夏目漱石年譜

夏目漱石(1867~1916)

1867年 慶応3年 0歳

1月5日(太陽暦2月9日)誕生。父夏目小兵衛直克、母千枝の5男。出生地は江戸牛込馬場下横町(現・新宿区喜久井町1)。兄弟は大一(大助)、栄之助(直則)、和三郎(直矩)、久吉(3歳で没)の4兄と さわ、ふさの異母姉、ちか(1歳で没)の姉があった。生後まもなく四谷の古道具屋に里子に出されるが、すぐに連れ戻される。

1868年 慶応4/明治1年 1歳

11月 内藤新宿の名主、塩原昌之助(当時29歳)の養子となる。

1869年 明治2年 2歳

名主制度が五十番組制度となり、塩原昌之助が四十一番組の添年寄となったため、浅草三間町へ移転する。

1870年 明治3年 3歳

この頃種痘から疱瘡にかかり、薄く痘の痕が顔に残る。〈彼は其所で疱瘡をした。大きくなつて聞くと、種痘が元で、本疱瘡を誘ひ出したのだといふ話であつた。彼は暗い簾子のうちで転げ廻つた。身の肉を所嫌はず掻きむしつて泣き叫んだ。〉「道草」(39)「一つ夏目の鬼瓦」という数え歌につくられるほど,疱瘡跡は目立ったらしい。

1871年 明治4年 4歳

塩原昌之助が添年寄を免ぜられたため、内藤新宿に引き上げ、休業中の妓楼伊豆橋に留守番代わりに住む。

1872年 明治5年 5歳

塩原昌之助が、第3区14小区(現赤坂田町1丁目)の戸長となる。塩原家の長男として届出がだされる。

1873年 明治6年 6歳

塩原昌之助が第5大区5小区(浅草諏訪町)の戸長となり、扱所の棟続きに移る。

1874年 明治7年 7歳

春頃塩原昌之助が旧幕臣の未亡人日根野かつと交渉をもったことから、夫婦間の不和が生じ、養母と共に一時生家に戻る。

12月 公立の浅草寿町戸田小学校下等小学校第八級に入学する。

1875年 明治8年 8歳

5月 第八級、第七級を修了。

1876年 明治9年 9歳

4月 塩原夫婦の間で離婚が成立。金之助は塩原家に在籍のまま、養母と共に夏目家に引き取られる。〈実家の父に取っての健三は、小さな一個の邪魔物であった。何しにこんな出来損いが舞い込んで来たかといういう顔付をした父は、殆ど子としての待遇を彼に与えなかった。今までとは打って変った父のこの態度が、生の父に対する健三の愛情を根こそぎにして枯らしつくした。〉

5月 市ケ谷柳町の市ケ谷小学校に転校する。                                

1877年 明治10年 10歳

1878年 明治11年 11歳

2月 友人たちと回覧雑誌に「正成論」を書く。

4月 市ケ谷小学校上等小学第八級を卒業。 神田猿楽町錦華学校小学尋常科二級後期を卒業し、一ツ橋中学(東京府立一中)に入学。

1881年 明治14年 14歳

1月21日 母千枝没。

府立一中を中退。漢文を学ぶために二松学舎に転校。

1883年 明治16年 16歳

9月 大学予備門を受験するため、成立学舎に入学し英語を学ぶ。同級に橋本左五郎、太田達人がいる。新渡戸稲造とも席を並べる。 

1884年 明治17年 17歳

小石川極楽水際の新福寺に下宿。橋本と自炊生活をする。

9月 大学予備門予科に入学。同級に中村是公、芳賀矢一がいた。

1885年 明治18年 18歳

橋本、中村ら約10人と神田猿楽町の末富屋に下宿。ボートレースを好んだ。器械体操が群を抜いて上手かったという証言(松本亦太郎)もある。                                     

1886年 明治19年 19歳

4月 大学予備門が第一高等中学校と改称される。

7月 腹膜炎に罹る。進級試験を受けず、成績も悪くて落第する。

中村と本所の江東義塾(私塾)の教師となり、塾の寄宿舎に転居。午後二時間教えて、月給5円。

1887年 明治20年 20歳

3月21日 長兄大一没(享年31)                         

6月21日 次兄栄之助没(享年28)                          

夏、中村らと富士山に登る。

7月下旬急性トラホームを患い、江東義塾を辞め自宅から通学する           

1888年 明治21年 21歳

1月 夏目家に復籍する。

7月 第一高等中学校予科を卒業する。

9月 同校本科英文科に入学する。

1889年 明治22年 22歳

1月 正岡子規を知る。同級生に山田美妙                      

9月 「木屑録」(ぼくせつろく)を著す。

1890年 明治23年 23歳

7月 第一高等中学校本科卒業。                          

9月 東京帝国大学文科大学英文科に入学する。文部省貸費生となる。

1891年 明治24年 24歳

7月 特待生となる。                               

7月28日 兄嫁登世没(24)

