漱石木曜会

漱石木曜会

夏目漱石は、明治40年9月、早稲田南町に引っ越した。ちょうど朝日新聞に専属小説記者として入社して半年、その第1作となる「虞美人草ぐびじんそう」を書き上げた頃のことである。漱石は、ここで多くの名作を生み出し、大正5年、49歳で「明暗」の執筆中に亡くなるまで、住み続けた。この、漱石が晩年を過ごした家と地を、「漱石山房(そうせきさんぼう)」という。
 「漱石山房」の家は、ベランダ式の回廊のある広い家で、庭には背丈を越す芭蕉がそよぎ、木賊とくさが繁っていた。もとは医者の家で、奥の十畳は診察室として使われていたような板敷きの洋間があった。漱石は、この洋間に絨毯を引き、紫檀したんの机と座布団をしつらえて、書斎としていた。机は意外に小さくて、漱石が小柄な男であったことを思い浮かべることができる。書斎の手前の十畳間が応接間となっていた。漱石には、門下生や朝日新聞の関係者など、面会者がとても多かったため、面会日を毎週木曜日に決めた。そして、その日は午後から応接間を開放し、訪問者を受け入れた。これが「木曜会(もくようかい)」の始まりである。「木曜会」は、近代日本では珍しい文豪サロンとして、若い文学者たちの集いの場所となり、漱石没後も彼らの精神的な砦となったのである。

漱石「木曜会」で集まった主な人々

■高濱 虚子(たかはま きょし)
1874年2月22日~1959年4月8日
愛媛県松山市出身  俳人・小説家
1888年、旧制伊予尋常中学に入学し、1歳年上の河東碧梧桐(俳人・学生時代、虚子と共に子規から俳句を教わる。俳句界で新傾向俳句などを推し進めた人物)と同級になり、彼を介して正岡子規に兄事し俳句を教わり、1891年、子規より虚子の号を受ける。1897年、松山で創刊された月刊誌「ホトトギス」に参加し、翌年これを引き継ぎ東京に移転する。その後、俳句だけでなく、和歌や散文などを加えて俳句文芸誌として再出発し、漱石も寄稿した。1954年、文化勲章を受章。

■寺田 寅彦てらだ とらひこ
1878年11月28年~1935年12月31日
東京市麹町区出身 物理学者・随筆家・俳人
旧制高知県尋常中学校、熊本第五高等学校をへて、1899年東京帝国大学へ入学。研究上の業績としては、地球物理学連のものや、1913年に「X線の結晶透過」、「金平糖の角の研究」などがある。寅彦はいわゆる「理系」でありながら文系の事象にも造詣が深く、科学と文学を調和させた随筆を多く残している。漱石の元に集う弟子達の中でも最古参に位置し、科学や西洋音楽などの分野では漱石が教えを請うこともあった。また、寅彦は、「吾輩は猫である」の水島寒月や「三四郎」の野々宮宗八のモデルとも言われている。

■森田 草平もりた そうへい
1881年3月19日~1949年12月14日
岐阜県稲葉郡出身 小説家
25歳で、東京帝国大学英文科を卒業。その後、漱石に師事し、安倍能成、小宮豊隆、鈴木三重吉と共に漱石門下四天王の一人に数えられる。1908年、平塚らいてうとの恋愛事件が話題になるが、社会的に非難されたため、翌年この事件をもとにした「煤煙」を執筆し始め作家として認められていく。その後「初恋」などの小説を発表するが、次第に翻訳の分野に精力を傾けていく。イプセン、ドストエフスキー、セルバンテス、ダヌンツィオ、ボッカチオなど多数の訳書で海外文芸を日本に紹介した功績は大きい。

■鈴木 三重吉すずき みえきち
1882年9月29日~1936年6月27日
広島県広島市出身 小説家・児童文学者
広島県立中学から第三高等学校を経て、東京帝国大学英文学科に入学。在籍中の1905年、病気療養のため能美島を訪れ、その体験をもとに短編小説『千鳥』を書き上げた。これが漱石の推薦を得て雑誌「ホトトギス」に掲載され、以降漱石門下の一員として中心的な活動を行う。しかし、1915年、小説の行き詰まりを自覚し、筆を折る。その後、娘のための作品創作をきっかけに児童文学作品を手掛けるようになる。1918年、児童文芸誌「赤い鳥」を創刊、亡くなるまでの足掛け17年間(196冊)刊行を続け、児童尊重の教育運動が高まっていた教育界に大きな反響を起こした。

■安倍 能成 あべ よししげ
1883年12月23日~1966年6月7日
愛媛県松山市出身 哲学者・教育者・政治家
東京帝国大学へ入学し、哲学を学ぶ。在学中に夏目漱石や波多野精一、高浜虚子と交流し影響を受けた。1909年に東京帝国大学を卒業し、その後は慶応義塾大学・第一高等学校などの講師を歴任。1924年、研究のため欧州へ留学し、帰国後は京城帝国大学教授に就任し、1940年からは第一高等学校長を勤め、名校長と謳われた。哲学者としての深い知識を背景に、自由と民主主義を説き正直に生きることを主張した。幣原内閣においては、文部大臣に就任し、戦後の文部行政の刷新をはかった。

