう意識が非常に甘くなり、そして国内のいろんな強硬論に引っ張られて、その結果、あー、従来日本が学んできた帝国主義外交の範囲を逸脱してしまう、ようなことをしてしまったというのがこの第五号だと思うんですね」
イギリスの外務大臣グレイの強い抗議を受けて、加藤は第五号を取り下げることを余儀なくされます。しかし、その後、中国に対して、武力行使を匂わす最期通帳を突き付け、残りの要求を受諾させました。
アメリカのウイルソン政権は、これに猛反発し、日本に対してこう表明します。
「アメリカは中国の主権を脅かす日本の政策を一切承認しない」
二十一ヶ条の要求は、太平洋を挟んで緊張を高めていた日本とアメリカの間に新たな火種を残すことになりました。この時、イギリスは、第一次世界大戦を乗り切ることを優先し、同盟国の日本から、更なる協力を引き出す道を選びました。その方針が、東京のイギリス大使館で作成された報告に記されています。
グリーン駐日大使の報告:
「我々は足踏みをして時期が来るのを待つ。戦争の厳しい曲面を乗り越えるまで」
ロンドン大学名誉教授(日英関係史)イアン・ニッシュさん(英語:NHKによる翻訳):
「当時の、第一次世界大戦の戦況は悪く、イギリスとしては、日本を仲間に入れておくこと。つまり日本との関係を乱さないことが重要でした。時間稼ぎをするとは、こういうことです。日本に対しては、暫くの間、兎に角何もしないでそっとしておく。つまり問題は棚上げしておこう、というものでした」
第一次世界大戦が勃発した時、海軍大臣となっていたチャーチルは、日本の海軍省に宛てた書簡で、こう述べていました。
「現在、我が国の関心は、北海と地中海での作戦に移っている。しかし、将来必要な時には、日本海軍の強力な援助を頼りにしている」
チャーチルが考えた日本を必要とする時は、直ぐに訪れます。1916年、ドイツ製潜水艦「Uボート」が大西洋や地中海において、連合国側の一般艦船を集中的に攻撃する作戦を展開します。1917年1月。イギリスは、日本艦隊の地中海への派遣を要請。日本政府がこれに応じ、駆逐艦8隻を中心とする第二特務艦隊が編成されました。
向かったのはマルタ島。イタリア半島とアフリカ大陸に挟まれた要衝の地です。イギリスの地中海艦隊の司令部が置かれ、連合国軍の拠点となっていました。
第二特務艦隊がマルタに到着したのは、1917年4月。隊員の総数はおよそ1000人。ヨーロッパの戦場に、兵員や物資を運ぶ連合国の艦船の護衛が任務でした。地中海での戦闘は、どのようなものだったのか。駆逐艦「松」に乗っていた近藤英次郎が、その詳細を綴った記録を残しています。
―失礼します。あっどうもこんにちは。
近藤英次郎の長男の勲さんです。
―今日、ちょっと色々お話しを聞かせて……
勲さんは、父親が地中海遠征の労を労う勲章を貰った年に、生まれました。
近藤勲(89)さん:
「これは、あの、金鵄勲章ね」
―金鵄勲章ですか
「ええ、この勲章ね。あの勲のね、あの勲章のくん、付けて頂いて。な、名前にちょっと押されてますけどね」
近藤が乗る駆逐艦「松」と、常に行動を共にしていた「榊」。二隻はマルタ到着の二ヶ月後に、Uボートの脅威を思い知らされます。
船首を大きく吹き飛ばされた「榊」。敵に捕捉されていたことに気付かず、いきなり魚雷を撃ち込まれました。59人が命を落とし、15人が重軽傷を負いました。
近藤勲さん:
「ちょうど頭の真ん中に、10センチばかりのね、傷がありましてね。それはもう、榊がやられた時の破片受けた傷だよっつってました。」
この時、近藤は榊に乗り込み、遺体を収容しました。
1917年6月12日:
「惨状目も当てられず、肉片飛散し、鮮血甲板を染む。内蔵露出し、全身焼爛し氏名を判じ得たる者、僅かに18名。肉片、大型毛布に包む」
マルタに派遣されたおよそ一年半の間、第二特務艦隊は、連合国の艦船788隻を護衛。護送した人員の数は70万人にのぼりました。その働きぶりは、ヨーロッパで「地中海の守り神」と賞賛され、特務艦隊を讃える歌まで作られました。しかし、地中海での任務は過酷を極めました。何時魚雷攻撃を受けるか分からない、常に死と隣り合わせの恐怖。極限状況の中で、兵士が消耗していく様子が、近藤の日記に克明に綴られています。
『地中海遠征日記』1917年8月18日:
「約二週間、敵船を避くるため、連日、夜行のみに始終し、疲労甚し。これ皆、英国のためなどと思うと、時々馬鹿らしくなれり」
岩手県二戸市。地中海遠征に参加し、マルタで病死した五日市規矩司の故郷です。
★五日市規矩司大尉
妹の沢田季子さんは、18人兄弟の末っ子。兄の規矩司は次男でした。
沢田季子(87)さん:
「右側が規矩司兄さんだと思います。右側の方が兄だと思います」