12月 J.M.ディクソン教授に頼まれて「方丈記」を英訳する。

1892年 明治25年 25歳

4月 徴兵を避けるため分家届を出し、北海道後志国岩内郡吹上町17浅岡方に移籍し、北海道平民となる。                      

5月 東京専門学校の講師となる。                         

夏、子規と京都、堺、岡山、松山を旅行する。岡山では大洪水を経験する。高浜清(虚子)を知る。

1893年 明治26年 26歳

7月 英文科を卒業し、大学院に進学する。10月 東京高等師範学校の英語嘱託となる。

1894年 明治27年 27歳

10月 小石川の尼寺法蔵院(現小石川3丁目)に下宿する。

12月 鎌倉円覚寺で参禅。神経衰弱になる。

1895年 明治28年 28歳

4月 愛媛県尋常中学校(松山中学校)に英語科教師として赴任。

8月 子規が松山に帰り、漱石の下宿に住む。俳句に熱中する。

12月  縁談がおこり、貴族院書記官長中根重一の長女鏡子と見合いをし婚約する。                              

1896年 明治29年 29歳

4月 熊本県の第五高等学校講師として赴任する。

6月 熊本市下通町に家を借り、結婚する。

7月 教授となる。

9月 同市合羽町237(現坪井2丁目)に転居する。

1897年 明治30年 30歳

6月 父直克没。

9月 大江村401に転居。

暮れから翌年正月にかけて、山川信次郎と小天(おあま)温泉に行く。「草枕」の素材となる。

1898年 明治31年 31歳

3月 同市井川淵8に転居。鏡子のヒステリー激化。

6月 寺田寅彦が初めて訪問する。

7月 内坪井町78に転居。

1899年 明治32年 32歳

5月 長女筆子誕生。

6月 英語科主任となる。

9月 山川信次郎と阿蘇山に登る。

1900年 明治33年 33歳

6月 同市北千反畑町の旧文学精舎跡に転居。

5月 文部省から英語研究のため満二年の英国留学を命ぜられる。

7月 帰京。

9月8日 横浜出航。

1901年 明治34年 34歳

1月 次女恒子誕生。

4月25日 5 stella Road,Tooting Graveney,London,S.W. に移転。

5月 池田菊苗が来て二ヵ月間同宿する。池田の影響を受けて「文学論」の著述を計画する。

7月 81 The Chase,Claphmam Common,London,S.W.4に移転。この下宿にこもって帰国まで「文学論」の著述に没頭する。留学費の不足と孤独感から神経衰弱に陥る。

1902年 明治35年 35歳

夏頃強度の神経衰弱に罹る。

9月19日 正岡子規没(享年36)。

10月 スコットランドを旅行。

12月5日 ロンドンを発ち帰国の途につく。

1903年 明治36 36歳

1月20日 朝長崎港着。

1月21日 熊本に入る。

1月24日 9:30新橋着。

3月 東京市本郷区千駄木57(第二高等学校教授斎藤阿具の持ち家)に転居。

4月 第一高等学校講師(年俸700円)、ラフカディオ・ハーンの後任として東京帝国大学文科大学英文科講師(年俸800円)となる。               

6月4日 文科大学学長に大学図書館の教職員閲覧室の隣室事務員が騒がしいと書面で訴える。                             

10月 三女栄子誕生。

11月 神経衰弱再発。

1904年 明治37年 37歳

4月 明治大学講師となる。

12月 高浜虚子の勧めで、文章会「山会」で「吾輩は猫である」を発表する。

1905年 明治38年 38歳

1月 「吾輩は猫である」(「ホトトギス」)                     

   「倫敦塔」(「帝国文学」)「カーライル博物館」(「學鐙」)           

4月 「幻影の盾」(「ホトトギス」)

5月 「琴のそら音」(「七人」)                          

9月 「一夜」(「中央公論」)                           

11月 「薤露行」(「中央公論」)                          

12月 四女愛子誕生。

1906年 明治39年 39歳

1月 「趣味の遺伝」(「帝国文学」)                        

4月 「坊っちやん」(「ホトトギス」)                       

9月 「草枕」「新小説」  

10月 「二百十日」(「中央公論」)中旬頃から面会日を毎週木曜日午後3時以降と決める(「木曜会」)。

12月 本郷区西片町10のろの7号(現・文京区西片1丁目)に転居。

1907年 明治40年丁未 40歳

1月 「野分」(「ホトトギス」)                          

2月 朝日新聞社入社の話が起こる。                        

3月 池辺三山の訪問によって入社を決意する。月給200円。年一度100回ほどの長編小説を書くことが条件となる。東京帝国大学と第一高等学校に辞表を提出する。月末から4月にかけて京都・大阪を旅行する。

5月3日 「入社の辞」(「東京朝日新聞」)

5月4日 「文芸の哲学的基礎」第1回~第27回(~6/4まで)

5月7日 『文学論』大倉書店

6月 長男純一誕生。

 「虞美人草」(~10月)

