感じない男ブログ このページをアンテナに追加 RSSフィード

2009-07-12

[]移植を待つ親は、子が脳死になったら臓器を出すか?

あしたの採決の前に、書いておきます。

もし仮にA案、A’案が通ったとしたら、これまで子どもの移植を訴えてきた親の方々は、つらい状況に追い込まれるのではないでしょうか。

それは、移植を待っているあいだに、不運にも、子どもが脳死になってしまった、あるいは心臓死になってしまったときに、親は脳死・心臓死の子どもから臓器を摘出して移植し差し出すかどうかを問われることになる、ということです。(いまはそういうことは日本では生じません)

このとき、

・ 親には、脳死・心臓死になった子どもから臓器を摘出する法的義務はありません。

これは確かなことです。

問題となるのは、

・ 親は、自分の子どもには臓器をくださいと言っていたのだから、自分の子どもが脳死・心臓死になったときには、自分の子どもから臓器を摘出して差し出す、道義的義務があるのかどうか?

という点です。言い換えれば、

・ 「うちの子どもに臓器をください!」と言っていた親が、自分の子どもが脳死・心臓死になったときに「うちの子どもの臓器はあげませんから」と言ったとしても、それはまったく道義的に問題はない、ということになるのかどうか?

ということです。(心臓死後でも、角膜、腎臓は摘出できます)

この問題を、A案、A’案が通ったら、親は引き受けないといけない状況になります。これはかなりやっかいな問題です。みなさんはどう思いますか?

子どもからの臓器移植というのは、本来こういう種類の問題なのです。物言わぬ1歳の心臓病のレシピエント候補もまた、死ねば(脳死になれば)ドナー候補となるのです。これがA案の切り開いていく世界なのです。

参考エントリー:

http://d.hatena.ne.jp/kanjinai/20090708/1247014793

たしたし 2009/07/12 20:06 今日の日経新聞の寄稿記事を拝見しました。

おっしゃる通りだと思います。

先生ありがとうございます。

ちしゅーちしゅー 2009/07/12 22:21 アメリカで心臓移植を受け、その後容態が悪化して亡くなられた「いっきちゃん」のご遺体が日本に帰ってきたとき、マスコミはご両親に対し、臓器を提供してきたのか否か、その判断の時何を思ったのかについて誰も聞いていなかったようなので、変だなあと思っています。あのときに何かを聞いて、何かを答えていたら、いろんな意味で決定的だったんじゃないかと思います。
わたしが親だったら聞いて欲しくないけれど、でも聞かれたら答えるべきところだと思います。そして、それを敢えて聞けるのはマスコミだけなので、聞いて欲しかったと思っています。

terutellterutell 2009/07/12 23:20 確かドイツに移植に行ったこどもさんの場合は、亡くなった後、臓器提供をされました。テレビの移植を扱った番組でも紹介されていました。でも、2ちゃんねるでは、別の、移植を望んでいたけれど、かなわずに亡くなったとき、臓器提供しなかった、親はそれを望まなかった、という例ばかりが何度も何度もコピペされ、海外渡航移植に行く人々を非難誹謗中傷する理由にされています。

稲亀石稲亀石 2009/07/12 23:38 こういう話は複雑化させると際限ありません。ましてや「道義」なんていいだしてはどうしようもないのでは。えらそうにいたずら電話する馬鹿に正当化の手段を与えるだけと思うのです。
死生観の問題です。「わたしは心臓死しか認めないので脳死といわれても子供の臓器はだしません。でも、脳死を死と思うかたがおられるなら臓器ください」でいけませんかね。

稲亀石稲亀石 2009/07/12 23:45 角膜腎臓も同様に思います。あげてもいいという方からいただくのは、自分があげるということの交換条件ではないでしょう。そういうさもしい根性が結局は移植の一般化の障害になっているのではないでしょうか。
脳死の臓器をあげるというのはそれだけで気高い行いです。相手を選ぶべきではないし、相手に交換条件的になにかの提供を強いるのはもともとの行為自体を貶めることと思うのですが。

歌に夢のせて…春菜歌に夢のせて…春菜 2009/07/13 00:24 先日はコメント戴きまして有り難うございました。

こういう一方的な記事は如何なものかと思いますが。

臓器移植が必要な患者さんはその闘病の上で、臓器も変質して行くものですよね?

ましてや、長い闘病生活で苦しんできたことを思うなら楽に死なせて上げることが人道的な立場で言うべきことではないでしょうか?