享年三十一。許嫁を東京に残していました。五日市家には、マルタから送り返されてきた軍服などの遺品が当時のままに残されています。
沢田季子(87)さん:
「こんな色で、もう少しね、あかるーいあの、あれで。これやっぱり、何年も経っているから、こんな色になったと思いますよね。随分綺麗なあれだなあと思って私」
国家間の同盟故に、遠く離れた異国の地、マルタで失われた若い命でした。
第二特務艦隊の犠牲者の数は、78人にのぼりました。しかし、この兵士達の死が報われることはありませんでした。第二特務艦隊が地中海に派遣されていた最中の1917年8月。イギリスの駐日大使グリーンが、東京からロンドンの外務次官に宛てた書簡です。
二十一ヶ条の要求を巡り、日本政府と折衝したグリーンは、日英同盟の将来を否定。アメリカを巻き込んで、東アジアの安定を図ることを提案していました。
★イギリス駐日大使カニンガム・グリーン
1917年8月30日 駐日大使グリーンの書簡:
「現在のうわべだけの日本との友好関係は長続きしない。我々はこれを近いうちに解消し、アメリカを味方に付けて、極東における勢力の均衡を取り戻すことになるだろう」
第一次世界大戦を通じて、世界の盟主となったアメリカ。戦勝国として、新しく五大国の一員となった日本。両国の間には、緊張が高まっていました。イギリスは、大戦中からアメリカと着々と関係を深めていました。外務大臣のバルフォアは、イギリスが将来取るべき道について、こう述べています。
★イギリス外務大臣 アーサー・バルフォア
「日本がアメリカを攻撃した場合、我々はアメリカ側に着く」
第一次世界大戦終結から三年後の1921年。太平洋の現状維持を定めた四ヶ国条約がアメリカで結ばれ、日英二国間の同盟が廃棄されることが決まります。日露戦争以来、20年に渡って後ろ盾となってきた同盟国を、日本は失いました。
語り・礒野佑子:
イギリスとの同盟を失った1920年代以降、日本はドイツに接近します。日本が求めたのは、最新の軍事技術です。潜水艦Uボートの建造技術も、その一つでした。しかし、当時ドイツは、ベルサイユ条約によって潜水艦の保有は出来ず、その他の軍備も厳しく制限され、軍事技術の輸出も禁じられていました。
★ベルサイユ条約・ドイツの軍備を厳しく制限
日本とドイツは、水面下の交流を活発化させます。そして、1936年。社会主義国ソビエトを共通の敵とする日独防共協定を締結。結び付きをさらに強めました。ところが、ドイツは軍事技術を巡って、他の国とも関係を深めていました。その一つが、敵対するはずのソビエトだったのです。この時期、日本にもソビエトにも同時に接近していたドイツ。日本は、ドイツの多面的な軍事・外交戦略に対し、難しい国の舵取りを迫られることになります。
【転載歓迎】「JAPANデビュー第4回」全内容-Part.3
★第二部 日独伊三国同盟
1922年。ドイツはソビエトとの間で、国交の正常化を図るラパロ条約を締結。ドイツの高い技術力を求めるソビエトと、軍事的な協力関係を深めていきます。
こうした中、軍備を厳しく制限されていたドイツが、本国では作れなかった軍事的な拠点をソビエトに次々と作っていきます。リペツクの飛行機学校。ベルサイユ条約で、空軍を持てなかったドイツは、ここでパイロットの育成を続けました。トムカの毒ガス実験場。毒ガス弾の発射など、戦闘訓練が協同で行われました。カザンに作られた戦車学校では、操縦の訓練だけでなく、戦車の開発や量産化のための様々なテストが行われていました。
★クルップ歴史アーカイブ(ドイツ・エッセン)
ドイツの再軍備を制限するベルサイユ条約に違反するこうした行為が、どのように行われていたのか。当時、ドイツの巨大軍需企業だったクルップ社に残された資料に、その実態を知る手掛かりが記されていました。
★クルップ社技師 ベェルフェルトの証言
クルップ社がソビエトのカザンに運んでいたのは、大型のトラクターだった、と記されています。しかし、その正体は戦車。トラクターはベルサイユ条約を掻い潜るためのカモフラージュでした。カザンで撮影されたこの写真に写っている戦車も、トラクターだとされていました。この日は、スタッフの誕生祝い。しかし、直前まで攻撃のテストが行われていました。
ドイツがソビエトと手を組んだ思惑が、両国高官の秘密会談で語られていました。
「ドイツがロシアを必要としているのは、兵器廠としてである」
製造に当たり、様々な走行試験を必要とする戦車。ドイツは、それをモスクワから600キロのカザンに疎開する形で継続。戦車の製造技術を生き残らせることに成功しました。
こうして、ヒトラー政権誕生後の軍備拡張の土台を築いたドイツ。1939年の第二次世界大戦勃発後、瞬く間にヨーロッパを席巻して行きました。破竹の勢いのドイツに接近し、同盟の締結へと乗り出すのが、第二次近衛内閣の外務大臣松岡洋右です。松岡は、日独伊の三国にソビエトを加えた四ヶ国で同盟を結び、アメリカの参戦を抑える、という構想を持っていました。
