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ニックネーム:おつる (洗礼名ジャンヌダルク)
性別:女 
年齢:いい感じの年 
都道府県:兵庫県
サッカー大好き♪好きなサッカーチームもちろん★バンヴェール兵庫★マリリン・モンロー大好き♪自衛隊ファン♪ JAZZが大好きー♪ 猫が大好き♪ そして 何より好きなんは・・ビールやね♪

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ファッションブランドコミュニティ「プーペガール」
2009年07月14日(火)
東トルキスタンの歴史と中共の弾圧
●東トルキスタンの歴史と中国共産党政府が行ってきた弾圧、居住地区 で強行した核実験などの非人道的行為 フリーウイグル ウイグルに自由を・・・・ ●7月12日の抗議デモに先立って、中国大使館の正門前で行われた イリハムさんの抗議活動 ●2009.07.12 中国政府によるウイグル人虐殺抗議デモ@渋谷  ●中国 新疆ウイグル自治区 ウイグル人女性 「涙 」2009 .7 .7 中国・新疆ウイグル自治区で7日、 ウイグル族による新たな抗議デモが起こり、住民と警察隊が衝突し た。一方、漢族の住民のウイグル族への反発も強まっており、抗議 デモも始まっている。・・・
2009-07-14 12:43 | 記事へ | コメント(2) | トラックバック(0) |
| 日本シルクロード科学倶楽部 / 東トルキスタン ウイグル / 台湾 NHK抗議 |
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◆ウイグルの女性の悲しみを知ってください
米流時評さん http://beiryu2.exblog.jp/9979670
の「中国武装警察・ついに始まった恐怖の人間狩り」の
記事より転載させていただきました。

おつるは、この女性たちの悲しみを黙って見過ごすことが
できません。

裏目に出た中国政府主催の取材ツアー

新彊ウイグル自治区ウルムチ市発 |ウルムチでのデモ弾圧虐殺から2日目の7日火曜、中国政府がジャーナリストのためにわざわざ組んだ、日曜の「ウイグル暴動」の現場取材ツアーが敢行された。しかし実際にはこの政府広報ツアーは、結果的には最初の取材地点で見事に裏目に出て、中国側の意図とはまったく逆の展開を見る羽目となった

写真:政府主催の取材ツアーの目的地、ウルムチ市南部のカーディーラーショップ周辺に集まってきたウイグル人市民

悲憤のウイグル人主婦が決死の抗議
ツアーバスの目的地は、暴動で焼き討ちにあった数台の車の残骸が残る、ウルムチ市南部にあるカーディーラーショップだった。ディーラーショップで被害に遭った担当者らにインタビューを行なった後、取材記者の一行が道路をはさんだ反対側のウイグル人所有のバザールへ向かおうとしている途中で、色とりどりの昔ながらのスカーフで頭を包んだ女性の一団が路上に立ち現れ、みな一様に悲憤慷慨の表情を浮かべていた。


写真:武装警察に銃を突きつけられ、前夜強制連行された夫や息子を返して!と泣きながら訴える、ウイグル人の主婦たち

「ウイグル人狩り」で300人強制連行

その中からアイニールさんというひとりの女性が声を上げ、こう叫んだ。
「月曜の夜になると、警察がやってきて、ウイグル人の夫や息子を片端から逮捕しました。その数は全部で300人近くにも達しました。」警察側は、デモと暴動に参加したしるしとなる真新しい傷やそれらしい証拠がある男たちを捜していたとアイニールさんは伝えた。



銃を突きつけられ拉致された夫たち
「私の主人は、銃をつきつけられて有無を言わさず連行されました。彼ら警察は、私たち(ウイグル人)を片端から殴りつけました。男たちを素っ裸にして傷を確かめました。最初うちでは恐ろしくて、入口のドアに鍵をかけたんですけど、警察はそのドアも打ち壊して、主人をさらっていきました。うちのひとは暴動になんかまったく参加してなかったと言うのに……」

漢人の自警団の襲撃でいつ殺されるか判らない恐怖で、抗議に出かけるにも子供を片時も離せないウイグル人の母親

武装警察、抗議の女性デモを挟み撃ち

取材記者団に訴えるために集まってきた女性の群衆は、およそ200人にもふくれあがり「ウイグル人に自由を!」とか「われわれの子供たちを返せ!」などとシュプレヒコールを上げながら、大通りを行進し始めた。しかし、彼女たちはたちまちのうちに、装甲車や放水車が待機していた道路の両側から繰り出した、数百人の武装警察の編隊に挟み撃ちにされてしまった


ウルムチ市南部で、夫や父親を返して!と素手で武装した兵士に立ち向かう、勇敢なウイグル人の女性たち

銃や警棒で武装した兵士に素手で立ち向かう女性


恐怖と緊張の余り失神した女性を介抱するウイグル人住民 デモ隊と呼ぶよりも自然発生的に集まった抗議の群衆

2009-07-14 02:09 | 記事へ | コメント(2) | トラックバック(1) |
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2009年07月13日(月)
兵庫県 レディースリーグ 第3戦
7/12(日)は、猛暑の中、兵庫県レディースリーグ 第3戦でした。


4月  第一戦は 勝利  
6月は 第二戦は 引き分け

そして 今日の試合は、桜ポッカーズさん

ベテランさんのチームです。

兵庫県リーグで最高齢、国体代表出身の70代の
めちゃくちゃ かっこいいフォワードさんがいらっしゃるチーム

キーパーさんとも顔なじみでいつも笑顔で挨拶してくださる方


わが バンヴェール兵庫は

フォーワードのひろちゃんが おめでたでしばらくお休み
とっても寂しいです。

さなえちゃんも出産したあとで まだ出られないので・・・

フォワード不足だけれど

新人の 元ヤンキー?? ニックネームが「センパイ笑」ちゃんと

セレブ?? の かつらちゃんの


背の高い二人も頑張ってます。

試合のアップ、トレーニングしてるだけで
汗だらだら・・・・
湿度も高いです。

監督は、新人が多く、お休みも多いから
今年度は、チームの形を新たに作っていくということを目標に
でも 決して負けないプレー、そして動きのあるプレー
そして 楽しくプレーしようと。
コーチは、いろんなアイデアを持って、ポジションにこだわらず
どんどん動こうと。


最近は、土曜日 まじめに練習に神戸に通っているので
今日は、おつるは、先発で出してもらいました。

いつもの右サイドバック!!

試合は、どんどん攻めてはじまりました。
でも さすが ベテランチームの桜ポッカーズさん

守備が堅いです。

おつるは、一番ベテランさんのマークです。
一度、コーナーキックから はねかえりのボールを
シュートしたつもりが 中途半端で失敗・・・・

走るーーーー

戻るーーーー

走るーーー

戻るーーーーーー

給水タイムあるはずが、審判さん忘れてるし・・暑い・・・・

おつるは ポジションがうまくいかなくて
たびたび 抜かれそうになって
監督に叱られました。

なんで そんなわざわざ しんどいプレーするんやーって

ラインを出て転がったボールを追って ひろいにいって
戻ってくる途中で なんでもないとこでコケた・・・
そのあと スローイン あせって ファールした・・・

失敗ばかりしてましたが

チームのみんなは、かっこよく

1点押し込んだーーーーーーーーーー♪ 

前半 1-0

ハーフタイムも監督にアドバイスをいただいて
そして後半へ・・・

後半 バテてきて 半分ぐらいのとこで交代でした。

もっと体力つけなくちゃー

そのあと、なんとチームのすごい連携パスからの
はまちゃんのスーパーシュートで 追加1点!!

やったー


というわけで 今日は 2-0

 うれしいーーーーーーーーーーーー

監督も笑顔です。


おつるは・・・・もっと練習しなきゃ

来週は、関西大会です。 がんばるぞーーーーーー



で・・・・日焼けで鼻の頭 まっ赤っ赤なんですけどー

酒飲みすぎのおっちゃんみたい。
2009-07-13 22:08 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2009年07月11日(土)
青山繫晴氏が語る 09 07 08 ウイグル自治区暴動の真実
09 07 08 ウイグル自治区暴動の真実 1   09 07 08 ウイグル自治区暴動の真実 2   09 07 08 ウイグル自治区暴動の真実 3  
2009-07-11 02:00 | 記事へ | コメント(7) | トラックバック(4) |
| 東トルキスタン ウイグル / 日本シルクロード科学倶楽部 / 中国の核実験 |
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2009年07月10日(金)
カトリック箕面教会 和田幹男神父様の言葉 ”私たちは神の乞食(こじき)です”
巻頭言 2009年7月号
”私たちは神の乞食(こじき)です”
         - 聖アウグスチヌス-

       主任神父 和田 幹男



神は聖なるものだと言いました。
神が聖なるものであるなら、それに応じてわたしたちの生活も聖なるものでなければなりません。

パウロも言います。「これが神の御旨です、それはあなたたちの聖性です」(1テサ4の3)と。

そのためにまず祈らなければならないでしょう。 祈りとは神との「我と汝」、「わたしとあなた」の語らいと言えましょう(M・ブーバー)。

この祈りは、深い沈黙の中で行われます。 神は沈黙の友なのです(G.クルトワ)。

沈黙の中でこそ、わたしたちはその語りかける神の声を聞くことができます。
それは物理的な音声ではあ りませんが、全身全霊をもってその語りかけを受けとめます。
そのためには世の喧噪(けんそう)を避けて、静かなところに逃げ込む必要があります。 フーガ・エ・ムンド(世からの逃避)といいます。

初期の修道者たちの一つの精神です。彼らは信徒でした。それは各家庭の自室でもいいし、戸外の 自然の中でもいい。勿論、教会の聖堂もそのためにあります。特に小聖堂はそのために整えられています。

今日も一人、また一人と祈る人が来ていました。 どのように祈ればいいのでしょうか。主の祈りや天使祝詞、栄光唱など暗記している祈りを唱えてもいい。ロザリオの祈りを唱えてもいい。

昔からある 公教会祈祷文、あるいは最近の祈りの本でもいい。祈りの道に進歩すれば、個人的に瞑想的な祈りもできるようになるでしょう。

初歩のうちは既成の祈りの助けを受ければいい。また疲れて集中力に欠けるときにも、同じです。

ただし、祈りとは願い事だけはありません。たしかに、わたしたちも願い事をします。それは正しい。

聖アウグスティヌスは言いました。「わたしたちは神の乞食です」(mendici Dei sumus)と。

ですから、何でも願ってもいいのです。しかし、わたしたちの祈りは、ほかの宗教のように、願い事に終始しません。

わたしたちは神がわたしに何を願っておられるのか、にも耳を傾けます。
ここがほかの宗教の祈りと異なるところです。

神はわたしたちに嫌なこと、辛いことをお望みになるかもわかりません。ゲツセマネのイエスのように、父である神の御旨こそ優先します。

またわたしたちは神を賛美します。神に感謝します。罪の赦しを願います。主を味わって美味しいと味覚で感じるほどまで、祈りをとおして神に親しみたいものです。  

Gustate et videte quoniam suavis est Dominus. (Ps.XXXIII,9,Vulgata)

主はなんと美味しいことか、味わって見なさい。

(詩編33の9、ラテン語訳)

2009-07-10 23:56 | 記事へ | コメント(1) | トラックバック(0) |
| キリスト教 カトリック |
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ついにセルフインティンクション禁止!! 信徒の両形態による聖体拝領の方法について
カトリック大阪教会区 tontonさんとRickさんに教えて頂きました。

ついに、7/9より 
日本カトリック 大阪教区では、
セルフインティンクションが完全に禁止となりました!!!!!


セルフインティンクション
両形態による聖体拝領の方法として、司祭や聖体授与の臨時の奉仕から与えられたご聖体を、自分で手で持っておん血に浸して拝領(intinctio)したり、祭壇上に置かれたカリスを拝領者が自分で手にとって拝領をする方法


これは私にとって大きな喜びです。

カトリックの信徒さん以外のこのブログをお読みの方は何のことだか、なぜ、私が嬉しいのかわらないと思いますので簡単に説明しますと

現在、カトリックは、(特に大阪)は カトリック正義と平和協議会という カトリックの一部の団体の左傾化と世俗化によりどんどん崩れています。新生計画などという軽い言葉とともに・・・

聖徳太子のころに景教が伝わり、織田信長の時代に日本に広がり、
その伝統をかたくなに守ったために江戸時代〜に殉教した人々がいた
その思いを踏みにじり、どんどん世俗化、左傾化、共産主義のようになりつつあるカトリック・・・・・

私はその状況を憂いて、また 信徒以外の人々に カトリックのカルト化という誤解を払拭したいためにも 戦い続けています。

世俗化を元の伝統的で荘厳な教会にもどしたいと努力しつづける
カトリックアクション同志会や教会の政治的言動を憂慮する会にも
参加させていただいて勉強しています。

世俗化の象徴的な形としても、セルフインティクションは憂うべきことでした。
聖体拝領というのは、毎週、カトリックの聖なる教会において祈りとともに キリストの体をいただく 一番大切な儀式。

その形式を崩すということは、教会の聖なる存在を崩すこと。教会が聖なるものでなければ、何の意味があるでしょう

中国では、バチカンに従う信徒は地下教会信者として弾圧され、逮捕拷問をうけ、バチカンに背く教会が中国共産党の支持で天主教会として公に認められていますが

バチカンが禁止しているのに、それに背く日本のセルフインティンクションの継続は、まるで中国共産党の天主教会のようです。

幸いなことに、私の箕面教会では、セルフインティンクションは行われていませんが
あまり左傾化していないと言われる北摂や阪神地区のある教会でもセルフインティンクションは行われ、敬虔な信徒がいくらやめてほしいと頼んでも禁止されなかったそうです。

ところが、本日づけで、下記の文書が各教会に通達されました。 ↓

Rickさんの感想
 とても横柄な文章に思えるのは私だけでしょうか?

「わしら正しい事してんのに、なんぼ言うても聞いてくれへんねん。偉そうに・・・しゃあないわ、言う事聞いといたるわ」といった感じ!!!



おつるは、
このバチカンからの禁止に従わざるを得なかった大阪教区

私たちの願いが届いたことはすごいことだと思います。

セルフインティンクションは
日常的に行われていて、私たちの訴えるバチカンで禁止されていると
いう主張については
否定される信徒、信じない信徒も多かった。

はっきりバチカンから禁止されたのはすごいことです!!

この一番大切な部分を守ることは教会を守ること伝統を守ること 
この禁止は、これから10年、20年、いや100年〜ずっと続くのです

神さま ローマ教皇ベネディクト16世様
駐日バチカン大使アルベルト・ボッターリ・デ・カステッロ大司教 ローマ典礼省の方々 有難うございます
 


実はあのI神父様の事件の後、
tontonさんが教皇大使にもバチカンにもお手紙を書き、
Rickさんもお手紙キャンペーンを呼びかけ


おつるもそれを受けて

3/21(土)に 大阪から東京のバチカン大使館に行き、(突撃訪問です笑) 秘書の女性に
この手紙を訳して大使様に読んでいただいて下さいと懇願しました。

その時の経緯はこちらです↓

ジャンヌおつる東京へ 番外編@ 〜ローマ法王庁大使館(バチカン大使館)訪問編〜
http://blog.zaq.ne.jp/otsuru/article/754/




そのすぐあとの 4/1に 教皇大使様から、
禁止の文書が手渡されていたこと下記の文書に書かれています。

私の思いは届いたのですね


その手紙には、I神父様の件とともに、
セルフインティンクションや典礼の世俗化、左傾化が
特に大阪教区で蔓延していることを訴え禁止をお願いするものでした

私だけでなく、あの時、I神父様のことを想い、教会のあり方を憂うたくさんの信徒さんがともにバチカンや教皇大使様に手紙を出したと思います。

たくさんの信徒の真摯な思いと祈りが伝わったのではないかと思います。


これは偶然ではないと思います。

信徒の訴えや祈りは、バチカンにとどくのです。
教会を変えることができるのです。

私たちの勝利です

頑張れば、行動すれば、祈れば 思いはかなう
 

私たちは、あきらめないで、これらも左傾化・世俗化に声をあげて
戦い続けましょう。 カトリック正義と平和協議会の偏向政治活動をやめさせましょう

************************************************************
ARCHDIOCESE OF OSAKA
カトリック大阪大司教区

Curia Osakensis
Prot.No.528/09

2009年7月9日

大阪教区の皆様

大阪大司教  池長 潤


信徒の両形態による聖体拝領の方法について

 教区の神父様、修道会・宜教会の方々、そして信徒の皆様に、両形態による聖体拝領の方法について、お知らせいたします。

 日本のカトリック教会では、これまで両形態による聖体拝領の方法として、司祭や聖体授与の臨時の奉仕者から与えられたご聖体を、自分で手で持っておん血に浸して拝領(intinctio)したり、祭壇上に置かれたカリスを拝領者が自分で手にとって拝領をする方法が比較的一般的に行われてきました。日本カトリック司教協論会・典礼委員会は、この方法を「日本の適用」として、再三、引き続き特別な許しを与えて頂きたいと、教皇庁・典礼秘跡省にお願いしてきました。

 けれども、典礼秘跡省は、こ聖体もおん血も司祭や任命された奉仕者が、拝領者に手渡し授けることが、典礼上、定められた大切な規定として厳密に守らなければならないとの見解を強調し、2009年4月1日に駐日教皇大使を通して届けられた書簡においても、そのことが明示されました。日本カトリック司教協議会はこれを受け、今年6月の定例司教総会で、日本全体でローマの指示に従うよう確認いたしました。

 つきましては、7月9日付けのこの手紙が届いた日から、大阪教区のすべての教会や修道会・宣教会でも、信徒(修道者を含む)が両形態による聖体拝領を行なう場合、以下の方法に従って行って頂きたくお願いいたします。
 (1)司祭や任命された奉仕者から直接ご聖体およぴカリスを受け取って拝領する。
  いったん受け取ったご聖体を、白分でおん血につけて拝領しない。
 (2)ご聖体をおん血に浸して拝領(intinctio)する場合は、司祭や任命された奉仕者が直接拝領者の舌の上に置く。

役務を担う者の思いを謙虚に受け止め、日々主の死と復活を記念する教会が、いつもその永遠のいのちに満たされて歩み続けることができますように。


*************************************************************



つぎのページに 7月号のカトリック箕面教会の
神父様、和田幹男神父様の聖なる言葉をのせます。
2009-07-10 22:20 | 記事へ | コメント(2) | トラックバック(0) |
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◆シルクロードを撮影したカメラマンが肺がん死!!!
札幌医科大学 高田純 教授 理学博士
日本シルクロード科学倶楽部 ブログより 転載
http://junta21.blog.ocn.ne.jp/blog/



◆シルクロードを撮影したカメラマンが肺がん死!!!


シルクロード日本人核被害調査で、最初の情報提供がありました。ありがとうございます。

#1 男性  肺がん死

  NHKスペシャル新シルクロードの撮影に参加したほか、20年に渡って

 中国辺境部をテーマにしたカメラマン

  この方の核放射線影響については、これから調査いたします。

 

 別途、はやりシルクロードカメラマンの肺がん死を耳にしていますが、同一人物かどうかわかっていません。

 この種の職業で、プルトニウム汚染のある核ハザードの危険地へ長期間いかれた人たちには、肺がんリスクが高まるのは、想定しているところです。


その他、

  日本テレビの西遊記の現地ロケの場所をご存知の方、情報提供ください。


情報提供はこちら

http://www15.ocn.ne.jp/~jungata/SSP-J5-f1.html

http://www15.ocn.ne.jp/~jungata/SSP-J5.html

http://www15.ocn.ne.jp/~jungata/SSP-J5.html



++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++




NHKスペシャル新シルクロードの撮影に参加したカメラマンの
発がんと 死

これでもNHKは、撮影当時も現在も、核実験の危険性があるとは
認識していないというのだろうか・・・・

おつるは心配です。

シルクロード観光した日本人の方は、
定期的に癌の検診を受けられることが絶対必要だと思います。
癌は早期発見、治療せねばなりません。

もしご家族・ご友人にシルクロード観光に行かれた方が
おられたら癌の検査をすすめられたほうがいいと思います。

ウイグルの楼蘭遺跡やロプノル周辺だけでなく
中国西部、モンゴル南部、チベット北部などに旅行に
行かれた方も・・・





2009-07-10 15:13 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
| 中国の核実験 / 日本シルクロード科学倶楽部 / 台湾 NHK抗議 |
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2009年07月09日(木)
産経新聞阿比留記者ブログより ウイグル自治区での中国の核実験について  
●産経新聞阿比留瑠比さんのブログ
(政治部外務省兼遊軍担当。政治部の前は社会部、その前は文化部  生活班に所属。)
 国を憂い、われとわが身を甘やかすの記 より
http://abirur.iza.ne.jp/blog/entry/1123334/

ウイグル自治区での中国の核実験について
2009/07/09 17:28


 中国・新彊ウイグル自治区で起きたウイグル人と漢族との衝突事件が大きな話題となっています。中国の胡錦濤国家主席は晴れ舞台であるサミットをすっぽかして急遽、帰国しましたが、他の地域にも飛び火しかねないこの問題の根深さ、重要性を強く意識してのことだろうと思います。胡氏は、自身もかつてチベットで弾圧を行い、それを出世の足がかりとしてきた人だけに、小数民族問題には特に敏感にならざるを得ない部分もあるのかもしれません。

 現在、日本大使館員も各社の記者も現地入りし、状況把握に努めていますが、情報が錯綜していて、事情はよく分からないところもあるようです。まして、日本にいる私には、「又聞き」情報しか入ってこないので、本日はおそらく今回の事件の遠因の一つになっているであろう問題について書こうと思います。きょうはサミットの首脳声明でも「核兵器のない世界」を目指すことが盛り込まれたようですし。

 私は以前、先日のエントリでも紹介した日本ウイグル協会代表のイリハム・マハムティ氏から一冊の本を献本されました。それは、札幌医科大の高田純教授の「中国の核実験 シルクロードで発生した地表核爆発災害」(医療科学社)という著書で、イリハム氏は本に添えた手紙に、こう記していました。


 《核実験を行った国は多数あるがそれなりに放射能拡散には気を使い、被害を最小限に抑えるための事前の対策を行っている。それでもソビエト連邦時代に事故を起こして被害が広がった。しかし中国共産党政府の核実験は情報の公開は勿論、放射線被害に対する処置や医療行為などを行っていることを聞かない。このことは人類に対する大犯罪であると言っても過言ではないだろう。第1回の核実験は1964年10月16日東京オリンピックに合わせておこなわれた。日本人の気持ちを逆なでするような、徳の無い行為は許すことが出来ない》


 日本人にもっとウイグルの実態を知ってほしいというイリハム氏の気持ちが伝わってきます。また、高田氏はこの本の「序」で次のように書いています。なにげに中共べったりで知られる某公共放送もちくりと刺していますね。



 《実験場は、日本文化に大きな影響をもたらしたシルクロードの要所であった楼蘭の近くにある。日中の国交が1972年に再開し、日本人が好んで訪れる観光地でもある。筆者も、若いころに井上靖氏のシルクロードを舞台にした小説を読んでいたが、よもやそうした地で、中国が核実験を行っていたとは驚かされた。公共放送でも、しばし、この地の文明の遺跡を紹介してはいるが、この種の話題に触れることはなかった》



 この本によると、中国は、ウイグル人の暮らすウイグル地区のロプノルで、1964年から1996年にかけて、地表、空中、地下で延べ46回、総爆発エネルギー20メガトンの核爆発実験を行っているそうです(うち、放射線災害として最も危険な地表核爆発を含む大気圏実験を、少なくとも1980年までに21回実施)。ウイグル地区の当時の平均人口密度の推定値6.6〜8.3人/平方キロメートルから、死亡人口は19万人と推定されるといいます。また、健康影響のリスクが高まる短期および長期の核ハザードが心配される地表の推定面積は、日本国土の78パーセントに相当する30万平方キロメートルに及び、観光などで現地を訪れる人は核ハザードのリスクも多少あることを知るべきだとしています。



 中国政府は公式な実験データの公表をしていないので、上の分析は隣接するカザフスタンの報告資料や、中国研究者の平松茂雄氏が日中友好協会を通じて入手した資料などをもとになされています。高田氏は次のように指摘しています。



《中国の核爆発実験においても、周辺住民への健康影響の調査と必要な医療対応が、人道上求められるのはいうまでもない。はたして、実際に関わった科学者や軍人、そして実験に関与はしなかった周辺住民の被害に対し、中国政府はいかなる対策を講じているのか。中国政府機関からの放射線防護上の線量および健康影響についての報告が公開されていないので、気にかかるところだ》



 《ウルムチおよびトルファンの人口は160万人および24万人である。その周辺にも集落が点在しているはずである。あるいは、遊牧民が暮らしているかもしれない。いずれにせよ、これらの地域へ夥しい核の砂が降下し、ウイグル人たちが危険な外部線量を受けた。さらに、汚染した農作物や乳製品、飲料水の摂取による内部被爆を受けたと考えることは、合理的である》



 …詳しい科学的分析については、この本に直接当たっていただきたいのですが、それにしてもひどい、とんでもない話ですね。某公共放送も、シルクロードに大量の取材班を送り、大金を使い、長期滞在して取材を重ねていたわけですから、少しはこうした問題も取り上げたらどうかと改めて感じました。中国に対しては、政治家にもよく「多数の異民族をまとめて統治していくのは大変なんだ」と変な同情を示す人がいますが、何をバカなことを言っているのかと思います。同情、共感する相手が違うだろうと。


本日は都内で、昨年7月以来となる第5回日中人権対話が行われました。その席で中国側は、ウイグル自治区での衝突事件について「一部の不法分子による扇動があった。これに法律にのっとり対処した」と説明したとのことです…。


2009-07-09 23:41 | 記事へ | コメント(3) | トラックバック(1) |
| 台湾 NHK抗議 / 中国の核実験 / 日本シルクロード科学倶楽部 |
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●NHKの異常 中国の核実験を隠ぺいしつつ広島・長崎の8月に旧ソ連の核実験報道
NHKは 中国の核実験を知りながら危険性を隠ぺいし、
シルクロード取材によるシルクロード番組を報道し続け、
危険地域に 何十万人もの日本人観光客を呼び寄せた。
いまだに、シルクロードの核被害を隠した偽DVDを販売。

そして、NHK抗議における高田教授の公開質問状に対する
NHKの高田教授への返答は、

「取材当時も現在もこの地域で
核実験の放射能の危険地域だという認識はありません」??


というあきれた回答であった。

高田教授は、カザフスタン、ゼミパラチンスクの調査を過去、続け
そこで、カザフスタンとウイグルの国境の町での放射線被害を
実は、中国側の核実験の影響であることを調査。

旧ソ連の何倍もの威力の核実験を続け、
ウイグルの人々に核実験の事実を知らせず、健康被害を出し続けた
中国は健康調査も公開していない。

カザフスタンは、高田教授に依頼し
健康調査を実施し、被害の実態を明らかにしている。

今なお、隠ぺいし続ける中国の核実験の実態や被害を
一切、隠ぺいし、

この偏向報道を続けるNHKの姿勢は、許されない!!!



なぜ、中国の核実験のことを隠すのか。
NHKは、ウイグルやチベットや台湾の人々を
人間扱いしていない。
下記の下線の部分は、そのままこのように 
おきかえることができるのだ。

住民たちは核実験の事実を知らされず、健康被害が明らかになったあとも中国によって沈黙を余儀なくされた。そして実験は、30年間に渡って続けられた。実験場周辺では、今なお正常値の何十倍もの放射線が検出されている。核の脅威は、今なおウイグル(東トルキスタン)の人々の生活に静かに忍び寄っている



ハイビジョン特集 フロンティア
セミパラチンスク 18年後の現実 〜カザフスタン核実験場跡〜


BShi 8月10日(月) 午後8:00〜9:29
ザフスタン北東部のセミパラチンスクで、1949年から89年までに約500回の核実験が行われた。91年の実験場閉鎖から18年が経過したが、今なお放射能汚染の影響は続いている。
 核実験は、なぜセミパラチンスクで行われ、周辺に住む人々の暮らしや健康をどのように脅かしていったのか。番組は旧ソ連の原爆研究者や医師の証言をもとに、セミパラチンスクにおける核実験の歴史を辿る。住民たちは核実験の事実を知らされず、健康被害が明らかになったあとも旧ソ連によって沈黙を余儀なくされた。そして実験は、40年間に渡って続けられた。実験場周辺では、今なお正常値の10倍の放射線が検出されている。核の脅威は、今なおカザフスタンの人々の生活に静かに忍び寄っている。

カナダの制作会社、4 Square Productionsとの国際共同制作によるこのドキュメンタリーは、実験場周辺で最も被害が大きかったとされるサルジャール村を中心に、放射能汚染の実態を丹念に取材。被爆による重い健康被害を抱える人々の怒りと叫びに向き合い、核の恐怖と残酷さを明らかにしていく。
http://www.nhk.or.jp/bs/hvsp/


高田教授゛おっしゃるには

以前は旧ソ連に批判的だったけれど調査によって
旧ソ連の核実験と
中国の核実験を比べたところ・・・・

旧ソ連はまだまだ人道的、住民に配慮しているとさえ思えるぐらい
だそうですから

どれだけ中国の核実験がひどいかが わかると思います


2009-07-09 22:45 | 記事へ | コメント(1) | トラックバック(1) |
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★7.9発売週刊新潮 「シルクロード「核汚染」を隠蔽し続けるNHKの大罪」 
本日発売の週刊新潮7.16号に 4ページにわたって
札幌医科大学 高田 純  教授の 論文が
掲載されています。

高田教授、日本シルクロード科学倶楽部ブログより
http://junta21.blog.ocn.ne.jp/blog/



NHKシルクロード犯罪番組を斬る!!!

NHKの呆れた回答を斬る!!!

  NHKの反国民性を暴く!!!