■小宮 豊隆 こみや とよたか
1884年3月7日~1966年5月3日
福岡県京都郡出身 独文学者・文芸評論家・演劇評論家
福岡県立豊津中学校、第一高等学校へとすすみ、1905年、東京帝国大学文学部に入学。大学時代に夏目漱石の門人となり、「木曜会」に参加。独文学者としては、慶応義塾大学や東北帝国大学法文学部などの教授や図書館長を勤めた。また、漱石全集や寺田寅彦全集の編纂者としての功績も大きい。小宮の漱石への敬愛は始終変わらず、今日も彼の制作した全集は、研究の古典としての意義を持つ。1954年には、漱石の研究をまとめた漱石伝「夏目漱石」(全3巻)で芸術院賞を受賞。

■平塚 らいてう ひらつか らいてう
1886年2月10日~1971年5月24日
東京府麹町区出身
思想家・評論家・作家・フェミニスト
明治時代末からの女性解放運動・婦人運動の指導者で、後年には平和運動にも関わった。表記は一定せず、漢字で雷鳥と書く場合や、塩原事件で有名になったために、本名の平塚 明(ひらつか はる)や平塚明子で評論の俎上に上がることもある。
塩原事件を機に、性差別や男尊女卑の社会で抑圧された女性の自我の解放に興味を持つようになっていた。この頃、生田長江の強いすすめで、日本で最初の女性による女性のための文芸誌『青鞜』を創刊。
1919年(大正8年)11月24日、「婦人参政権運動」と「母性の保護」を要求し、女性の政治的・社会的自由を確立させるための日本初の婦人運動団体『新婦人協会』は市川房枝、奥むめおらの協力のもと、らいてうにより設立が発表された。

■中村 吉右衛門 なかむら きちえもん (初代)
1886年3月24日~1954年9月5日
東京府浅草象潟町出身 歌舞伎役者
三代目中村歌六の次男で、本名、波野辰次郎。弟に三代目中村時蔵、十七代目中村勘三郎、娘婿に八代目松本幸四郎がいる。
明治30年(1897年)、初舞台を踏んだ。
子供歌舞伎の中心として初代助高屋小伝次、初代中村又五郎らと舞台
に立った。長じて、明治41年(1908年)、六代目尾上菊五郎 と共に市村座専属となり、若手の歌舞伎役者として人気を博し、「菊吉時代」「二長町時代」を築いた(下谷区二長町に市村座があった)。大正10年(1921年)、市村座を脱退。のち歌舞伎座に移り、名優として高い評価を得た。
昭和26年(1951年)、文化勲章受章。

■和辻 哲郎 わつじ てつろう
1889年3月1日~1960年12月26日
兵庫県神崎郡出身 哲学者・倫理学者・文化史家
姫路中学校、第一高等学校を経て、1909年、東京帝国大学へ入学。在学中に谷崎潤一郎と第二次「新思潮」を創刊する。和辻は自分に最も影響を与えた人物として漱石をあげていた。第一高等学校時代には、教室の窓の外から漱石の授業を聴くほどの熱狂ぶりであった。
東京帝国大学卒業後は、漱石山房を訪れるようになる。しかし、文学への志を断ち、道徳思想史研究のため1927年からドイツへ留学する。帰国後は、東京帝国大学教授に就任し、風土性の問題に迫った書「風土」を著す。1950年、日本倫理学会を創立、1955年文化勲章を受賞。

■内田 百閒 うちだ ひゃっけん
1889年5月29日~1971年4月20日
岡山県岡山市出身 小説家・随筆家
老舗酒屋の一人息子として生まれるが、父親の死と共に生家が傾き、生涯金銭的には恵まれなかった。1910年、東京帝国大学に入学。在学中に、かねてから私淑していた漱石を見舞ったことにより門弟となり、漱石の校正を任されるようになる。東京帝国大学卒業後、岡山から没落した一家を呼び寄せ、陸軍士官学校などのドイツ語教師などを勤めるが、1925年には教師を休職し、本格的に随筆活動を始める。琴・酒・煙草・小鳥などを愛し、それぞれについて多くの著作が残されている。特に琴には熱心に取り組み、宮城道雄に師事。最初は師弟関係であったが、のちに二人は大親友となり、彼との交流を描いた随筆は数多い。

■久米 正雄 くめ まさお
1891年11月23日~1952年3月1日
長野県上田市出身 小説家・劇作家
東京帝国大学に在学中、芥川龍之介や菊池寛とともに第三次「新思潮」を立ち上げて作品を発表。大卒業の直前に夏目漱石の門人となる。漱石の長女筆子に恋をしたが、筆子は松岡譲と一緒になってしまう。久米は、この時の体験を美化し、自らを悲劇の主人公に描いた小説「破船」を発表する。この小説が主に女性読者から同情を集め、通俗作家として成功した。

■芥川 龍之介 あくたがわ りゅうのすけ
1892年3月1日~1927年7月24日
東京市京橋区出身 小説家
第一高等学校を経て、東京帝国大学に入学。在学中の1914年に菊池寛、久米正雄らとともに同人誌第三次「新思潮」を刊行し、処女小説「老年」を発表。1915年代表作「羅生門」を発表、級友の紹介で漱石門下に入る。翌年同誌上に発表した「鼻」は漱石に大変認められる。大学卒業後は一時教鞭もとるが、1918年に教職を辞し大阪毎日新聞社に入社、創作に専念する。
川の作品の多くは短編で、「今昔物語」「宇治拾遺物語」など古典から題材をとったものが多く、童話も書いた。しかし、1927年服毒自殺をはかる。後に、芥川の業績を記念して芥川賞が設けられた。