その後、ドイツとの交渉が進展。1940年9月、日独伊三国同盟がベルリンで調印されます。この時の附属議定書には、ドイツが、日本とソビエトの間を取り持つ仲介者となることが謳われていました。
その六ヶ月後、松岡自らがベルリンを訪問。ヒトラーと面会し、日本とソビエトの仲介を務める約束の実行を求めます。しかし、これは拒否されます。実はこの時、ヒトラーは、ソビエトを攻撃するバルバロッサ作戦を既に決意。次のように命じていました。
「バルバロッサ作戦は、日本人に向かって決して漏らしてはならない」
ソビエトとの仲介を拒否された松岡は、モスクワに乗り込み、自力で交渉を開始します。そして、1941年4月13日。日ソ中立条約の調印に漕ぎ着けます。松岡はソビエトを加えた四ヶ国が手を組み、アメリカを抑えるという構想が、大きく前進したと、得意の絶頂にありました。
その前夜、松岡の下に、一通の書簡が届いていました。差出人はイギリスの首相となっていたウインストン・チャーチルです。ドイツと手を組んだ日本が、シンガポールなどを攻撃し、アジアに戦線が拡大することを危惧していました。チャーチルは、日本が置かれた状況を、箇条書きにして具体的に示し、松岡に問い掛けました。
「日本の三国同盟加盟は、アメリカを参戦させる可能性を高くするか、それとも低くするだろうか。イギリスとアメリカの鉄鋼の生産量は、合わせておよそ9000万トン。ドイツが負ければ、日本の700万トンという量は、単独で闘うには不充分ではないか」
これに対する松岡の返事です。
「日本の外交は、あらゆる事実を公平に検討し、決定されつつも、我が国が八紘一宇と呼ぶものを実現する宿願を持っている」
松岡は、チャーチルの警告を顧みることなく、日本の対外進出の姿勢を変えませんでした。日ソ中立条約成立の二ヶ月後。突如、ドイツが、バルバロッサ作戦を敢行。ソビエトに侵攻します。ソビエトを加えた四ヶ国で手を組み、アメリカの参戦を抑えるという松岡の構想は、ここに潰えました。
語り・礒野佑子:
軍事同盟は、最新の軍事技術獲得を巡る攻防戦に、大きな影響を与えます。第二次世界大戦勃発の直後、イギリスがドイツによる空襲に対抗するために開発したレーダー。およそ10メートルという長い波長の電波を使っていたため、巨大なアンテナが必要でしたが、ドイツ軍機の接近を事前に捉え、迎撃出来るようになっていました。こうして威力を発揮し始めたレーダー。さらに電波の波長を短くして小型化する画期的な基礎技術が、相次いで発明されます。1939年、波長10センチの電波を、高出力で発生させる磁電管「マグネトロン」が、先ず日本で開発されます。翌年の1940年。同じ波長10センチの電波を出せるマグネトロンが、イギリスのバーミンガム大学でも作られました。ほぼ同じ時に開発された二つのマグネトロン。同盟国を巻き込んだその実用化競争が、第二次世界大戦の帰趨に大きな影響を与えます。
語り・濱中博久:
1941年2月。日独伊三国同盟の締結を受け、日本海軍の視察団がベルリンに到着します。海軍技術研究所の伊藤庸二は当時のレーダー開発の第一人者でした。
★海軍技術研究所・伊藤庸二造兵中佐
ドイツは当時、波長80センチのレーダーを既に実戦に投入。その実用化に関する最新技術を得たいと、伊藤は考えていました。ドイツに入った視察団は、戦闘が続く西部戦線に出向きます。
伊藤庸二の次男良昌さんです。当時、伊藤が持ち歩いていた地図が残されています。
伊藤良昌さん:
「えー、ドイツからベルギーに入りまして、かの有名なあのダンケルクの撤退の所ですね。それで有名なモンサンミッシェルを通って、ブリタニーの先端まで行きまして」
大西洋に面したブルターニュ半島の至る所で、伊藤はレーダーの施設を目にします。しかし、それについて質問をしても、答をはぐらかされるだけでした。
伊藤良昌さん:
「執拗に見せてくれるということをドイツ当局に申し入れて、大変苦労したということだけは聞いとります。やっぱりドイツも最高の軍事機密だったんだと思いますね」
交渉の末、ロリアンという港町の郊外で3月23日、伊藤らは漸くレーダー施設の見学を許されます。「ドイツ電探をここで初めて実地に見る」。
ロリアンから北へ15キロ。第二次世界大戦中、ドイツ軍がレーダーを設置していたケロック村です。ジャン・フィシュウさんは、ドイツ軍に占領された後も、家を護るため、村に残っていました。
ジャン・フィシュウ(86)さん(英語:NHKによる翻訳):
「ここにレーダーの台がありました。固定した跡が残っています。とても大きなものでした」