その中で提供に同意した親を称えるべきだと思います。

kanjinaikanjinai 2009/07/13 00:29 おお、けっこうみなさんの心をかき乱す問いのようですね。もっといろんな意見を聞きたい。一点、上の「相手を選ぶべきではないし」だったら、A案は拒否しないと(親族優先条項あり)。

kanjinaikanjinai 2009/07/13 00:35 >春菜さん 「ましてや、長い闘病生活で苦しんできたことを思うなら楽に死なせて上げることが人道的な立場で言うべきことではないでしょうか?」これは、移植患者に臓器を摘出される(通常の)脳死の子どもさんにも同様に当てはまるのではないでしょうか? 脳死になった子どもさんも、たいへんな闘病の結果ですし、投薬などで臓器もかなりへばっていることでしょう。この問題はレシピエントの子ども、ドナーの子ども、双方の立場で考えないといけませんし、そう考えると、果てしなく深く引きずり込まれていく問題だということに気づくようになりますよね。

稲亀石稲亀石 2009/07/13 00:48 >一点、上の「相手を選ぶべきではないし」だったら、A案は拒否しないと(親族優先条項あり)。
そう思います。ただ、なんでこの条項がまざりこんだのかよく知らないのです。すこしでも提供しやすい状況にしようという妥協もあるのでしょうから、一方的に駄目という気にもなれないのでなんだかですが。
でも、一気に状況を変えるのは無理と思うので私はD案でもいいと思います。で、提供者が増えなくて結局A´やAに結局はなると思うのですよ。

歌に夢のせて…春菜歌に夢のせて…春菜 2009/07/13 01:21 脳死に闘病生活があるのはそれ以前に、なんらかの病気がある場合です。


それであれば子どもの状態をある程度予測できるのではないでしょうか?


突然の脳死には闘病はありません。あるのは脳死と診断されてからです。


脳死と診断されても元通り、普通の生活に戻れるような研究は不可能ですか?


移植を必要としている子どもたちが、移植であれ再生医療であれ元通りの生活に戻れるように努力をした結果、何年後かに脳死と診断されるようになった時は提供を申し出る。


これでなくては、不公平でしょ?


脳死を救えない医療と捉えているから、ドナーのことばかり取り上げるのではないですか?

もっとしっかり診断して脳死じゃない人まで脳死と診断しない努力をして下さい。

kanjinaikanjinai 2009/07/13 01:25 >親族優先条項がまぎれこんだのは、衆議院議員の河野父、河野息子のあいだで生体移植がなされ、その河野(子)がA案の提案者だったからです。河野洋平は衆議院議長。国会議員はまあたてつけないでしょう。A案の原案を作成した町野教授も親族優先提供には反対している。学者で、これに賛成している人はいないのでは? 参議院参考人質問でも、反対意見が続出したのに、議員さんは結局これに手をつけれなかったというわけですね。
私は「提供者が増えないから、ああせよこうせよ」という考え方そのものに反対しています。

kanjinaikanjinai 2009/07/13 01:28 >春菜さん 「突然の脳死には闘病はありません。あるのは脳死と診断されてからです」。子どもが脳死になる機序をもう少しちゃんと調べられてから発言されることを望みます。それ以降の文章も、意味が分かりません。ごめんなさい、以降スルーします。

kanjinaikanjinai 2009/07/13 01:36 >てるてるさん
2chの厨によるコピペ攻撃は論外でしょう。問題にそくして言えば、私は、道義的義務があるのかないのか、いまの時点ではいずれとも明言できません。これはかなり根深い問題と考えています。予想外に込み入ってる問題だと思います。
エントリーのラスト3行は、事実認識の次元の問題で、道義的云々とはまた別の論点です。これも重大問題だと思います。また改めてきちんと展開することにします。今回は指摘だけ。
エントリー冒頭で、「あしたの採決の前に」と書いたのは、この論点を、採決結果とからめたくなかったからです。それに、私は参議院が決まって以降、さすがに心身ともに疲れ果てました。裁決後は、このブログでのこの問題への言及はとうぶん終わりにしたいと思っています。先日来から怒濤のエントリーをしているのも、それが理由。今後はこの問題は学術の次元で継続論議していくつもりです。

歌に夢のせて…春菜歌に夢のせて…春菜 2009/07/13 01:41 脳死は元に戻ることが不可能な状態です。

しかし、現行法で法的脳死判定をしてしまうと微かな可能性も打ち消してしまうかも知れません。

そして、脳死判定ではなく診断で脳血流が途絶えてることが確認されて、脳の状態がつぶさに報告された例を見れば、人工呼吸器に繋いであったとしても脳は融解をしているのですよ。

この状態を親はどのように受け止めているのでしょうか?

また、初期の脳死の診断でこのことを医師に説明されたらどのように受け止めるのでしょうか?