 総理大臣西園寺公望から文士招待会雨声会に招かれるが断る。「時鳥厠半ばに出かねたり」の一句は,有名。

9月 早稲田南町7へ転居。胃病に苦しむ。

1908年 明治41年 41歳

1月 「坑夫」(~4月)

4月 「創作家の態度」(「ホトトギス」)

6月 「文鳥」(「大阪朝日新聞」、後10月「ホトトギス」に一括転載)

7月 「夢十夜」(~8/5)

9月 「三四郎」(~12月)                             

12月 次男伸六誕生

1909年 明治42年 42歳

1月 「永日小品」(~3月)

3月『文学評論』春陽堂                             

6月 「それから」(~10月)

9月10月 中村是公の招待で満州(当時)と朝鮮(当時)を旅行する。

10月 「満韓ところどころ」(~12月)                        

11月25日 「朝日文芸欄」を創設する。  

1910年 明治43年 43歳

3月 「門」(~6月)                               

   五女雛子誕生                               

6月 胃潰瘍のため長与胃腸病院に入院。

8月 転地療養に修善寺温泉菊屋旅館に滞在する。24日大量吐血し危篤状態に陥るが、次第に回復する。                           

10月 帰京し、長与胃腸病院に入院する。「思い出す事など」(~明治44年2月)

1911年 明治44年 44歳

2月21日 文学博士号辞退。退院。帰宅してきて家の照明が電燈に切り替わっているのに驚く。それまで漱石は贅沢を理由に電燈を引こうとしなかった。                         

6月 長野へ夫人同行で講演旅行。                         

8月 関西へ講演旅行。胃潰瘍再発し、大阪で入院する。

9月 帰京、痔疾を手術する。

11月1日 池辺三山、朝日文芸欄の廃止によって辞表を提出するが慰留される。

11月29日 雛子突然死(死因が不明であり、その時の後悔が後年漱石の遺体解剖に繋がる)。

1912年 明治45年/大正1年 45歳

1月1日 「彼岸過迄」(~4月29日)

2月 池辺三山没                                 

3月 「三山居士」(「東京・大阪朝日新聞」)                      

12月 「行人」(~大正2年4月) 

1913年 大正2年 46歳

1月以降数ヶ月間強度の神経衰弱となる。

3月末 胃潰瘍のため病臥。

9月 「行人」の続編「塵労」を発表(11月完結)。                   

 この年に北海道から移籍して、東京府平民に戻る。

1914年 大正3年 47歳

4月20日 「心 先生の遺書」(~8月31日、のち「こゝろ」と改題)

9月 4度目の胃潰瘍で1ヶ月病臥。

11月 講演「私の個人主義」(学習院大学)

1915年 大正4年 48歳

1月13日 「硝子戸の中」(~2月23日) 連載

3月末 京都旅行。5度目の胃潰瘍で病臥。異母姉高田ふさ没。

4月 帰京。

6月 「道草」(~9月)

11月 芥川龍之介・久米正雄が木曜会に参加する。

 中村是公と湯河原温泉に行く。

1916年 大正5年 49歳

1月1日 「点頭録」(~1月21日まで)

リューマチ治療のため湯河原温泉へ行く。

4月 糖尿病の診断下る。真鍋嘉一郎の治療を受ける。

5月26日 「明暗」(~12月14日未完のまま連載終了)

11月22日 胃潰瘍再発し臥床する。容態は次第に悪化した。

12月9日 午後7時前、胃潰瘍により死去。夜、森田草平の発案で新海竹太郎がデスマスクを取る。夫人から解剖の発議があり、決定される。

12月10日 遺体の解剖が東京帝国大学医科大学で行われる。執刀は長与又郎。脳の重量は1425g。平均よりやや重いとされる。脳と胃を医科大学に寄付。

12月12日 午前8時出棺。

午前10時青山斎場で葬儀。導師は釈宗演がつとめた。戒名「文献院古道漱石居士」。落合火葬場にて荼毘に付す。

12月13日 骨拾い。

12月14日 「明暗」の連載が終了する。

12月28日 雑司ヶ谷墓地で埋骨式。

1917年 大正6年

1月 『明暗』岩波書店

11月 『漱石俳句集』岩波書店

1919年 大正8年

6月 『漱石詩集 印譜附』岩波書店

◇ 参考文献 ◇

夏目鏡子述・松岡譲筆録『漱石の思ひ出』昭和3年11月23日 改造社

小宮豊隆『夏目漱石』第1巻~第3巻 1993年11月16日第4刷 岩波文庫

小田切進「略年譜」『新潮日本文学アルバム2夏目漱石』1987年6月5日8刷 新潮社

朝倉治彦・稲村徹元編『明治世相編年辞典』平成7年6月30日 東京堂出版

特装版『漱石全集』第18巻 補遺 昭和61年3月20日 岩波書店

市古貞次等編『日本文化総合年表』1990年3月8日 岩波書店

岡 三郎「新資料・漱石の『英国留学始末書』その他をめぐって」『青山学院大学文学部紀要』第25号 昭和58年