ドイツ軍は、この村で防空レーダーを既に稼働させていたのです。伊藤は、実際に見たレーダーを、図入りの解説を付けて報告。装置二組を入手するよう、海軍省から命じられます。しかし、それが実現する前に帰国することになりました。その理由について、視察団は、機密兵器故、ヒトラー総統の決裁を要するため、時間が掛かることなどを報告しています。
1922年。ドイツはソビエトとの間で、国交の正常化を図るラパロ条約を締結。ドイツの高い技術力を求めるソビエトと、軍事的な協力関係を深めていきます。
こうした中、軍備を厳しく制限されていたドイツが、本国では作れなかった軍事的な拠点をソビエトに次々と作っていきます。リペツクの飛行機学校。ベルサイユ条約で、空軍を持てなかったドイツは、ここでパイロットの育成を続けました。トムカの毒ガス実験場。毒ガス弾の発射など、戦闘訓練が協同で行われました。カザンに作られた戦車学校では、操縦の訓練だけでなく、戦車の開発や量産化のための様々なテストが行われていました。
★クルップ歴史アーカイブ(ドイツ・エッセン)
ドイツの再軍備を制限するベルサイユ条約に違反するこうした行為が、どのように行われていたのか。当時、ドイツの巨大軍需企業だったクルップ社に残された資料に、その実態を知る手掛かりが記されていました。
★クルップ社技師 ベェルフェルトの証言
クルップ社がソビエトのカザンに運んでいたのは、大型のトラクターだった、と記されています。しかし、その正体は戦車。トラクターはベルサイユ条約を掻い潜るためのカモフラージュでした。カザンで撮影されたこの写真に写っている戦車も、トラクターだとされていました。この日は、スタッフの誕生祝い。しかし、直前まで攻撃のテストが行われていました。
ドイツがソビエトと手を組んだ思惑が、両国高官の秘密会談で語られていました。
「ドイツがロシアを必要としているのは、兵器廠としてである」
製造に当たり、様々な走行試験を必要とする戦車。ドイツは、それをモスクワから600キロのカザンに疎開する形で継続。戦車の製造技術を生き残らせることに成功しました。
こうして、ヒトラー政権誕生後の軍備拡張の土台を築いたドイツ。1939年の第二次世界大戦勃発後、瞬く間にヨーロッパを席巻して行きました。破竹の勢いのドイツに接近し、同盟の締結へと乗り出すのが、第二次近衛内閣の外務大臣松岡洋右です。松岡は、日独伊の三国にソビエトを加えた四ヶ国で同盟を結び、アメリカの参戦を抑える、という構想を持っていました。
その後、ドイツとの交渉が進展。1940年9月、日独伊三国同盟がベルリンで調印されます。この時の附属議定書には、ドイツが、日本とソビエトの間を取り持つ仲介者となることが謳われていました。
その六ヶ月後、松岡自らがベルリンを訪問。ヒトラーと面会し、日本とソビエトの仲介を務める約束の実行を求めます。しかし、これは拒否されます。実はこの時、ヒトラーは、ソビエトを攻撃するバルバロッサ作戦を既に決意。次のように命じていました。
「バルバロッサ作戦は、日本人に向かって決して漏らしてはならない」
ソビエトとの仲介を拒否された松岡は、モスクワに乗り込み、自力で交渉を開始します。そして、1941年4月13日。日ソ中立条約の調印に漕ぎ着けます。松岡はソビエトを加えた四ヶ国が手を組み、アメリカを抑えるという構想が、大きく前進したと、得意の絶頂にありました。
その前夜、松岡の下に、一通の書簡が届いていました。差出人はイギリスの首相となっていたウインストン・チャーチルです。ドイツと手を組んだ日本が、シンガポールなどを攻撃し、アジアに戦線が拡大することを危惧していました。チャーチルは、日本が置かれた状況を、箇条書きにして具体的に示し、松岡に問い掛けました。
「日本の三国同盟加盟は、アメリカを参戦させる可能性を高くするか、それとも低くするだろうか。イギリスとアメリカの鉄鋼の生産量は、合わせておよそ9000万トン。ドイツが負ければ、日本の700万トンという量は、単独で闘うには不充分ではないか」
これに対する松岡の返事です。
「日本の外交は、あらゆる事実を公平に検討し、決定されつつも、我が国が八紘一宇と呼ぶものを実現する宿願を持っている」
松岡は、チャーチルの警告を顧みることなく、日本の対外進出の姿勢を変えませんでした。日ソ中立条約成立の二ヶ月後。突如、ドイツが、バルバロッサ作戦を敢行。ソビエトに侵攻します。ソビエトを加えた四ヶ国で手を組み、アメリカの参戦を抑えるという松岡の構想は、ここに潰えました。
語り・礒野佑子:
軍事同盟は、最新の軍事技術獲得を巡る攻防戦に、大きな影響を与えます。第二次世界大戦勃発の直後、イギリスがドイツによる空襲に対抗するために開発したレーダー。およそ10メートルという長い波長の電波を使っていたため、巨大なアンテナが必要でしたが、ドイツ軍機の接近を事前に捉え、迎撃出来るようになっていました。こうして威力を発揮し始めたレーダー。さらに電波の波長を短くして小型化する画期的な基礎技術が、相次いで発明されます。1939年、波長10センチの電波を、高出力で発生させる磁電管「マグネトロン」が、先ず日本で開発されます。翌年の1940年。同じ波長10センチの電波を出せるマグネトロンが、イギリスのバーミンガム大学でも作られました。ほぼ同じ時に開発された二つのマグネトロン。同盟国を巻き込んだその実用化競争が、第二次世界大戦の帰趨に大きな影響を与えます。
語り・濱中博久:
1941年2月。日独伊三国同盟の締結を受け、日本海軍の視察団がベルリンに到着します。海軍技術研究所の伊藤庸二は当時のレーダー開発の第一人者でした。
★海軍技術研究所・伊藤庸二造兵中佐
ドイツは当時、波長80センチのレーダーを既に実戦に投入。その実用化に関する最新技術を得たいと、伊藤は考えていました。ドイツに入った視察団は、戦闘が続く西部戦線に出向きます。
伊藤庸二の次男良昌さんです。当時、伊藤が持ち歩いていた地図が残されています。
伊藤良昌さん:
「えー、ドイツからベルギーに入りまして、かの有名なあのダンケルクの撤退の所ですね。それで有名なモンサンミッシェルを通って、ブリタニーの先端まで行きまして」
大西洋に面したブルターニュ半島の至る所で、伊藤はレーダーの施設を目にします。しかし、それについて質問をしても、答をはぐらかされるだけでした。
伊藤良昌さん:
「執拗に見せてくれるということをドイツ当局に申し入れて、大変苦労したということだけは聞いとります。やっぱりドイツも最高の軍事機密だったんだと思いますね」
交渉の末、ロリアンという港町の郊外で3月23日、伊藤らは漸くレーダー施設の見学を許されます。「ドイツ電探をここで初めて実地に見る」。
ロリアンから北へ15キロ。第二次世界大戦中、ドイツ軍がレーダーを設置していたケロック村です。ジャン・フィシュウさんは、ドイツ軍に占領された後も、家を護るため、村に残っていました。
ジャン・フィシュウ(86)さん(英語:NHKによる翻訳):
「ここにレーダーの台がありました。固定した跡が残っています。とても大きなものでした」
ドイツ軍は、この村で防空レーダーを既に稼働させていたのです。伊藤は、実際に見たレーダーを、図入りの解説を付けて報告。装置二組を入手するよう、海軍省から命じられます。しかし、それが実現する前に帰国することになりました。その理由について、視察団は、機密兵器故、ヒトラー総統の決裁を要するため、時間が掛かることなどを報告しています。
【転載歓迎】「JAPANデビュー第4回」全内容-Part.4
★ドイツ連邦軍事アーカイブ
一方ドイツには、ドイツ側の思惑を窺わせる記録が残されていました。
★ドイツ海軍作成 日本視察団関係史料
報告書の中で、ドイツ海軍は、同盟を理由に様々な要望を出してくる日本を、厳しい目で見ていました。これは日本海軍が提出した要望のリストです。潜水艦の部品から、暗号機まで、様々な物品の入手や、情報の提供を申し入れていました。
「日本は三国同盟を満たすために必要、という理由によって、ドイツに知的資産の大売出しを要求出来ると信じているが、それは間違いとして拒否しなければならない」
ドイツとの同盟に多くを期待した日本海軍。しかし、レーダーについて視察団が手にした成果は、限られたものでした。
波長10センチのレーダーの実用化に向けて、歩みを速めるのがイギリスです。イギリスの選択は、アメリカとの提携でした。ドイツとの戦争が続く中、チャーチル政権は、自国でのさらなるレーダー開発は、困難と判断したのです。アメリカとの提携を探る視察を命じられたのが、科学者のアーチボルド・ヒルです。36歳の時にノーベル生理学賞を受賞。その後、イギリスの空軍省でレーダーの開発に協力していました。
1940年3月。渡米したヒルは、イギリス大使館を拠点に、波長10センチのレーダーに関するアメリカの研究の進捗状況を探ります。そして、たとえイギリスの機密情報を渡すことになっても、アメリカの大学や企業の力を利用することは、イギリスの国益に叶うという結論に達しました。帰国後、ヒルはこう提言しています。
「いま我々に必要なのはアメリカの全面的な協力である。彼らは必ず我々の側につく。いま我々が持つべきは、古くさい優越感ではなく、率直であることだ」
自らの国力を冷静に分析したイギリスは、ルーズベルト大統領にこう伝えました。
ルーズベルト大統領宛・駐米大使電報:
「貴国が関心を持つあらゆる装置についての完全な詳細を、一切包み隠さず供与したい」
極秘の派遣団によって、イギリスから運ばれたマグネトロンは、先ずマサチューセッツ工科大学に持ち込まれます。ここには終戦までに、最大4000人の科学者が全米から結集。レーダー開発に必要な、あらゆる部品の設計と基礎実験が行われます。およそ一年で、実用化の目途が付けられました。