週刊新潮7.16号(本日7.9発売)
http://www.shinchosha.co.jp/shukanshincho/newest/


【特別読物】

シルクロード「核汚染」を隠蔽し続けるNHKの大罪

札幌医科大学教授 高田 純


●チャンネル桜 放送ビデオ 「もうひとつのNHKの大罪」
http://junta21.blog.ocn.ne.jp/blog/2009/07/nhk_8f0b.html

2009-07-09 22:35 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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●教皇、麻生首相と会見
麻生首相とカトリック、ローマ法王 ベネディクト16世 教皇の
会見について、バチカン放送局、日本の各新聞が報道しています。


※写真 7日、バチカンで法王ベネディクト16世(中央右)と記念写真に納まる麻生 首相(同左)。左端は千賀子夫人(代表撮影・共同)





バチカン放送局
http://www.radiovaticana.org/gia/index.asp


教皇、麻生首相と会見、
経済危機やアフリカへの支援などが話題に



教皇ベネディクト16世は、日本の麻生太郎首相の訪問を受けられた。

主要国首脳会議のため7日にイタリア入りした麻生首相は、同日正午過ぎバチカン宮殿を訪れ、教皇との個人会談を持った。

両者の会談は和やかな雰囲気のもとに行なわれ、国際情勢について意見が交換される中で、特に経済危機問題や、日本と教皇庁のアフリカへの支援などが話題となった。

また、日本と教皇庁の友好関係や、教会と国家の協力についても言及された。

この後、麻生首相はバチカン国務長官タルチジオ・ベルトーネ枢機卿と外務局長ドミニク・マンベルティ大司教とも会見した。


*************************************************************

首相、ローマ法王と会談 「人類共通の問題解決へ協力したい」
2009年7月8日(水)08:05 産経新聞

 【ローマ=今堀守通】麻生太郎首相は7日未明(日本時間同日午前)、日本航空特別機でローマに到着、同日昼(日本時間同日夜)にはローマ法王ベネディクト16世(82)と法王庁(バチカン)で会談した。

 日本の首相と法王の会談は、平成11年の小渕恵三元首相と前法王ヨハネ・パウロ2世(いずれも故人)以来10年ぶりで、今回は麻生首相が要請して実現した。

首相は、祖父の故吉田茂元首相が歴代首相で初めて法王と会談したと述べた上で、「お会いできて光栄だ。11億人のカトリック信者を背景に、独自の外交力を有するバチカンと、国際情勢の安定や人類共通の問題の解決に向けて協力したい」と伝えた。

 法王は、カトリック教徒の首相との会談に「うれしい」と述べ、「日本が宗教に開かれていることは喜ばしい」と答えた。
また、3月にアフリカを訪問したことから、日本のアフリカ支援に期待を表明した。
首相にとって法王は会談相手であると同時に「精神的指導者」。「麻生降ろし」が激しくなり、心中は穏やかでない首相としては、神の「お導き」をいただいて心を静めたかったのかもしれない。

***********************************************************


ローマ法王ベネディクト16世(右)にビデオカメラを贈る麻生首相=AP

麻生首相:ローマ法王と会談 
法王宮殿内の図書室で


 【ローマ藤原章生】ローマ滞在中の麻生太郎首相は7日午後0時半(日本時間同日午後7時半)ごろ、バチカンのローマ法王ベネディクト16世を表敬訪問し約30分間会談した。

 会談は法王が暮らす法王宮殿内の図書室で行われた。カトリック信者でもある首相は、祖父の故吉田茂元首相が初めてローマ法王に会った首相と説明。その上で「独自の外交力を有する貴国と人類共通の問題の解決に向けて協力したい」と述べた。法王は「カトリック家系の麻生首相と会えてうれしい。日本社会が宗教に開かれていることは喜ばしい」と応じた。



 約25分の会談後、首相は法王に小型ビデオカメラを贈り、妻、千賀子さんや上野景文駐バチカン大使夫妻ら9人を紹介した。法王は首相にバチカンの記念コインを贈った。


*********************************************************

以前、カトリックの中で、敬虔な信徒から支持を得られず
認められてもいない ごく一部の左傾化団体である 
カトリック正義と平和協議会、さいたま谷司教が

政教分離の原則を持ちだして、麻生首相の伊勢神宮参拝を
批判していますが、
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/doc/cbcj/090109-2.htm
今回は、カトリックとしてどうコメントするのでしょうね
整合性がないとは、このことですね。

なくなればいいのに カトリック正平教なんて。


カトリック国、イタリアでのサミット前の
カトリッククリスチャン麻生首相 大歓迎ムードの中、

同時に
【ウイグル暴動】中国の胡錦濤国家主席がイタリアから緊急帰国 サミットを欠席

http://sankei.jp.msn.com/world/china/090708/chn0907080802003-n1.htm

現在、ウイグル人蜂起問題で、
このイタリアでのサミットから急きょ、中国の胡 錦濤が
出席を取りやめて、中国へ帰国。


これは日本の輝ける明るい未来と 
中国共産党にとっての崩壊、暗い未来を 予言、象徴するかのような
出来事だと私は思います



それにしてもビデオカメラをプレゼントだなんて、

さすが麻生首相。


バチカンの動画も you tubeで発信されたりしてますが
実は、教皇様は、携帯電話、インターネット、パソコン
新しいものが大好きで、 ipodで音楽を聞いておられるとか・・・

麻生首相も新しいモノ好きで、このあたりは
似たものどうしですね

余談ですが、教皇はスポーツもお好き
サッカーの大ファンで ドイツのバイエルン・ミュンヘンのファンクラブ会員でもあります。
来年のワールドカップも楽しみにされているでしょうね

麻生首相もスポーツがすきですから
このあたりも共通点が。
2009-07-09 04:32 | 記事へ | コメント(5) | トラックバック(0) |
| キリスト教 カトリック |
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【新疆ウイグル暴動】女性数百人 怒りの拳
ウイグル族による暴動が起きた中国新疆(しんきょう)ウイグル自治区ウルムチ市内で7月7日、多数の漢民族住民が暴動に抗議、鉄パイプやシャベルなどを持ちデモ行進した。数千人規模とみられ、一部が暴徒化し、ウイグル族が経営する多くの商店を壊し始めた。両民族が街頭で投石し合い、警官隊が催涙ガスで暴動を鎮圧しようとしているが、双方の対立は収まらず混乱は拡大。自治区当局はこの日、夜間の車での外出を禁止した。 関連記事 ウイグル族、数千人暴動 漢族に反感 … ウイグル暴動 漢族がウイグル族の商店… 記事本文の続き 新華社電によると、暴動の死者は7日朝までに156人となり、負傷者は1080人に上った。在外ウイグル人組織「世界ウイグル会議」(本部=ドイツ・ミュンヘン)は「840人が死亡した」と主張している。       ■□■  《ウルムチ 漢族も数千人デモで衝突》  中国当局は今回の暴動を独立派のウイグル亡命組織が計画・扇動したと結論づけた。これは昨年3月のチベット騒乱と同じ構図で、ウイグル亡命組織を「中国人民の敵」と位置づける狙いがある。だが、現地のウイグル族住民は「治安部隊がウイグル族に向かって発砲し殺害した」と憤りを強めており、共産党支配に対する抗議行動が各地に広がる可能性をはらんでいる ■「家族を帰せ」  「武装警察部隊は男を裸にし、首を足で踏みつけた。体に傷が少しでもあると暴動に参加したとして連行していったわ!」  ウルムチ市内南部。ウイグル族の女性数百人が泣きながら一斉に拳を振り上げた。怒りのあまり卒倒した中年女性もいた。周辺一帯で「300人ほどが連行された」という。  「60歳の女性も殴打された」「無事に家族を帰せ」と、デモ行進を始めた女性たちの抗議集団。数百人の武装警察部隊員が鎮圧用トラックや装甲車とともに待ち構える。  「やめろ! 鎮圧の口実に使われる」と、集団の中からデモ隊を制止する声が上がった。しかしデモ隊は武装警察部隊と“衝突”、女性たちは押し戻された。  これに対し、漢族数千人も「ウイグル族に攻撃された」とスコップや棒を手に市内をデモ行進した。現在、双方の民族は襲撃に備えて“自警団”を組織するなど、市内は緊迫した雰囲気に包まれている。 ■くすぶる漢族化への反発  「武装警察部隊は足に向かって発砲した。女性に対しても撃った」  死者156人とする当局。これに対し、「ありえない。数百人規模で死んだ」とウイグル族の男性たちは憤った。一方で「威嚇射撃だけだった」と証言する女性もいる。  死者の中に当局の発砲による死者がいるのかいないのかは不明だ。  「(今回の暴動は)民族問題でも宗教問題でもなく、祖国分裂を目的としたものだ」  ウルムチ市当局は7日、記者会見を開き、何度も強調した。亡命ウイグル人組織を束ねる「世界ウイグル会議」が今回の暴動を計画し組織し扇動したという。  石油、天然ガスが豊富に埋蔵する新疆は中国経済の「生命線」だ。そして分離独立派との戦いの最前線でもある。  当局は今後、ウイグル独立派組織の一掃に乗り出すのは確実とみられる。  しかし、自治区内で進む「漢族化」と当局の締め付けに対するウイグル族の怒りは、火山のマグマのようにうねり続けている。  (ウルムチ 野口東秀/SANKEI EXPRESS)
2009-07-09 02:12 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(1) |
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2009年07月08日(水)
◆【高田純】もう一つの「NHKの大罪」[H21/7/7]〜ウイグルへの核被害
「日本シルクロード科学倶楽部」会長 札幌医科大学教授 高田純博士が、チャンネル桜にご出演されました NHK偏向報道問題についての報道ですが、ここで現在、中国からの弾圧がニュースになっているウイグルでの 以前の核実験による19万人死亡の被害について、詳しい解説があります。ウイグルの今回のデモ弾圧の事件の根底には、この問題も強く関わっているのです。 sakuraTV概要 東トルキスタンなどの周辺諸国の人々と環境に深刻な災禍をもたらせている核実験の暴虐 と、その被害を隠蔽したままシルクロードへのロマンをかき立てる番組を製作・放映して きた「NHKの大罪」、そしてそれに疑義を呈した公開質問状をめぐるNHKの対応など についてお聞きしていきます。 1/2【高田純】もう一つの「NHKの大罪」[H21/7/7] ************************************************** 2/2【高田純】もう一つの「NHKの大罪」[H21/7/7] 高田教授のプロジェクト支援のため、高田教授の正義の戦いにともに参加、勉強したい方は、ぜひ日本シルクロード科学倶楽部へご入会下さい。入会申し込みはこちらの「入会案内」をご覧ください。 よろしくお願いいたします。日本シルクロード科学倶楽部副会長おつるより http://www15.ocn.ne.jp/~jungata/SilkRoadJpScCb1Jp.html 入会についてはこちらへ↓ silkroad.science.club@gmail.com 
2009-07-08 00:10 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2009年07月07日(火)
2009年7月5日 ウルムチで何があったのか?! ウルムチの悲劇 その5 
高田教授 日本シルクロード科学倶楽部ブログより http://junta21.blog.ocn.ne.jp/blog/


次のラジオ・フリーウイーグル・ジャパンの

動画をご覧ください。



http://www.nicovideo.jp/watch/sm7555812


http://rfuj.net/main.php/


2009-07-07 01:12 | 記事へ | コメント(9) | トラックバック(1) |
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世界ウイグル会議 東トルキスタンで発生した虐殺事件に関 する声明 ウルムチの悲劇
高田教授 日本シルクロード科学倶楽部ブログより http://junta21.blog.ocn.ne.jp/blog/

世界ウイグル会議 東トルキスタンで発生した虐殺事件に関 する声明 ウルムチの悲劇 その4
 



シルクロードでの中国の蛮行は見逃せない

 危険な隣国の本性を見る

日本ウイグル協会HPより

http://uyghur-j.org/news_20090706.html


世界ウイグル会議


「東トルキスタンで発生した虐殺事件に関する声明」


中国共産党政府がウイグル人に対して行ってきた民族的差別や抑圧、そして同化政策などの結果、ウイグル地区から沿岸部の広東省のおもちゃ工場に強制移送されてきたウイグル人たちは同工場の漢民族従業員たちにより虐殺される事件が発生した。この事件で60名近くのウイグル人が殺され、100名を超えるウイグル人が重傷などを負った。

そして今日7月5日、広東省で発生した悲惨な虐殺事件、そして長く続いてきたウイグル人に対する民族的虐殺に抗議するため、ウイグル民族がウルムチの中心地4か所に集まり計1万人が参加し、平和的なデモで自らの不満を表した。しかしこのデモは多数の警察、軍や車両の出動で武力的鎮圧を受けた。

世界ウイグル会議が直接現地から入手した情報によると、この武力鎮圧で死亡した人は100人を超え、多数が負傷した。この中で幼い子供や女性もいた。

酷いのは、ウルムチの人民広場、南門、ラビヤ・カーディルデパートの前、延安路、陶器工場前などのいずれのデモ場所も一律悲惨な虐殺を受けた。軍の車両下で踏み殺された。軍・警察の銃で殺された。暴力で殺された・・・・・

我々の把握した情報では、すでに逮捕された人は1500人を超える。全ウイグル地区ですでに軍事態勢が敷かれている。一方、ウイグルのアクス県でも7月5日の夜からデモが始まっていることが分かった。カシュガルで起こっているデモについてはまだはっきりとした情報を入手していない。

世界ウイグル会議としては、全世界の民主主義国家や国民、人権団体などがこの事件に緊急な対応を取り、ウイグルで中国軍や警察などに虐殺されているウイグル民族を助けるよう促す。国連やNATOなどが関与し、検察団を派遣し、平和秩序を守り、冷静に対応し、今でも虐殺が続いているウイグル民族を一刻も早く鎮圧軍から守るよう呼び掛ける。

2009年7月6日

※翻訳 イリハム・マハムティ



















2009-07-07 01:07 | 記事へ | コメント(2) | トラックバック(0) |
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ウルムチの悲劇 その3
高田教授 日本シルクロード科学倶楽部ブログより http://junta21.blog.ocn.ne.jp/blog/



ウルムチの悲劇


東トルキスタン 

= 21世紀の今 世界最悪の悲劇に見舞われている人々


総威力22メガトンの核を、中共が使用

19万人以上 75万人を虐殺


 生存者に白血病、肺がん、奇形など多発


恐怖政治の横行


警察権力による人権運動の圧殺・処刑


【7月6日 AFP】中国・新疆ウイグル自治区(Xinjiang Uighur Autonomous Region)の公安当局は、区都ウルムチ(Urumqi)で発生した暴動にからみ、「暴動を扇動した主要人物10人以上を含む、参加者数百人を逮捕した」と発表した。6日の新華社(Xinhua)通信が6日報じた。警察はウルムチで依然、関与した約90人を追跡しているという。



 また、新華社によると、暴動での死者数は少なくとも140人、負傷者は800人以上に上っており、この数十年で最悪の暴動となった。死者数は今後、増える可能性が高いという。








2009-07-07 01:04 | 記事へ | コメント(1) | トラックバック(0) |
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中国警察によるウルムチでの人権弾圧か!?
高田教授 日本シルクロード科学倶楽部ブログより http://junta21.blog.ocn.ne.jp/blog/ 中国警察によるウルムチでの人権弾圧か!? 日本ウイグル協会はウェブサイトで 「武力鎮圧で死亡した人は100人を超え、多数が負傷した。 幼い子供や女性もいた。逮捕された人は1500人を超える」 とする「世界ウイグル会議」の声明を公表した 日本ウイグル協会 http://uyghur-j.org/news.html 在米ウイグル協会 http://www.uyghuramerican.org//articles/3103/1/Protest-in-Urumchi-violently-suppressed-by-Chinese-government-forces/index.html
2009-07-07 00:59 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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◆警官隊がウイグル人デモ隊に無差別発砲 
高田教授 日本シルクロード科学倶楽部HPより
http://junta21.blog.ocn.ne.jp/blog/


警官隊がウイグル人デモ隊に無差別発砲か




新聞報道によれば、東トルキスタンで、中国政府の危険な人権弾圧と思われる事件が発生しています。
以下は、世界ウイグル会議からの情報です。

警官隊がウイグル人デモ隊に無差別発砲か、新疆ウイグル自治区

- Monday, July 06, 2009

2009年07月06日 09:57 発信地:ワシントンD.C./米国

【7月6日 AFP】中国・新疆ウイグル自治区ウルムチ(Urumqi)で5日、暴徒が警察と衝突したとされる件で、在米ウイグル人協会(Uighur American Association)の指導者アリム・セイトフ(Alim Seytoff)氏は同日、中国警察がウイグル人抗議デモ参加者に無差別に発砲したと語った。同氏によると、死者の数は中国当局が発表した3人を上回る可能性があるという。

 セイトフ氏は、ウルムチではウイグル人学生が平和的に抗議活動を行っていたとし、抗議デモ参加者が漢民族の住民を襲撃したとする中国政府の主張に強く異議を唱えた。
 同氏によると、新疆大学(Xinjiang University)の学生らは、前月中国南部でウイグル人2人が死亡した民族間のけんかの容疑者を逮捕することを求めていたという。

 在米ウイグル人協会は、警察による激しい鎮圧のもようを撮影した写真や動画共有サイト「ユーチューブ(YouTube)」に投稿された動画を公開した。鎮圧には1000人の武装警察官が投入されたという。


 動画には、多数の人が通りをスローガンを叫びながら行進する様子や自動車がクラクションを鳴らしている様子が映されているほか、建物から煙があがり、銃声のような音が聞こえる場面もあった。一方、写真には暗い通りに横たわる6人の遺体や地面に横たわる3人の人びとや頭部から血を流す男性の姿が撮影されていた。


 セイエフ氏に現地のウイグル人住民の話として、中国当局が市内の一部の照明を消しているほか、学生寮などを捜索し、デモ参加者を拘束していることを明らかにした。

(c)AFP

http://www.afpbb.com/article/war-unrest/2618375/4335936




















2009-07-07 00:53 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2009年07月06日(月)
7/7 チャンネル桜に 札幌医科大学教授 高田純博士が出演
7/7 チャンネル桜に 札幌医科大学教授 高田純博士が出演

NHKもうひとつの大罪 チャンネル桜ゲストコーナー収録

 チャンネル桜ゲストコーナー・キャスター三輪和雄氏で、

「もうひとつのNHKの大罪」にJ博士が出演し、

中国の核の蛮行、シルクロード犯罪番組、

NHK会長への公開質問状の顛末について語りました。

呆れた回答に、ふたりとも怒る。

8.6広島田母神講演会にも言及。

放送は、来週火曜7.7の予定


チャンネル桜ホームページ

http://www.ch-sakura.jp/
2009-07-06 23:59 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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★6/27 大阪NHK 抗議デモの動画欲しい方♪ burenoさんの販売です
今日、動画撮影の天才 burenoさんのDVDが届きました。
とってもDVDのデザインが綺麗

もし欲しい方は下記に直接メールされるか
おつるブログにコメントでおねがいしまーーーーす。

非公開コメントでも結構です

*********************************************************




◆bureno.VGA :2009/07/02(木)

ttp://www.geocities.jp/burenovga/D627/DVDR1.jpg

【第3弾 NHK抗議運動 in 大阪】のDVD出来ました。

欲しい方は、burenovga@gmail.comまで、
送り先住所をメール下さい。
送料込みで1枚500円〜です。

(500円以上ならいくらでも大歓迎です!)

袋にUFJ銀行の口座を書いておきますので、
中身を確認してから送金して下さい。
UFJに口座が無く、手数料がもったいない場合は、
次回のデモの時でもOKです。

記録ディスクは、
森メディアにしようと思ったのですが、
傷に強いTDKの超硬にしました。

2009-07-06 23:48 | 記事へ | コメント(3) | トラックバック(0) |
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7/7麻生総理バチカン訪問
7/7麻生総理バチカン訪問


フランチェスコさんに教えていただきましたが

麻生総理のバチカン訪問が、ローマのカトリックサイトに紹介されています。
http://www.zenit.org/article-26314?l=english


Japanese Prime Minister to Visit Vatican


VATICAN CITY, JUNE 28, 2009 (Zenit.org).- Benedict XVI will receive in audience the prime minister of Japan next month, which will be the second high-level meeting between the Vatican and the Asian country this year.

The Union of Catholic Asian News revealed Friday that Japan's Catholic prime minister, Taro Aso, will visit the Vatican on July 7, the day before the opening of the Group of Eight Summit in L'Aquila, Italy.

Last March, Archbishop Dominique Mamberti, the Vatican's foreign secretary, became the first Vatican top diplomat to make an official visit to Japan in the 67-year-history of bilateral relations, which were established in 1942.

Japan's ambassador to the Holy See, Kagefumi Ueno, told ZENIT last week that Archbishop Mamberti's 6-day visit "assisted in shortening a sense of distance existing between the two countries."

The last Japanese prime minister to visit the Vatican was former Prime Minister Keizo Obuchi, who visited Pope John Paul II in 1999.

There are 1 million Catholics living in Japan, out of a total population of 127 million.


ひとりごと・・・・

ところで、7月4日に計7発も日本海に向けて北朝鮮ミサイルが発射されましたが、
カトリック正平教
また「事務局長名笑」の抗議はまだかな。

また麻生総理宛てに出すのか???

そして 

憲法20条がどうのこうのって言ってますが

小泉首相の靖国参拝に反対したように

麻生総理のバチカン訪問は 抗議するの??

矛盾だらけの カトリック正平教〜〜〜 ♪

憲法9条で平和だなんて嘘ばっかりーー♪ ミサイルどんどん飛んできてるやん
武者小路公秀氏は、金正日賛美だそうですが、日本へのミサイルも賛美してるのかな。

2009-07-06 03:57 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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多田神社で お宮参り
今日は、あーちゃんのお宮参り



カトリックのクリスチャンのわたしだけれど
多田神社は大好きな神社

多田神社ホームページ
http://www.tadajinjya.or.jp/top.html
東京にも分社があるそうで徳川家も祀られているそうです。



そして遠い御先祖様の祀られている神社

あーちゃんのママ、パパと
パパのご実家は クリスチャンではないので

日本人としては、お宮参りは自然なこと。

 まずは あーちゃんに可愛いベビードレスと靴下を着せて
あーちゃんママには着物を着せて

多田神社へ


手を清めて、御参りの受付へ

御宮参りにはいろいろと日本のしきたりがあります。
ま赤ちんの着物を用意するのは 母方の実家

赤ちゃんの着物は、娘が着て、七五三にも着せたものを
もう一度 縫い直して用意しました。

神殿に入る前には 赤ちゃんを パパのお母様が抱っこ
そして 赤いおべべを着せて
お母様がことづかってこられた【紐銭】をたくさんぶら下げて

ピンクの可愛い帽子とよだれかけを着せました。

神官は若い方でしたが
【紐銭】のつけ方や 赤ちゃんのおでこに母親の口紅で
女の子は小と書くと 丁寧に教えてくださいました。

神殿にあがり、正面にお母様をはさんで パパ、ママ

そして私たちは後ろの席で、お参りです。

静かで時折 鳥の声がする森

そこに厳かな祈りの声が響いて とても感動しました。

赤ちゃんのパパが代表で 榊を供えました。

あーちゃんは、静かに寝ていましたが
なぜか、急におお泣き。


実は、このときに赤ちゃんが泣くといいと言われています。

御先祖様が赤ちゃんに会いに来てくれるのかな・・・

記念撮影は神官の方が撮影してくださいました。

無事にお参りが終わりました。

暑い中でしたが、何組か他にも お宮参りのご家族が
来られていました。

中には、ヨーロッパの外人の方も赤ちゃんを連れて
御参りされていました。

みんな笑顔で 無事一か月を迎えたことを幸せに思います。

今度は、カトリック教会の神父様にも
祝福をしていただきに行こうと思っています。

仲睦まじい パパとママ
若いけれど、しっり子育て頑張っています。


その後は、かぐらざかという お料理やさんへ
http://www.kagurazaka.cc/

とっても美味しいお料理で、お話もはずんで
なんと2時間半も過ごしてしまいました。


ここでも仲良し夫婦



うれしそうなジーニー



幸せいっぱいの一日でした

ジャンヌダルクの記念日に生まれ、
龍を退治した 源満仲と 
酒呑童子という鬼を退治した 源 頼光さんの

勝利の神様の神社で 御宮参りをした あーちゃんは

とっても強くたくましい大和ナデシコになりそうです








2009-07-06 02:31 | 記事へ | コメント(6) | トラックバック(0) |
| おつるの日常 / 神道・古神道 / 多田神社  |
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おつるの土曜日 教会と サッカー
土曜日は、朝から車を飛ばして カトリック箕面教会へ

地区のお掃除当番です。

少し遅れて到着すると、早くから来られている
先輩女性信徒さんたちがもうほとんど お掃除を済ませておられました。

おつるは、少しだけ残りの部分をお手伝いして

そのあと、地区長会議のご報告ミーティング。

今期も地区長に推薦されて、他になられる方がいなくて
お引き受けしました。

でも、おつるは、名前だけの「地区長」で

日曜日以外は教会に行けないし、日曜日も用事で行けないことも
ありますし、お掃除やミサのためのお花の準備や
信徒会館の飲み物などの用意や バザー、連絡網など

何もかも 同じ地区の先輩女性の方々が すごく優しくて

「あなたは、仕事もして忙しいから名前だけでいいのよ」とみんなで
してくださるのです。

とても申し訳ないのと同時に感謝でいっぱいです。

いつも笑顔で、優しくて思いやりがあって明るくて
教会のために、もくもくと掃除や花壇の手入れなどを
して下さったり、私ができないことを、いつも助けて下さる。

平日にお葬式などがあってもいけない私ですが
いつも オルガンを弾きに駆けつけたり
私が休みの時は、聖歌隊の練習でいつもオルガンを弾いてくださる方

そういう方々が支えて下さることに感謝。
幸せです。 とても恵まれていると思います。

うちの教会の先輩女性信徒さんたちは、品格があって
綺麗で、お洒落で心も見た目も美しい。
御掃除のあと、一緒にお茶とお菓子でおしゃべりして
とても楽しくて幸せに思えました。

私はクリスチャンになってよかったなと思うことのひとつに
この尊敬する女性たちとの出会いがあります。
ロザリオの昔の「めでたし〜」の言葉がすきとおっしゃる方も多く
聖歌隊のラテン語やグレゴリオ聖歌にいつもほめて下さったり
私のつたないオルガンをほめて下さったり

わたしはカトリック箕面教会が大好きです。

************************************************************

その後、いったん家に戻り
チャーハンを作って家族に食べさせて〜 
サッカートレーニングの半そで 半ズボンに着替えて

神戸のサッカー練習へ

久しぶりに練習です。 

今日は、人数が少ないので みっちり監督のもとで
パスまわしと シュート練習

ボレーシュートもたくさん練習しました。

監督が優しくて、ほめてもらえてうれしい♪

いっぱいいっぱい シュート練習で思いきり ボールをけると
嫌なことなんか ボールと一緒に飛んでいくーーーーーーー

そして大好きな先輩のキャプテンややぶちゃん
そしてチームのみんなと笑顔で 
暑い暑い中で 汗びっしょりいて幸せ♪

世の中の イライラした人たち
心が暗くなっている人たち みんなみんなサッカーとか
スポーツで汗流すと元気になるよ。

汗いっぱいかいて、まっ黒に日焼けして
気持ちいー         カ・イ・カ・ン♪

そして帰宅後のビールは 最高ーーーーーー


今月は、7/12(日)が兵庫県リーグ
 
    7/19(日)が関西大会 26(日)関西大会決勝
     (超強い 京都バクティさんがやってくるー)


そのため教会はしばらくお休みします。
ごめんなさい。

勝利めざして がんばろうーーーーーーーーーー


********************************************************

カトリック箕面教会の女性
サッカーチームの女性

大好きです。 かっこいいです。








2009-07-06 01:07 | 記事へ | コメント(2) | トラックバック(0) |
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2009年07月04日(土)
阪神大震災時のNHKはどうだったのか・・・自衛隊復興支援動画
私は、大阪のNHK抗議活動に参加していますが、 実は兵庫県民です。 そして私の住む場所は、陸上自衛隊伊丹に近く、子供の頃からの 自衛隊ファンです。 そして阪神大震災では、恩師の先生のお嬢様が亡くなられ 何度かその激震地であった亡くなられた場に おまいりさせていただきました。 ふと、NHKの阪神大震災時の時の報道姿勢はどうだったのか・・・ 兵庫県民としてとても気になりました。 私はこの自衛隊さんの阪神大震災復興支援の動画を見て 泣きました。 こういうことをNHKは報道すべきです。 1995年阪神淡路大震災復興支援。別れを惜しむ自衛隊員と被災者達。 調べてみると、こんな声が・・・・・ 「阪神淡路大震災当時、NHKの連中がタクシーを独占、強引な 取材繰り返して現地で顰蹙買ってた」 「自衛隊による被災者の救援活動は一瞬たりとも放送しなかったのもNHKだ」 「NHKは黒塗りの車で乗り付けて取材と称して、救助活動を邪魔したことも有名」 「阪神大震災の被災者だったが、メディアの横暴ぶりは滅茶苦茶。 特に群を抜いていたのがNHK。」 「黒塗りのハイヤーで徘徊し、同情する振りをしながら、自分らは高級弁当を 食いながら、放送時以外は被災民を罵倒する始末。」 「NHK。。。自衛隊の人たちと口論してる。。道路の真ん中にいてカメラうつしてるんだもの。」 やっぱりNHKの報道姿勢は、あの当時も今もおかしいのね。 *********************************************** 参考:●「災害報道」http://www.lcv.ne.jp/~kobamasa/saigaihoudou.htm ●「NHKの実態」http://www.lcv.ne.jp/~kobamasa/index.htm *********************************************************************以下、チャンネル桜HPより http://www.ch-sakura.jp/topix/1054.html 【原告募集!】 NHK集団訴訟 「訴訟委任状」提出のお願い              − 引き続き、第二次原告募集中! ※ 第二次・原告募集の受付は、総原告数1万人を目途に締め切らせていただく予定です
2009-07-04 01:08 | 記事へ | コメント(10) | トラックバック(1) |
| 台湾 NHK抗議 / 自衛隊 |
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2009年07月03日(金)
6月26日中国広東省で起きたウイグル人労働者襲撃事件
一人の漢人が失業した腹いせにネットにデマを流したことで、 漢民族がウイグル人を襲撃 し大規模な衝突事件に発展。 事件が起きたのは2009年6月26日未明、中国広東省に ある玩具工場。 工場ではウイグル地域から強制連行されたウイグル人労働者が 働かされて いた。 ウイグル人、81人、漢人、39人が負傷。 2人のウイグル人が死亡。 ネット上の 映像では警察が衝突を止める様子はない。 事件後、ウイグル人労働者600人全員が警察 によって工場から 別の場所に移送され行方不明。 これまでの報道は死傷者のほとんどが ウイグル人であることを証明している。 今回の衝突の原因が何であろうが、政権の強制力によって東トルキス タンから中国本土に強制的に移送されている ウイグル人労働者たちが移送先で大漢族主義の犠牲になり、 集団虐殺の対象になっていることは証明された。 中国政府はウイグル族に対する民族同化・浄化・抹殺を加速させる目的で、 2003年以来東トルキスタンから数十万人ものの若いウイグル人(大多数が若い未婚女性)を 計画的・組織的に中国本土に強制連行している。 中国政府のこの悪質的な政策は、 ウイグルの祖国東トルキスタン国内外のウイグル人の反発を呼んでいる
2009-07-03 01:36 | 記事へ | コメント(2) | トラックバック(1) |
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【特別号】 陸軍史あちらこちら−(18)森鴎外は脚気(かっけ)蔓延の戦犯か?
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【特別号】 陸軍史あちらこちら−(18)              荒木肇
『森鴎外は脚気(かっけ)蔓延の戦犯か?』−上−
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▼結核にならぶ国民病「脚気」

 国民病だった「脚気(かっけ)」。
 昭和30年代の終わりまで、健康診断といえば、足をぶらぶらさせて膝の下を叩かれました。軟らかいゴムがついたお医者さん用の道具があったのです。ぴょこんと足先が反応しなかったら脚気。いまはほとんど見られなくなりました。

 脚気の原因はビタミンB1の摂取不足でした。わが国ではすでに平安時代の文学にも登場します。「落窪(おちくぼ)物語」には『カクビヤウいたはりて』とか、「枕草紙(まくらのそうし)」にも『アシノケののぼりたるここちす』などとあります。『キヤクキ』と書かれているのが脚気です。当時の上流階級は、今と変わりない精米を食べていました。その代わり、副食が実に粗末でした。仏教を信じれば、肉食はできません。貴族の間ではこの病気はたいへんなじみ深いものだったのです。

 症状はまず、向こうずねのむくみから始まりました。脚の感覚がにぶくなる。ふらつくようになって、少し動くと、動悸がします。これが進むと息切れが始まり、ついには起きあがれなくなる。突然、重体になって、心臓麻痺になって死んでしまうこともある。
 徳川将軍たちも、この病にかかったことが知られています。3代家光、13代家定(篤姫のご主人)、14代家茂も大坂へ下って同じ症状、脚気衝心(しょうしん)で急死しました。

 対症療法は麦を食べることだったそうです。江戸や大坂、京都の町人たちも、この病気に苦しめられていました。ただ、田舎から奉公にきた若者や、武家屋敷に働く地方出身の若い人たちがかかることが多かった。「江戸わずらい」などと言われ、故郷へ帰ると不思議に回復したといいます。
 漢方医たちは経験的にそのことを知っていて、主食に注目しました。白い米を食べさせず、麦や雑穀を与えます。すると、たちまち健康は取り戻せたのでした。

 文明開化の世の中で、脚気にもっとも苦しめられたのは陸海軍でした。すでに明治3(1870)年ころから脚気は世間に流行し始めていました。そうです。不思議なことに脚気は流行もしました。しかも、発生は夏に激しく、冬はあまり目立ちません。

 海軍は1875(明治8)年、江華島(こうかとう)事件で朝鮮軍と砲火を交えました。このとき、わが軍艦雲揚(うんよう)の艦上では恐ろしい事態が起きていたのです。乗員の大部分が脚気の症状を見せていたのでした。健康だったのは士官たちと、一部の下士官兵のみ。陸戦隊を編成するのも大変だったようです。


▼陸軍の兵食改正の挫折(ざせつ)

 陸軍の悲劇は西南の役(明治10年/1877年)のことでした。熊本城にこもった鎮台兵たちに脚気が発生しました。城内の病死者75人中、脚気が7人でした。この病気は死亡率が案外低く、ふつうは1〜2%であることから考えると、数百人が脚気患者だったのだろうと研究者は言っています。
 その頃、陸軍は平時でも毎年、兵員総数の30〜40%の脚気患者を出し、死者も2%から3%が報告されていました。

 では、陸軍は何の手も打っていなかったのでしょうか? いいえ、軍医たちは懸命になって、原因を考え、治療をし、対策を考えていたのでした。しかし、なかなか有効な手が見つかりません。陸軍は伝染病だと考えて、さまざまな衛生対策をとりました。
 兵舎を清潔にする、訓練を涼しいうちに行う、室内では泥靴を禁じ、腰かけると「むくみ」が出やすくなるのであぐらをかかせるなどです。できるだけ滋養の高い物を食べさせる、そういった対策もとっていました(ただし、抵抗力をつけようという発想で、脚気そのものの対策ではない)。

 ビタミンの発見は20世紀になってからです。当時は、栄養素といえば、脂肪、タンパク質、炭水化物しか知られず、あとは塩くらいでした。
 1873(明治6)年の兵食規定によれば、下士官・兵卒の区別なく、1日白米6合、賄い料は6銭6厘となっています。その6銭6厘で牛肉24匁(90グラム:2銭2厘)、魚菜(2銭4厘)を中心に、ミソ、漬け物、醤油、茶、かつお節、薪(まき)代などをまかなうわけです。これでは、とても栄養たっぷりの副食など望めません。

 医学史学者の山下政三氏は、『軍中枢で決定した白米飯と副食を、軍の付属機関にすぎない軍医部が勝手に変更することなど、できる道理はなかったのである』と書かれています。
 そうです。軍医はたしかに軍人ですが、軍の官僚としては、その地位は低く、発言権もあまり大きいものではありませんでした。よく、森鴎外なども軍医中将といわれ、その官階の高さや地位から軍内での地位が高かったかのような誤解があります。でも、旧軍の軍医は「将校相当官」といわれ、軍隊指揮権をもつ「兵科将校」とは一線を画される存在でした。

