■高濱 虚子
1874年2月22日〜1959年4月8日 愛媛県松山市出身
俳人・小説家
1888年、旧制伊予尋常中学に入学し、1歳年上の河東碧梧桐(俳人・学生時代、虚子と共に子規から俳句を教わる。俳句界で新傾向俳句などを推し進めた人物)と同級になり、彼を介して正岡子規に兄事し俳句を教わり、1891年、子規より虚子の号を受ける。1897年、松山で創刊された月刊誌「ホトトギス」に参加し、翌年これを引き継ぎ東京に移転する。その後、俳句だけでなく、和歌や散文などを加えて俳句文芸誌として再出発し、漱石も寄稿した。1954年、文化勲章を受章。
■森田 草平
1881年3月19日〜1949年12月14日 岐阜県稲葉郡出身
小説家
25歳で、東京帝国大学英文科を卒業。その後、漱石に師事し、安倍能成、小宮豊隆、鈴木三重吉と共に漱石門下四天王の一人に数えられる。1908年、平塚らいてうとの恋愛事件が話題になるが、社会的に非難されたため、翌年この事件をもとにした「煤煙」を執筆し始め作家として認められていく。その後「初恋」などの小説を発表するが、次第に翻訳の分野に精力を傾けていく。イプセン、ドストエフスキー、セルバンテス、ダヌンツィオ、ボッカチオなど多数の訳書で海外文芸を日本に紹介した功績は大きい。
■安倍 能成
1883年12月23日〜1966年6月7日 愛媛県松山市出身
哲学者・教育者・政治家
東京帝国大学へ入学し、哲学を学ぶ。在学中に夏目漱石や波多野精一、高浜虚子と交流し影響を受けた。1909年に東京帝国大学を卒業し、その後は慶応義塾大学・第一高等学校などの講師を歴任。1924年、研究のため欧州へ留学し、帰国後は京城帝国大学教授に就任し、1940年からは第一高等学校長を勤め、名校長と謳われた。哲学者としての深い知識を背景に、自由と民主主義を説き正直に生きることを主張した。幣原内閣においては、文部大臣に就任し、戦後の文部行政の刷新をはかった。
■和辻 哲郎
1889年3月1日〜1960年12月26日 兵庫県神崎郡出身
哲学者・倫理学者・文化史家
姫路中学校、第一高等学校を経て、1909年、東京帝国大学へ入学。在学中に谷崎潤一郎と第二次「新思潮」を創刊する。和辻は自分に最も影響を与えた人物として漱石をあげていた。第一高等学校時代には、教室の窓の外から漱石の授業を聴くほどの熱狂ぶりであった。東京帝国大学卒業後は、漱石山房を訪れるようになる。しかし、文学への志を断ち、道徳思想史研究のため1927年からドイツへ留学する。帰国後は、東京帝国大学教授に就任し、風土性の問題に迫った書「風土」を著す。1950年、日本倫理学会を創立、1955年文化勲章を受賞。
■松岡 譲
1891年9月28日〜1969年7月22日 新潟県古志郡出身
小説家
父親が僧侶であったため、本来なら僧侶になるべき立場だったが、幼いころから仏門の腐敗を目の当たりにして育ち、生家に強く反発した。長岡中学校、第一高等学校を経て、1913年、東京帝国大学へ入学し、在学中に漱石の門人となる。1918年、大学卒業の翌年に漱石の娘筆子と結婚。ところが、筆子に思いを寄せていた久米正雄から嫉視され、小説内で卑劣漢として書かれたため、文壇で長らく不遇を買った。しかし、自伝小説「法城を譲る人々」はベストセラーとなったほか、「漱石の思い出」も広く読まれている。
■芥川 龍之介
1892年3月1日〜1927年7月24日 東京市京橋区出身
小説家
第一高等学校を経て、東京帝国大学に入学。在学中の1914年に菊池寛、久米正雄らとともに同人誌第三次「新思潮」を刊行し、処女小説「老年」を発表。1915年代表作「羅生門」を発表、級友の紹介で漱石門下に入る。翌年同誌上に発表した「鼻」は漱石に大変認められる。大学卒業後は一時教鞭もとるが、1918年に教職を辞し大阪毎日新聞社に入社、創作に専念する。芥川の作品の多くは短編で、「今昔物語」「宇治拾遺物語」など古典から題材をとったものが多く、童話も書いた。しかし、1927年服毒自殺をはかる。後に、芥川の業績を記念して芥川賞が設けられた。