それを大量生産するシステムを作りあげたのが、レイセオン社です。現在、年2兆円の売り上げを誇る世界有数の軍需企業です。イラク戦争などで使われたパトリオットミサイルや、トマホークの製造元です。
マグネトロンの量産化には、安定した電波発生のために、この部品の精密加工が必要でした。レイセオン社は薄い円盤状の部品を貼り合わせて作る工法を開発します。そして、熟練工を必要としない、マグネトロンの大量生産を実現させました。
この頃までに世界の情勢は、チャーチルが望んだように、動いていました。アメリカが第二次世界大戦に本格参戦。太平洋における日本との戦争を引き受けていました。1942年、ガダルカナル島を巡る「ソロモン諸島の戦い」に、波長10センチのレーダーが初めて実戦投入されます。戦艦「ワシントン」にも、完成したばかりのレーダーが搭載されました。これがその送受信アンテナです。ワシントンと同じ型のこの戦艦には、第二次世界大戦中に開発された波長10センチのレーダーが残されています。
★ワシントンと同型艦・戦艦「ノースカロライナ」
ジェリー・ジョンソンさん、82歳。第二次世界大戦中、この戦艦でレーダーの操作を担当していました。レイセオン社製のレーダーのモニターです。情報は、緑色の二つの画面に映し出されました。
元レーダー担当 ジェリー・ジョンソン(82)さん(英語:NHKによる翻訳):
「とても頼りになりました。回転するアンテナが前方の敵艦を探知すると、それが画面に表示されました」
PPIスコープ。回転するアンテナと連動する画面で、敵が何処にいるか、一目瞭然です。
★PPIスコープ(全周囲レーダー表示器)
こちらの画面では、敵艦の位置を示す突起に、波形の窪みを合わせると、距離が分かります。1942年11月14日、深夜のガダルカナル島沖。4隻の日本の軍艦が、島影から現れた瞬間を、戦艦「ワシントン」のレーダーが探知。一斉砲撃を始めます。この時、ワシントンの存在にさえ気付いていなかった戦艦「霧島」。いきなり砲弾を撃ち込まれ、航行不能となり自沈しました。
「霧島」に乗っていた帆足宗次さん、92歳。211人の戦友を失いました。戦後、手彫りの模型を作り続けたのは、その壮絶な最期が何時までも脳裏を離れないからです。
戦艦霧島 元砲塔員 帆足宗次(92)さん:
「砲弾がですね、炸裂するでしょ。物を壊す、人間なんかもうそりゃ、もう切り刻むというような感じですね、ばあー。兎に角、あの頭が無くなっとる、足が無くなっとる、手が無くなっとる、というか、大体その形をしとらんですね。それっていう、それだけがやっぱり、あの炸裂した弾が部屋中を引っかき回して、殺してしもうたというような感じですね」
★駆逐艦「春月」1944年竣工
日本も開発を続けていた波長10センチのレーダーを、1943年以降、実戦に投入します。
★二号ニ型電探(レーダー)
しかし、マグネトロンの中心部分の精度が充分ではなく、安定した性能を発揮することが出来ませんでした。敵の状況を知るレーダー技術の優劣は、戦局を決定付けます。1945年8月、敗戦。明治以来、戦争に次ぐ戦争の時代を生きたジャパンの最後でした。
ロンドン大学名誉教授(日英関係史)イアン・ニッシュさん(英語:NHKによる翻訳):
「同盟とは、そもそも何か。よく考える必要があります。たとえ同盟国であっても、全ての目標を共有することは出来ない。つまり、同床異夢なのです。明治初期に北海道に来たアメリカ人教師の日本へのメッセージに、大志を抱け、というものがありました。そして、常に大志、野望を抱き続けた日本は、多くの目的を達します。しかし、国家にとって重要なのは、その大志を国際関係の中で、現実的に摺り合わせることです。日本は、それが出来ませんでした」
日本海海戦の勝利を祝う「三笠」の記念式典です。今、最も重要な来賓として招かれているのは、現在の同盟国アメリカの司令官です。
第七艦隊司令官 ジョン・バード中将(英語:NHKによる翻訳):
「米海軍と海上自衛隊の強い絆を三笠の歴史とともに祝福します(式典挨拶)」
「現在の日米関係はかつてないほど強いものです。我々は緊密に協力し、日本とその周辺地域を守ります」
戦後64年。レーダーによる直撃弾で、数多くの戦友を失った帆足さんは、今も慰霊を続けています。
戦艦霧島 元砲塔員 帆足宗次(92)さん:
「一日も忘れたことはありません。どうぞ、安らかにお眠り下さい」
戦後、焼け野原の占領の時代から再出発した日本は、半世紀を超えて、アメリカとの同盟を維持してきました。複雑な国家戦略が交錯する中で、真に日本の国益となる情報を如何に掴むのか。他国との同盟を、どう選択し、何を得るのか。日本が世界にデビューした150年前から今なお続く重い課題です。