 陸軍軍医部は、手をこまねいていたとか、怠慢だったとかの批判を受けています。森鴎外などは日清・日露の戦争での脚気患者をつくり出した「戦犯」のようにいわれています。しかし、それは、現在の知識で見た偏見と、当時の軍制をよく知らない誤解のせいであると思います。少なくとも、1882(明治15)年の軍医部の「兵食改善の上申」を握りつぶしたのは当時の軍中枢にいた人たちでした。

 鴎外の東京大学医学部の同期生である小池正直は当時、大阪陸軍病院に勤務していました。彼は、次のように兵食の改良について述べています(山下氏の著作『鴎外森林太郎と脚気論争』による)。
『人は1日に少なくとも120グラムのタンパク質と、420グラムの無窒素物(炭水化物と脂肪)をとる必要がある。しかも、比例が大切で窒素と炭素は1:13、もしくは15。タンパク質と無窒素物の比率は1:4ないしは5が標準になる。英・仏・独・オーストリア・アメリカの兵卒の食糧をみると、タンパク質が120〜160グラム、タンパク質と無窒素物の比例はおおよそ1:5以上になっている。だから、わが国の兵卒の食糧も同じようにする必要がある。
 米の分析表を見ると、精米6合のタンパク質は約63グラム。無窒素物は703グラムあまりで比例は1:11.16である。これはバランスが悪い』

 この後、精米6合はどうにも問題だとしています。パンにしろという人もいるが、これはたわごと。米の脂肪とタンパク質の不足は魚と植物で補うのがよい。牛肉は高価な上、嫌がる者もいる。そこで、魚と安い豆腐でこれに代えよう。魚を200グラム、豆腐を500グラム支給すれば、各国の兵食の比例に等しくなるし、養分はかえって良くなる。

 実にまともな意見ではありませんか。この意見は、陸軍軍医本部長松本順の名前で中枢部に提出されますが、握りつぶされてしまいます。
 これは予算の面もあったでしょう。当時、西南戦争の後始末で、国家財政、ひいては陸軍予算も切りつめられていました。陸軍の兵員は4万名あまり。食事のことにまで気が回らないというのが本当だったのでしょう。


▼海軍の高木軍医、兵食の栄養不足に注目

 これに対して、海軍は高木兼寛(たかき・かねひろ)という軍医が、食事の改善こそがただ一つの脚気対策であると主張し、大きな成果をあげました。高木は和食を捨て、洋食を食べさせる。そうすれば、留学先のイギリス海軍のように脚気は発生しないと主張しました。

 高木海軍軍医総監は渡辺淳一氏の著作『白い航跡』で広く知られています。のちに男爵を授けられ(1905年)、人々は「麦飯男爵」というあだ名で呼びました。慈恵会医科大学の創設者でもあります。
 1849(嘉永2)年、宮崎県生まれです。生家は島津家の下級武士といいますから郷士身分だと思われます。父親は近在では知られた大工でした。兼寛は幼い頃から、学ぶことが好きで、オランダ医学を石神良策(薩摩藩士:海軍軍医制度の創設者)に師事し、戊辰戦争では野戦に官軍の軍医として出征しました。

 1872(明治5)年に石神に誘われ海軍軍医になり、1875(明治8)年にはロンドンのセント・トーマス医学校に留学。最優等の成績で卒業、1880(明治13)年に帰国します。高木が学んだのはイギリス医学の現場実践を重んじる姿勢でした。
 高木は帰国早々、脚気対策に取り組みます。そこで彼が目をつけたのは下士官・兵員の食事でした。長い英国生活で、もっとも気になっていたのが日本人の食生活だったのです。

「銀シャリ(白米)を腹一杯食べる」、これが江戸時代の都会生活の魅力でした。明治になっても陸海軍に入営、入団した兵士たちにとっては、白米を食べることが最高の幸せでした。米ばなれをした現代の我々からは想像もしにくいことですが、当時の人は米で栄養のほとんどを摂っていたのです。兵の食料は1日、精米6合(900グラム)とされていました。茶碗にして10杯以上です。副食は漬け物や、野菜の煮付け、時たまに魚というところでしょう。それに塩辛いみそ汁くらいです。

 高木は食事の中味の改善を考えました。目をつけたのは炭水化物とタンパク質の比率です。イギリス陸海軍ばかりでなく、ヨーロッパには脚気はありません。彼は、その比率を肉食中心の洋食は5:1、それに対して和食は28:1にもなるというのです。そこで、高木はパン、ビスケットと肉を支給してみることにしました。すると、どうでしょう。みごとに、脚気患者は激減したのです。

 実は、当時の海軍は「無標準金給時代」といわれていました。かんたんに言えば、みんなに現金を渡し、何を食べてもよいとしていたのです。1880(明治13)年の規定では、艦船乗組者は1日18銭、陸上部隊では15銭でした。
 航海中は少し増額されました。同じく30銭、外国への航海中は36銭です。当時の物価をみると、盛りそばが1銭から8厘。牛肉が100グラム3銭。鶏卵は高価でした、約400グラムで10銭とあります。牛肉の大和煮や鮭の水煮の缶詰が1個23銭でした。白米はどうだったかというと、10キログラムで70銭ほど。陸軍とおなじように1日6合を食べたら、米代だけで6銭から7銭になります。

 高木は調べました。水兵たちの食生活を。すると、彼らは食費を切りつめて、1日8銭ていどに抑えていました。差額をためて、家族に送っていたのです。そうしたことは美談にもなっていました。男子が食い物のことを言うなんて……という時代でもありました。

 士官たちは違っていました。食卓料として支給されていたのは1日40銭でしたが、それ以上に自分たちの給料の中から金を出し合ってコックも雇い、なかなかの美食をとっていました。イギリス海軍を師匠として、その貴族性を学んでいたのです。外国人とのつき合いにも会食は欠かせません。
艦長ともなれば身分は上長官(佐官)、1日80銭の支給でした。これでは、艦長以下、士官たちに脚気が出るわけもありません。ちなみに将官は1円20銭。


▼高木海軍軍医の改革成功する

 高木は陸軍軍医たちの挫折を横目に、思い切った改革を始めます。
 それは壬午事変(1882年)がきっかけになりました。清国海軍と朝鮮の仁川(インチョン)湾でにらみ合ったわが軍艦の兵員の多くが脚気に倒れてしまったのです。金剛・日進・比叡・清輝の各艦では、ほとんど戦闘力なしという状態にもなりました。
 その数カ月後にも、オーストラリアへ遠洋航海をした「軍艦筑波」は乗り組み333人中、脚気患者88名を生み、うち5名が死亡して帰国しました。さらに同じ年の年末に出航した練習艦「龍驤(りゅうじょう)」は271日間の外国訪問航海で乗員376名中169名が発症(約45%)、うち25名(約14.8%)が死ぬという悲劇を起こしました。

 部内での軍医の発言力の低さは海軍も変わりません。高木はこのころ、医務局の副長でしたが、医務局長名で海軍卿に上申書を出します。
 その内容は、『栄養が悪いから脚気にかかる。早く食事を改善したいが、経費の関係もあろう。そこで3隻を選んで3年間、西洋食を食べさせるようにしたい。他の諸艦船では規定の食卓料で食事を作り支給するように』というものです。ところが、将官会議でやはり、『いずれ、実施しよう。それまでに東京海軍病院で少数の患者に実験するがいい』とされてしまいました。

 医務局は海軍病院で改革案を実行します。結果は、パン、ビスケット、肉類はけっこう食べられた。健康も増進しました。ところが、ネックは経費です。なんと、港内食(洋上ではない)は1日33銭1厘にも、航海食は39銭1厘となってしまいました。

 ここで高木は大ばくち、しかも自らの命をかけた賭けに出ます。天皇に拝謁して、上奏したのです。伝記を読んでも、彼が必死だったことが分かります。まず、脚気の原因は食事内容にあると陛下に断言しました。ドイツ医学が主流だった東大医学部、陸軍軍医上層部の脚気伝染病説を完全に否定したのです。

 この頃(明治16年)の政府歳入は8,310.6万円、歳出は8,103万円。海軍省の歳出経常部は308万円です。国家予算のうち、約3.8%にあたります。
海軍の兵員数は5,346人。およそ1日1人あたり33銭として、約64万4千円あまりが年間の食費になります。全経費の20.9%が食費でしめられてしまう。これは、たいへんなことでした。高木軍医大監(大佐相当官)は少し強引なのではないか、そういう批判もあったようです。また、海軍部内でも、お雇い外国人であるアンダーソン医師も伝染病説をとっていました。

 しかし、高木の熱意に動かされた最大の存在は明治大帝でした。
 さっそくに高木の構想は実現化され、1884(明治17)年2月から海軍は食品を指定した現食給与に変わります。軍艦筑波は高木がつくった献立表をもって2月3日、品川を出航。287日間の遠洋航海を終えました。患者はたった16名、全乗員は333名でしたからわずか4.8%の罹患率でした。
 また、国内の艦船や海兵団でも食糧の改善で、患者数は718名になりました。これは前年の1,236名、前々年の1,929名に比べると、たいへんな減少ぶりでした。

 その翌年、明治18年には、ついに「麦メシ」の支給が始まりました。パンを嫌って、水兵たちが捨てるという悪習に対応して、ならば、米の代わりに麦をという施策です。挽き割り麦を4割混ぜました。麦の方が、タンパク質の含有量が多いというわけです。そして、これがまた、驚異的な効果を挙げることになりました。
 なんと、翌19年には患者数が3人。兵員数は8,475人ですから発症率わずか0.04%。20年、21年にはとうとう患者はいなくなりました。


▼高木の論は東大教授、陸軍軍医のボスたちから批判を受ける

 高木は自信をもって脚気対策の発表を行います。食物の炭素と窒素の比例が悪いと脚気になるというものでした。その例として、過去の軍艦乗員の食事内容を調べた数字があげられました。しかし、これは当時の医学者たちから、猛烈な反発がよせられたのです。
 衛生学者の緒方正規(おがた・まさのり:1853〜1919)が口火を切りました。緒方は熊本医学校で西洋医学を学び、東大に入学。1880(明治13)年に卒業、翌年ドイツのライプヒチ大学に留学しました。84年に帰国、東大医学部、内務省衛生試験所の教官に就任。わが国に細菌学と実験的衛生学を移植し、発展させた人物です。

 緒方は「脚気菌」を発見したと発表しました。あとで間違いだということが分かりますが、当時は「分からない病気は発見されない細菌のせいだ」と欧州でもされていた時代です。また、東京大学生理学教室の助手や、生理学の教授が次々と批判をします。中でも厳しい攻撃は、次のようなものでした。
『麦は米に比べれば、たしかに窒素が多い。しかし、消化試験をすると麦飯の1.5割から2割は吸収されない。麦の中のタンパク質の6割は不消化である。麦飯の不消化なことは米飯の4倍になり、米飯のタンパク質の消化と比べると麦飯のそれの不消化なことは米飯の3倍になる』
 だから5合の米飯から得られるタンパク質は8匁あまり(40.2グラム)だが、同量の麦飯からは7匁(26.24グラム)にしかならないという指摘でした。

 ビタミンを知る現代の我々にとっては、とんでもない見当違いの議論をお互いにしていたわけです。麦の胚芽(はいが)に含まれるBが有効成分だったのでした。

 陸軍軍医の上層部はどうだったか。海軍の石神良策にならぶ巨頭だった石黒忠悳(いしぐろ・ただのり)という軍医がいました。1845(弘化2)年に福島県生まれ、父親は代官の手代だったといいます。
 この階層からは、江戸時代を通じて有能な人が出ました。庶民身分ですが、代官所の実務に通じ、勤務中は苗字帯刀を許されます。幕末の外国奉行川路聖謨(かわじ・としあきら)なども大分県日田代官所の手代を父にもっていました。ついでにいえば、開成中学・高校の創設者の1人である佐野鼎(さの・かなえ)も信州の代官手代の出身で、造兵学を学びました。東京の古い私学である麻布学園と開成学園、どちらも低い身分出身の技術系官僚がつくった学校です。

 海軍の麦飯支給が効果をあげていた1885(明治18)年、石黒は高木批判を行います。その要旨は次の通りです。
『肉食もだんだん進んできた。ところが、牛肉消費量の多い東京で脚気患者が多い。また、脚気は書生や兵隊に多い。ろくに食事をとれない貧窮者や、肉、魚、鳥などの滋養物を食べない禅僧にはきわめて脚気患者はまれである。脚気で急死する者の9割はみな「多血強壮で体格雄偉な者」ばかりである。脚気は田舎でまれであり、都会で多い。脚気は下等の賤民に少なく、中等生活者に多い。また、転地すると軽快するのはなぜか。田舎の方が滋養の少ない食事をする』などでした。


▼森鴎外の帰国と脚気論争への参入

 鴎外にとっては不幸なことでした。この最中に帰国したのです。陸軍期待のホープであり、衛生学を専門に修めてきた軍医。帰国早々、鴎外は高木批判に一役買いました。
 次回は、鴎外と高木の論争、日清・日露の戦いと脚気についてまとめてみます。なお、文中に、現在では使われない差別用語がありますが、当時の雰囲気を理解いただくために敢えて、そのまま使いました。






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◆荒木肇経歴
1951年、東京生まれ。横浜国立大学大学院修了(教育学)。横浜
市立学校教員、情報処理教育研究センター研究員、研修センター役員
等を歴任。退職後、生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉
専門学校講師、現在、川崎市立学校教員を務めながら、陸上自衛隊に
関する研究を続ける。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年
間を通して、陸自部隊・司令部・学校などで講話をしている。


◆主な著書
「自衛隊という学校」「続・自衛隊という学校」「指揮官は語る」
「自衛隊就職ガイド」「学校で教えない自衛隊」「学校で教えない日
本陸軍と自衛隊」「子供もに嫌われる先生」
いずれも並木書房刊 http://www.namiki-shobo.co.jp/
2009-07-03 01:34 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
| 荒木 肇 先生 / 戦争 / 自衛隊 |
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【特別号】 陸軍史あちらこちら(17)陸上自衛隊第1特科団−現代の野戦重砲兵旅団
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【特別号】 陸軍史あちらこちら−(17)              荒木肇
特別ルポ「陸上自衛隊第1特科団−現代の野戦重砲兵旅団」
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▼「陸自の隊員はいいな」

 蝦夷梅雨(えぞつゆ)と向こうでは言うらしいですね。北海道には前線が停滞する梅雨がないといわれます。それが、この1週間ほとんどぐずついた天気でしたと千歳のM2佐が説明してくれました。
 先日、札幌にうかがい、北部方面総監部と東千歳駐屯地の第1特科団で、それぞれ隊員の皆さんにお話をさせていただきました。

 北部方面隊とは、外国軍隊でいえば、北部方面軍(ナザン・アーミー)。総監とは軍司令官です。つまり、北部方面総監部とは北部方面軍司令部と訳せます。現在の軍司令官は、わたしの尊敬する酒井陸将(陸軍中将)です。総監はいつも私を招いてくださり、拙い話をする機会を与えてくださいます。そのご厚情に深く感謝しています。

 総監部での講話のテーマは『歴史学と歴史教育のあいだ』と題して、主に総監部勤務者の幹部(士官)の方々を対象としました。私自身が体験してきた歴史授業の中での検討や議論が必要な問題点。それに私の研究テーマ、大正時代の陸軍と学校教育の関係などをお話できました。

 終わってから会費制の懇親会がありました。隊内の厚生棟にある集会場では、率直な感想や意見をいただくことができて、とても元気が出ました。医官の方々をはじめ、さまざまな職種の自衛官方がおみえでした。

 軍とは複数の師団や旅団を隷下(れいか:指揮下におくこと)にする組織のこと。北海道には北鎮第2師団(旭川)と機甲第7師団(千歳)、第11旅団(真駒内)、第5旅団(帯広)と第1高射特科団(防空砲兵旅団)、第1特科団(野戦重砲兵旅団)、その他の部隊が道内の各地に駐屯しています。

 札幌から車でほぼ30分。千歳市内には東千歳、北千歳と2つの駐屯地があります。東千歳には第7師団司令部とその隷下部隊の一部、高射特科団本部と高射特科群などが駐屯し、道内最大の規模です。駐屯地の外周はおよそ10キロメートルといえば、広大さがわかります。そこに隊員6,000人がいます。師団司令部では荒川師団長、西村副師団長が昼食のカレーをご馳走してくださいました。

 北千歳駐屯地までおよそ15分。こちらには、第1特科団本部、71戦車連隊、第1特科群(野戦重砲兵連隊)、第1地対艦ミサイル連隊、そして第101特科直接支援大隊、ほかの支援部隊が駐屯しています。駐屯地の外周は、およそ4,000メートル、隊員は2,000人。

 ここでは長いつき合いの日高将補(第1特科団長:少将)が迎えてくれました。研修として203ミリ榴弾砲(榴=りゅうが当用漢字にないので、自衛隊ではりゅう弾砲と書く)やMLRS(多連装ロケットシステム)、地対艦ミサイル(SSM)などの訓練を参観させてもらえました。

 午後になってからの講話は、曹士諸官や事務官が主力。OBの方々もみえていました。主に若い隊員さんたちへのエールとして『忍耐と自信』というお話をしました。コミュニケーションとは情報と感情を交換すること、異文化への忍耐心や寛容性を作っていこうというテーマでした。うなずきながら聞いてくれる若い顔がいっぱい見えました。

 夕食を日高将補と千歳の街でとって帰る途中のことでした。「団長!お疲れ様です」という若い声が聞こえました。ふり返ると私服に着がえた隊員たちです。居酒屋から出てきたばかりのようでした。
「先生!今日はとってもいい話をありがとうございました、すごく役に立ちました」と帽子をとって挨拶してくれました。
「こちらこそ、元気をくれてありがとう」。気の利いたことが言えずに、そんな返事をしただけでした。
 声をかけてくれたのは若い陸曹たちでした。いいな、陸自の隊員はいいな。ほろ酔いだったはずの酒がもっと回ってしまいました。


▼師団特科と旧軍師団野砲

 整備工場の前には3台の大砲がありました。周囲には無造作に野天にパークされた火砲がならんでいます。そうです。陸自の大砲は原則的に野外駐車です。冬に行けば、火砲も戦車も、トラックも雪にうもれ、シートがかけられているくらいのものです。

 第1特科団というのは、旧軍や外国軍では野戦重砲兵旅団のことになります。団というのは、連隊や群、大隊などをいくつかまとめる単位です。陸自は発足時に、再軍備という批判をさけるために、特別な言葉をたくさんつくりました。歩兵は普通科、砲兵は特科、工兵は施設科などです。特科はのちに、対空射撃をする高射と野戦に分かれました。

 第1特科団は、総監直轄の機動打撃集団になります。特科(砲兵)を理解するには、まず、その2つの種類について知らなくてはなりません。どちらも砲兵ですが、歴史的にはずいぶん違うものです。

 1つは師団特科です。師団長の指揮のもとに、隷下の普通科(歩兵)連隊(以後、普連とします)に分けてつけます。連隊としての集中運用もできますが、基本的には各普連に1個大隊ずつ分属させるのです。こうすれば、普連には重火器としての迫撃砲がありますが、155ミリの榴弾砲の支援を受けることができます。いま、師団特科連隊や旅団特科隊は口径155ミリ、トラックなどで牽引(けんいん)されるFH70という榴弾砲が装備されています。

 旧陸軍の野砲兵連隊では口径75ミリの6頭の馬でひく野砲が主力でした。他には10糎(センチ)榴弾砲が4門という「十榴(じゅうりゅう)中隊」もありました。昔と比べると、たいへんな進歩でしょう。
 ところで、師団特科連隊といいましたが、現在、師団によっては改編で「特科隊」に縮小されている部隊もあります。

 旧陸軍の装備した師団野砲の性能をみてみましょう。95式野砲(仮制式1937年)、口径は75ミリ、砲車重量1,108キログラム。最大射程は10,700メートル、弾量は6.34キログラムです。機動90式(1935年制式)野砲、口径は同じ75ミリ。弾量もほぼ変わらない6.37キログラム。ただし、砲車重量が1,600キログラムと重く、そのかわり最大射程は13,890メートルと大きくなっています。「機動」とついているのは、馬ではなく自動貨車(トラック)で引くことにしたからです。ゴムタイヤや緩衝バネ、ブレーキなどもついていました。


▼射程距離か?機動性か?

 あれ?と思われた方もいるでしょうね。というのは、新しい、つまり後から開発された方の最大射程が短くなっています。書き間違いではありません。

改造38式(1926年制式)、最大射程11,500メートル、重量1,135キログラム
機動90式(1935年制式)、最大射程13,890メートル、重量1,600キログラム
95式(1937年仮制式)、 最大射程 10,700メートル、重量1,108キログラム

 これは昭和戦前期の「野砲論争」と、その後の想定戦場の違いが生みだしたものでした。

 90式野砲は、フランスのシュナイダー社が基本設計をして1930(昭和5)年に大阪造兵廠で試製されました。ここでは新しい技術が使われました。砲身を作るときに、オートフレッタージュ(自己緊縮法)を採用しています。これで欧米陸軍と同じ単肉自緊(たんにくじきん)砲身を実現できました。

 これまでの砲身は、「外とう」という外側の砲身に、「内とう」という内側をはめ込んでいた製造法をとっていました。つまり2つの肉があった。重さもあったし、何より射撃で砲身が熱してくると歪(ゆが)みも出やすい。それが、金属の性質を巧みに利用して実現化したのが自己緊縮法でした。砲身の重量も軽くなり、強くもなった。製造工程も減らすことができました。

 砲を発射すれば、その反動で砲全体がうしろへ動きます(後座:こうざ)。それを防ぐのが駐退機(ちゅうたいき)であり、元の位置にもどすのが復座機(ふくざき)、あわせて駐退復座機という。それも砲身に固定して後座する部分の重さを増やしました。
 それで少しでも後座量(うしろに下がる距離)を少なくしようとする工夫です。また、砲口制退機(ほうこうせいたいき:マズル・ブレーキ)も初めてつけました。砲口についているリングのようなものです。これも少しでも反動を殺そうという工夫でした。

 さて、さらに改良されたのが砲の脚(あし)です。砲車は名前の通り車輪が2つついています。やはり2輪の弾薬車と連結して、4輪のトレーラーにするためです。射撃時には脚をしっかり固定します。この脚が初めて開脚式になりました。移動の時は1本にまとめますが、射撃準備で2本にして2点で砲を支えます。つまり、脚を開くわけです。これは、左右の方向を変えるとき、上下に砲身を操作するとき(つまり、遠距離を撃つなら砲身を上にあげる)の制限を減らすことになりました。それまでの単脚式では砲尾が脚にあたってしまったからです。

 ところが、作戦運用を担当する参謀本部から苦情が出ました。90式は「重量過大」だというのです。射程距離の不足には運動性を高めれば良い。つまり、軽快に動き、陣地転換もかんたんにすれば、敵に近づいて撃てる。そうすればよいという主張です。第一、馬が6頭でひくのだ。重いのはよろしくないという。
 野戦砲兵学校では、冗談じゃない。射程距離が何より大切なのは、過去の戦訓、世界大戦でも証明済みではないか。この砲が近代的な陸軍建設には欠かせない。参謀本部は何を言っているのかと大反撃。

 論争に、いったんケリがついたのが満洲事変(1931年)です。関東軍に配属されていた第2師団で90式野砲の部隊実験が行われました。結果、多少の重量増大の欠点も、射程の長さを増やすメリットで十分おぎなえるとなったのです。
 野戦砲兵学校の正しさは証明されました。さらに機械化師団の野砲としてトラック牽引を前提にした「機動」90式野砲も開発されました。パンクレスのタイヤをつけ、最大時速45キロで行動でき、ノモンハンでも活躍したのです。

 では、射程の短い95式野砲は、どうして開発されたのでしょうか? それは、想定される戦場が変わったからです。満洲事変の稿でも書きましたが、満洲の建国は日ソ勢力圏を大きく北におしあげました。それまで、主戦場に考えられていたのは中西部の平原地帯でした。大きな射程距離も必要とされたわけです。ところが、新しい計画では、東部ソ満国境に変更になりました。沿海州方面です。

 一気にウラジオストックを突く計画でした。そこの地形は単純ではありません。湿地あり、山あり、谷ありの当時の言葉でいえば錯雑地(さくざつち)です。また、ソ連軍の国境陣地の縦深(じゅうしん)が大きくなっていました。つまり、守る陣地がうすっぺらなものではなく、縦に何列も並んでいる。あるいは、何線にも築かれているわけです。

 そうなると、歩兵を中心に攻撃するわが軍は、突撃支援のために軽快な野砲が必要になるということになります。95式野砲の構造は、ほぼ90式と変わりません。砲口制退機もなくし、軽くなったぶんだけ射程は短くなりました。


▼司馬遼太郎の思い違い

 ところで、ノモンハン事件(1939年)といえば砲兵戦というイメージがありませんか。わが砲兵は射程の短い砲をもっていたので、ソ連軍の長射程砲に負けたともいわれます。わが陸軍の砲は軽くて射程が小さかったのです。
 その理由について、司馬遼太郎氏は、『坂の上の雲』の中などで、国民性のせい、もしくは当時の軍人のけちくささのためとしています。参謀本部の軍人を中心に、どうしても世界標準より小さなものを選んだと低い評価をするようです。

 私は司馬先生のように国民性について深く考えたことはありませんが、ちょっとその決めつけにはひっかかります。運搬手段だった馬のことについて論じられていないからです。別の機会でも語りますが、わが国の在来馬では大きな砲を牽くことは難しかった。馬の体格がちがうのです。昔からわが国の馬は背までの高さが4尺(約120センチ)を規準として、それを超せば堂々たる大馬でした。司馬先生の経験は戦車連隊です。馬の世話に明け暮れた砲兵や輜重兵の苦労が分からなかったのかも知れません。

 明治政府も陸軍も、なんとか馬を改良しようと躍起になりました。でも、こればかりは時間がかかります。輸入馬との交配を重ね、世代を重ねなければなりません。
 北清事変(1900年)のときでも、「日本の騎兵はポニー(小馬)に乗っている」と欧米人から驚かれたぐらいです。

 射程の違いといいますが、それを伸ばすためには砲の重さを増やせばいい。各部分を頑丈に造っておけば、たくさん火薬もこめられたし、大きな弾丸も撃てました。
 しかし、悲しいかな、わが国の砲は馬で引っぱることが前提なので、各部の強度はそれに合わせてあったのです。では、ソ連のようにトラクターで牽引すればいい。そうは言っても、今度は石油の補給です。わが国にはふんだんに石油はありませんでした。対して、ソ連はこの時代、たいへんな石油大国でした。どうも、歴史書には、このあたりの重要な事実がわざと書かれていないようです。

 大砲全体を(しかも高価な特殊鋼で)重く造って、キャタピラー式の牽引車をたくさん生産する。大量に弾薬を製造して戦場に、これまた大量のトラックで運ぶ。砲身内部の摩耗(まもう:すり減ること)も気にせず撃ちまくる。内部のライフルがすり減って命中精度が悪くなったら、さっさと後方へ送って交換してしまえばいい。これが当時のソ連のやり方です。

 すべてに反対の条件があったのが、わが国です。牽引車もありました。トラクターは造ることもできました。トラックだって、当たり前ですがありました。ただ、その数量がいかにも少なかった。そういう国だったのです。弾薬は高価なので撃ちまくるわけにはいきません。砲身内部の摩耗だって、とても気にしていました。
 ソ連は当時、スターリンの独裁時代にあたります。当時のわが国よりはるかに全体主義国家でした。農民が飢え死にしようと大砲やトラックは造られたのです。


▼155ミリ榴弾砲FH70

 自衛隊の師団野戦砲は155ミリ榴弾砲FH70です。西欧諸国の標準装備として、世界各国で使われています。開発が始まったのは1960年代の初めにさかのぼります。
 イギリス、西ドイツ、イタリアの3国が共同で開発しました。1978(昭和53)年には量産型が完成し、わが国では日本製鋼所がライセンスを得て1983(昭和58)年から生産を始めたのです。発射姿勢をとると、タイヤを上げてしまって、円盤の上にのります。射撃方向を変えるのがたいへん便利になっています。また、小さなエンジンをつけていて、自分で動くこともします。「撃てば撃たれる」のが現代砲兵の宿命です。撃ったらすぐに移動する。そうすることで生存性を高める工夫がされています。

 2001(平成13)年3月までに、合計479門が陸自に納められました。全備重量は9.6トンですから、旧陸軍の野戦重砲の代表だった96式15糎榴弾砲(4,140キログラム)と比べると2倍以上です。射程は通常弾で24,000メートル。噴進弾(ロケット補助推進弾)であれば30キロメートルになります。これも戦前の15榴の11,900メートルと比べれば、その能力の差は3倍近いものです。弾丸の重量はおよそ40キログラム、1門を操作するのは9人。1分間に最大6発が撃てるとのこと。


▼第1特科団(野戦重砲兵旅団)の装備MLRSと203ミリSP

 特科(砲兵)の2つ目は「軍直轄砲兵=ぐんちょっかつほうへい」になります。ふつう、大きな威力をもつ大型砲を装備しています。旧陸軍には、野戦重砲兵、要塞砲兵、攻城砲兵という部隊がありました。要塞砲兵はその名の通り、全国各地の軍港を守り、海峡を警備する要塞におかれた砲兵です。対軍艦の砲戦を考えていましたから、その装備は大口径の加農砲(カノン砲)でした。攻城砲兵は野戦にでますが、主に囲壁(いへき)に囲まれた市街や要塞を砲撃しました。

 第1特科団は北部方面総監の直轄部隊です。有事の際、重点地域に投入されます。その打撃力もたいしたものです。
 まず、3個の地対艦ミサイル連隊は道内の北千歳、美唄(びばい)、上富良野に展開しています。また、第1特科群の一部は美幌(びほろ)と北千歳(主力)に、第4特科群はミサイル連隊といっしょに上富良野です。特科群の装備は、MLRSと203ミリ自走榴弾砲になります。

 まず、MLRS(多連装ロケットシステム)について。これは特科群の中に大隊で編成されています。自走の発射機は、キャタピラーで走ります。これに指揮装置と弾薬車などで1セット。発射機は重量がおよそ25トン、全長7メートル、幅が3メートルもありました。乗りこんでみると、後ろに大きな発射装置があるので、なんとせまいこと。
 左から操縦手、中央に射撃手、右側に車長がすわります。操縦手が握るのは、昔、マンガで見たことがある古い旅客機の操縦桿のようなハンドルです。ローマ字でいうとW型です。カーブでは意外と小回りのきく感じで、ドライバーも操縦桿をちょっと回しているように見えました。

 正面の窓にはブラインド式の装甲板があり、手で開閉できました。車長席の真上には、円形のくりぬきがあって、座席に立てば外がのぞけます。右や左の窓も可動式の装甲板でふさぐことができます。敵の砲弾の破片や、小口径の弾丸から乗員を守り、何よりロケットの噴射火炎から乗員を守るそうです。
 発射装置は12連装になっています。ロケット弾はM26といわれる多目的弾です。最大射程はなんと30キロメートル。弾の直径は277ミリメートルで全長は3.94メートル、弾頭重量は159キログラムだそうです。

 しかも、その弾頭の中にはM77といわれる子弾が約600発も詰められています。子弾にはやはり炸薬(さくやく:爆裂する火薬)が入っている。1台の発射機で制圧できる面積はアメリカン・フットボール場の6面。1個大隊18両が一斉射撃をしたらたいへんなことになります。わが国の海岸に、着上陸作戦をおこなおうとする侵攻勢力への十分な抑止力です。

 弾丸は3発を2段に重ねた6発入りのコンテナを左右に並べてあります。撃ち終わるとコンテナごと交換するのです。しかも、車にはホイスト(クレーン)が付いているので、自力で行います。コンテナ2つを交換するのに約3分です。初弾から次の発射まで8分しか必要としないといわれています。

 次は203ミリ自走榴弾砲(SP)です。アメリカ陸軍での制式名称はM110A2といいます。陸自にはそれまでトラクターで牽引する203ミリ榴弾砲M2と155ミリカノン砲M2がありました。この両者の後継として1983年から導入が始まりました。砲口にはマズル・ブレーキ(制退機)がついて巨大な煙突が小さな車体にのっているように見えます。

 自重は約28.5トンで操縦席が左側にあります。右側には約400馬力を出すエンジンがついていて、その後ろに乗ることができました。
 密閉式の乗員室があるMLRSとちがって砲全体がオープントップです。走り出してスピードが上がるにつれ、正面から冷たい風が吹き付けてきます。時々、エンジンを吹かすとジーゼル・エンジンの排気が吹き出す。それに包まれると、生き返るような暖かさを感じました。真冬に行動する隊員の辛さのほんの一部が分かった体験でした。

 砲尾の両脇には旋回手(左右方向の操作)と砲身の上下を操作する高低手がすわっています。砲尾の横には発射手が立ち、その真向かいに班長がいる。班長は射撃指揮所から伝えられる情報を伝えます。旋回手と高低手はハンドルを操作して、射撃緒元(しょげん)を整えるのです。角度と方向が決まり、装薬の量や、弾種、信管の種類が指定される。