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★エンドロール
NHKスペシャル
シリーズJAPANデビュー
第4回 軍事同盟 国家の戦略
資料等協力(略)
音楽:プロジェクトimage
加古隆 羽毛田丈史 松谷卓 小松亮太 古澤巌 宮本笑里
ゴンチチ
タイトル映像:西郡 駿
語り:濱中博久、礒野佑子
声の出演:81プロデュース
撮影:日昔吉邦 板倉達也
音声:鈴木彰浩 北野栄治
照明:野島生朝
映像技術:真壁一郎
映像デザイン:森内大輔
CG制作:工藤薫裕季 小田健市
リサーチャー:田村都志夫 サブリナ・エレオノーラ 岩本善政
藤岡ひかり
コーディネーター:
バッサロ・桃坂麻由子 孫明淑 柳原緑 ナタリア・ゴリーチェバ
ペティーナ・ポスト小林
音響効果:佐々木隆夫
編集:吉岡雅春
取材:山本貴志子 田中敬子
ディレクター:宮本康宏 三須田紀子
制作統括:林新 河野伸洋
制作著作:NHK
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文字起し:夕刻の備忘録
http://jif.blog65.fc2.com/
一方ドイツには、ドイツ側の思惑を窺わせる記録が残されていました。
★ドイツ海軍作成 日本視察団関係史料
報告書の中で、ドイツ海軍は、同盟を理由に様々な要望を出してくる日本を、厳しい目で見ていました。これは日本海軍が提出した要望のリストです。潜水艦の部品から、暗号機まで、様々な物品の入手や、情報の提供を申し入れていました。
「日本は三国同盟を満たすために必要、という理由によって、ドイツに知的資産の大売出しを要求出来ると信じているが、それは間違いとして拒否しなければならない」
ドイツとの同盟に多くを期待した日本海軍。しかし、レーダーについて視察団が手にした成果は、限られたものでした。
波長10センチのレーダーの実用化に向けて、歩みを速めるのがイギリスです。イギリスの選択は、アメリカとの提携でした。ドイツとの戦争が続く中、チャーチル政権は、自国でのさらなるレーダー開発は、困難と判断したのです。アメリカとの提携を探る視察を命じられたのが、科学者のアーチボルド・ヒルです。36歳の時にノーベル生理学賞を受賞。その後、イギリスの空軍省でレーダーの開発に協力していました。
1940年3月。渡米したヒルは、イギリス大使館を拠点に、波長10センチのレーダーに関するアメリカの研究の進捗状況を探ります。そして、たとえイギリスの機密情報を渡すことになっても、アメリカの大学や企業の力を利用することは、イギリスの国益に叶うという結論に達しました。帰国後、ヒルはこう提言しています。
「いま我々に必要なのはアメリカの全面的な協力である。彼らは必ず我々の側につく。いま我々が持つべきは、古くさい優越感ではなく、率直であることだ」
自らの国力を冷静に分析したイギリスは、ルーズベルト大統領にこう伝えました。
ルーズベルト大統領宛・駐米大使電報:
「貴国が関心を持つあらゆる装置についての完全な詳細を、一切包み隠さず供与したい」
極秘の派遣団によって、イギリスから運ばれたマグネトロンは、先ずマサチューセッツ工科大学に持ち込まれます。ここには終戦までに、最大4000人の科学者が全米から結集。レーダー開発に必要な、あらゆる部品の設計と基礎実験が行われます。およそ一年で、実用化の目途が付けられました。
それを大量生産するシステムを作りあげたのが、レイセオン社です。現在、年2兆円の売り上げを誇る世界有数の軍需企業です。イラク戦争などで使われたパトリオットミサイルや、トマホークの製造元です。
マグネトロンの量産化には、安定した電波発生のために、この部品の精密加工が必要でした。レイセオン社は薄い円盤状の部品を貼り合わせて作る工法を開発します。そして、熟練工を必要としない、マグネトロンの大量生産を実現させました。
この頃までに世界の情勢は、チャーチルが望んだように、動いていました。アメリカが第二次世界大戦に本格参戦。太平洋における日本との戦争を引き受けていました。1942年、ガダルカナル島を巡る「ソロモン諸島の戦い」に、波長10センチのレーダーが初めて実戦投入されます。戦艦「ワシントン」にも、完成したばかりのレーダーが搭載されました。これがその送受信アンテナです。ワシントンと同じ型のこの戦艦には、第二次世界大戦中に開発された波長10センチのレーダーが残されています。
★ワシントンと同型艦・戦艦「ノースカロライナ」
ジェリー・ジョンソンさん、82歳。第二次世界大戦中、この戦艦でレーダーの操作を担当していました。レイセオン社製のレーダーのモニターです。情報は、緑色の二つの画面に映し出されました。
元レーダー担当 ジェリー・ジョンソン(82)さん(英語:NHKによる翻訳):
「とても頼りになりました。回転するアンテナが前方の敵艦を探知すると、それが画面に表示されました」
PPIスコープ。回転するアンテナと連動する画面で、敵が何処にいるか、一目瞭然です。
★PPIスコープ(全周囲レーダー表示器)
こちらの画面では、敵艦の位置を示す突起に、波形の窪みを合わせると、距離が分かります。1942年11月14日、深夜のガダルカナル島沖。4隻の日本の軍艦が、島影から現れた瞬間を、戦艦「ワシントン」のレーダーが探知。一斉砲撃を始めます。この時、ワシントンの存在にさえ気付いていなかった戦艦「霧島」。いきなり砲弾を撃ち込まれ、航行不能となり自沈しました。
「霧島」に乗っていた帆足宗次さん、92歳。211人の戦友を失いました。戦後、手彫りの模型を作り続けたのは、その壮絶な最期が何時までも脳裏を離れないからです。
戦艦霧島 元砲塔員 帆足宗次(92)さん:
「砲弾がですね、炸裂するでしょ。物を壊す、人間なんかもうそりゃ、もう切り刻むというような感じですね、ばあー。兎に角、あの頭が無くなっとる、足が無くなっとる、手が無くなっとる、というか、大体その形をしとらんですね。それっていう、それだけがやっぱり、あの炸裂した弾が部屋中を引っかき回して、殺してしもうたというような感じですね」
★駆逐艦「春月」1944年竣工
日本も開発を続けていた波長10センチのレーダーを、1943年以降、実戦に投入します。
★二号ニ型電探(レーダー)
しかし、マグネトロンの中心部分の精度が充分ではなく、安定した性能を発揮することが出来ませんでした。敵の状況を知るレーダー技術の優劣は、戦局を決定付けます。1945年8月、敗戦。明治以来、戦争に次ぐ戦争の時代を生きたジャパンの最後でした。
ロンドン大学名誉教授(日英関係史)イアン・ニッシュさん(英語:NHKによる翻訳):
「同盟とは、そもそも何か。よく考える必要があります。たとえ同盟国であっても、全ての目標を共有することは出来ない。つまり、同床異夢なのです。明治初期に北海道に来たアメリカ人教師の日本へのメッセージに、大志を抱け、というものがありました。そして、常に大志、野望を抱き続けた日本は、多くの目的を達します。しかし、国家にとって重要なのは、その大志を国際関係の中で、現実的に摺り合わせることです。日本は、それが出来ませんでした」
日本海海戦の勝利を祝う「三笠」の記念式典です。今、最も重要な来賓として招かれているのは、現在の同盟国アメリカの司令官です。
第七艦隊司令官 ジョン・バード中将(英語:NHKによる翻訳):
「米海軍と海上自衛隊の強い絆を三笠の歴史とともに祝福します(式典挨拶)」
「現在の日米関係はかつてないほど強いものです。我々は緊密に協力し、日本とその周辺地域を守ります」
戦後64年。レーダーによる直撃弾で、数多くの戦友を失った帆足さんは、今も慰霊を続けています。
戦艦霧島 元砲塔員 帆足宗次(92)さん:
「一日も忘れたことはありません。どうぞ、安らかにお眠り下さい」
戦後、焼け野原の占領の時代から再出発した日本は、半世紀を超えて、アメリカとの同盟を維持してきました。複雑な国家戦略が交錯する中で、真に日本の国益となる情報を如何に掴むのか。他国との同盟を、どう選択し、何を得るのか。日本が世界にデビューした150年前から今なお続く重い課題です。
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★エンドロール
NHKスペシャル
シリーズJAPANデビュー
第4回 軍事同盟 国家の戦略
資料等協力(略)
音楽:プロジェクトimage
加古隆 羽毛田丈史 松谷卓 小松亮太 古澤巌 宮本笑里
ゴンチチ
タイトル映像:西郡 駿
語り:濱中博久、礒野佑子
声の出演:81プロデュース
撮影:日昔吉邦 板倉達也
音声:鈴木彰浩 北野栄治
照明:野島生朝
映像技術:真壁一郎
映像デザイン:森内大輔
CG制作:工藤薫裕季 小田健市
リサーチャー:田村都志夫 サブリナ・エレオノーラ 岩本善政
藤岡ひかり
コーディネーター:
バッサロ・桃坂麻由子 孫明淑 柳原緑 ナタリア・ゴリーチェバ
ペティーナ・ポスト小林
音響効果:佐々木隆夫
編集:吉岡雅春
取材:山本貴志子 田中敬子
ディレクター:宮本康宏 三須田紀子
制作統括:林新 河野伸洋
制作著作:NHK
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文字起し:夕刻の備忘録
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