 砲弾の重量は90キログラム。地上にいる砲員が2人で持ち上げます。フックに引っかけると油圧を使った自動式の装填装置が動き出しました。弾丸を押しこんで、さらに布製の袋に入った細長い装薬を突きこみます。砲尾の閉鎖機がガチャンと閉まってロックされる。拉縄(りゅうじょう)の先についたフックを撃発装置にひっかける。「発射!」の号令で拉縄を引く隊員。1人の砲班長と6人の砲手の息がそろった動きです。まさに舞(まい)を見るような思いでした。

『普通科(歩兵)は1人ひとりの足し算で戦う。砲兵は班員すべての連携で戦う。7人のうち1人でも0(ゼロ)なら、弾丸は飛ばない』
 そんな解説を団本部の宮北2佐(中佐)がしてくれました。まさに日高団長が隊員への要望事項にあげている『人の絆(きずな)』が大切にされる兵科なのだ。班員はそれぞれがお互いの動きを確かめながら動いていました。


▼要塞砲兵の後継者−地対艦ミサイル連隊

 最後は世界に誇る88式地対艦ミサイルです。地上から空中目標を撃つから地対空、地上をねらうなら地対地です。地上から敵の艦船を目標とするミサイルを地対艦ミサイル(SSM)といいます。

 わが国では、地対艦ミサイルの必要性は前からいわれていました。それまでの重砲は射程が20キロメートルくらいのものでした。これでは、大規模な上陸侵攻が行われたのではとても防ぎきれない。そこで陸自は空自の80式空対艦誘導弾ASM-1をベースにして1979年から開発を始めました。内陸から飛んでゆき、沖合の敵艦隊を攻撃するミサイルです。

 空対艦ミサイルはなかなかやるなと思わされたのは、アルゼンチンとイギリスが戦ったフォークランド紛争(1982年)のときでした。アルゼンチンがイギリス領フォークランド諸島の領有を一方的に宣言し、武力侵攻をしました。
「鉄の女」といわれたサッチャー首相は、8000キロも本国から離れ、1,800人の住民しかいない小さな島を奪回するために40隻の艦隊を出動させたのです。

 さすがに英国海軍でした。潜水艦はみごとにアルゼンチン軍の巡洋艦を撃沈。空母から飛び立ったハリアー戦闘機は艦隊の上空を守り、上陸した海兵隊の援護もしました。しかし、アルゼンチン空軍も負けてはいない。勇敢なパイロットたちはフランス製のエグゾセ空対艦ミサイルをミラージュ戦闘機から放ったのです。そのうちのかなりの数が防空システムをすりぬけて駆逐艦や輸送船に命中しました。

 ミサイルのすごさは、その弾頭にある火薬量です。爆発力がすごいし、たとえ不発でも内部の燃料が残っていて大火災を巻きおこします。そうして沈んだ駆逐艦がありました。その艦の上部構造物は軽量化のためにアルミなどでできていたので火災に弱かったのです。わが海自の護衛艦も、それをきっかけにまた鋼(はがね)で艦橋などをつくるようになりました。世界中が注目した戦争だったのです。

 88式のロケットは胴体がおよそ35センチもあります。全長は約5メートルです。重量は約660キログラムですから、弾頭はその半分くらいでしょうか。戦艦大和の主砲弾は重量が1,460キロ、徹甲弾で炸薬量が34キログラムといわれます。88式SSMの弾頭が300キロとして炸薬量はおそらく200キロぐらいはあるのではないでしょうか。公開された実艦への射撃実験の映像では命中の瞬間、フネはおどりあがり、2つに裂けていたように見えます。

 発射機は74式大型トラックがベースになっています。いわゆる10トン車です。射撃姿勢をとると、安定させるためにジャッキで四隅を固定します。ランチャーは6連装になっています。見上げるような大きさの筒が6本。その前後にはふたがついているので、何も知らない人が見たら、まるで地下を走る水道管のような物が積んであると思うかも知れません。

 ユニークなのは、その発射システムです。高い山の上などに隠れた車載のレーダーが目標を探します。さまざまなデータが中継点に送られる。そこから内陸の奥深くのトンネルに隠れた発射機に射撃のデータが送られます。射程距離は150キロメートルともいわれますから(もちろん、そうした質問には答えてくれませんから推定ですが)、ずいぶん長い距離をミサイルは飛ぶようです。

 ミサイルの後部についている個体ロケットで初めは飛びます。その間は慣性誘導(かんせいゆうどう)といわれる巡航ミサイルです。あらかじめ地形をミサイルの頭脳に覚えさせておく方法になります。ミサイルは低空を飛び、山の間をぬうように進み、海上に出ます。そこからは敵艦船のレーダーに見つからないように海面すれすれを飛び続け(この時はターボジェット・エンジンで飛行)、最後には自分で電波を出して目標を識別して突っこみます(アクティブ・レーダー・ホーミングという)。

 部隊への配備は1991(平成3)年から始まりました。関東にも栃木県宇都宮市にこのミサイル連隊は展開しています。近くに山があることが必要なので、広い平野に駐屯するわけにはいかないのです。


▼削減される運命の砲兵

 目に見える軍縮といえば、対象になるのは砲兵や戦車です。どちらも平時には金食い虫で、高価な装備品が多い。
 公務員の数を減らす、そういった大きな方針のもとで、自衛隊は他省庁と一律に人員の削減を受け入れています。装備や部隊も、より効率的で、国民が納得する形にされるそうです。すると、大規模な敵艦船群が押しよせてきて、88式SSMが必要になる事態がありそうか。まず、ないだろう。当面、北海道にそんなことができる国はないだろう。そうであれば、北海道の砲兵団や戦車連隊、機甲師団は要らない。そういった議論がされています。

 現にこれまでの施策で、4個師団のうち2個が旅団になり、戦車や火砲は減らされています。それにともなって人員も少なくなる一方です。千歳市内には自衛隊の削減に反対するプラカードや垂れ幕が見られます。基地、駐屯地の町にとっては、死活問題にもなっているのです。

 大正時代にも2回の軍縮が行われ、その時にも砲兵が大削減されました。今と同じように、国際情勢や国内の経済状態を考えたのです。しかし、その結果、何があったでしょうか。何年もたたないうちに、わが国は国益確保のためにやむなく大陸で戦闘を開始しました。その時に、もっとも困ったのが「人が足らない」ことでした。装備品は、その気になれば造れます。しかし、専門技術者である砲兵は、かんたんには養成できないのです。

 現在の担当者たちも苦労をされているでしょう。こんなことは自衛官なら、誰でも分かっていることなのです。でも、大きな国の方針には逆らえない。まさに、現在、これほどの「文民統制」状態はありません。自衛官は決して不服を言わないのです。
『国民の皆さんが決めていることですから』と、与えられたモノだけで戦う、全力を尽くすという覚悟はどこでも聞かされていることです。

 北辺の地の防人(さきもり)たちに心から応援をします。

(文中の火器などの数字データは、過去、陸幕広報室などから提供されたものを使いました。現場では、何も教えてくれません)






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◆荒木肇経歴
1951年、東京生まれ。横浜国立大学大学院修了(教育学)。横浜
市立学校教員、情報処理教育研究センター研究員、研修センター役員
等を歴任。退職後、生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉
専門学校講師、現在、川崎市立学校教員を務めながら、陸上自衛隊に
関する研究を続ける。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年
間を通して、陸自部隊・司令部・学校などで講話をしている。


◆主な著書
「自衛隊という学校」「続・自衛隊という学校」「指揮官は語る」
「自衛隊就職ガイド」「学校で教えない自衛隊」「学校で教えない日
本陸軍と自衛隊」「子供もに嫌われる先生」
いずれも並木書房刊 http://www.namiki-shobo.co.jp/
2009-07-03 01:30 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
| 荒木 肇 先生 / 戦争 / 自衛隊 |
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2009年07月02日(木)
●6月27日NHK大阪抗議運動第3弾 チャンネル桜が大阪デモを報道
台湾は日本の生命線! 永山様のブログでも紹介されていますが http://mamoretaiwan.blog100.fc2.com/ チャンネル桜で、大阪デモを取り上げていただきました。 【国民大行動第4弾】東京、大阪、名古屋・抗議行動報告[H21/6/30] http://www.youtube.com/watch?v=xJqznDV3nfA 大阪の行動が全国に伝わりました。有難うございました。
2009-07-02 04:49 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
| 台湾 NHK抗議 / 日本シルクロード科学倶楽部 / 中国 |
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●6月27日NHK大阪抗議運動第3弾 おつる☆レポートB
そのB デモ行進編  大和撫子がたくさん編


さあデモ出発です!

おつるは獰猛くんと並んで行進。


今回は、kinaさんから交代でのコールを頼まれました。
コールは、初めてですし もともとアニメのような声なので
とても緊張しました。

でも、200人を超える素晴らしい参加者さんに
頑張らなければ、申し訳がたちません。
そして 集会での

戦いだ!!という それぞれの方の思いを受け止めて
へたくそでも心をこめて 叫ぼうと思いました。



↑写真はヨーロピアン通信さん撮影
女神、大阪のジャンヌダルク、篤姫、ノアちゃんです
今日は先頭に来てねと声をかけたのですが少し遠慮されて
おつるの少し後ろにいましたが、

コールのノアちゃんの声はすごーーーーく響いてきて
おつるはめちゃくちゃ 励まされました。
ノアちゃん 有難う
https://webgate.epa.eu//index.php?SEARCHMODE=NEW&LANGUAGE=english&WGSESSID=b42e0367c943b7a1cee7011f3d7a2a9b&TABLIGHTBOX=RESULT&SEARCHSHOWTAB=1&SEARCHTXT1=TAIWAN

NHKは国民に謝れ! (謝れ!)

台湾人に謝れ!  (謝れ!)

嘘つきNHKは偏向報道を訂正しろ! (訂正しろ!)

台湾人は漢民族じゃないぞ!  (漢民族じゃないぞ!)

日台戦争など聞いた事ないぞ! (聞いた事ないぞ!)

NHKはシルクロードにおける中国による核実験を報道せよ!  (報道せよ!)

シルクロード偽装ビデオを販売するな!  (販売するな!)

中共の手先NHKは台湾の敵だ! (敵だ!)

NHKは受信料返せ!  (返せ!)

台湾人に謝れ!  (謝れ!) 

日本と台湾を分断するNHKを許さないぞ!  (許さないぞ!)

我々は台湾を支持するぞ!  (支持するぞ!)

中国の手先NHKを解体するぞ! (解体するぞ!)

受信料を断固、拒否するぞ!  (拒否するぞ!)

断固 拒否するぞ!   (拒否するぞ!)


かなり長い距離で、着物が暑く 汗びっしょりでした。

叫んでいる間は、クリスチャンネームで守護聖人の
joan of arcが守って下さるように思えました。

瀬戸内海の鶴姫も海の底から応援してくれるような気が
しました。

御先祖の多田神社の祭神も そして靖国の叔父さんも
みんなみんな 国のために頑張れと
応援してくれるような気がしました。

動画を見た家族が 私の普段の声ではない・・・と
驚いていました。







愛媛から来られたチャンネル桜を支える会愛媛の田中さんと
横断幕を持ちましたが、
風にあおられたりして ものすごく 重かった。

田中さん 有難うございました。

拡声器もかなり重くて、カバンと両方で歩きにくくて
困っていると、
桜チャンネル二千人委員会 まぐろ通信社の
皇居勤労奉仕で万歳三唱をされて天皇陛下ともお話をなされたという

とても元気で明るい笑顔の美しい羽田さんという女性が
すぐ後ろで、
カバンを持って下さり、元気な掛け声で励まして下さいました。
感謝です。

最後尾では、なでしこちゃんや セクシーギャル美久ちゃん!!
お疲れ様でした。

今回のデモは、女性の参加者がとても多かったです。
年代も様々で、
20代 30代 40代 50代 60代〜のいろいろな女性が
たくさん参加されて 本当に心強く思いました。

平成の夜明け前の女たち、大和撫子の女戦士がたくさん
いました。

どの方も 見た目は清楚でいて、女性らしい中に芯をおもちで
私の憧れです。

左翼のフェミニストおばはんとは大違いの
美人ばっかりだ。

足の綺麗なさくらさん、スラリとスタイルのいい知的美人のシルスさん ・・・・

素晴らしい女性たちに出会えてともに闘えたことを感謝します

デモのあとにもいろいろな女性の方々とご挨拶できました。
本当にうれしかった・・・

また ブログのカトリック関係の記事にコメントを下さった方など
おつるのブログを見て参加して下さった方も、有難うございました。

番外編

解散後、スタッフの方と 打ち上げに参加しました。

飲み会とカラオケ ビールのうまいこと♪
カラオケでは、大和撫子さくらちゃん、22才ちゃん、
そして女神ノアちゃんの 歌のうまいことに びっくり

保守の人って歌がうまいのね♪
歌は心っていうから・・・・心が美しいからね、きっと・・・


というわけで

参加された皆様 有難うございました。

NHK訴訟も 8000人を超え、第二次募集で1万人を目指すそうです。

まだまだ戦いは続きます

次回も頑張りましょう〜〜
2009-07-02 04:15 | 記事へ | コメント(3) | トラックバック(0) |
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●6月27日NHK大阪抗議運動第3弾 おつる☆レポートA
そのA 集会で泣いた私の決意編


集会の前には、いつもの憂国騎士団、遠い加古川からの参加のニートネスニートさんや
またまた新潟からご参加された、憂国者(不死鳥)さん、
神戸の佐野さんとの感激のごあいさつ

新潟もすごいですが

愛媛から来られた女性二人組、チャンネル桜を支える会の方や
滋賀から来られた方、東京、和歌山、明石、岡山・・・・
さまざまな地域から駆けつけた方がたくさんおられて感動 尊敬

フリーチベットやフリーウイグルそして 今回のNHKデモにいつも取材に来てくださいる外国のメディア ヨーロピアン写真通信社のNさんも!!  

そして西村眞悟議員と八尾市議会議員三宅議員の到着

西村眞悟議員には、また堅い握手をしていただきました!!!
私と同じカトリッククリスチャン、拉致被害者奪還への戦いやこのデモにも駆けつけて下さるこの方は真のキリスト者です。私は心から尊敬しています

民社党のプラカードをご覧になって感激されてました。
民主党じゃないですよ、 民社党です

そして集会がはじまりました。

集会の途中には、平成愛國婦人會 のなでしこちゃん

平成愛國婦人會 ブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/aikoku_fujinkai/2796919.html

モミーさんや くまじろうさんや たくさんの仲間が
続々到着するのが見えて 心強く思いました。



集会では、●日台未来会代表挨拶のあと 
●西村眞吾議員挨拶 
●八尾市市議会議員 三宅博氏
●関西防衛を考える会 浜野会長の奥様で日本会議大阪女性の会 運営委員長
●沖縄集団訴訟、南木クラブ会長 南木隆治氏 ご挨拶
●チャンネル桜を支える会 愛媛支部田中様
●日台未来会 りえさんごあいさつ


つづいて

●日本と台湾の未来を考える会 田辺さんより 
チャンネル桜 井上氏が取材した台湾人のおじいさんの心の声
●元帝国海軍士官 神州正氣の會  副会長池田氏ご挨拶


どの方のお話も心に響いて、胸がじんじんしました。

それぞれの方の心からの思いがあふれていて、体と心が震えました。

今日のデモはこの方々の思いを受け止めて
力の限り、心の底から叫ぼうと強く思いました。

特に、仲間のたなべさんが 涙をこらえながら
読んだ「台湾のおじいさんの言葉」

「日本は良かったよ」 




そして、元海軍士官の池田様のお話には

集会の全員が 泣きました。

「今の世の中はお金があれば何でもできる 便利な世の中、
お金があれば豊かな国だと思っている
お金のために80のお婆さんからカバンをひったくる中学生なんかが
いる・・

65年前 戦争中、20才すぎの若い仲間が大東亜戦争に参加し
金のためでなく、名前のためでなく、ただただ 国を想うために
青春を国に捧げて
、国を守り死んでいった。

私は、このNHKの台湾の放送を見たが、
こんなことでは 日本はいったいどうなってしまうのか
こんなことでは、たくさん死んでいった戦友たちはいったい
どう思うのか。 これはなんとかしなきゃいかん

戦友たちのためにも 台湾に謝り
そしてNHKをつぶさなならん こんな放送を続けていったらいかん。

日本をみんなで救おうと 今日は参加することにした」
と・・・


写真はヨーロピアン写真のNさんが 世界に発信して下さいましたが、その中から転載させていただきました。感謝
https://webgate.epa.eu//index.php?SEARCHMODE=NEW&LANGUAGE=english&WGSESSID=b42e0367c943b7a1cee7011f3d7a2a9b&TABLIGHTBOX=RESULT&SEARCHSHOWTAB=1&SEARCHTXT1=TAIWAN


私の靖国の叔父さんも生きていたら この方と同じことを言ったはずだ。 靖国の叔父さんがこの方とともに叫んでいるような気がした。

私は 涙がとまらなかった。

こんな国にしてごめんなさい。

こんな日本にしてごめんなさい。

この方にみんな土下座して謝らなあかん。

でも 誰よりも NHKが 土下座して 謝らなきゃあかんやろ!!!!!




今日の私は、この方のためにも 全身全霊をこめて
戦うと決めた。

全身全霊で叫ぶことを 私は、この方、そしてこの方のように
悲しみで日本を憂いている元軍人の方々
靖国の伯父さん そして亡くなった方々へ捧げたいと

心から思った。


****************************************************

実は、デモが終わったあと、解散の公園で

この元海軍士官の池田様が 私のもとにわざわざ来て下さり

「素晴らしい声でした。 有難う」と挨拶に来て下さいました。

私は・・・・感激でいっぱいでした。
2009-07-02 03:27 | 記事へ | コメント(1) | トラックバック(0) |
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2009年06月30日(火)
●6月27日NHK大阪抗議運動第3弾 おつる☆レポート@
6月27日NHK大阪抗議運動第3弾


レポート

NHK抗議運動も第三弾となりました。
私の所属する日本シルクロード科学倶楽部会長、
札幌医科大学教授高田純博士は、前回の東京・大阪・名古屋同時デモ時に
メッセージを送られ、またご自身が札幌での抗議デモにご参加されました。
そのときに「NHKへの公開質問状」を渡しておられました。

おつるは、ブログから知った「NHKへの公開質問状」に対する回答のあまりの
誠意のなさ、偏向報道を改める気持ちなど一切ないこと、謝罪することも
訂正することもない、自らの報道姿勢を自らで賛美するという姿勢
国民を馬鹿にし、台湾人をチベット人をウイグル人を傷つけ、さらに
日本人を傷つけ、洗脳する姿勢には激しい怒りを感じました。

ですから、今日のデモは、心の底から、一人でも多くの日本人に知ってもらいたいと
思いました。
NHKは、子供向けの人気番組も多く、NHK教育テレビは、全国の小中学校で授業にも利用されていますから保護者さんたちも民法の過激なバラエティ番組は
見せたくなくても、NHKならと安心して子供たちに見せてきたでしょう。
ところが、こんな偏向報道、隠蔽報道を続けるNHKの番組を見せるほうがよほど
子供たちに悪影響だということを知ってもらわなければいけないのです。
子供たちに保護者のお母さんたちに、そして未来に母となる今は若い女性に
私は伝えたい。
日本の愛しい子供たちの 輝ける未来のために、未来を担う子供たちのために
絶対こんな偏向報道を続けさせるわけにはいかないのです

**************************************************************

その@ 大阪の可愛い子供との出会い編

まずは、会場へ・・・・

おつるは、着物で参加です。
以前も フリーチベットのデモに浴衣で参加しましたが
今回は、浴衣でなく、きちんとした着物でいきたいと思いました。

今回は、台湾問題の抗議ではありますが、
日本という名をちけたNHKが、反日的偏向報道をしていることに

日本人として 日本のために許せないという気持ちだから。

会場に着くと、すでにkinaさんやリコリスさん、
たなべさん、日台未来会の代表の方々が準備をされていました。
風船づくりをもくもくと作り続けて下さる方もおられ、感謝です。

おつるもお手伝い。
すると公園で遊んでいた小学生の子供たちが風船を見て集まってきました。
風船をプレゼント 

すると「おばちゃん 風船くくってー」と言うので
「お姉ちゃんと呼んだらくくったげわー」笑 
いやいや「かわいい綺麗なお姉ちゃん」と呼びなさーいと無理やり言わせる笑
さすが大阪の子供たちはノリが良くて ちゃんと笑いを心得ておりました。
おつるは普段から子供相手の仕事なので、子供は大好き。
自分が子供みたいな精神年齢なので・・・・・・笑

でも動画には写っていませんが「勉強がんばりや。将来あんたたちは日本を背負っていくんやから。 リーダーになるため勉強しいや
勉強したら風船あげるからな」とも言ってたんですよ。

子供たちは、5年生の子供が多いです。

このあたりは、大阪市の公立学校なので、最も日教組の強い地域。
子供たちは、もちろん台湾という国の事情もしりません。
でもさすが5年生ですから、たくさん置いてある看板に目をとめて
「なんでみんなで集まってるん??」「なんで緑の風船なん?」
「NHKが悪いことしたん??」って いろいろ聞いてくる・・・・・・

おつるは、簡単に教えてあげました。洗脳じゃないですよ笑
事実は事実として子供たちの疑問にはきちんと答えるべきですもの。

子供たち、「テレビに今日、写るん??」と聞くので
「テレビには写らへんかもしれんなぁ、でもインターネットで流れるよ」と答えると「you tune??  ニコニコ動画やろ??」と。

子供たちよく知ってます。これは頼もしい。
きっと今頃、ニコニコ動画見て 学校で話題にしてるね。

集会がはじまる前にたくさんの私に質問した子供ではない女の子たちが来て
「NHKが嘘ついたんやろ!! NHK悪いことしたんやろ?
台湾の人 かわいそうなんやろ?? NHKもう 見ないからね
頑張ってね!!!」
と 言ってくれたので
「ありがとう」って 堅く握手をしました

ニコニコ動画を見ると、「おばちゃん風船くくって」と言った子供が
デモ行進に 名残り惜しそうに しばらく走ってついてきているのが見えました。

あとで聞くと子供たちもシュプレヒコールに一緒にずっと叫んで見送ってくれていたそうです。
それを聞いて胸がジーンとしました。

ぜんぜん参加してねとか 叫んでねとか強制したわけでもなんでも
ないのに子供たちの意志で参加してくれたのです。


そして今日のデモには、とても暑い中、
子供さんを連れての参加がちらほらありました。
帽子をかぶって、最初から最後まで歩いてくれた小さな男の子

疲れてお父さんに抱っこしてもらいながら、最後まで参加した小さな子・・・
お父さん、抱っこで暑い中たいへんだったでしょう。
有難うございます。

子供づれの参加について、いろいろ言う人がいますが
私は、子供を土日に預けることができない状況の人や母子家庭や父子家庭でで土日しか子供と接することができない人
いろいろな状況があると思います。
でも、自分の愛する子供の未来のためにも、子連れでもデモに参加したいという気持ちのある方の勇気あるご参加は素晴らしいことだと思います。
子供たちも親の一生懸命な姿に学ぶのです。
お金のためとか自分たちの楽しみのためではなく、貴重な土曜日を
こういう国を想う活動に参加する親の後ろ姿を見て子供は立派に成長します。




私も 子供たちの未来のためにも頑張るのです。

日本の子供も、台湾の子供も、チベットの子供も、ウイグルの子供も南モンゴルの子供も・・・ 

子供たちの未来に幸せがきますように。






2009-06-30 00:58 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2009年06月29日(月)
6月27日NHK 大阪抗議運動第3弾 ◆burenoさん 動画C 行進編後編
NHK抗議運動 in 大阪 6/27 08 NHK抗議運動 in 大阪 6/27 09 NHK抗議運動 in 大阪 6/27 10
2009-06-29 02:47 | 記事へ | コメント(8) | トラックバック(1) |
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6月27日NHK 大阪抗議運動第3弾  ◆burenoさん 動画B 行進編
NHK抗議運動 in 大阪 6/27 04  行進スタート NHK抗議運動 in 大阪 6/27 05 おつるもコールがんばってます NHK抗議運動 in 大阪 6/27 06 まだまだ続くよ NHK抗議運動 in 大阪 6/27 07
2009-06-29 02:34 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2009年06月28日(日)
6月27日NHK 大阪抗議運動第3弾  ◆burenoさん 動画A
NHK抗議運動 in 大阪 6/27 03-@ 大阪のみんな泣きました ●日本と台湾の未来を考える会 田辺さんより チャンネル桜 井上氏が取材した台湾人のおじいさんの心の声 ●元帝国海軍士官 神州正氣の會  副会長池田氏ご挨拶 NHK抗議運動 in 大阪 6/27 03-A ●再度、出発前の八尾市市議会議員三宅博氏と西村眞悟氏の激励 このあとデモに出発です。 また UPされ次第 動画を転載します。
2009-06-28 15:24 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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6月27日NHK 大阪抗議運動第3弾  ◆burenoさん 動画@
大阪の天才動画カメラマン ◆burenoさん撮影動画です。 *************************************** NHK抗議運動 in 大阪 6/27 01@  ●プロローグ 準備編 NHK抗議運動 in 大阪 6/27 02-@  ●日台未来会代表挨拶のあと ●西村眞吾議員挨拶 NHK抗議運動 in 大阪 6/27 02-A ●八尾市市議会議員 三宅博氏 ごあいさつ ●関西防衛を考える会 浜野会長の奥様で 日本会議大阪女性の会 運営委員長のごあいさつ NHK抗議運動 in 大阪 6/27 02-B ●沖縄集団訴訟、南木クラブ会長 南木隆治氏 ご挨拶 ●チャンネル桜を支える会 愛媛支部田中様 ●日台未来会 りえさんごあいさつ
2009-06-28 14:54 | 記事へ | コメント(2) | トラックバック(0) |
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6月27日NHK「JAPANデビュー」への抗議運動第3弾 なでしこちゃん撮影動画
信友のなでしこちゃんが、抗議デモの動画を撮影し、ブログに アップされていました。 レポートは後日書きますが、 まずは動画を転載させていただきました。 なでしこちゃん、暑い中、有難うございます。 なでしこちゃん プログ↓ ●平成愛國婦人會● http://blogs.yahoo.co.jp/aikoku_fujinkai/2796919.html#2796919
2009-06-28 01:40 | 記事へ | コメント(4) | トラックバック(0) |
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2009年06月26日(金)
◆NHKから 札幌医科大学高田教授の公開質問状に対する呆れた回答
●札幌医科大学教授 高田純博士のブログより
http://junta21.blog.ocn.ne.jp/blog/2009/06/nhk_f2b5.html



本日書留で、6月6日付けで、NHK会長福地茂雄氏へ宛てた
公開質問状に対する回答が、高田純へ送られてきた。

シルクロード偽装番組を自画自賛するばかりで、核実験による
危険の認識は、放送当時も現在も持っていないと言い切る、
呆れた回答であった。

 日本国民を危険な地へ誘導し、今後もその報道を続けるNHKを、
私はもはや信用できない。

 NHKは日本国民を裏切っている。こうした公共放送は無用である。社会制裁を加え、消滅させなくてはいけない。

 私は、このNHKにとっての不都合な真実を、1億2千万の日本人へ
知らせるべく、取り組むことを宣言する。 

恥を知れ、NHK職員!

     高田純 理学博士  平成21年6月25日



***********************************************************

これは、6月6日 高田教授が、札幌のNHK抗議デモにご参加され、
直接 NHKに資料とともにわたした公開質問状への回答です。

質問状の本文

http://junta21.blog.ocn.ne.jp/blog/2009/06/nhk_61ea.html

札幌での抗議集会

http://junta21.blog.ocn.ne.jp/blog/2009/06/nhk_a159.html



外国メディアによるシルクロード報道が初めてだとか
どうでもいい。

意義深い???   シルクロード核実験の隠蔽が????

やはりNHKは 中国の犬だった。

このシルクロードが中国の核実験による放射能汚染の

危険地域だという認識を、

放送当時も現在も持っておりません 

ってなに??


この回答は、まるで中国共産党の

チベットへの侵略は解放だーとか
核実験による被害など知らないーとかいう 
嘘、隠ぺい体質と
まったく同じじゃないか。

NHKは、札幌医科大学教授の 研究を否定した。

高田教授の研究は、東京新聞が伝え、
米国の著名な科学雑誌 サイエンテイフィック アメリカン
イギリス Times(サンデータイムズ)が伝え、
産経新聞、正論が伝え、学会でも発表されている

シルクロードの核実験を知らないと???

嘘をつくのもいい加減にしろよ。

*******************************************************

中国が初めて核実験をしたのは、台湾問題に絡んで
東京オリンピックをボイコットし、その開会式にあわせての
卑劣な行為でした。

当時は、東京オリンピックの真っ最中ということもあり
マスコミ各社は 報道しました。


当時の新聞です 

 1964年10月16日


タクラマカン砂漠で行われた原爆実験。爆発でキノコ雲
1964年10月16日 中国・新疆ウイグル自治区
中国は新疆ウイグル自治区のタクラマカン砂漠で初の原爆実験に
成功。
アメリカ、ソ連、イギリス、フランスに次ぐ5番目の核保有国に
なった。
中国政府は声明で「大国による核独占を破壊するため」とした。
日本政府は抗議の談話を発表。各党も抗議声明を出したが、
共産党は「中国人民の自衛手段」との見解を明らかにした






タクラマカン砂漠で行われた原爆実験。爆発でキノコ雲
1964年10月16日 中国・新疆ウイグル自治区

それから中国は1964年から1996年までに,ウイグル地区ロプノルの
実験場で延べ46回の核爆発を行い少なくとも19万人以上が死亡、
129万人以上が被爆し、現在のウイグルの悲劇に続いています。

NHKも当然、このことを知っていたはずです。

その後、延べ46回の核爆発をくり返し、軍事大国になり
核武装した中国だからこそ、今、世界経済の中心にまでなり
国連までを牛耳っている力をつけたんじゃないか。

なのに NHKは、シルクロードに観光客をいざなう偏向報道を
繰り返し

そして放送時も現在もしらないという。

ウイグルの人たちや子供たちが苦しんでいること
白血病やがんや 胎内被ばくした子供たちの奇形や障害も
知らないで すますのか。

日本人旅行者の被爆の危険性も知らないですますのか。

そんな体質だから

台湾の偏向報道も 謝罪の気持ちもないんだろう。


●NHK相手に8400人が集団提訴 
「JAPANデビュー」歪曲報道で

●【NHK提訴】責任見失う公共放送


産経新聞 http://sankei.jp.msn.com/economy/business/090625/biz0906251726014-n1.htm

http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/090625/trl0906252146022-n2.htm

日本史上 最大の集団訴訟がはじまる!!
NHKは 国民の声を無視するのか。

●「NHK番組の偏向検証」自民有志が議連結成へ
http://sankei.jp.msn.com/economy/business/090604/biz0906041938016-n1.htm

●自民議連「偏向番組問題」NHKに質問状
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/politics/politicsit/248134/

おつるの大好きな 自民党の衆議院議員
兵庫6区のこびき司議員さんが
おつるの家に訪問して下さいました。

このNHK抗議の自民議連に参加されて
金美齢さんから励まされたと 応援して下さり
国会で戦ってくれます


国民の声を想いを受けとめる政治家がここにいる↑

NHKは、この議連にも「知らない」で通すのか。

さあ 明日は NHK大阪抗議デモ

おつるは戦います。

シルクロードのためにも 
台湾のためにも

そして

日本の未来の子供たちのためにも



2009-06-26 22:57 | 記事へ | コメント(15) | トラックバック(0) |
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明日は大阪NHK抗議デモ第三弾!! 
明日は、大阪 NHK抗議デモ 第三弾です!!

たくさんのご参加をお待ちしています。

●大阪NHK抗議運動 第3弾




6月27日(土)

集合場所:桃園公園
 
      地下鉄谷町線、長堀鶴見緑地線
      「谷町6丁目駅」4号出口  徒歩1分

http://map.yahoo.co.jp/pl?p=%C2%E7%BA%E5%BB%D4%C3%E6%B1%FB%B6%E8%C3%AB%C4%AE%A3%B6%A1%DD%A3%B5%A1%D7&lat=34.67148083&lon=135.51869778&type=&ei=euc-jp&v=2&sc=3&gov=27128.38.6.5

14時30分集会開始  15時15分デモ出発


デモコース:公園より北に上がり長堀通りを西へ→堺筋を北へ
→本町通りを東へ→谷町筋を南下→中央大通りを東へ
→NHK付近解散

*旗、プラカードの持込歓迎!
 3民族旗も大歓迎!
 動物衣装歓迎!

*怖い服装不可。


主催:日台未来会

連絡先:080-3811-8631(kina)
メール:uighur_uighur_tm@yahoo.co.jp 




*************************************************************************


リコリスさんより♪

当日、宴会部長のリコリスです(^o^)/
17時〜19時で谷町四丁目直近で宴会やりますので、ぜひ参加して下さいね。

最前列近くに居る「売国アイドル:獰猛君」に、お気軽にお尋ね下さいね!




また 西村眞悟先生と 三宅博八尾市議もいらっしゃるかも!!




2009-06-26 22:39 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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「映画靖国」肖像権侵害訴訟
我が「映画靖国」肖像権侵害訴訟への決意

  原告 黒岩 徹 (=NPO法人日本パラオ協会理事長)


 去る三月五日午前十時十分、東京地方裁判所六一七法廷で、映画「靖国――YASUKUNI」に関する肖像権侵害訴訟の第一回口頭弁論開廷が宣せられた。この日は原告である私側弁護士の高池勝彦氏と山口達視氏より訴状の提出が行なわれ、裁判長からは、次回の日程の決定と、本人特定等に必要な資料の提出要請があり、凡そ五分程で閉廷した。傍聴席は私側の応援団十一名が席を占め、相手方の傍聴者は一、二名だったかのように思われる。かくして多分最高裁まで行くであろうと弁護士が予想する、映画「靖国」の肖像権侵害訴訟は始まった。以下に此処までの経緯とこれからの私の決意を述べる。

なお、今回私が相談をしている原告側弁護士と、私が訴えた相手方被告及び被告側弁護士は次の通りである(敬称略)。

原告側主任弁護士 高池 勝彦

原告側弁護士   山口 達視

他協力弁護士二名

被告 李纓(映画監督)

有限会社龍影(映画制作会社、代表者李纓)

ナインエンタテインメント株式会社

株式会社ティー・オー・エンタテインメント

CCRE株式会社(以上三者DVD制作配給会社)

 被告側弁護士(第一回口頭弁論で被告側答弁書に記載のある弁護士、記載順)

   梓澤和幸、中山武敏、内田雅敏、飯田正剛、中川重徳、只野靖、村上一也、

   宮越直子、西ヶ谷知成、江野尻正明、杉本朗、長尾詩子、萩尾健太、毛利正道、

   長谷川直彦、大賀浩一、杉浦ひとみ、山本志都、浅野史夫、大口昭彦、河村健太、出口裕規、日隅一雄(以上二十三名、なお被告側答弁書の各弁護士の捺印は全員同じ印影である)



事実関係並びに原告となるまでの経緯


 平成二十年年五月三日、中国人・法人の手による映画「靖国――YASUKUNI」が制作され、台湾の反日活動家高金素梅を登場させ靖国神社に対し暴言をさせる等、その反日的な制作意図や、神社始め多くの人達が映画になることを知らずに撮影されたこと等が問題になった。またこの映画の制作には、元来日本人(法人)が作成する日本人の映画に対してのみ付与される筈の制作費補助金七五〇万円が、文部科学省より支払われたという問題も起きている。更にこの映画は同年十月にDVDとなり、反靖国の立場の朝日新聞がA3〜A4大フルカラーの広告を複数回掲載している。

 このような問題映画のところ、私は撮影されていた事も全く知らぬまま、図らずも動画映像になって登場する事になってしまった。私の場面は、始まりから約三十分後、音声も明瞭に約一分三十秒間であり、被撮影の自覚なき人間にとってはかなりの長時間である。時は平成十七年の八月十五日と思われ、靖国参拝を終えての休憩所(売店)の外のベンチ、その日その場で会った人(二名)との会談場面であり、私は直会(なおらい)とはいえ些か酩酊の状態が映像に晒されている。おそらく隠しカメラ等で撮られたかと推測されるが(映像に詳しい人の談)、この様な撮影者の行為は明らかに肖像権侵害であると考える。

 さて右個人的行為により、結果的に反日・反靖国の映画制作に手を貸してしまった私は、ご英霊と全国の靖国神社を崇敬される多くの真摯な皆様に対して、真に面目もなく慙愧の念に耐えない。しかし一方、靖国神社を反日映画に利用するような被告の行動は、我国の報道関係の正義や靖国神社およびご英霊の名誉、ひいては我国の尊厳に対する重大敵対行為であって、断じて許すわけには行かない。この映画の制作途上並びに完成後における映画制作者側が執った行動は、更に許さざるべき所業であるがこのことについては後述する。

 この映画の全体を見れば、そこで撮影されている人達は(単なる通行人等を除いて)映画になることは知らないまでも、殆どが多少なりとも撮影されていることを知っていたか、カメラを意識しているようであり、撮影者を訴える立場が些か弱いかと思われる。しかしこと私に関しては、知人から「あれだけカメラを意識せずに撮られているとは、黒岩さんは実に名優です」と(冗談を)言われたとおり、完全に盗撮されていたと考えられる。つまりこの映画の被撮影者の中では、私が他の誰よりも相手の不正義を訴えることの出来る立場におり、訴える事に対して周辺事情等による障害もない。

奇しくも私はNPO法人日本パラオ協会の理事長として、平成十九年三月から六月、靖国神社遊就館で「戦跡パラオ展」を神社と共催し、同七月中〜下旬には「パラオ慰霊の旅」四十名を募集し、一万余名が散華されたパラオでは初の靖国神社ご神職による「慰霊祭典」を行なった。この様なご縁のある靖国神社であればこそ、「今回の件はお前がやりなさい」との有り難いご英霊のお導き・ご命令かと思わざるを得ない。

以上の事実と事情から、私はこのような非文明的横暴を平然と犯すこの映画の中国人監督・制作会社・これに協力する反日DVD配給会社等を、「肖像権侵害」として、必勝の信念をもって告訴することにした。後述の通り靖国神社は、この映画において御神体が日本刀であるとした映画の誤りと正当な撮影許可手続を遵守していないことに対し監督等に抗議したが(ご英霊の安らかを祈る神社に法的な原告は似合わない)、殆ど全く改められていない。今回の件では諸事情により裁判の当事者としての参加までは出来ない、無断撮影・放映された方々の無念も合わせ、私が訴えるしかないと決意した次第である。

後述の通り被告の所業はこれだけではないが、余り遅らせるわけにも行かず、他の問題点は後日追加する事も視野に入れて、取りあえず「肖像権侵害」として訴訟を開始することにした訳である。

   

 二、映画「靖国」問題の背景と本質


 さて筆者は本論を述べるに当たって、もう一度じっくりとこの映画「靖国」(DVD)を観ることにした。過去の一年間多くの人とこの件で話しをしたが、「あの映画の内容はくだらないが、まんざら反日一辺倒でもない、こちら側の考えも結構取り入れている」と言うような意見も少なくなかった。今回改めて客観的に観てみると、確かにこの映画が出来た経緯や背景を知らない一般の人が、この映画だけを観てそのような評価になることは強ち非難はできない。しかしこの映画「靖国」の表に現れない部分には、筆者の個人的な訴えの他に、法律上からも道義上からも看過できない、靖国と我国の名誉に関する本質的な問題が詰まっているのである。否むしろ我国にとってはこちらの方が重要であり、こちらを知らなければこの映画の本質は全く解らないといってよい。したがって誰かがこの本質を暴かない限り、「靖国」は毒にも薬にもならぬ単なる駄作映画かあるいは、「日本刀」を御神体とする靖国神社はやはり日本の侵略戦争の象徴である等の評価が定着してしまう事であろうことを筆者は危惧するのである。これは我国と靖国神社の尊厳に関る重大事と筆者は考える。

この映画の本質に関する主な問題点は次のとおりである。

一、文部科学省外局である文化庁から不適当な補助金が給付されたこと

二、靖国神社境内における撮影許可手続が遵守されていないこと

三、靖国神社の「御神体」を明白な誤りである「日本刀」と断じていること

四、出演者である刀匠に対して、当映画の目的に関して虚偽の説明をして制作したこと

五、反靖国・反日自虐の朝日新聞社が本件に大きく関り事実の歪曲をしていること

六、右のようなことが、日本の事情を知らない海外に広く流布されていくこと

七、以上何れも関係者の抗議に対しても改められることなく現在も推移していること

 以下順次説明をしていくが、その前にこの映画が作られるに至るまでの時代背景について触れておかなくてはならない。

 平成十三(二〇〇一)年四月、小泉旋風と呼ばれた地滑り的人気の下に小泉内閣が発足した。小泉純一郎氏は自民党総裁選挙中から、「自分は必ず八月十五日に靖国参拝をする」と公言していたが、その年は直前に周辺の反対に会い十三日に前倒し参拝をした。以後毎年日を変えて参拝を続けたが、任期を全うする最後の平成十八年には多くの予想通り、念願の八月十五日の参拝を挙行し、九月退任し安倍内閣に代わった。小泉首相の靖国参拝に付いては中国から毎年強い抗議があったが、その後の福田無定見媚中政権の弊害を見れば、安倍内閣も含め対中関係に限れば適度の距離を置いた我国にとって決して悪い時期ではなかったと思う。

 小泉首相退任前年である、今回の映画「靖国」の主要部分が撮影された平成十七(二〇〇五)年八月十五日とは丁度戦後(正確には停戦)六十年に当たり、我国では大東亜戦争の歴史的意義の見直し機運も高まっていた。つまり中国にとっては、小泉首相の毎年の靖国参拝から日本の終戦記念日の盛り上がり、更には翌十八年に予想される小泉首相の八月十五日参拝等一連の動きに警戒感を持っていたことは推測できる。

そのような過程を踏まえて、平成十九(二〇〇七)年は盧溝橋事件及び南京陥落後七十年にあたり、中国ではその前年あたりから所謂「南京虐殺」の映画を幾つも制作し、これらを通して日本の「悪逆非道」を世界中に広めようとしていた。この様な時間的流れの中で映画「靖国」は制作され、平成二十年五月三日に全国で封切りとなったのである。

折から中国は二十年八月の北京オリンピック開催にむけて挙国体制下にあった。世界からは中国の人権弾圧問題に絡み北京開催を危ぶみ反対する声が挙がっていた。その中で三月十日チベット動乱四十九周年の日、ラサ市ではデプン寺の僧侶三百人のデモが阻止され、数十人が拘束され、十四日には同じラサ市のセラ寺・ジョカン寺が包囲された。チベットへの大弾圧が始まったのである。中国は北京五輪開催のために、世界の関心をこの問題から別方向にそらす必要があった。この混乱と日本の良識ある人達の抗議が盛り上がりを見せていた四月二十六日、日本の聖火リレー地長野は、同じ仏教徒として中国のチベット弾圧を許せないとして、リレーの出発地なる俗世間の栄誉を敢然と辞退した善光寺の勇気ある行動等に対して、3千人とも言われた中国人の五星紅旗により占領され、福田政権の我国はこれになすすべもなく敗北した。この様な背景の中で、それから一週間後に映画「靖国」は封切られた。中国にとっては最初の制作意図以上にこの映画を利用する価値が高まったのであった。


 三、映画「靖国」助成金問題


「日本芸術文化振興会」という独立行政法人がある。平成二十年三月六日号週刊新潮が「反日映画“靖国”は日本の助成金七五〇万円で作られた」と報じた。稲田朋美衆議院議員始め若手議員が「助成金を出したのは妥当かどうか検討したい」としてこの映画の試写を求めたのは議員職務として当然である。この助成金を出したのが文部科学省の外局である「文化庁」所管右法人の「芸術文化振興基金」であった。ホームページには、平成十八年度記録映画の部の助成対象活動として四件が決定、その中に今回被告の映画会社「龍映」七五〇万円と出ている。募集案内には「日本の映画であること」「宗教的・政治的な意図を有しないもの」とある。「龍映」は日本国法令により設立されてはいるが、監督・役員全員・共同制作者等関係者等すべてが中国人の映画を日本映画と解するのは無理があろう。更に映画の対象は日中間で問題となっている「靖国神社」であり、宗教・政治と関ることは明らかである。この様な疑問含みの映画に国民の血税から反日的中国人による映画に対し助成金を給付した文化庁は、「龍映」から助成金を返還させる責任を負うべきと考える。

さてこの問題は、助成金給付の適否という単純な話では終わらなかった。「上映禁止を求める訳ではない」と明言する稲田議員の意を無視して、かの歴史歪曲・捏造の常連「朝日新聞社」は、この問題もまた事実を歪曲する行動に出た。

発端は週刊誌の助成金給付の疑問と問題点の指摘だが、朝日新聞は直ちに反応し、三月九日「映画靖国“事前試写を”議員“助成あり検証”配給側“事実上検閲”」 として、両論併記のかたちをとりながら、「映画に対する言論・表現の自由に対する(保守派政治家による)弾圧」問題に掏り替えようとしたのである。以下詳しくは大高未貴氏の「映画『靖国』で日本発の“南京大虐殺”プロパガンダを仕掛けた人々」(雑誌「正論」20年6月号)を参照頂くとして、概略に筆者の考えを加えて記す。

先ず前述のチベット弾圧問題が拡大しつつあった頃の三月二十七日朝日新聞では、紙面半分を使い「映画靖国、文化庁の影、表現の自由への圧力・もっと製作者守って」との記事を載せた。明らかに表現の自由の抑圧としており、しかも抑圧者が助成金を出した文化庁であるかの如き書き方をしている。

次に三十日の朝日社説では、現実に一部右翼(?)が上映予定館に圧力を掛け、上映辞退する映画館が現れたことを受けて、「映画靖国・上映中止は防がねば」と述べ、四月一日一面では「映画靖国今月封切り中止、トラブル警戒 上映予定館が辞退」、同日社会面では「映画靖国上映中止 一番懸念した状況 上映側萎縮に危機感」と報じた。更に翌二日の社説では「靖国上映中止 表現の自由が危うい」と書き、同日の文化面、社会面でもこの問題を取り上げた。繰り返しになるが稲田氏始め政治家は誰一人この映画の中止をさせようなどとは言っていないにも拘らず。

その一方で三月二十七日の参議院内閣委員会では、有村治子議員が文化庁の助成金を問題として、映画靖国が対象として妥当かどうかの質疑応答をしており、文化庁が苦し紛れの答弁をしていた事実がある。しかし朝日はこれを報道していなかった。朝日がこれを報道したら、「表現の自由抑圧」という自らの捏造の構図は音を立てて崩れてしまうからである。こうして朝日は肝心の事件の始まりたる真実の部分を完全に無視したのである。

しかし斯様な朝日が仕組んだ執拗な事実歪曲をしたままのこの映画の問題拡大は成功しつつあった。二日の夕刊では、監督李纓と田原総一郎の対談を入れた映画「靖国」の全面広告が掲載された。七五〇万円の支援を受けるような映画に対する約三千万円と推測されるこの広告料は一体何処から出たのか。一方これだけ問題が大きくなると、三日の朝日一面では、社民党福島瑞穂の「日本の表現野自由の危機、全力を挙げておかしいと言う」とのコメントも出て、「”靖国”来月上映へ」とあるように営業的に上映を決める映画館も出てきたことを喜んで報じている。映画ヒットの予兆までが見えて来たのである。

これ以降も朝日の「表現自由の抑圧」喧伝は続き、かくて映画「靖国」は背景も経緯も何も知らない一般の人達が多数観賞し、先に挙げた一、〜七、の虚偽や捏造を知らぬ人達の間に、靖国神社に対する誤認が拡散して行った。更にこの問題は我が国内だけでは終わらず、四月六日ドイツ・フランクフルトの映画祭で上映され、四月十二日のBBC(英国放送協会)と共に、「日本の政治家や右翼の圧力により検閲され、表現の自由の危機である」という構図に何ら疑問を持たない評価がされてしまっている。“虚偽に塗れた”朝日と中国筋が最も喜ぶ映画「靖国」が、世界中にばら撒かれてしまったのである。そして八月北京五輪は問題含みの中で開催され・終了し、これに味を占めたかどうか、映画制作会社龍映等は二十年十月、更にこの映画をDVDとして発売することとなった。朝日はこれにも幾度も広告を出している事は既述の通り。また朝日のホームページ社会面では未だに「映画靖国公式サイト」を堂々紹介掲載している。斯くの通り朝日の行動は中国の思惑と軌を一つにするものであったがこれは偶然か。真実を隠蔽し虚偽を捏造してまで自国を貶めるメディアを我々は放置していてよいのであろうか。


四、靖国神社の撮影許可手続問題


平成二十年五月十二日「神社新報」に拠れば、靖国神社は「龍映」に対し当初次の内容の通知書を出して、問題映像の削除やパンフレットの回収などを求めた。

龍映からは平成十七、十八年に撮影許可願ひが出てゐるが、この映画の撮影を目的とした取材申請は確認されていない。
映画のパンフレットに霊璽奉安祭と思はれる映像が掲載されているが、これは神社の重儀であり、祭祀の尊厳性保持の観点から撮影を許可してゐない。
パンフレットには「靖国神社のご神体は日本刀」といふ記述があるが、神社の御神体は日本刀ではない。
これに対し龍映側の回答内容(「」内)とそれに対する筆者の考え要旨は次の通り

「神社で確認した十七、十八年の撮影許可願ひの内容を示せ」と言い、自らが出した申請書の内容を相手に問い直しているとは・・・・。
「霊璽奉安祭はこれまでテレビなどで一度も放送されたことはなかったのか」とは、神様に手を合わせたことのある日本人ならまずしない質問だろう。この様な儀式は極めて重要な祭祀であり、撮影申請されても許可されない事は解るからである。映画には他にも元来撮影が許可されない遊就館内や、申請もされずに無断撮影された社務所内の映像もある。
撮影許可手続問題は、以上より製作者側の違背が明らかであり、御神体の問題は次で説明する。


五、靖国神社の御神体は「日本刀」ではない


 靖国神社の御神体は「日本刀」ではない。「鏡」と「剣」であり、「剣」と「日本刀」とは同じではない。神社のドキュメンタリー映画で「御神体」を間違えていたら社会常識ではこれだけでその映画は終わりである。しかしこの映画では、放映開始直後の刀匠の刈谷直治氏の居合抜きのような映像の後、沈静した音楽と共に画面に次の字幕(横書き)が入る。

昭和6年から終戦までの12年の間

“靖国刀”と呼ばれる

     8100振りの軍刀が

   靖国神社の境内において作られた

       明治2年

      靖国神社設立

   天皇のための聖戦でなくなった軍人を

   護国の神“英霊”として祭り続けている

     246万6千余の軍人の

     魂が写された一振りの刀が

     靖国神社のご神体である

 そしてこの字幕の直後に一本の(柄も鍔も鞘もない裸の)日本刀の映像がアップされる。これにより一般観客は(まさかウソとは露思わず)、靖国神社のご神体は「日本刀」であると思い込んでしまうようにできているのである。

 その後の映像は、百人切り冤罪裁判で問題視された日本兵(?)が日本刀で罪人の首を切ろうとしている写真を載せる等、「日本刀」が殺人道具である事を繰り返し強調し、日本=侵略国家を印象付けようとしている意図が見える。又刀匠の刈谷さんに対し、日本刀は刃毀れはするか、などと執拗に聞こうとし、日本断罪に役立ちそうな証言を引き出そうとしている。そもそも靖国の御神体は何かについては、靖国記録映画の最も基本的な事実認識であり、神社に問い合わせれば直ぐ解ることである。多分問い合わせたのかもしれないが、「事実」は、映画の趣旨には不都合な故に採用しなかったというところだろう。しかし基本事実に虚偽を弄して制作した映画とは何なのか。一方で靖国始め我国の多くの神社の「御神体」とはそもそも何なのか。この知識が不十分である限り、この映画の反日性の本質は解らない。以下、靖国神社崇敬奉会誌「やすくに」(平成二十年十一月一日西岡和彦氏)及び「神社有識故実」(神社本庁、八束清貫著)等により、神社の「」について、靖国神社に代わって説明する。

 靖国神社の御神体は「鏡」と「剣」である。「御神体」は正しくは「」と称し、、、、とも言われて、神霊がせられる所のものをいう。神社では最も神秘にして神聖、侵すべからざるものであり、本殿の内陣に奥深く奉安して最も鄭重を期さねばならず、衆庶はこれを見ることはできない。

古事記等に拠れば、所謂「三種の神器」の一つである「の鏡」は天照大御神が天の岩屋戸に籠られた時に、大御神をお出しになるためのお祭りとして鋳造された青銅鏡であり、大御神が岩戸を細めに開けて御自身のお顔を映された、のに懸けられた鏡である。後に天照大御神は皇孫への天壌無窮の神勅(「この豊葦原の水穂国は、汝知らさむ国ぞ」との言よせ)の際に、「これの鏡は、ら我がとして吾が前をくがきれ」と詔まわれて、の・のと共にこれを命に授けた。以後歴代の天皇はこれを宮殿に置いて、自らの行動を、この「神鏡」と対面され大御神にお伺いを立てて決定して来たのである。第十代祟神天皇はこの神聖な「鏡」と「剣」をご自身の側に置く事は畏れ多いとして、皇女に宮殿外の別の神聖な場所で祀るように命じ、十一代垂仁天皇は皇女に命じて、五十鈴川のほとり、皇祖神天照大御神を祀る現在の伊勢神宮内宮に遷され、「御霊代」として祭られることになった。かかる事情から全国で「神宮」のみで呼ばれるのは「お伊勢さん」だけである。その後は全国各所の多くの神社では「鏡」を「御神体」として祀るようになったのである。なおこの「神鏡=」と「神剣」が伊勢に遷された後、宮殿には別の「鏡」と「剣」を造り、こちらのいわば代用である「鏡」は現在は宮中のに安置されている。靖国神社の御神体の「鏡」の製作者は不明だが、明治元年六月に江戸城大広間で行なわれた「招魂祭」で(=神様が降りられる真榊)に懸けられていた「霊鏡」であり、招魂社から靖国神社となるときにこれが引き継がれたといわれる。この「霊鏡」は本殿の更に奥の内陣に安置されており見ることはできない。我々が本殿参拝で正面に見る大きな鏡は、「霊鏡」に代わり一般参拝用に別途製作したものである。

一方「剣」は、天照大御神の弟であるがのを退治した時に、の尾から出てきた不思議な剣であり「」とも呼ばれた。命はこれを天照大御神に献上し、その後大御神から「神鏡」と一緒にに授けられたことは既に述べた。前述のとおりこの「神剣」はその後伊勢神宮に遷され祭られていたが、十二代景行天皇の皇子が内宮を訪れた時に命に授けられた。命は東伐に向かい焼津に到りによって野原で火責めに会った時、この「」で草をりい身を護って後相手を逆に火責めにした。このことからこの「剣」を「草薙の剣」と称するようになる。命は東夷を終えた後、妻の尾張の家に「神剣」を置いたまま近江伊吹山の神を静めに行き落命する。「護身剣」であることを暗示させる「神剣」は、その後宮簀媛命により熱田の地に祭られたが、三十八代天智・四十代天武天皇の宮中に一度戻った後、再び熱田神宮に祭られて現在に到っている。因みにこの「神剣」とは考古学などで見掛ける幅広諸刃の直剣であって、日本刀のような片刃でもなく反りもない。これを見ても「刀」と「剣」は別物であるが、但し古事記等では呼称においては両者を区別していない。熱田神宮の「神剣」の写真は見るからに祭祀用であって、実際の戦闘に使用されるような形状はしていない。靖国神社の御神体とされる「神剣」は明治二年六月刀匠栗原筑前によって鍛造された「鉄剣」であり、所謂「日本刀」ではない。これも本殿の奥内陣に安置されていて見ることはできない。

以上のとおり、靖国神社始め多くの神社が「御神体」とされる「鏡」や「剣」は、上記記紀等の記述によりその発祥において既に神性を帯びており、またその後の我国二千年の長い歴史と謂れを背負っているのであって、それ故に神様が憑依され、尊く崇敬されるのである。故に国家が国の命令で亡くなられた兵士を祀る靖国神社が「護身」の象徴たる「神剣」を「霊鏡」と共に「御神体」とすることに何ら不思議はない。これを否定するようなことは我国の歴史の否定であると筆者は考える。これに対し「日本刀」が現在のような形状になったのは室町から戦国時代にかけて以降であり、鍛造目的も「祭祀」ではなく「実戦」であった。映画「靖国」の制作者は、靖国神社のご神体の一方である「鏡」に付いては一言も触れていない。そしてもう一方の御神体「剣」については、「祭祀」用の「神剣」であっては困ってしまったのであろう。誰が見ても上記説明のような事実を知り写真を見れば、「日本刀」と「神剣」は別物であることは明らかである。彼らにとってこの映画では、「靖国の御神体」はどうしても「戦闘」用の「日本刀」でなければ、「日本の侵略戦争」(これ自体が巨大な虚構なのだが)を論ずることができなかったのである。普通の一般社会人であれば、自らの知る努力も含め事実を知った以上、自分たちの制作意図が間違っていたと諦めて、映画の制作自体を中止するであろう。しかし相手は一般社会人ではなく、南京問題等の捏造に限らず、政治外交関係においても虚偽が当りまえの「中国人」であった。そしてこれを日本に歪んで広めたのも、虚偽・歪曲報道を恬として恥じない朝日新聞であった。この朝日に引き摺られた、産経を除く他のマスコミも無罪とは言い難い。猛省を促す次第である。


六、善意の協力者に対する冒涜


 知らずにこの映画に映されてしまった筆者には善意も悪意もない。一方靖国神社も含め、善意でこの映画に協力した人達も少なくない。しかし以下の通り、この映画「靖国」はこれらの人達の多くをも騙したうえで制作されたことも述べなくてはならない。

 この映画の終了時の字幕の最初に登場人物として名前が挙げられているのは、刈谷直治氏、菅原龍憲氏、高金素梅氏の三名である。うち高金素梅は台湾の議員且つ反日活動家であり、この映画では靖国の社務所に押しかけて暴言を吐いていた。菅原龍憲は穏やかな浄土真宗僧侶の体裁であるが、この種の裁判にはしばしば原告で登場する反日プロ活動家である。一方刈谷直治氏は、映像からは朴訥ではあるが、刀匠一筋人生の誠実そうな人と見られる。大高氏が刈谷氏と面談した前掲論文(二十年四月六日刈谷氏宅訪問)の内容要約は以下の通り。

先ず刈谷氏の奥様は「私たち夫婦はこの映画に賛同していない。都合よく主人の映像が切り貼りされ、最初の申し出と話が違う。刀を作ることのドキュメンタリー映画という約束に協力したが、出来上がってみたら靖国神社の映画だった。」「以前一部映像を見せてもらった時、これでは困ると刈谷の名前と映像の削除を要求した。」「靖国は政治的な問題なので信頼する人を交えて全編観賞した後に承諾するか否か決めるつもりだったが、約束の日になっても李纓監督と中村高寛助監督はDVDを持参せず、今日現在も見ていない。」等々。

そして刈谷直治氏も「あんなふうになるとは・・・・」と。

また大高氏は、ご夫婦が考えた言葉を「映画靖国は不本意です。キャストとしての私の名前と私が出演している部分を削除して上映して下さいと申し入れしています」と整理した。しかし九十歳を越えた刀匠は体力を要する訴訟の原告は無理と考えている。

これで明らかなように、この映画制作者は、誠実な刀匠の晩年の仕事を踏みにじり、ご夫婦の静かな生活にも騒動を巻き起こしたのである。一方刈谷氏の抗議に対し、四月十一日李監督と田原総一郎氏他十数名の記者会見があった。李監督は「刈谷氏とは何度も会って作品も見て貰い了承も得ている。出演場面を削除してくれとは信じられない。何か大きな力により刈谷氏の心変わりがあった。」と述べて、またも「言論弾圧」かのような発言をし、記者からの質問を恐れた李・田原両名はそそくさ逃げるような卑屈さで退席したという。

次に、中村助監督に刀匠刈谷直治氏を紹介したのは、「靖国刀――伝統と美の極致」の著者であるトム岸田氏である。岸田氏は相手が日本人であり自著の読者であるとのことから、「靖国刀を日本の伝統文化として映画にしたいので刀匠を紹介して欲しい。宗教、政治には関係ない。」との言葉を信じ、関係者が中国人だとはおくびにも出さなかったために、刈谷氏を紹介してしまった、という。完成試写を見て裏切られた気持ちになり、自分の名前は消させたが、刈谷氏には本当に申し訳なく悔やんでいるとのことである。映画「靖国」は靖国神社に対しても刈谷氏に対しても、この様な姑息なペテンを策して出来た映画なのである。


七、私の決意と協力のお願い


 さて私の肖像権侵害は個人的ではあるが、以上述べたとおりこの裁判は我国と靖国の名誉の為には絶対にやらなければならぬ、負けてはならない戦いである。

第一回口頭弁論を明日に控えた三月四日午後四時、映画「靖国」訴訟支援会事務局長の藤田裕行氏(南部藩士子孫)と、私に最初にこの映画への登場を知らせてくれた濱田實氏との三人で「出陣」の靖国神社昇殿参拝をし、「裁判必勝」をご英霊に祈願した。先に日本パラオ協会は一昨年靖国神社での「パラオ展」の共催等で神社との縁がある旨を述べた。パラオは文政四(一八二一)年南部藩住民の商船がパラオに漂着して四年後乗員の帰国以来日本に知られるようになったが、故南部利昭宮司は「ほう、我が領民が」と甚く感心され、ご幼少の頃ご実家の庭に背丈ほどもあるようなシャコガイの殻が幾つもあったことを思い出された。これもまた神社とのご縁である。私は昨年来の本件につき元旦日付で陳述書を完成させ弁護士に送付した数日後、南部宮司のご帰幽に接した。そして右出陣祈願の日には、宮司代務者三井勝生権宮司に親しく激励も頂いた。斯様なご縁がある靖国神社へのご恩返しのためにも必勝の思いを強くするのである。

最後に、私を応援して下さる友人・知人が中心になって設立された「映画『靖国』肖像権侵害訴訟を支援する会」の挨拶文を掲載し本稿を終わる。


平成二十一年二月十一日(建国記念日) 映画「靖国」肖像権侵害訴訟を支援する会

                       会  長  加瀬 英明

                       応援団長  藤井 厳喜

       事務局長  藤田 裕行

 拝啓 皆様に置かれましては益々ご健勝のこととお慶び申し上げます。

 さて平成二十年五月、中国人・法人の手による映画「靖国――YASUKUNI」が製作され、台湾の反日活動家高金素梅を登場させ暴言をさせる等、その反日的な製作意図や、靖国神社始め多くの人達が映画になることを知らずに撮影されたこと等が問題になりました。またこの映画の製作には、元来日本人(法人)が作成する日本人の映画に対してのみ付与される筈の制作費補助金七五〇万円が、文部科学省より支払われたという問題も起きております。更にこの映画は同年十月にDVDとなり、反靖国の立場の朝日新聞がA3大フルカラーの販売広告を掲載しています。

 このような問題映画のところ、愛国者であり靖国神社への尊崇の念篤い黒岩徹氏が、本人は全く知らずに主に黒岩氏に焦点が当てられるようにして撮影されていたことが判明致しました。黒岩氏は、このようなことは、我国の報道関係の正義や靖国神社およびご英霊の名誉に関わることであり、これを犯す今回の映画の中国人監督・製作会社・配給会社を、「肖像権侵害」として勇気を持って敢然告訴することに致しました。

 他方被告側答弁書を見れば、この種の靖国訴訟にはしばしば名前が出る代々木系を含む反日弁護士が名を連ねております。これに対するに、原告側でも高池勝彦弁護士を代表とする弁護団を組み、不敗の決意で当って下さることになりました。

 さて本件は明確な肖像権侵害と目されますが、敵はしたたかであり、長期化も予想されます。付きましては、日本と靖国の名誉を守り、中国人の横暴を粉砕する為に、ここに黒岩徹氏並びに本裁判へのご支援を何卒宜しくお願いする次第であります。

                                  敬具


事務局よりお願い:裁判は長期化が予想されます。何卒ご協力をお願いします。

郵便振替口座:00130-8-432995 名義:映画靖国訴訟支援会

 問合先:事務局長 藤田裕行(080-5543-0111) 

  第二回口頭弁論は五月十八日十三時から、東京地方裁判所七一二法廷      
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2009年06月25日(木)
◆麻生首相、7月7日にローマ法王と初会談◆
●麻生首相、7月7日にローマ法王と初会談



http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/090625/plc0906250922002-n1.htm


2009.6.25 09:21
 ローマ法王ベネディクト16世が来月7日、
王庁(バチカン)で麻生太郎首相と初会談することになった。
在ローマ消息筋が24日明らかにした。日本の首相と法王との会談は、
1999年に小渕恵三元首相と前法王ヨハネ・パウロ2世
(いずれも故人)がバチカンで会って以来。

 また、バチカンは同日、法王とオバマ米大統領の初会談が
来月10日、バチカンで行われると発表した。

 麻生首相はカトリック教徒で、来月8日からイタリア中部
ラクイラで始まる主要国(G8)首脳会議(サミット)を利用し、
法王と会談することをかねて希望していたという。

 日本とバチカンとの関係では、バチカンのマンベルティ外務局長
(外相に相当)が3月、外務局長として初めて日本を訪問、
中曽根弘文外相らと会談しており、
トップ会談実現への期待が高まっていた。(共同)


**************************************************************

おつるのひとりごと

おつるは、大好きな麻生首相と大好きなローマ教皇様の
会談には、ドキドキ  うれしいよ。

首相がローマ教皇様にお会いするのは
ヨハネ・パウロ2世の時から数えて 10年ぶりだそうだ。

きっと 中川大臣のバチカン報道で朝日新聞が嘘の報道をしたことを
告発した勇気ある神父様、和田 誠神父様が立ち会われるのじゃ
ないかな。

ヨハネパウロ2世と小渕首相の時も 通訳をなさったのは
和田誠 神父様だもの。

以前の記事はこちら↓


●中川大臣のバチカンでの失態はなかったとバチカン和田誠神父が語る
http://blogari.zaq.ne.jp/otsuru/article/795/




きっと素晴らしい対談になると思うよ


さあ、いつも 靖国神社への首相の参拝を抗議している
カトリック正平教 大阪教区 松浦補佐司教


そして 「政教分離」にこだわり続けている
憲法20条の会の さいたま教区 谷司教


さあ 麻生首相のパチカン訪問には どうするの???

抗議するの???  しないの???

抗議しなければ、いつも言ってる政教分離についてのこだわりに
整合性がなくなるよ〜笑

抗議すれば、バチカンを否定することになるよ〜笑

どっちにしても 整合性がないよね

北朝鮮ミサイルへの抗議の時とおんなじように
麻生首相に批判したり意味不明のメッセージ出すわけ??


もともと共産主義・社会主義の正平教は
バチカンにも麻生首相にも 批判してるんだろうけど

  どんどん 墓穴掘ってるで

もう つぶれてしもたらいいねん カトリック正平教なんて。
2009-06-25 14:29 | 記事へ | コメント(9) | トラックバック(0) |
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平田生雄さんを偲ぶ会 
生さんが亡くなって、泣いて泣いて泣いたお葬式から

もう 2か月以上がたちました。

6/22は 平田生雄さんのお誕生日

昨年のお誕生日に送ったメッセージのお返事・・・

2008/6/23
Ao Bem Amiga Otsiru chama.
ありがとう・・・南宇和高校の再建に燃えて南宇和郡愛南町で
誕生日を迎えました。
高校生に囲まれて一緒にボールを蹴りながらバースディパーティ
なんて涙が出ちゃいそうですよ。(感涙+58歳) 【生】



その6/22に 平田生雄さんを偲ぶ会 がありました。

19時 キックオフでした。

生雄さんがいつも笑って座って、大きな声で話していた
梅田のサポーターズフィールドです。

                御元気だったときの生さん↑

ダニーちゃまや 

日本最高齢のサッカージャーナリストの賀川さん

そしてデータアナリストのWilliamさん

たくさんのひとが集まりました。

ダニーちゃまの最初の挨拶で
「しめっぽくならないで 楽しく飲んで
 生さんのこと 語ろう」とあったのですが

もうその時点で おつるは うるうるしてしまいました。

おつるのCROSPOには まだ
生さんの私への紹介文が残っています。

おつるの七変化に出会うと魅了されます。

おつるが居るだけで華やかになります。
聡明で茶目っ気溢れる笑顔に癒されますよ。


おつるが サッカーだけでなく、いろんな事
頑張ってることを 七変化って言ってくれてました。

だから これからも 七変化がんばる。


そんな中で 神戸の テーラー喜田さん
http://www.just.st/?in=307620

が来られて
みんなを笑顔にしてくれました。
有難うございます。


生さんのおかげで、またいろいろな人と笑って飲んで
幸せでした

おつるがオバカな話して、ビール何杯もおかわりしてるとこ

生さんが そばで

「あほか おつるっ」 笑 って

また言ってくれてる気がした。


生さんは 永遠になった。

天国は ひとの心の中にある

だから 生さんは 天国にいるんです。

みんなの心の中にちゃんといつまでもいるから。


サッカー練習さぼってたら 試合でだらだらしてたら

生さんに怒られる。

おつる がんばる。  


おつるは 生さんが 大好きだよ。

絶対 忘れない。



でも でも  もう一度 おしゃべりしたい。
会いたいよぅ。

生さんに芋焼酎作って 下手くそって怒られたい。

おつるのあほって 言われたい。








ダニーちゃまの日記より 

平田生雄兄を偲ぶ会

2009年06月23日18:14
昨夜は【生】兄を偲ぶ会、20名ほどの仲間が集まりました。
故人の思い、とか勝手に言って楽しく呑む会とさせていただきました。
振り返ったらカウンターでクダ巻いている平田さんが座っているような・・・ いつもと同じ飲み会でしたが何かが違った。

これからも元気でサッカーを語り続けることが
【生】さんへの供養になると信じてワシは生きていく。


もうしばらくはそちらへは行けないと思う。



2009-06-25 03:48 | 記事へ | コメント(2) | トラックバック(0) |
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2009年06月22日(月)
兵庫県リーグ 第2戦 
本日の最高気温 27度 そして湿度はなんと 78パーセント


まるで 東南アジア・・・熱帯雨林か
ジャングルかってかんじ・・・


そんななかで

神戸 垂水の健康公園で、女子サッカーの
兵庫県リーグ 第2戦が行われました。

第1戦の4月の試合は、私は、参加できなかったのですが

 2−0と 勝利。


今日は、歴史ある高砂72レディースさんです。

高砂のチームには、ベテランで憧れの選手がおられます


おつるは、春からいろいろと娘の出産や教会の用事や
仕事が重なって、なかなか練習にも参加できずにいました。

昨日は久しぶりに、試合の前日練習に参加しましたが
体が重いです。

体重 非常事態宣言です。

でも 久しぶりのサッカーは やっぱり最高


試合には、メンバー14人が参加しました。

みんな暑い中、アップの基礎練習から汗びっしょりです。

なんだか、岩盤浴かサウナの湿気の中でプレーしてるような感覚

熱中症になりそうな・・・・


おつるは、先発ではなく 控えです。

しばらく練習も行ってないので
また先発で出してもらえるように がんばらなくちゃ。。。 

ベンチで応援。

前半からチームメンバーは、この異常に暑い中、
いいプレーの連続で、攻める、走る!!

惜しいシュートが何本も!!

がんばれーーーーーーー

パスもよくつながっているし、チーム全体の
チームワークがどんどん すごくなっている気がするー


でもなかなかシュートが決まらない。

高砂さんの ディフェンスがとってもうまいのです。
そしてゴールキーパーもナイスプレーをされます。
さすが、ベテランさんのチームです。

前半 0−0

そして 後半・・・・

コーナーキックも何本もありながら 決まらない。
惜しい・・・

そして後半も時間がすぎたころ、おつる交代で出してもらいました。

いつもは、右サイドバックなのですが
左サイドなので、ポジショニングが難しくてなかなか
思うように走れないまま 試合は終了・・・

結果 0−0でした。

監督は、引き分けはだめだとおっしゃっていたので
残念そうにのされていました。

わたしも悔しかった・・・

監督は、試合の前に、
最近、チームワークが良すぎて、仲良すぎて 私語が多いので
御注意されました。
試合の前の集中力と気合について、
厳しく、指導され、強いチームはやはり集中力が違うし
最後まであきらめない、最後まで勝ちに行く気持ちが違うと。。。


そこが今後 うちのチームが勝つためのポイントですね

私は いくら練習しても
キープ力がないのと、ドリブルが下手です。
走るのが早いくらいしかとりえがないです。

でも チームメンバーがいつもアドバイスをたくさんしてくれて
感謝です。

メンバーのプレーに少しでも貢献できるよう
これからも がんばります。

まだまだ 来年 3月まで 7試合が残っています。

優勝めざしてがんばろうーーーーーーーーー















2009-06-22 00:54 | 記事へ | コメント(2) | トラックバック(0) |
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2009年06月20日(土)
Did China's Nuclear Tests Kill Thousands
http://www.scientificamerican.com/article.cfm?id=did-chinas-
nuclear-tests

<
色:#009900>From the July 2009 Scientific American Magazine |
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Did China's Nuclear Tests Kill
Thousands and Doom
Future Generations?


Radioactive clouds hung over villagers as China detonated
nuclear bombs in the air for four decades
By Zeeya Merali


Enver Tohti remembers the week that it rained dust. That
summer of 1973 he was in elementary school in Xinjiang
Province, China’s westernmost region, which is inhabited
mostly by Uygurs, one of the country’s minority ethnic
groups. “There were three days that earth fell from the sky,

without wind or any sort of storm. The sky was deadly
silent—no sun, no moon,” he recalls. When the kids
asked what was happening, the teacher told them that there
was a storm on Saturn (its Chinese name translates into
“soil planet”). Tohti believed her. It was only years later
that he realized it was radioactive dust raised by the test
detonation of a nuclear bomb within the province.


Three decades on, Tohti, now a medical doctor, is launching
an investigation into the toll still being taken—and
one that the Chinese government steadfastly refuses to
acknowledge. A few hundred thousand people may have died as a
result of radiation from at least 40 nuclear explosions
carried out between 1964 and 1996 at the Lop Nur site in

Xinjiang, which lies on the Silk Road. Almost 20 million
people reside in Xinjiang, and Tohti believes that they offer
unique insight into the long-term impact of radiation,
including the relatively little studied genetic effects that
may be handed down over generations. He is establishing the
Lop Nur project at Sapporo Medical University
in Japan with physicist Jun Takada
to evaluate
these consequences.

“It is a sad opportunity, but it is an opportunity
nonetheless to both learn something new and replicate what we
think we are seeing elsewhere,” observes Anders
Møller, who co-directs the Chernobyl Research
Initiative (CRI) and is based at the National Center for
Scientific Research in Paris.


Takada has calculated that the peak radiation dose in
Xinjiang exceeded that measured on the roof of the Chernobyl
nuclear reactor after it melted down in 1986. Most damage to
Xinjiang locals came from detonations during the 1960s and
1970s, which rained down a mixture of radioactive material
and sand from the surrounding desert. Some were three-megaton
explosions, 200 times larger than the bomb dropped on
Hiroshima, says Takada, who published his findings in a book,
Chinese Nuclear Tests (Iryo­ka­gakusha, 2009).


In the early 1990s Takada, who studied radiation effects from
tests conducted by the U.S., the former Soviet Union and
France, was invited by scientists in Kazakhstan, which
borders Xinjiang, to evaluate the hazard from Chinese tests.
He devised a computer model to estimate fallout patterns
using Soviet rec­ords of detonation size and wind
velocity as well as radiation levels measured in Kazakhstan
from 1995 to 2002. Takada was not allowed into China, so he
extrapolated his model and used infor­mation about the
population density in Xinjiang to estimate that 194,000
people would have died as a result of acute radiation
exposure. Around 1.2 million received doses high enough to
induce leukemia, solid cancers and fetal damage. “My
estimate is a conservative minimum,” Takada says.


The figures came as little surprise to Tohti. Ironically, as
a teenager, he was proud that his province was chosen for
tests marking China’s technological and military progress.
His view changed when he became a physician and saw a
disproportionate number of malignant lymphomas, lung cancers,
leukemia cases, degenerative disorders and babies born with
deformities. “Many doctors suspected this was connected to
the tests, but we couldn’t say anything,” Tohti recalls.
“We were warned away from researching by our superiors.”


Tohti was only able to speak out in 1998, when he moved to
Turkey, ostensibly as part of his medical training. There he
joined forces with a team of British documentary filmmakers
whom he smuggled back into Xinjiang as tourists. Together
they uncovered medical records showing that cancer rates were
30 to 35 percent higher in the province than the national
average.


Tohti and Tanaka’s Lop Nur project could fill in many gaps
left open by analyses of other mass radiation poisonings. In
studying the Chernobyl aftermath, Møller and his
colleagues found that animal populations in the area still
show a significant decline in numbers and an increase in
genetic mutations, in contrast to earlier reports of
recovering wildlife.

But pinning down generational effects in humans has proved
difficult, because relatively little time has passed since
the disaster and a small number of people were affected,
explains Timothy Mousseau, a CRI co-director based at the
University of South Carolina. Still, accumulating data
suggest “that there is serious genetic damage in people
living in these contaminated areas,” he says. For this
reason, Mousseau is optimistic that the Lop Nur project will

build up a dossier of genetic evidence. The difficulty,

Møller and Tanaka agree, will be deciphering whether

effects on second and third generations are inherited genetic


mutations or are caused by exposure to contaminated water and soil.

For Tohti, the priority is helping the sick. In March the
French government announced that it would compensate civilian
victims of its nuclear tests, which were conducted in
Polynesia. In 2008 the Chinese state news service Xinhua
reported that its government is paying undisclosed subsidies
to military personnel involved in the tests. Tohti wants aid
extended to affected civilians, adding that 80 percent do not
have health care. “Right now, they can’t afford
treatment,” he says. “So all they can do is wait to die.”


The Lop Nur project is just the tip of an international
iceberg, remarks Abel Gonzalez of the Argentine Nuclear
Regulatory Authority in Buenos Aires. Radiation researchers
have had easy access to only three sites where nuclear blasts
occurred—the U.S.’s site Bikini Atoll, the Soviet
Union’s Semipalatinsk site in Kazakhstan and France’s site
in Polynesia—and these areas represent just a small
fraction of the approximately 500 atmospheric tests the world
has seen. “We have a moral responsibility to investigate all
nuclear test sites,” Gonzalez says. Certainly for the
Xinjiang people affected by the Lop Nur tests, truer words
have never been spoken.

When Population Bombs Go Nuclear
Does repeated exposure to radiation affect germ-line cells
such that the same mutations get passed on, generation after
generation? That is one question the Lop Nur project hopes to
answer. The other two major instances of a large population
exposure to radiation—the atomic bombs dropped over
Hiroshima and Nagasaki—have produced no generational
effects in survivors, points out Roy Shore, chief of research
at the Radiation Effects Research Foundation in Hiroshima.
But he adds that the exposure patterns vary. “The atomic
bomb was an almost instantaneous exposure,” Shore explains.
“We still need good data on radiation that has been
delivered time and time again, over a long period—there
may be different effects.”


Note: This article was originally printed with the
title, "Blasts from the Past."




2009-06-20 22:21 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
| 中国の核実験 / 日本シルクロード科学倶楽部 / 東トルキスタン ウイグル |
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●サイエンテイフィック アメリカンが中国の核実験災害を報じました
●札幌医科大学 高田純教授 ブログより
http://junta21.blog.ocn.ne.jp/blog/2009/06/post_d125.html




米国の著名な科学雑誌 

サイエンテイフィック アメリカンが

中国の核実験災害を報じました




サイエンテイフィック 
アメリカン 2009年 7月号
From the July 2009 Scientific
American Magazine

http://www.scientificamerican.com/article.cfm?id=did-chinas-nuclear-tests




Did China's Nuclear Tests Kill Thousands and Doom Future Generations?
Radioactive clouds hung over villagers as China
detonated nuclear bombs in the air for four decades


 本年3月に「中国の核実験」の英語・ウイグル語翻訳版が出版された直後、
サイエンテイフィック アメリカン の記者から、取材申し入れがありました。
私高田純との間で、電話、メール、関連情報提供などを繰り返しました。

 記者は、ロンドンのアニワル氏から現地の生の話を聞き、
さらに遺伝影響について専門家の意見を集めました。

 国際的に多くの読者のある著名な科学雑誌サイエンテイフィック
 アメリカンが、中国の核実験災害を報じたので、今後一層の情報拡散 と
研究の進展が期待できます。 

 なお、この雑誌の日本語版は、日経サイエンスとして
発行されています。
おそらく、広島・長崎の平和式典前には日本語版がでます。
http://www.nikkei-science.com/



J博士 関連記事 http://junta21.blog.ocn.ne.jp/blog/2009/04/post_3e18.html

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2009-06-20 22:10 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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箕面教会 和田幹男神父様の言葉 「その名はインマヌエル」 と聖体賛美式
6/14は、「キリストの聖体」の日 聖体賛美式でした。

久しぶりに聖水が復活していて、嬉しく思いました。


この日は「子供とともに捧げるミサ」でしたが、
聖歌も子供向けの歌ではなく
聖なる歌を選んで、聖体賛美のためのラテン語の歌

ADORO TE O PANIS CAELICE を

聖歌隊が歌い、

神父様の祈りも厳かで、いわゆる「子供ミサ」という他教会で
行われる色合いは感じられず、
「子供もともに祈りましょう」という意味あいであり
厳かで、違和感はありませんでした。

この日はごミサのお話で、和田神父様は
「インマヌエル」をなんどもなんども 繰り返し
お話されました。

インマヌエル ・・・・内なる神

インマヌ(עמנו 、Immanu、われらとともにいる)とエル(אל 、El、神)を組み合わせた名前
で、「神はわれらとともにいる」の意味

神様は、どこにいるのか
神は、遠い空の上とか 離れたところではなく

実は 自分の中にいる。 自分とともにいる。
われらとともにいる・・・自分の内にいるんだよ
自分の心の奥の奥の深いところにいるんだよ

というお話をされました。

神道にも四魂という神様のわけ御霊が自分の内にあるという
考え方がありますが、

未信者の方には
キリスト教の神は、遠い空の上の天国にいるというような
感覚でとらえる人も多いかもしれませんが

違うのです。 神はわれらとともに内にいるのです。

今日も跪いて口で拝領しましたが、キリストの聖体の日
特別な感覚がしました。

***********************************************************




聖体賛美式は 鈴を鳴らして
侍者さんと神父様が登場され、

ラテン語の O Salitaris(オ サルタリス) や Tantum ergo(タントゥム エルゴ)を歌いました。

***********************************************************

その名は インマヌエル   

              主任司祭 和田幹男

主の使いが夢に現れて、ヨセフに告げたイエスの名は、
「インマヌエル」でした。(マタイ1の23)
これは象徴的な名で、その意味は「神はわれらと共にいます」です。

この「共にいる」神は、神とはいかなるおかたであるか、聖書全体が
教えていることを要約しています。かつてモーセは、顕現された神に
その名を尋ねると、「わたしはあってある者」という答えをうけまし
た(出エ3の14) これは奇異な表現ですが、実は「わたしはたしかに
いる」ということです。その神がどのように「いる」のかというと、
その大きな文脈から、いつも、特に自分の民が苦悩にあるとき、「共
にいる」ということです。その「共にいる」神は、「情けに厚く、憐
れみ深く、怒るに遅く、慈しみと誠に富む」(出エ34の5-6)おかただ
と、さらに正確を期して言われます。このように「主」とは、どのよ
うな神なのかを言っています。
預言者イザヤは、その意味をこめて、来るべきメシアの名は「インマ
ヌエル」だと告げたのでした(イザヤ7の14)
メシアは、その主である神を証しする者ということです。イエスはま
さにその「われらと共にいる神」であると、福音書マタイは言うので
す。
 旧約聖書は、その主である神が、いつ、いかなるときも、ご自分の
民と共にいてくださったことを証ししています。新約聖書は、その父
である神が、同じく神である御自分の独り子を人間にならせるほど、
人間と「共にいる」神であることを証ししています。ここに受肉の秘
儀があります。聖母マリアの胎内で人間となられた神の独り子は、神
が「われらと共にいる」神であることを、あらためて、なおいっそう
深い意味で証ししているのです。
 主なる神はそこまで「われらと共に」いるようにしてくださるの
か!
2009-06-20 05:05 | 記事へ | コメント(2) | トラックバック(0) |
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【特別号】 陸軍史あちらこちら−(16) 『幕末の精鋭−幕府陸軍歩兵隊』
━━━━━━━━━━━
【特別号】 陸軍史あちらこちら−(16)              荒木肇
『幕末の精鋭−幕府陸軍歩兵隊』

━━━━━━━━━━━━━━━━━━

▼燧石(すいせき)銃から雷管銃へ

 わが国では良質な燧石(すいせき:火打ち石)が産出しませんでし
た。すぐ欠けてしまうし、何より火花が小さい。おかげで、火縄によ
って発射薬に点火する仕組みが三百年も続きました。技術改良も進
み、幕末期にはほとんど完成された性能をもっていたことはよく知ら
れています。弾丸の重量によって、つまり弾丸の直径の大きさで銃も
規格化されていました。
 何より優れていたのは、その撃発するときの動揺が少ないことでし
た。引き金をひくと火縄をはさんだハンマーが火皿に落ちる。その動
きがたいへん軽い。照準がずれることが少ないのです。

 これに対して、西欧で発明された燧石銃(フリント・ロック)の大
きな衝撃は、照準に大きな影響がありました。燧石式の撃発システム
は、燧石を鋼鉄にぶつけて発火させるので強力なスプリングを使わな
ければならないからです。激発の瞬間に、銃が動いてしまっては命中
どころではありません。また、発火率も8〜9割ということです。
 ということは、ここぞというときに発火しないこともある。また、
風の強いときなどは火花が吹き散らされてしまいました。それでも火
縄より扱いがかんたんというわけで、燧石システムはあっという間に
広まることになったのです。

 17世紀の末から18世紀の半ばまでの60年間、イギリス軍の制式小銃
だった燧石式ブラウン・ベス型小銃。150ヤード(約137メートル)も
離れたらまず当たらない。改良された1777年型の小銃も、ふつうの射
手で200メートル先の三階建ての家をねらって、3発に1発くらいし
か命中しなかったといわれています。でも、それで良かったのです。
西欧の小銃は狙撃する兵器ではなく、集団戦の道具だったからでし
た。

 当時の歩兵の集団戦法は、ナポレオンのロシア侵入を描いた『戦争
と平和』によって分かります。敵前でも整然と横列で行進し、数十メ
ートルの距離で3列から4列に並んだ兵士同士が撃ち合う(とくにソ
連の映画がよかった)。機を見て指揮官の号令で突撃する。騎兵が襲
ってきたら「方陣(正方形の陣形)」をつくり、銃剣で槍ぶすまをつ
くって接近をはばみ、後列の兵士が敵を撃つ。
 ついでにいえば、横列の歩兵の横には大きな斧をかついだ曹長(サ
ージャン・メイジャー)がいました。その斧を横にして兵士の列を整
えたり、恐怖で逃げる兵士を処断したりしたそうです。また、階級名
に「ランス・コーポラル(直訳すると槍の伍長)」という言葉が残っ
ています。現在は「兵長」などと訳されていますが、これも槍を統制
の道具に使っていた名残(なごり)かもしれません。

 発火装置に革命が起きたのは「雷汞(らいこう)」の発明からで
す。1774年に、ルイ15世の軍医監だったバンヤンという人が発明した
という説があります(所荘吉氏の『火縄銃』というご著書による)。
雷汞というのは化学名を雷酸第二水銀といい、水銀を硝酸にとかし、
エチルアルコールと反応させた灰色の結晶です。これは摩擦や打撃、
点火でかんたんに爆発する。この小さい粒を発射薬にくっつけたらど
うか。それを叩いたらどうだろう。こういうことから「雷管(らいか
ん)」が生まれました(純粋な雷汞だけでは発火が瞬間にすぎるため
に精製した硝石をさらに加えました)。

 1840年にはオーストリア軍、42年にはイギリス軍がこれを採用。た
だちに独、仏、蘭でも雷管銃がつくられるようになりました。これを
鉄砲好きの日本人が見逃すはずはありません。ただちに実物を買い入
れ、文献をたよりにつくり出そうという人がいました。
 ここでも誤解があるようですが、日本人はもともと鉄砲、大砲が大
好きでした。白兵戦より、「遠戦志向」。危険な目にあうことをなる
べく避けて、遠くから相手を倒したい。遠い過去では弓矢がなんとい
っても主要兵器でしたし、鉄砲の伝来以来、あっという間に小銃大国
になったくらいです。武士の中には鉄砲撃ちを趣味とする人も多く、
農山村でも鉄砲の所持そのものはほとんど自由でした。

 徳川将軍の親衛隊である「御持小筒組」などは、本来、将軍自身が
もつ鉄砲を担いだのが組織の由来です。だから「御」の字がついてい
る。もともとは、弾ごめをして将軍に渡す従卒のことだったのです。
テレビの戦国時代劇では、そのあたりは決して描かれないでしょう。
たとえば、織田軍団の佐々成政(さっさ・なりまさ)や明智光秀(あ
けち・みつひで)などは小銃射撃の名手だった。彼らが自分で弾と火
薬を装填したとは思えません。じっさいには、すぐそばに専門の従卒
がいたのです。制作者の無知によるものか、無関心のせいです。


 さて、雷管銃です。まず、銃腔の外で発火させ、装薬に点火するも
のを外火とします。これは、これまでの前装(銃口から弾丸と火薬を
入れる)銃の外から導火薬とするタイプ。もう一つは、メタル・カー
トリッジ、つまり金属製の薬莢の底部などに雷汞をつけるもの。こち
らの方は、今も使われています。弾頭が半分くらい見えて、発射薬が
つまった金属製の薬莢と一体になっているものです。内火といいまし
ょう。

 幕末期は、前装滑腔(かっこう)銃から同じく施条銃、後装施条銃
という3つのタイプがそろった時代でした。わが国では、雷管による
点火方式の滑腔銃(つまり外火)から輸入がされ始めました。滑腔と
はなめらかな内部をもつという意味です。現在では狩猟用によく使わ
れる散弾銃などの銃腔タイプになります。
 銃砲弾に回転をあたえて、そのジャイロ効果で直進性や、弾速をあ
げる工夫が施条(ライフリング)です。現在でも大多数の銃砲にはそ
れが使われていますが、戦車砲などではたまに滑腔砲身が使われてい
ます。自衛隊の90式戦車の主砲は120ミリ滑腔砲です。内部をのぞく
とツルツルの鏡のような美しさです。これは砲弾に工夫がされ、羽根
がついて姿勢を安定させています。同じことが迫撃砲(これもツルツ
ル)にもいえます。

 最初の頃の輸入銃をゲベールといいました。オランダ製が多く、す
ぐに国産化されました。ゲベールというのは小銃のことをいいます
(ドイツ語のGewehr)。つづいてインハンテリ・ゲベール、直訳すれ
ば歩兵銃が輸入されました。口径は17.5ミリメートル、全長1.498メ
ートル、重量は4.8キログラムという大型のものでした。銃尾(じゅ
うび:銃身後部)の右側に火門があり、発火機には燧石式と雷管式が
ありました。火門というのは銃身内部の発射薬に火をみちびくための
穴のことです。


▼フランス人ミニエーが開発した前装式ライフル銃

 1846年、フランスの陸軍大尉ミニエーが開発した前装のライフル銃
です。わが国にはオランダ製、英国製、米国製、ベルギー製のものが
やってきました。
 前装というとおり、弾丸は銃口からいれます。しかし、弾丸の形と
弾底(弾丸後部)に工夫がありました。椎の実、いわゆる「ドング
リ」の形をしていて、後部に凹みがつくられていたのです。発射の火
薬ガスの力で後部につけられた木製の栓が凹部におしこまれます。ス
カートのように弾底が木の栓で広げられました。それがライフル(施
条)に食いこむという工夫でした。ガスの漏れは格段に少なくなりま
した。弾丸はライフルによって回転します。

 幕府歩兵隊は1853年式といわれた英国製のエンフィールド銃を採用
したようです。この銃は「エンピール銃」として幕末史料に登場しま
す。これは銃に「Tower」という文字が刻まれていたために「とば」
となまって読まれ「鳥羽ミニエー」といわれていました。この弾丸
は、より改良され木栓はなくなり、ガス圧だけで弾底が広がりまし
た。口径は14.66ミリメートル、弾丸重量は33.6グラムでした。銃の
重さは3.88キログラム。全長は125センチですから、後の国産38年式
歩兵銃の127.5センチ、重量4キログラムと似ています。



▼直立すら難しかった当時の日本人

 さて、歩兵の訓練です。記録によると、まず、柔軟体操から始めな
ければなりませんでした。当時の日本人は体が硬く、走ることも苦手
だったのです。現在の子どもたちは、小さい頃から体を動かし、幼稚
園や保育園でも団体行動訓練を受けています。小学校に入れば、週に
3時間の体育の時間があり、ボール運動や縄跳びなどで体を鍛えてい
ます。
 昔の子どもたちにはそうした配慮はありません。幼い頃から厳しい
労働につき、あるいは、身分上のしつけをされて、体は固まっていた
といっていいのです。

 駆け足すらできません。直立することすら難しかったのです。大
正、昭和になっても、「ひかがみ=膝の裏側=を伸ばす」といった言
葉があったくらいでした。
 歩兵は単に銃を手にして戦うといったものではありません。銃が撃
てるといっただけでは使いものにならない。それぞれがバラバラに戦
うわけではないのです。当時でいえば、銃隊を組まねばなりません。
指揮官の号令にきちんと従って、縦隊から横隊へ組みかえたり、右、
左に旋回したりと複雑な運動をこなすことになります。装填動作も、
みながそろうところに威力がある。

 歩兵たちは、現在の自衛官や過去の軍人たちと同じように猛烈に鍛
えられました。
 まず、直立不動の姿勢からです。旧軍でも、この訓練から始まりま
した。次に「かしらーっ、右!」でいっせいに首を右に向ける。「直
れ!」で正面を向き、「小隊、前へ進め!」で40人の小隊がそろって
左足から踏み出す。
 一時採用された英国式では、歩幅は75センチ、歩く速さは1分間で
110歩。駆け足は歩幅90センチで1分間に150歩です。歩兵たちの身長
は、5尺2寸以上、今でいえば158センチでしたから、当時ではなか
なかの大男ぞろいでした。ちなみに現在の自衛隊の採用基準は155セ
ンチ以上ですから、身長の制限では幕府歩兵の方が厳しかったので
す。

 銃が渡されるようになると訓練はもっときつくなりました。兵隊の
苦しさは、重さ4キログラムの銃をいつも持っていることです。これ
ばかりは、経験者でなくてはなかなか苦労が分かりません。よく、軍
事のことはインナー(部内者)でなくては分からないといいますが、
実際、その通りだと思います。兵隊(軍人)の辛さは体験者しか理解
できません。武器さえもてば戦えるだろうなどとは、とんでもない間
違いです。

 肩ににない、肩からおろして床尾(しょうび:銃床の端)を地につ
け、右手でもつ。「立てー、銃(つつ)!」の号令で、この動作を行
います。「肩へー、つつ!」で右肩にのせる。旧陸軍では、「担(に
な)えー、つつ!」の動作です。およそ0.6秒で行わせたといいま
す。敬礼動作の「捧(ささ)げー、つつ!」もできなくてはなりませ
ん。銃剣を銃口につける「けんー、つけえ!」、同じくはずす「けん
ー、はずせ!」(現在は「着けー、けん!」、同じく「とれー、け
ん!」)。

 次には、いよいよ弾丸と装薬の装填動作です。「こめー、つつ!」
の号令で、右手で銃を体の正面に立て、左手にもちかえる。ハンマー
(雷管をたたくスプリングしかけ:撃鉄)を半分起こす。右手で腰の
ケースから装薬の紙包み(パトローネ)を取り出して、その底部を犬
歯でかみ破る。銃口から火薬をいれる。弾丸を先に入れ、空になった
パトローネをラムロッド(さく杖)で突きこむ。このとき、あまり強
く突くと弾頭を変形させてしまう。雷管(ニップル)を取りだして火
口にはめこむ。ハンマーを全部起こす。あとは引き金をひけば、ハン
マーが雷管をたたき、発火させます。ベテランになると、これらを

2.5秒でこなしたそうです。


▼ミニエー銃 VS ゲベール銃

 このミニエー・ライフルとゲベール銃(滑腔銃)の威力の違いは、
長州戦争で明らかになっていました。野口氏の著書の中に、幕府軍側
で参加した福山藩士の聞き書きがあります。それをご紹介しましょ
う。
『まず、このところの戦争は刀疵(かたなきず)や槍傷はない。全
部、砲丸の傷である。弾丸傷にも浅い、深いがあって、盲貫(弾丸が
抜けずに体内にとどまってしまう)もあれば貫通もあった。ただ、弾
丸さえ抜けば案外、命は助かるようだ。困ったのは小具足(こぐそ
く:軽便な防具)や脛(すね)あてだった。足などに弾丸があたるの
は傷として軽いように思われるだろうが、実は脛あてなどの細かい鎖
が体内に入ってしまう。これが取り出せずに、たいへん苦しむことが
ある。だから、みな、鎧(よろい)や小具足を着なくなった』


 福山藩の装備は滑腔のゲベール銃でした。これの射程が短かかった
(およそ300メートル)。長州兵は距離4町から5町の距離から撃っ
てきた。436から565メートルです。尖り玉がひゅうーという音をたて
て飛んでくる。長州藩のミニエー銃の弾速は音速をこえています。ま
ず、パッと煙があがり銃口から火が出る。次に弾丸が身の回りにやっ
てくる。続いて、しゅーんと弾丸の飛翔音がきこえ、最後にたーん!
と発射音がひびいてくる。こちらのゲベール銃はまるで相手にとどか
ないと嘆いています。

『発砲煙から場所をさとられないよう、長州兵は1発撃つとすぐに
移動する。当時の黒色火薬は盛大に煙をあげました。立って装填をす
る者はいない。みな、伏せて弾ごめができる。間合いが近くなると素
早く散開するので、じっさいよりも兵力が多く見える。指揮官は狙撃
される。目立った服装はいけない』

 この芸州口の戦闘で幕府歩兵隊は初めて将校の戦死者をだしまし
た。
 やはり洋式装備の紀州藩兵といっしょに歩兵隊は進撃。前線から敗
走してくる榊原・井伊の旧式装備軍といれかわって長州兵と銃火をま
じえました。
『隙(すき)なく打ち合い候(そうろう)ところ、陸軍方歩兵頭友
成ぬし、往来まで参られ候ところ忽(たちま)ち弾にあたり即死。歩
兵も矢庭に二人ほど打ち斃され申し候』
 歩兵頭(コロネロ=大佐)が部下2人といっしょに、家のかげから
道路上へ出たところを狙撃されたものです。幕府御先手(おさきて)
組同心が出した手紙が残っています。これも野口氏の著作からの引用
ですが、内容はおおよそ次のようです。
『大小刀2本を差していたり、服装に目印があったりする人は狙い
撃ちされる。賊(長州兵:当時、官軍は幕府方)と同じように脇差1
本で、筒袖(つつそで)。ヅボン・シャモの他は着用しないでよく戦
った』

 当時の幕府陸軍士官は筒袖の黒羅紗(らしゃ)の長い羽織(そぎ袖
といわれた現在の形と同じ)を着て2刀を帯していたようです。頭は
直参(じきさん)を表す陣笠をかぶり、ズボンにわらじ。目立ったこ
とでしょう。しかも、先頭に立って指揮をする。指揮官が倒れては近
代軍隊はうまく動きません。やむをえず、狙撃をさけるために羽織や
陣笠は脱いで、兵士と同じように刀を一本のみ帯びて戦ったのでしょ
う。


▼「伝習隊」とシャスポー銃

 鳥羽伏見の歩兵隊には「伝習第2大隊」がいたとされています。こ
れは、フランスと接近をはかった幕府にナポレオン3世から贈られた
1866年制式のシャスポー銃を装備した部隊です。この銃がまた、たい
へんなスグレモノでした。

 口径は11ミリ、弾丸の重量24グラム、装薬は5.5グラム。弾丸と装
薬を一体にしていました。ただし、厚紙製で底には雷粉(発火薬)を
布につけ糊づけ。金属製の薬莢ではまだありません。撃発はその雷粉
を撃針(げきしん:うちばりのことで鋭い針状の部品)で突くことに
よりました。

 画期的なのは弾丸の装填です。銃尾をしっかり閉じるために回転式
の遊底(ゆうてい)が造られていました。あの「ガチャパン」といわ
れた元になるボルト(槓桿:こうかん)が右側に出ています。それを
垂直に立てるようにすれば遊底が動きました。立てたボルトを後ろに
引けば薬室(やくしつ:弾丸の装填部)が開きます。開いた薬室に弾
薬筒(だんやくとう:弾頭と装薬を一体化して厚紙で包んだ)をいれ
て、逆の手順で薬室を閉じました。ボルトの前後の動きで、撃針は後
ろに下がります。引き金を引くと、圧縮されたコイルスプリングの力
で撃針は前進。雷粉を叩きます。また、ボルトをひけば弾薬筒の残り
かすは外に出され、次の弾の装填ができました。

 全長は130センチ、重さは4キログラム。機関部(外に出た遊底な
ど)は白磨きだった(よく目にする多くの小銃の機関部は黒光りして
います。それは染めてあるからです)とされ美しい小銃でした。カル
カ(さく杖)は銃身の下についています。ただ、装弾に使わなくなっ
たカルカは銃身内の掃除に使われるようになりました。黒色火薬では
燃えかすがひどく残り、連続発射すると、絶対に掃除が必要だったか
らです。

 伝習隊は精鋭でした。1866(慶應2)年には幕府はフランス式の訓
練を採用し、横浜の太田陣屋に訓練所を開きました。今でも京浜急行
の駅名に「南太田」があり、周囲を低い山で囲まれています。そこに
「御目見以上(おめみえいじょう:幕臣の格で将軍に目通りできる資
格、ふつう旗本とされている)」の当主、子弟が集められました。年
齢は15歳から35歳まで。士官養成の始まりでした。

 フランスからはシャノワン大尉以下の教官団が翌年1月に着任。4
月からは江戸に移転します。ところが『陸軍歴史』によるとシャノワ
ン大尉はこんなことを言っています。まず、都会出身者はだめだ。す
ぐ疲れてしまう。しかも、不服従。妻子があって、近所から来るよう
な人間を訓練できない。兵士は歩くことに慣れていて、山野草莽(さ
んや・そうもう)から出身した者が良い。

 旗本はだめでした。プライドばかり高く、体力がない。あれこれ言
って命令に従わない。
 大鳥圭介(1833〜1911)という、のちに外交官になった男がいま
す。当時は歩兵指図役頭(大尉)でした。もとは忠臣蔵で有名な播州
赤穂の村医者の息子。たいへんな秀才で大坂の緒方洪庵の蘭学塾へ入
ります。兵書の翻訳で認められ、幕府に招かれました。のちに府が瓦
解してから後、部下を率いて脱走し、最後は函館で榎本武揚といっし
ょに降伏した将官でした。

 幕末はこうした草莽から出た人が目立つ時でした。
 今も近代陸軍の祖とされる大村益次郎も村医者のせがれでした。幕
府陸軍の砲兵指図役で有名だった江原素六(えはら・そろく:のちに
麻布学園をつくる)も幕臣では最下層の「黒鍬者(くろくわもの:土
工兵)の出身。歩兵隊では大鳥圭介よりも指揮、統率の名手とうたわ
れた古屋作左衛門も福岡県小郡の庄屋の息子。この人は学問大好き、
しかも英語の名手。明治時代にはジャーナリストとして有名になった
沼間守一(ぬま・もりかず)も、幕府歩兵隊の士官仲間でした。沼間
もまた、下級幕臣の次男坊出身で英語を学びました。古屋の弟も、西
洋医学を学び将軍の奥医師となり、脱走幕府軍の軍医として名をは
せ、のちに官に仕えず、民間社会事業の祖となった高松凌雲(たかま
つ・りょううん)です。

 成島柳北(なるしま・りゅうほく)という反骨の文人がいました。
幕府の儒官の家に生まれましたから育ちはそれほど悪くありません。
幕府陸軍騎兵頭(大佐)として活躍し、のちに政府を批判、やみくも
な文明開化に深い疑いを持ちつづけました。
 こうしてみると、敗れた側の幕府軍には多くの人材がいました。ま
さに、小栗上野介が言ったとされる、『たとえ幕府が滅んでも、せめ
て蔵だけは残したい』という幕府人の思いは生き残ったようです。


 大鳥は軍人としては有名な戦下手でした。理論はすごい。作戦計画
を立てるときの有能さはたいへんなもので、完璧という噂もありまし
た。ところが、負けるパターンがいつもいっしょ。「戦機」を見る目
がなかったといわれます。長所はありました。根っから明るいことで
す。あるいはドライと言ってよいか。函館の降伏時にも、腹を切ろう
という榎本に対して、たぶん殺されはしないだろう。さっさと白旗を
あげようと勧めました。

 伝習隊の採用方針は大鳥が決めたようです。士官は旗本の子弟で優
秀だった者たちにする。しかし、兵卒や下士官は、市中のごろつきが
良いというのです。大鳥が目をつけたのは、江戸府内で失業している
馬丁(ばてい)や陸尺(ろくしゃく:大名や旗本のかごかき)、鳶
(とび)人足でした。当時、大名の参勤交代は廃止され、旗本も知行
の半分は取り上げられ人手は余っていたのです。採用した兵士の中に
は背中や腕に彫りもの(入れ墨)をいれた無頼漢もいたそうです。こ
れを猛烈に鍛え上げた。伝習第1大隊と2大隊。あわせて1400名の最
新装備、ヨーロッパ列強の軍隊にも負けない兵士がそろっていまし
た。


▼失態続きの高級指揮官

 さて、鳥羽伏見の第1発。もちろん、薩摩軍が先に手を出しまし
た。鳥羽街道の関門で「通せ、通さぬ」で押し問答をしている旧幕府
軍。ふつうの行軍隊列をとり、銃に弾ごめもしていなかったと記録に
あります。堤防上の一本道に4列縦隊で動けなくなった歩兵隊。それ
がいきなり大砲の射撃と、周囲の薮かげや葦の葉陰からの小銃狙撃を
あびせられました。長い隊列には、ぽっかりと穴があいたといいま
す。

 先頭の大目付滝川播磨守(たきがわ・はりまのかみ)の馬が銃砲音
におどろいて走り出す。しかも、山崎の方向に街道上を走り抜けまし
た。歩兵隊はどうにもならず、銃や装備を投げすてて敗走します。夕
方5時のことでした。態勢を立て直したのは佐々木只三郎が率いた京
都見廻組の剣士たちです。白兵戦をいどんで時間をかせぎました。ま
た、桑名藩の大砲も援護に活躍したのです。

 歩兵隊は士官を中心に隊形をとり、横隊(おうたい)で攻撃前進を
始めました。今度は東側の田畑にも広がって進んだのです。しかし、
薩摩側はその両翼にも伏兵をおいていたため、歩兵第1聯隊第2大隊
(徳山出羽守指揮)は大きな犠牲をだしました。
『藤岡屋日記』によれば、頭取(大尉)2名、指図役(中尉・少
尉)5名、同下役(下士官)6名、嚮導役(偵察下士官)1名の士
官・下士14名と歩兵72名、合計86名が戦死したとあります。400名余
りの大隊で戦死が90ならば負傷者はその3倍はあったでしょう。『過
半討死』という記事に大きな間違いはありません。
 戦闘は夜間にも続きましたが、薩摩兵も上鳥羽の陣地に後退。歩兵
隊も下鳥羽の米倉に陣地を造り、備えを固めました。

 では、伏見の状況はどうだったのでしょうか。ここには伝習兵第1
大隊(500名あまりか?)がいました。伏見奉行所は町の東の端にあ
りました。現在は近鉄電車の線路がすぐそばを通り、中層の市営住宅
がならんでいます。奉行所の東は人家が少なく、すぐに、現在桃山御
陵(明治天皇御陵)のある高地になりました。ほぼ北に御香宮(ごこ
うぐう)という名水がわき出る神社があります。なにぶん伏見とは、
かつては伏水と書かれたくらい伏流水があった土地だったのです。南
には宇治川が流れ、西は酒蔵や寺田屋、東本願寺がある。

 薩摩軍は砲兵を桃山高地、御香宮においていました。奉行所の北と
東には小銃兵5個小隊(当時の小隊は近代軍でいう中隊=100〜150人
くらいか)、東本願寺の会津藩兵には長州兵2個中隊がおさえに入
り、両軍はほぼ100メートルあまりの至近距離で向かい合っていたの
です。午後2時頃には、ここでも通せ、通さないの押し問答。竹中丹
後守は衝突はさけられないと見て、進撃経路の検討を始めました。


 それが午後5時になり、遠くから鳥羽の銃砲声が聞こえてきまし
た。薩摩軍の砲兵9門は高地の上から、御香宮の社内からいっせいに
奉行所に砲撃を加えたのです。ここでも不意打ちは成功しました。小
銃の狙撃もされ、構内から飛びだした遊撃隊士は戸板やたたみをもち
だして防壁にして隠れます。
 伝習兵は『構内へ臥しながら、彼を打ちしらまし一同大苦戦』。市
街戦です。伝習兵、歩兵たちは匍匐(ほふく)したり、民家の軒下を
つたったり、屋根の上から射撃をしたりと精鋭の名に恥じない健闘ぶ
りでした。じわじわと薩摩軍陣地に接近していきました。
 対して、薩摩兵も洋式調練でした。縦隊4列で道をふさいでいる。
前2列は膝撃ち、後ろ2列は立ち撃ちの姿勢で密集しています。前の
2列は銃口に銃剣をつけて接近戦を防ぎました。

 薩摩軍の装備する前装ミニエー銃の弱点は、初弾を撃った後の再装
填する時間です。熟練した兵士は2.5秒とされましたが、接近戦では
致命傷になります。
 接近戦では、第1列は、自分の発砲後はひたすら銃剣で槍ふすまを
作ることが任務でした。射撃するのは第2列です。それは後方の立ち
撃ちの構えの第3列が、射撃済みの銃を受け取り、第4列が装填した
銃を第2列に渡すからでした。刀槍を主体にした旧式装備の軍隊では
とても打ち破れない堅陣です。

 御香宮に対しては、伝習兵、歩兵たちは指揮官の号令のもと、果敢
に銃剣突撃も行いました。しかし、6斤(ポンド)砲から霰弾(さん
だん)の猛射をあびて、次々と挫折。霰弾というのは、内部にたくさ
んの鉄丸(パチンコ玉のようなもの)をつめてあり、発射してから決
められた時間で炸裂したものです。

『私共隊掛口(かかりぐち)は第一の要所とも相見え、いささかと
も引き色これなく』と薩摩軍の記録にもあります。伝習兵、歩兵とも
に戦意高く、続出する損害もものともせず、果敢な戦いぶりを示しま
した。前に述べた学会の権威者の『1・2度鉄砲を撃ち合うと逃げ出
した』とは、どんな資料を見て、現場を検証して書かれたものなので
しょうか。



▼玉石混淆の指揮官たち

 あとの詳しい戦闘の様子は、史書をご覧ください。ただ、総指揮官
の竹中丹後守の醜態について書いてみます。伏見の町は薩摩軍の砲火
で火の海になりました。真夜中頃には薩長兵がついに奉行所構内に突
入します。幕府歩兵たちは、明確な命令もないままに、それぞれが自
衛戦闘をするばかりです。中書島という京阪電鉄の駅があります。宇
治川に面しています。そこへ竹中丹後守は司令部を移し、明け方には
勝手に「戦線離脱」しました。

『終夜大戦、両道とも未だ勝敗の義は相知れず。只々寒夜の義につ
き、戦闘何分はかばかしく参らず候につき、今暁丹後守も諸手をその
まま差置きにて、本営に御出にて軍御評議これあり』

 この手紙の発信は4日午後、淀から大坂城に出されたものです。野
口氏も酷評されていますが、指揮官が「寒い夜だから」という理由で
部下を置き捨てにして、後方の淀で作戦会議に出席している。何をし
ているかとため息が出てきます。
 竹中丹後守は、5000石の交代寄合(こうたいよりあい)という高い
身分から奉行になりました。祖先は、あの高名な戦国時代の秀吉づき
の軍師、竹中半兵衛です。まさか、そのDNAに期待した訳ではない
でしょうが、当時の任命にはそんな気分があったのかもしれません。
滝川播磨守もそういえば信長の部将、勇猛できこえた滝川一益の子
孫。『祖先の高名に似気なく』という批判をされても仕方がないでし
ょう。

 4日の戦闘について書きます。朝から霧が濃く、昼に近づくにつれ
北風が吹いてきました。目を開けていられないような強風だったとい
います。
 午前5時、鳥羽街道では佐久間近江守が指揮する第11聯隊が北上を
開始しました。昨日の敵討ちだと士気も盛んだったそうです。勇敢に
銃撃戦をかわし、近江守は馬上で指揮中に竹藪の中から狙撃を受けて
重傷を負います(大坂に後送されて死亡)。部隊は下鳥羽にさがり、
窪田備前守の第12聯隊と交代しました。悲運は続きます。備前守もま
た、最前線で戦闘指揮中、狙撃されて戦死。
 4日から吹き始めた北風は薩長軍に有利でした。歩兵たちは、風に
向かって進まなければなりませんでした。細かい砂粒で目が開けられ
ない。発砲すると煙が顔にあたり、たちまち顔は黒くなり、目に入れ
ば視力をいっとき失ってしまう。

 聯隊長はじめ指揮官たちは健闘しました。『徒然叢書』から野口氏
が引用されています。

『殊に歩兵隊は比較的働けり。その指揮役のごとき、顔色土気色に
かわりて、大刀を抜き、進め、進めの号令をなすは、見る者皆感ぜざ
る者なかりき。その内の一人、頬を左より右に貫かれ、孔(あな)あ
きをるも屈せず。惜しいかな、姓名を知らず』
(荒木 肇)




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━━━━━━
◆荒木肇経歴
1951年、東京生まれ。横浜国立大学大学院修了(教育学)。横浜
市立学校教員、情報処理教育研究センター研究員、研修センター役員
等を歴任。退職後、生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉
専門学校講師、現在、川崎市立学校教員を務めながら、陸上自衛隊に
関する研究を続ける。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年
間を通して、陸自部隊・司令部・学校などで講話をしている。


◆主な著書
「自衛隊という学校」「続・自衛隊という学校」「指揮官は語る」
「自衛隊就職ガイド」「学校で教えない自衛隊」「学校で教えない日
本陸軍と自衛隊」「子供もに嫌われる先生」
いずれも並木書房刊 http://www.namiki-shobo.co.jp/
2009-06-20 04:32 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(1) |
| 荒木 肇 先生 / 戦争 / 自衛隊 |
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靖国神社を参拝した各国の軍人
こんな動画を見つけました。 カトリック正平教は、首相の靖国参拝を抗議したり、 靖国神社を 否定しています。 靖国に親族が祀られていることを否定して裁判している 左傾化神父様もいますが、各国のクリスチャンである 軍人さんだって敬意を持って、参拝されているのです。 私は、クリスチャンですが、日本の神と、カトリックの言う神とは ニュアンスも意味も違うと思っています。 比較するような対象でもありませんし否定しあうものでもないと 思います。 日本は日本書紀・古事記から数千年もの歴史を語れる 現存する世界最古の国家・日本だということは確かだと思います。 靖国神社はその日本を守った方々が眠るところです。 他国の軍人さんたちが日本に敬意を示していることがわかる 素敵な動画だと思います。 よく キリスト教は一神教で 他宗教を否定するような 虐殺するような宗教だと 誤解されますが カルト新興宗教キリスト教などにそういうところもありますが カトリックは本来 おおらかで、 しかも 日本人の考える一神教というニュアンスではないです。 聖霊も大切にしますし マリア様への祈りも大切ですし  亡くなった聖人も大切にします。 カトリックのため殉教し亡くなった聖人を大切にするカトリックと 日本のために亡くなった軍人を祭神として大切にする靖国神社は 守るもののために自分の命をかけて 戦ったという点で 私は どちらをも 尊敬しています。
2009-06-20 04:12 | 記事へ | コメント(4) | トラックバック(0) |
| 戦争 / キリスト教 カトリック / 靖国神社 |
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京都 外国人参政権反対のデモの動画を見て
今日は、京都で外国人参政権反対のデモがありました。 私は、用事で行けませんでしたが、 台湾のデモでご一緒した 大和撫子のさくらさんやノアちゃん リコリスさんや神鬼さんなど、たくさんのお友達が参加されました。 お疲れ様です。 私は、家で生中継を見ていたのですが、妨害行為をする卑劣な人は カトリック正平教の関わるピース9や 9条の会の旗を持った人 日の丸の赤い丸を うんちの絵や ナチスのハーゲンクロイツの絵に 変えて振り回す人、暴言を吐く人、暴力をふるう人 爆竹・・・「平和、人権」を叫ぶ市民団体が聞いてあきれます。 赤ちゃん連れや、女性も多く参加する普通の個人の人々が集まる デモに恐ろしい妨害です。 さすがカルト左翼です。噂には聞いてたけど・・・ 左翼ってやはり、暴力集団なんてすね・・・ たから中国共産党や北朝鮮と気があうのね・・・ 卑劣 妨害したサヨク側が作った動画を見たら、サヨクがキチガイだって よくわかります。 卑劣な人たちです。 下品です。 カトリック正平教ってこういう人とお友達なのね↓ http://www.nicovideo.jp/watch/sm7354707 ************************************************************* さくらさんの日記より・・・・・・ 京都の外国人参政権反対デモ行ってきましたよ 今までで一番妨害が入ったデモでした まずはデモ出発前の集会より・・・
一番手前のハングルTシャツ来た人。。。 私の目の前で行進直後に列に入って暴れました この写真偶然撮ったんですが、まさか近くに居たとは 集会途中・・・ バカ左翼が何度も突っ込んできました。。。
私から右側では突然「バコ〜〜〜ン」って音が!!
なんと桜井さんがハリセンで何度もシバかれたようです。。。 音からして「誰かケガしたか??」と思いました 殴った犯人はすぐに逃走。「警察は何をしているんだ!!」 と問い詰めると「私は何も見てません」と答えたそうな 警察・・・しっかりせ〜よ デモ行進中、私の目の前で爆竹が パパパパパパパパ〜〜〜〜〜〜〜ン と炸裂一瞬銃声かと思いました。。。 ******************************************************** 外国人参政権デモに対し妨害予告し、爆竹を鳴らし、 暴力をふるう カルト的な暴力行為への参加者リスト↓ **************************************************** 妨害予告リスト ■6月3日18時時点での賛同は個人・団体合わせて128名です 【個人】青柳行信(★NGO人権・正義と平和連帯フォーラム ・福岡 代表)、浅井美里、在野真麻(Wheelchair's EYE)、RS(東京都)、五十嵐守、石原みき子、 稲葉奈々子(茨城大学准教授)、イダヒロユキ、 伊藤公雄(京都大学教授)、ぅきき、宇野善幸(大学院生)、 梅尾直人、遠藤礼子、大須賀護(仏教者)、大月 英雄、岡晃子、小野俊彦(fuf)、各務勝博(京都プレイバックシア ター)、垣渕幸子、角崎洋平、叶信治(東九条のぞみの園副施設 長)、河添誠(首都圏青年ユニオン書記長)、川端諭、木谷公士郎 (司法書士)、木下直子、金友子、草加耕助(京都市民・『旗旗』サ イト管理人)、熊沢誠(研究会「職場の人権」代表)、黒瀬隼人(自由 労働者連合評議会議長)、黒目(有象無象)、高敬一(KMJ事務局 長、NPO法人サンボラム理事長)、上瀧浩子(弁護士)、近藤昇 (寿日雇労働者組合)、酒井隆史(大阪府立大学准教授)、崎山政毅 (立命館大学教員)、櫻田和也(indymedia japan)、★佐藤恵(カトリック正義と平和協議会)★、 さぶろう(東京)、澤田春彦(自由労 働者連合)、塩見静子、嶋田頼一、首藤九尾子、白崎朝子、鈴木耕太 郎、高橋淳(生活書院)、高橋慎一(ユニオンぼちぼち)、竹林隆、 田中渥子、田中玲、立岩真也(立命館大学教授)、張ヨンテ、鶴見俊 輔(哲学者)、冨田成美、中倉智徳、中村和雄、仲村実(管理職ユニ オン・関西副委員長)、西浦隆男、西岡裕芳、野々村耀、ハギハラカ ズヤ、橋口昌治、橋野高明、原田光雄(聖公会司祭)、濱西栄司(京都 大学大学院)、樋口直人(徳島大学准教授)、平田正造(ヨシノ支援プ ロジェクト代表)、平田義(愛隣館研修センター)、藤井かえ子(神 戸YWCA)、藤谷祐太、舟木浩、細川孝、堀田義太郎、堀内慶子、堀江 有里(日本基督教団・牧師)、前川純一、松本朗、南守、三牧建一、 村上麻衣、村木美都子(NPO法人東九条まちづくりサポートセンター 事務局長)、村田豪、盛岡晋吾、役重善洋(パレスチナの平和を考え る会)、山口智之、山本純、山本崇記(関西非正規等労働組合)、由 良哲生(寿日雇労働者組合)、吉田幸恵、吉田信吾、ヨシノユギ(大阪 医科大GID医療過誤裁判原告)、渡邊太、渡辺学 、匿名(14名) 【団体(22)】アイヌ・沖縄を考える会、アジェンダ・プロジェク ト、ATTAC関西、ATTAC京都、うさちゃん騎士団SC、釜ヶ崎 医療連絡会議、釜ヶ崎パトロールの会、関西単一労働組合、関西非正 規等労働組合(ユニオンぼちぼち)、関西フィリピン人権情報アクシ ョンセンター、旧日本軍性奴隷問題の解決を求める全国同時企画・京 都、京都精華大学社会科学研究会、憲法を生かす会・京都、社会運動 研究会、高齢者特別就労組合準備会、「心の教育」は、いらない!市 民会議、寿日雇労働者組合、失業と野宿を考える実行委員会、すべて の外国人労働者とその家族の人権を守る関西ネットワーク(RIN K)、反戦と生活のための表現解放行動、PeaceMedia、ペンギンの会 (自立障害者グループ)
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2009年06月17日(水)
聖トマス大学がつぶれる日A  ある卒業生より「母校・英知大学の破綻について」
破たんをむかえる聖トマス大学(旧 英知大学)の卒業生さんから
教えて頂いた日記です。

わたしは、この日記を読んで泣きました。




母校・英知大学の破綻について(1)

ここ一週間、何も手がつかなくなった。思い入れのある母校「英知大
学」が破綻し、閉校の可能性が大という報道を聞いて以来、落胆のあ
まり何も考えられなくなった。

 wiki英知大学
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%B1%E7%9F%A5%E5%A4%A7%E5%AD%A6
 朝日新聞 報道
http://www.asahi.com/edu/news/OSK200906060048.html
 小田武彦学長による募集停止の声明
http://www.st.thomas.ac.jp/teishi.html

 卒業生である私の衝撃は深い。
 しかし、今は感情的になるより、状況分析が必要な時と思われる。
英知大学がなぜ衰亡したか、私なりに振り返ってみたい。

 おおよそネット内および「教育評論家」とやらの反応は、
「それみたことか。これは私が主張してきたように……」という、
いつもの口上で、少子化と世界不況の時代に無名三流地方大学は
淘汰されて当然だ、というものだ。
 はっきりいって、的外れも甚だしい。私が見てきた現実は全く
あべこべである。
 実際、卒業生ですら「時勢に乗ろうとした聖トマス大」にはもう
愛想が尽きている。私たちが嘆き、悲しみ、腹の底から慟哭している
のは、時勢などまるで無頓着な、まるで桃源郷のような母校「英知大
学」が消えることである。


「麗しき われらが巣屈 マレンピア」――ジャン・コクトーの
『阿片』のエピグラムに出てくる狂人病院に私は母校を例えたことが
あるが、ほんとうにあそこは麗しき狂人病院だった。
 外壁は煉瓦造りで見栄えがいいが、中は築30年近いリネリウムが
はがれたオンボロで、木製の開きドアをギーギーあけながら、冷暖房
のない教室で授業を受けていた。学食はよく調理師免許が取れたなと
疑うほど不味くて、ある時某助教授が学食で味噌汁をすすっていた
ら、具と一緒にゴキブリの卵が出てきて、大騒ぎになったことがある
(その話を聞いてから、私は学食ではなく、コンビニ弁当に切り替え
たが)。
 信じられないような話がいくつも連なっていく。校門横の側溝に錆
びた自転車が投げ捨てられているのに、私が四回生になるまで3年間
放置されていた。校門の前は一面コスモス畑だった。こういうと聞こ
えがいいが、ようするに畑なのであって、どこでどう迷ったか、そこ
から山羊が校舎まで迷い込んできて、蛍光灯がパッとしていない暗い
廊下をノコノコ歩いた揚句、エレベーターに一緒に乗ってしまうこと
があった。その横を、詩人の多田智満子先生御本人が何事もなかった
かのようにフワフワスタスタ通り過ぎって行った。――しかし、今考
えるとデルヴォー以上にデルヴォー的な、もの凄い光景ではなかった
か。念のためにいっておくが、そんなことが一、二度あったと言って
いるのではない。毎度こんな調子だった。
 教員も教員で、もの凄かった。今道友信博士の自伝『知の光を求め
て』の最後のページで、英知大学を「やっと落ち着いて学問の専心で
きる」と評価した後、岸教授(元学長)など英知大学の教授数人にとく
に謝辞を記されているが、この岸先生は実はエスパー(!!)で、お若い
時はスプーン曲げなど余興でされていたらしい。「エスパー学長」な
どと陰で渾名をつけていた私は「ぜひ見せてください」とせがんだ
が、「いや〜。歳を取って念力が落ちたもので。。。」とはぐらかさ
れてしまった。岸先生は数年前に帰天された。もっと話しておけばよ
かったかと思う。
 それにしても、元学長にスプーン曲げをせがんだとは、今では冷や
汗をかくが、当時は全く平気だった。それは教員だけでなく、職員も
そうだった。朝、校門をくぐると事務室に行き、備え付けのネスカフ
ェでモーニング・コーヒーを一杯飲んで、授業に出かけた。それを見
て職員さんが「てめぇ!!何様のつもりだ!」と怒ることはなかった。
美貌の女子職員さんが「おはよう……今日も勉強、がんばってね
♡」とおかわりのコーヒーを差し出してくれた。念のためにい
っておくが、そんなことが一、二度あったと言っているのではない。
毎度こんな調子だった。
 こんな調子で、しょっちゅう飲み会が校舎で開かれた。なぜか私は
いつもバナナを切る係だった。当時の井上学長から一回生までワイワ
イみんなで飲んでいた。酔っぱらった英文学科長以下教授陣と学生が
一緒になって、当時はやっていたチャゲ&飛鳥の「Say Yes」を合唱し
ていた。ほろ酔い加減の先生に「君、最近何を読んだ?」と言われた
ので、エラスムスの『痴愚神礼賛』をあげたら、「それは良い本を読
んだ」と感心された。あとで聞いたら、NHKの宗教講座を担当するほ
どの先生だったので、顔から火を噴く想いだった。
 フィリピンが専攻だった先生は夏場に半ズボンで講義したり、マニ
ラ空港から大学に出勤してきたり、私たちにこれでもかとパワーを見
せつけていた。学園祭になると、その先生の研究室が3日間飲み放題
で、午前中から夜までワイワイがやがや飲んでいた。焼きソバ屋と軽
音楽コンサートというありきたりの催しものより、ずっと面白かっ
た。その先生の研究室は美人が集まるので有名だった。確かにパワー
が全開でカッコいい先生だった。
 
 もちろん、先生から怒られることもあった。その先生に自宅に呼び
つけられ、「文学研究への心構えが足りない」と3時間か4時間説教さ
れたことがある。念のために言っておくが、この先生は文学が専攻な
のではない。専攻外の学生のために3、4時間も説教してくれたなん
て、有難い話ではないか。
 学生は教授を親と慕い、教授は学生を我が子とまではいかなくて
も、姪っ子や甥っ子のように扱ってくれた。かつての英知大学の魅力
といって、家庭的雰囲気がまずあげられるだろう。なんとも迫真さを
欠いた磨滅した魅力だが、ここまでの域に達していた大学は他の大学
にないだろう。そして、あらゆる家庭が家庭的とはかぎらない。先生
に結婚の仲人を頼んだ学生もいたし、卒業して小学生の息子がいる今
になっても教授と毎月テニスをしている学生もいる。
 先月卒業したばかりという先輩が背広姿で大学のベンチに座ってい
ることもあった。どうしたのですか?ときくと、外回りで嫌なことが
あり、つい大学に来てしまったということだった。そういえば、悩み
事を相談したり、懐かしむためだつたり、やたらに卒業生が構内で見
かけた。
 
 クラスメートだって、同様だった。
 私はいまだにさっぱりわからないので、大真面目に一度お訊した
い。大学のクラスメートの半分以上を知らないという学生がいるらし
いのだが、一体どういう付き合い方をするとそうなるのだ?私のクラ
スは50人ほどだったが、全員の顔どころか趣味性格まで思い出せる
し、一つ上のクラスの先輩も名前を言われれば顔ぐらいは思い出
す。

 英知大学は偏差値が低いのは事実だとしても、全員が全員バカだっ
たわけではない。というか、真剣ですらあった。なにしろ大学院もな
い学校である。教授が自分の将来について何かしら筋道をつけてくれ
る可能性は万に一つもない。一年のうち360日、図書館に通っている
学生もいたし、受験生でもあるまいし、昼食を食べている時も英英辞
典を読んでいる学生もいた。「俺、実はハングルがしたいんだよ。ハ
ングルを勉強して、マスコミ関係の仕事に就きたいんだよ」と聞かさ
れた仏文の学生がいた。その学生が何カ月か姿を見せないので、どう
したのかと思っていたら、韓国に行ってソウルのテレビ局に潜り込
み、語学と仕事の勉強を兼ねてずっとアルバイトをしていた。「俺も
負けてられない!」と思った。
 なるほど、何の目的もなく怠惰に日々を過ごしている学生もいた。
しかし、英知大学で夢を持ち、歩み始めた学生もいた。そして、弱々
しい若者の夢を冷笑する教授もたしかにいたが(特に仏文科はそうい
う先生が多かった)、夢をつぶそうとする教職員は一人もいなかっ
た。「アカデミズムのボス社会」の弊害を聞かされて、こちらも聞き
かじったようなことを受け答えしてしまうが、ほんとうのところかな
り的外れなことを言っているのではないかと思う。私は、そういうも
のを今まで一度も体感したことがない。

 英知大学などという聞いたこともない三流大学に入って、今でもよ
かったと思っているし、一生あの大学に感謝しつづけるだろう。40も
近いというのに、石に齧りつくような想いをして、変なことをコチョ
コチョいまだにやっているが、なまじの一流大学に入っていたら、と
っくに折れていたと思う。実のところ、今まで学歴詐称のお誘いが二
度ほどあるのだが、全て御断りをした。一緒に過ごしたクラスメート
に「俺はお前らなんかと一緒じゃない。お前らなんか知らないよ」な
ど、そんな無礼な振る舞いができるだろうか。
 たとえあの大学がこの世から消えても、最終学歴は麗々しく「英知
大学仏文科卒」と書いていくことだろう。一種の誇りをもって。


つづき http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1199671299&owner_id=1898392
母校・英知大学の破綻について(2)

もちろん、私が学生をしていた頃には「就職氷河期」がはじまり、
「大学冬の時代」が訪れることもわかっていた。ある女の先輩と帰り
道でそんなことを話し、橋のたもとで「これから、うちの大学、どう
なってしまうのですかね〜」と問いかけた。「うちは大阪カトリック
教区がついているから、大丈夫よ。」とニコニコして先輩は答え、冗
談交じりに「カトリック教区がなくなったら、たいへんなことになる
けどね」と笑った。

 大学四年の時に、国際文化学科なるものが新設された。どこのどの
地域をどう研究する学科なのかわからなかったが、「これからの時代
はそういう曖昧な学科も必要なのかしらん」と納得した。その四年の
講座で「社会調査法」なる授業があり、調査と統計の練習を兼ねて、
全学生に今後の英知大学のあるべき姿についてアンケートを取ったこ
とがある。有意義な行為で、つられて他の教授も同様のアンケートを
取ったほどである。ただし、これらは各教員単位での話で、大学なり
学科が学生の意見を聞いてみるようなことはついになかった。

 私はそれで卒業して群馬に帰ったが、2年後に英知大学はとりあえ
ず英文科の大学院を立てた。実は、私にも卒業するときに話が何度か
来た。英文に転向し、1、2年待って、大学院に入らないか、と。その
話を前述の「社会調査法」の先生に相談したら、言下に「よせ! やめ
ろ!」と言われた。私自身、現実的・将来的な話とは思えず、仏文を
捨て英文に転向する気はさらさらなかったので、本気で考えるまでも
なかった。――ただ、今考えると、この頃から何か見失い始めたのだ
と思う。この「社会調査法」の先生は、以後の英知大学の狂騒によほ
ど嫌気がさしたのか、呑気にノホホンとして、母校と付き合い続けて
いる私にまで三行半を突き付け、数年後に他の大学に出て行ってしま
った。

 卒業して4年目だったか、学生会館をつぶしてタワービルを建てる
と聞いたあたりから、私は母校の施策に納得いかないものを感じ始め
た。
 学生会館といっても、オンボロ大学のこととて、旅館の大部屋程度
しか広さはなく、そこに壊れかけた長椅子と安っぽいジュースの自動
販売機しかない。しかも女子学生は寄り付こうとしないほど、汚なら
しい建物。二階建ての建物だが、あまりに汚いので、私たち男子学生
でも二階に何があるのか見に行く勇気がないほどだ。その自動販売機
でオレンジジュースだかを買ってきて、長椅子に座っている友人に差
し出し、「あのさぁ……チマちゃんのあの性格、なんとかならんかね
ぇ??」などと話をしていた。
 そこをつぶして、12階建てのやたらに綺麗なタワービルを建てたと
いうのである。その年、タワービル完成を自慢する恩師、教職員から
の年賀状を何枚もいただいたが、私はあのタワービルが気に入らない
ので、その年賀状一枚一枚に、「今年の初夢は、そのタワーをキング
ギドラかガメラがずたずたに破壊する夢を見ました」などと、なんと
も厭味な返事を書いた。今も私はあの建物が大嫌いなのだ。そんなに
人数もいない、さして面積が必要な研究、授業をしているわけでもな
い大学に、なんでこんなバブル期のような箱モノが要るのか、全く理
解できない。それで理由を訊くと、「時代の流れ」「(大学)延命のた
め」と来る。私に言わせれば、そんな箱モノで虚勢を張ろうという神
経は実際にはどこの馬の骨にでも冷笑・侮蔑を誘うしかないのであっ
て、そんなことより、例えば図書館を拡充して、当時もかなり持って
いた宗教・古典哲学関係の西洋文献を一般市民、アマチュア研究者に
も利用できるようにすることのほうが、よほど大学の存在意義を認知
させ、よほど「延命のため」だと思った。はっきりそう言ったことが
ある。現場サイドは大賛成なのだが、首脳部は耳を貸すことすらしな
かった。
 そもそも、「さすがにこんな大学名はないよ。改名して下さいよ」
と私がいた頃、あるいは諸先輩方の頃から再三再四、口が酸っぱくな
るほど言い続けてきたのに、「改名する費用がいまはない」と同じ理
由で突っぱねてきた大学が、突然こんな建物を建てたのである。開い
た口が塞がらなかった。建設費の総額はいくらだ? 何億払って、あ
の建物を建てた? それが一体どこから出てきた?

 ちょうどその頃だった。タワービルなど建てたその裏で、異様な文
章が卒業生に郵送されてきた。たしかその文書というのは「兄弟、親
戚、知り合いに英知大学に入りたいと興味をもっている方がいれば、
リストを作って送ってください」といった内容だったはずである。
「だったはずである」というのは、一読するなり「バカか!」と叫ん
でチリ箱に捨ててしまったため、いま私の手元にないためである。見
境のない知名度活動。そんな広報活動より、英知大学の魅力を作るた
めにもっとやるべきことはあるじゃないかと、カンカンに怒った。


 なんというか、魅力ということと知名度ということを別個に考えた
ほうが良いのかも知れない。魅力があれば知名度が上がるが、知名度
が上がると魅力が生まれるとはかぎらない。自分たちの魅力が何なの
か、どこに存在意義があるのか突き詰めて考えない以上、いくら首脳
部が見境のない広報活動をしても一向に知名度は上がらず、全て金の
無駄遣いで終わった。
 念のために言っておくが、当時の英知大学に全く魅力がなかったわ
けではない。教職員を親と慕い、学生を子と思う気風はまだ残ってい
たし、今道友信先生が自伝の最後に英知大学を「やっと落ち着いて研
究できる環境を与えられた」と喜んでおられるのは、何も上等の本棚
と上等の椅子を用意してくれたとかそんなことではないはずだ。英知
大学に何かしら魅力を感じられてのことにちがいない。そして、それ
は今道先生ご自身もそうだった。
 私たちよりはるかに上の一流大学を卒業し、サラリーマンとして活
躍されていたある方が、40近くになって、尊敬する哲学者・今道友信
が近隣で講義していると知り、会社を辞して、今道先生に師事せんが
ために英知大学大学院に入学してきた。その方から見ればどうしよう
もない三流大学だったであろう。しかし魅力とはこういうものだ。知
名度やブランドがなくても人を惹きつける。自分たちがどんな鉱脈を
秘めていて、もっていた魅力をどう生かし磨いていくか真剣に考えて
いれば、英知大学も今回のような事態に立ち至らなかったであろ
う。
今道先生が担当した講座は退官後の現在、講師か助教授に昇格したそ
の教え子の方が引き継いでいる。

 もちろん、根拠のない広報ばかりしていたわけではなく、自分たち
の魅力を広める努力を当時の英知大学もしていた。この頃から、急に
資格講座の数が増えた。コンピューターから図書館司書、はては鍼灸
師の資格講座まで開設された。私個人としてはこれらの動きには賛成
で、就職活動にも役立つだろうし、社会的にも大学の存在意義を高め
ることになるだろうと思っていた。ただし、これにも問題がないわけ
ではない。
 資格講座を開設するために、かなり高価な用具を必要以上に購入し
たり、教室も工事した話も聞いている。今回mixiで知ったことだが保
母さんの資格講座開設のために高いピアノを何十台も購入したらし
い。それが必要というなら多少の出費は致し方ないだろうが、あんな
豪華な箱モノを建てた後に「必要以上」の投資というのは常軌を逸し
ている。そもそも、これらは大学にとって枝葉のことなのであって、
本業の学部大学院の授業をしっかりしなければ話にならない。

 しかし、この頃の英知大学は、本業が迷走していたような気がして
ならない。端的にそれを示しているのは、学科構成である。




〜1993  神学科       英文科   西文科 仏文科 


1994   神学科       英文科   西文科 仏文科   国際文化科


2004  人間科学科     英文科   国際文化・言語科
                    (西語、仏語、アジア研
究コース)

2008  人間文化科    多文化共生学科      人間発達科
学科

 年々名前が立派に変われば変われほど、何をやっている学校なのか
わからなくなっていく。最後の方は「共生学科」だそうだが、これで
は何を教えているのか、私ですら見当がつかない。その、何をやって
いるのかわからない学校に、自分の子供を入学金を払って預ける親な
どいるだろうか。どうして、そんなことに気がつかなかったのだろ
う。
 それもこれも、「時代の流れ」「延命のため」と尤もらしい理由を
つけていたが、そんなマスコミ文句を弄っている暇があるなら、そん
なことより先に、この大学の本質が何なのか議論して、そのうえでど
ういう方針でいくのか、はっきりさせておくべきではなかったか。


 この頃――だいたい10年前のことだが、同窓会の会報に一度、提言
めいた一文を投稿しようかと考えたことがある。
 英知大学の不幸は知名度なり少子化よりも、各階層の意見が噛み合
わないことにある。「教授陣」「在校生」「卒業生」が互いに分離
し、教授陣は「在校生、卒業生はもっと出世しろ」、在校生は「教授
とOB、OG、手を差し伸べてくれ」、卒業生は「残った者でなんとかし
ろ」という風に、相手がどういう現実を踏まえ、何を考えているのか
顧みず、ただただ「お前がなんとかしろ!」と言い合っていることに
ある。そんな抽象的な言い合いはもう辞めて、互いに相手の抱えてい
る事情を尊重しながら考えに耳を傾け、そのうえで「こことここは非
現実で無理だが、ここの部分は我々も何かできそうだ」と建設的な議
論をしようではないか。おおよそ、そんな内容だった。
 まぁ、今から考えてあまりに幼稚で投稿しなくてよかっただろう。
教授陣よりたちが悪いのは経営陣で、教授会で一致した意見もなかな
か実現しにくかったのではないかと、今では考えている。もともと、
カトリック教会は派閥争いの激しいところで、学内でも対立が激し
く、なかなか動きが取れなかったのではあるまいか(そんななか、一
人超然としていた多田先生は、やっぱり凄かった)。

 お声がかかればいくらでも書くつもりでいたが、私の小文はついに
掲載されることはなかった。――卒業生の一人として今悔いているの
は、この10年ほど前に卒業生全員が本気になって怒っていれば、今日
の事態は防げたかもしれないことである。それが悔やまれ、在校生や
真面目な教職員の方々にほんとうに申し訳なく思っている。

 私の小文はついに掲載されることはなかった。――事態はそれ以上
悪化していた。投稿しようかという矢先、財政悪化を理由に大学は同
窓会への資金援助を打ち切った。連絡ハガキすら出せなくなった同窓
会は数年にわたり活動停止に追い込まれてしまった。

つづき http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1199674933&owner_id=1898392


母校・英知大学の破綻について(3)

箱モ箱モノを建てている裏で、この施策である。同窓会誌休刊の知ら
せを手にしながら、「これはそのうち大変なことになるかもしれな
い」とゾッとした。こういう目立たない部分を大切にしなければイザ
という時に誰も助けなくなってしまうだろう。そして、ここまで目先
の「延命行為」(長期的には「自殺行為」)に突っ走る母校に、私です
ら失望した。実際、この活動停止期間に卒業生の気持ちは母校からど
んどん離れていった。数年後に、同窓会はどうにか活動を再開した
が、比べ物にならないくらい生気を失ってしまった。

 母校から気持ちが離れていったのは、卒業生だけではなかった。教
職員も気持ちは離れていた。この10年の間に、私が大好きだったクセ
のある名物先生はゾロゾロゾロゾロ辞めていった。沈む船から鼠が逃
げ出すようなものである。「社会調査法」の先生は私にまで三行半を
つけて辞めた。一緒にお酒を飲んでいた英文科の先生はほとんどいな
くなった。最後まで我々にパワーを見せつけてくれたフィリピン学の
先生すら、いつの間にか大学を去って行った。その一方で、昔の大学
を知る高齢の先生方は次々に退職され、前述の岸学長や多田智満子先
生のように、ほどなくして亡くなられた方もいる。

 入れ替わって入ってきた教授陣は、訳のわからない落下傘部隊だっ
た。上智だか米国何とか大卒だか知らないが、英知大学が何なのかわ
かっていない、いやそれ以上に、わかろうともしていない連中だっ
た。過去の英知大より自分の思いつきのほうを信じて疑うことのない
連中だった。
 大学院を建てた頃からこの大学にアジア関係の教授、学生がやたら
に増えてきた。「今度、英知大が学生に博士号を初めて与える」とい
うので、「へぇ、どんな学生ですか?」と訊いたら、インド人だとい
うので腰が抜けたことがある。私がいた頃、わざわざ日本の英知大に
留学してきた人など、ほとんどいなかった。
 もともとヨーロッパ外国語教育しかしていなかったはずの大学が、
どうしてこんなにアジアに目を向け始めたのか、学問レベルでは全く
理解できなかった。私自身は、領域を広げることには賛成だが、それ
は昔からあった学科を活かすような方法でであった。具体的には、せ
っかくスペイン語学科があるのだから南米に目を向けていいと思った
し、仏文についても旧フランス植民地の文化など今後伸びるかなと考
えていた。しかし、実際に増えたのはアジア関係の講座で、(カトリ
ック系大学なのに、なぜか)中国人留学生が増えていった。
 学問的レベルで私はいまだにこの選択が理解できない。別にアジア
研究が悪いということはない。問題は、ヨーロッパ、特に宗教文化の
研究で一定の役割を果たしてきた大学に、アジア研究、特に現代中国
社会論を接ぎ木しようとしても成功するかということである。しかし
ながら経営のレベルではお察しがつくだろう。入学金・授業料を払っ
てくれる留学生目当てであることは見え見えだ。
 歴史を無視したところでの発想は、大抵は凡庸な思いつきでしかな
い。凡庸な思いつきが英知大の歴史のうえにいくら接ぎ木しても、そ
れは付け刃でしかなかった。
 これもツケ刃的施策だったのだろうが、この頃、まるで右翼団体の
ように傘下の「研究所」がやたらに乱立していった。

 ここ五年ほどの英知大学は、根拠を欠いたツケ刃的施策がなお一層
加速していった。その最たるものが「聖トマス大学」への改名であ
る。
 私たちも在学時「エッチ大学」という名前が恥ずかしく、「校名を
なんとかして下さいよ」と事あるごとに口にしていた。ところが44年
間変えなかった校名が、突然2007年5月「聖トマス大学」に変わっ
た。この改名の理由は新聞報道では「エッチ大学と蔑称されないた
め」とか、「(ポルノ本ばかり出していた)英知出版と混同されないた
め」とされ、wikiでもそう書かれている。しかしこれは嘘、少なくと
も表面的な理由にすぎない。「エッチ大学」の件は学生に言いすぎる
くらい言われてきたのに、大学はそれまで44年間全く無視していた。
「英知出版との混同される」など嘘であることは、ちょっと調べれば
わかる。英知出版はその2年前にポルノ出版物から足を洗い、改名の2
か月前には東京地裁に自己破産を申請している。

 では、何が狙いだったのか。
 留学生である。
 イギリスに本部がある聖トマス・アクィナス大学国際協議会という
ものがあり、世界で6校加盟しているらしいが、その支部になれば相
互で留学生を受け入れられるのだ。ただし、条件があり、本部校以外
の各大学は「トマス・アクィナス」を校名に入れなければならないの
である。――わかりやすく言えば、留学生を得んがために名前を売っ
たのである。
 それで留学生が来たのかわからないが、おかげで英知大学を知って
いる人にすら「聖トマス大学って新設校?」と言われるように、あれ
ほど気にしていた知名度が一気に低下した。
(というか、こんなネーミングがあるか。私ですら、英知大学のほう
がまだカッコいい。 はっきり言って、今の経営陣、首脳部はセンス
がない!!)


 昨年、カヴァフィス伝共訳を出した私は尊敬する恩師に報告するべ
く、神戸長峰山に眠る多田先生の墓に詣でた。翌日、14年ぶりに母校
に立ち寄った。それは日記にも書いたが懐旧の情に満ちた、ほんとう
に実のある訪問だった。しかし、寂しさも感じないわけではなかっ
た。学生も、卒業生もいなかった。入学式前日だったので仕方なかっ
たのかもしれないが、私が学生だった頃には信じられない光景だっ
た。家より大学が居心地のいい学生や卒業生が、春休みでも夏休みで
もたくさん歩いているものだった。
 出迎えた教授は「聖トマス大学になって、これから伸びる」と何度
も言っていた。口では「それは素晴らしい」と私は言ったが、教授が
本当にそう思っていらっしゃるのか、心中複雑だった。そのうえ、昔
私と仲が良かった「クセのある」先生がたの悪口を再三聞かされた。
昔は一枚岩に見えた教授陣がこんなことになってしまったのか、と悲
しかった。懐旧の情に浸れたのはよかったのだが、私の頭のなかの英
知大学「われらが巣屈マレンピア」は頭のなかだけのもので、もう現
実にはないのだとしみじみ感じた。


つづき http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1199681771&owner_id=1898392

母校・英知大学の破綻について(4)

私はここ数年同窓会報をほとんど真面目に読んでいなかったのでwiki
で知ったのだが、去年頃の同窓会報で、着任したばかりの(つまり落
下傘部隊)現・小田学長はすごいことを書いていたらしい。「梅田に
近い中津に新キャンパスを2011年に作る」、「東京千代田区平河町に
衛星中継による授業、サテライトスタジオを作る」。昔の英知大学を
知らないせいか、知ろうともしないせいか、落下傘部隊はやたらに大
きくすれば大学がよくなると信じていたらしい。今もまだそう信じて
いるのかも知れない。
 去年の同窓会報で一つだけ覚えているのは、冒頭に「一時はどうな
るかと危ぶまれましたが、2013年4月の開学50周年をどうにか迎えら
れそうです」と、報告されていたことである。どういう根拠なのかわ
からないが、めずらしく謙虚な口調での報告なのでたぶん嘘ではなか
ったのだろう。しかし、それから1年もたたないうちに英知大学は
2013年3月での閉学を発表した――だとしたら、誰かに大学は存続で
きると騙されていたのか?

 それからほどなくしておきた、元学長・井上博嗣神父の猥褻罪逮捕
は予想外の出来事だった。感情的に流されてしまい、「井上学長!ど
うしたんですか!」と叫びにも似たことを日記に書いてしまったが、
今、井上学長を一時とは言え信じられなかった自分を恥じている。そ
のうえ、マイミクの方にまで誤解と心配を与える結果になってしまっ
た。まず、この点をこの場で心から謝罪したい。
 確証はないが調べれば調べるほど、井上学長逮捕劇(警察は立件で
きなかった。事件ではなく劇)は、個人の痴情などはるかに超えた腐
臭の匂いが立ち込める出来事だった。
 確かに、紳士を絵にかいたような優しい井上学長が猥褻罪で逮捕さ
れたのには私も驚いた。しかしそのうち、何かおかしいことに気がつ
いた。全ての情報がある一か所からしか出ていないのだ。その一か所
からの通報をもとに警察は井上学長を逮捕し、その一か所からの情報
でマスコミは報道した。ところが警察が調べても、全く何も出てこ
ず、一週間後には証拠不十分で釈放になった。2月以降、マスコミが
この件で報道しないのはそのためである。つまり構造としては、その
一か所のみがこの件の情報を出しており、そこが嘘をついているとな
れば事件全体が嘘、巨大な冤罪事件になってしまう。

 その一か所とはどこか。
 大阪カトリック教区である。
 念のためにいっておくが、確証はない。男女間のことは当事者にし
かわからない面があり、井上学長自身の直接の発言も一切出ていな
い。しかし、そのことがおかしいのではあるまいか。事件発覚以来4
カ月もたつのに、井上学長自身の肉声が一つも出てこないのは異様で
ある。
 では井上学長は釈放後の今、どこにいるのか? 釈放後ただちに大
阪カトリック教区により、姫路市にある聖職者専門のアルツハイマー
患者収容施設に「静養入院」させられているらしい。
 大阪と埼玉のカトリック教区は全国的に評判が良くなく、近年急速
に左傾化しているらしい。井上神父はごく良識的な中道派なので、
「粛清」されたとしても理由のないことではない。
 しかし……これは下衆な私の勘ぐりなので、もしそうだとしての仮
定の話で聞き流してほしいが……「粛清」したい対象者を傘下の精神
病院に隔離・軟禁するというのは、サハロフ兄弟とかパラジャーノフ
の例を引くまでもなく、ブレジネフ政権下のKGBがよく使っていた手
である。しかし、それを2009年の日本の近畿地方で実行した団体があ
るということか。勘ぐりとはいえ、その想像に私は背筋が凍った。

 くりかえし言うが真相は当事者二人にしかわかるまい。井上学長が
真相について直接説明する機会を与えられず、黒幕を名指しすること
は永久にあるまい。私はカトリックに詳しくないが、カトリックの教
義では身に降りかかった不幸について弁解するのはよしとされないら
しい。そうでないとしても、井上学長の性格からして永久に沈黙する
だろう。他人を罵ることより、この不運にも神からの意味があると言
い聞かせ、じっと祈りながら黙って耐えるほうを井上先生は選ばれ
る。井上学長と無礼な酒飲みをしたり、一緒にボタン鍋を食べた者と
して、そういう方だと言い切れる。

 それにしても、ここまで思い当たったところで、私がどうしても思
い出さずにいられなかったのは、大学時代、橋のたもとで言っていた
先輩の冗談だった。「カトリック教区がなくなったら、うちの大学は
たいへんなことになるけどね」実際のところ英知大学はカトリック教
区からの援助で運営されており、そこを打ち切られたら即破綻してし
まう。教区が元学長を逮捕・軟禁させたとすれば、井上学長が育てた
英知大学を援助支援するはずがない。ましてや、数々のツケ刃的施策
の一つも成功していない大学である。「英知大学が破綻閉学を発表す
る日がいつか来るのではないか」
 しかし、もちろんそれがたった4カ月後に来るとは予想外だった。

 聖トマス大学の募集停止の発表は6月6日に行われた。
 赤字が20億円にもなり、これ以上存続できない。入学募集を打ち切
り、統合などを模索する、というものだった。唐突な発表だが、卒業
して15年以上たつ私のもとには今のところハガキ一枚来ていない。お
そらくハガキを出す予算すらないのだろう。関東や北海道、九州の卒
業生には、母校が消えることを知らない卒業生が多いのかも知れな
い。
 もちろん私は統合なり、再編によって、なんとか存続してほしいと
願っている。しかし、十中八九不可能だろう。よく考えてほしいが、
統合なり再編の具体的可能性があるうちに、借金の総額を公にするは
ずがない。そんなに難しいことを言っているのではない。ある程度恋
仲になって「実は私には多額の借金があるのですが、こんな私と結婚
してくれますか?」という相手と、いきなり「私は借金まみれです。

人助けと思って結婚して下さい」という相手、あなたならどっちを選
ぶ? 
 はっきり言えば「これ以上戦う気はない」と婉曲に言っているとし
か思えない。こんな馬鹿丸出しの会見をよくもやれたものだと腹が立
つ。群馬から尼崎まで行って学長に「てめぇ、やる気あるのか!!」と
本気でぶっ飛ばしたかった。
 こんな奴の左に懐かしい西文科の黒い髪をしたY教授が、申し訳な
さそうに身が縮めて座っていた。今の教職員名簿を見てみた。なんだ
かわからない落下傘部隊ばかりだったが、当然のことながら英知大学
時代からの古参の教職員も残っていた。実直な先生ばかりで、おそら
く「言うことを聞きそうだから」と職を背負わされたのだろう。この
先生方は被害者だと思う。留学生を含めた在校生全員には実人生に関
わる問題だから、なお一層の被害者、最大の被害者である。
 それに比べればとは思うものの、この大学に思い入れを持ちながら
退職・転任された先生方、私たち卒業生も少なからず被害を受けてい
る。かつて英知大学がどれほど愛されていたか知る者として、ショッ
クを受けた先生の誰かが体を壊さないか、「なんとか存続しろ」と誰
か卒業生が校門の前で切腹しないか、私はハラハラしている。知らな
い人間は冗談だと思うだろうが、かつての英知大学はそれほど愛され
ていた。

 しかし、報道から数日たつうちに、平手打ちをくらわせに群馬から
尼崎まで電車を乗り継ぐほどの価値もこいつらにないことに気づい
た。
 報道を知ってからいたたまれない私は一切この件のニュースを見て
いなかったのだが、この記者会見で学長が破綻にいたった理由につい
て「少子化とともに、それにもかかわらず政府が大学数を増やしたた
め」と説明したらしい。
 もう終わった、と思った。正確には、もうすでに終わっていたのだ
と思った。
「われらが巣屈 マレンピア」英知大学の精神といったものは、大学
執行部にさえ微塵もなくなっていたのだ。英知大学があった頃、もし
も私がこんな発言をしたら、どうなっていただろう。「フォリオ君!
責任転嫁なんかみっともないよ。男はあんなことを言ってはいか
ん!」と、複数の先生あるいは職員が親のように説教してくれただろ
う。それが英知大学の教職員だった。「フォリオはん、アカンて。あ
の発言はカッコ悪いって」と同窓生たちが兄弟のように諭してくれた
だろう。それが英知大学の学生だった。あいつらには英知大学の精神
といったものはまるで感じられない。

 実際、聖トマス大学はもはや誰からも愛されていなかった。この文
章を書くために友人にメールを出したり、電話をしたり、各ブログを
読んだ結論だが、卒業生で聖トマス大学に同情している者は一人もい
なかった。私たち卒業生が嘆き、悲しみ、腹の底から慟哭しているの
は、かつて偏差値は低くオンボロで小さかった母校、英知大学がなく
なることだった。そして口々に言っていることは、英知大学は英知大
学のままでよかった、小さな語学のみの学校でよかった、よほど健全
で存在意義があった、魅力的だったということだった。定員500に100
人しか来ないなら、その100人でできる自分たちの最高の教育を施せ
ばいい。定員100人に50人しか来ないなら、その50人でできることを
考えればいい。それでとうとう0になってしまったとしても、何を恥じることがあろうか。
 私も振り返って、そう思う。少なくとも、よほど健全だ。

 皮肉にも、大学淘汰時代突入のなか真っ先につぶれたのは、私たち
の母校だった。ただし、ここまで読まれた方は理解されるだろうが、
「時代の流れだから当然」というのは理由にはならない。内実は「時
代の流れ」ではなく、「時代の流れ」という言葉に踊らされた揚句、
自分たちの精神を失い、何を何のためにどう教えるべきか見失った帰
結が、この事態である。
 (だいたい「時代の流れ」などほんとうに見通している人は何人い
るのだろう。現代的なるものが、なんと同時代とずれていることか、
あとから気づかされて愕然としたことのほうが多いのではないか。そ
のあたりの謙虚さをあの大学経営陣は持ち合わせていたのか、今は悔
やまれてならない)

 そのうえで、具体的な対応とまでいかないが、卒業生としてどうい
う心構えをするべきか、少し考えてみよう。まず、現執行部は一切頼
りにはするまい。怒りから言っているのではなく、冷静に考えて信用
はできない。新キャンパスを作るだの、衛星回線授業だの言っておき
ながら(おそらく、就労目的の留学生への便宜だったのだろうが)、
翌年度早々にはいきなり借金20億で募集停止などと言い出す連中を、信
じられるか。人をだます悪意が彼らにあるか、ないかの問題ではな
い。おそらく自分たちでは何一つ約束事が果たせない状態に陥ってい
るのだろう。「今いる在校生を卒業まで絶対にちゃんと面倒を見ろ」
それ以外、私から現首脳陣に言うべきことはもはや一つもない。
 仮に大学が統合などで存続できるなら、ぜひそうしてほしいし、キ
ャンパスが残ってくれることを私も祈っている。あのキャンパスが更
地になった姿など見たら、私などきっとその場で発狂するだろう。
 しかし、これについては望み薄だと言わざるを得ない。20億の借金
を抱え込む別の大学などほとんどないであろうし、土地を転売して赤
字を埋める方が経営母体にとっても得策だろう。
 むしろ今現実的にまず考えることは有形の遺産の保全より、無形の
遺産の保全ではないだろうか。残された英知大学の精神といったもの
を、なんとか続いていくことが私にとって今、集眉の関心である。た
とえば、さすがカトリック系大学というべきか、かなり高いレベルに
達していた生命倫理に関する研究の継承先も考えねばならない。

 確かに現代は「人間なんか考えていたらオマンマにもありつけな
い」時代であるが、だからこそ今この時、倫理を、生命を、あるいは
人間を問い直そうというのが、英知大の教育にはあったし、他にはな
い魅力だったと思う。だから、「死に対してどう向き合うか」という
命題を20年以上練り直してきた高木慶子教授の「死生学」、「グリー
フ(悲嘆)のケア」については国の内外で注目されている。
http://www.asahi.com/kansai/kokoro/kataruhito/OSK200902130021.
html
4月に開設された「グリーフケアの研究と専門家養成を兼ねた機関」
グリーフケア研究所が出来てから、わずか2カ月でこのような憂き目
にあったことは大打撃だろうが、この移籍のために何かできることは
ないか、私ごとき者でも考えてしまう。もちろん、英知大学の精神、
英知大学の魅力は卒業生、在校生各人各様にあげることができるだろ
う。それらを保全延命する道を探していこう。

 そのうえで究極的には、卒業生が英知大学で学んだことが英知大学
の精神であり、遺産であるのだから、各人それをさらに豊かに広げる
こと、自分の本分をこれからも尽くすことが英知大学の名を残すこと
になるのではないか。私たちの母校が聖トマス大学という教育史の汚
点で終わるか、英知大学という教育史の伝説になっていくのか、私た
ち次第である。

 繰り返し言っておくが、英知大学が閉鎖されるのは時代の必然では
ない。避けようとすればいくらでも避けることができた事態である。
所在地すら知らない「ひょー論」が仕事をこなすために、そういう安
易な図式を振り回しているようだが、「バブル期、高度成長期に乱立
した大学はつぶれる」という運命論はまやかしである。だいいち、英
知大学がバブルに踊ったことなど一度もない。90年代中ごろになって
も、廊下を山羊が歩いていたり、ゴキブリ入りの味噌汁が出てきた話
は冒頭に書いた。マネーの「マ」の字も、当時はなかった。
 高度成長期は一層過酷だった。大学図書館ができるまでに12年を要
した。学生寮がないため、修道女さんらは大学の教室に寝泊まりして
いた。「お前の大学は学園紛争が一つもない。あんなのは大学じゃな
い」とさんざん揶揄されたが、それどころじゃなかったんだ。みんな
必死だったんだ。。。当時の先輩から、そんな話を聞かされたことが
ある。そういうところから大学の精神といったものを編み出してきた
全ての先輩方に、私は感謝したい。そして、今の今までその精神を守
ってきた、留学生を含めた後輩、在校生にも感謝したい。
 まやかしの運命論の下に隠された思惑、狂騒、腐敗は、他の大学、
あるいは会社、組織でも十分起こりえることだろう。マスコミはこん
な小大学を詳しく取り上げないだろうが、何かしらここには教訓とな
るものもあるかもしれない。日頃は愚痴ばかり飛ばして、友人限定の
日記なのだが、この日記だけはしばらく一般公開にしておく。




 それにしても、私の衝撃は激しかった。多田先生の訃報にも匹敵す
る衝撃だった。こればかりは、どんなに言葉を尽くしても誰にも理解
できまい。
 関東でこのニュースはほとんど取り上げられず、私が知ったのは4
日後のmixiニュースだった。信じることができず、泣くにも泣けず、
ほとんど何も考えられなかった。午後に夏祭りの会議などあったが、
心ここにあらずといった顔でずっと出席していた。「なんで、こんな
ニュースを聞かされた日に私は会議なんかに出ることができるのかし
ら」と、ボーと考えていた。しかし、夕方会議が終わると堪え切れ
ず、家とは逆の山の上まで車で登った。
 この一年、私は自分の寄って立つところの物をどんどんどんどん失
った。体を支えていた支柱を一本一本抜き取られたかのように、前に
進むどころか自分の身を守ることさえままならなかった。そんなと
き、こんなに大きな損失を受けるなど、もう恨みにも罵りにもならな
かった。言葉にすらならなかった。誰もいない山頂で車から下りる
と、もう立つ力さえなく、その場で四つん這いになって「わー」だか
「うぉー」だか、意味のわからない叫び声をあげて慟哭した。

 たぶん、どれほど私の悲しみが深いのか、他人にはわかるまい。何
を言われようが、この穴は一生埋まることはないだろう。
 全てが許せなかった。もはや特定の個人も、団体も突き抜けた怒り
に拳が震えた。

 私たちの思い出を、私たちの願いを、私たちの想いを、屈辱ととも
に汚し、粉々に打ち砕いた邪念を私は一生涯、絶対に許さないと誓っ
た。
2009-06-17 22:37 | 記事へ | コメント(20) | トラックバック(0) |
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2009年06月16日(火)
【安倍晋三 】これからの日本とマスメディア問題[桜 H21/6/11]
【安倍晋三 】 これからの日本とマスメディア問題[桜 H21/6/11]   安倍晋三元内閣総理大臣をお迎えし、本日11日に発足した 「公共放送のあり方について 考える議員の会」についても 触れていただきながら、「NHK『JAPANデビュー』」 問題を 中心に、マスメディアの在り方と日本の今後について、 じっくりとお話を伺います   ★★兵庫6区の 正義の味方!!★★ 安倍元首相とともに 衆議院議員 こびき司先生も 「公共放送のあり方について 考える議員の会」参加されました。 この金美麗さんを迎えての「公共放送のあり方について 考える議員の会」について安倍元首相が語られておられます。 http://blog.zaq.ne.jp/otsuru/article/898/
2009-06-16 20:29 | 記事へ | コメント(2) | トラックバック(0) |
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