スルーしてもいいですよ。

深海魚深海魚 2009/07/13 10:01 初めてコメントさせていただきます。

A案や修正A案が通れば、本人の拒絶の意思がないかぎり臓器提供に同意したものとみなされ、また15歳未満には意思表示の方法が用意されていないので、現行法では国内の移植ができないような子どもは当然拒否の意思を示すことはなく、家族の同意さえあれば提供が可能になる。
このような変更があることを踏まえたうえでの問題提起であると理解いたしました。間違っていたら申し訳ありません。

心臓死からのそれも含めて、臓器提供に同意するかにおいて個人の意思(この場合は家族の、ですが)が尊重されるべきであるならば、一度意思決定をした後でも何らかのきっかけで迷いなおし、選択しなおす自由もまた、尊重されなくてはいけないのではないでしょうか。
臓器移植によらなければ救命が難しい病気にかかったお子さんを持った親御さんが、「死者」からの臓器提供を求める立場を一度はとったとしても、その後お子さんが脳死や心臓死に至れば、それまで「この子を救いうる誰かの身体」についてだった問題が「目の前のこの子の身体」についてのものとして経験されなおすことになります。その(再)経験を経て、脳死・心臓死がいかなるものか、臓器提供とはなんなのかについての認識が変化し、臓器提供をしないという結論に至ることは十分にありうるように思います。
臓器提供の選択はそうした変更の自由を内に含んでいるものだと思います。それは当然、一度レシピエントとなることを望んだ人やその親にも開かれているでしょう。ですから、移植待ちのお子さんが脳死や心臓死になった場合にも、必ずしも親御さんに臓器提供に応じる道義的義務があるとは言えないのではないでしょうか。
ただしその場合、以前の「脳死は人の死」や「『死者』から臓器を取ってもOK」という判断を今どう思うか、また今後どう考え発言するかについては、問われてしかるべきと考えます。

A案や修正A案が成立した場合、ドナー候補本人の「迷う自由」は失われてしまいますし、法的脳死判定の要件が「家族の同意が必要」から「家族に拒否権がある」に変更されることで実際の運用上で家族による選択の余地も狭まることが懸念され、非常に問題であると感じています。しかし、その上でなお残された「迷う自由」を親が行使することを非難すべきとは思いません。
また、「他の親が同意するならその子どもからの提供は受け入れるが、自分の子どもについては同意しない」という考え方を簡単に「矛盾」として批判できるかというと、躊躇いがあります。

以上、まとまりのない書き込みで失礼いたしました。

TeppeiTeppei 2009/07/13 10:20  先生のご指摘の「道義的にどうか?」という事ですが、世間一般で皆さんがどうお考えになるかは僕にはわかりませんが、「レシピエントが移植を受けてまで生きたいと思う気持ち」「生前に脳死下提供をのしようと思う気持ち」などの考えは、その人の出会いや経験などで、極端に言うと日々変化していくのではないでょうか?実際に僕は昨年まで移植医療にまったく関心がありませんでしたが、今では我が子の脳死提供も考えるほどになりました。もちろん我が子に移植が必要になったら、どんな事をしてでも受けさせてあげたいとも思っています。あとこれも全てのレシピエントに当てはまるかはわかりませんが、僕が応援したレシピエントの親御さん達は皆さん我が子に死が近づいた時、臓器提供を申し出られています。残念ながら臓器の損傷がひどく提供には至りませんでしたが、皆さん声を揃えておっしゃっておられるのが、「臓器提供が出来ないとわかった時、再び子供の死を感じたような気がしてとても辛かった・・」と。
 確かにA案以外ではこのような問題は起きないのかもしれませんが、A案以外では多くの命を救うことができないのも確かだと思います。当然、たとえA案であっても法改正後数年は移植件数は増えないとも思っています。その他の案だと現状とほぼ変わらないのではないでしょうか。
 「自分の子は移植をしてでも助けたい」と思うのに「自分の子の臓器はあげない」と言うのは筋違いだと思います。レシピエントの家族はもちろん、A案支持者は法的な拘束はなくても、家族の臓器提供の道も考えておく必要があると思います。実際にどうするかは出会いと経験によって変わっていくと思いますので、結果どう選択しても責めるべきではないと思います。

kanjinaikanjinai 2009/07/13 10:53 >深海魚さん ていねいな思索の書き込みありがとうございます。たいへん参考になるご意見だと思います。「ただしその場合、以前の「脳死は人の死」や「『死者』から臓器を取ってもOK」という判断を今どう思うか、また今後どう考え発言するかについては、問われてしかるべきと考えます」との指摘はかなり正確にポイントをついているように思いました。
>Teppeiさん 貴重なご意見ありがとうございます。おっしゃることはなるほどと受け止めたうえで、たぶん私がこだわっている点は、脳死の子どもは「この子の臓器がどこかで生きていてほしいから臓器を摘出したい」という親の意向からも保護されないといけないのではないかということです。これについては、きちんと書きたいので、また別の機会に、ということで。

relax_arelax_a 2009/07/13 17:43 道義的と言っている時点で、そんなもんは個人の感覚でしかない。

もりじいもりじい 2009/07/13 17:56 私は脳死が人の死でないと考えます。心臓死こそが人の死だと思います。ですからまだ死んでもいない体から臓器を取り出す臓器移植には反対です。生物には必ず死が訪れます。先ず生きること、命の大切さ、そして死を迎え入れる心について考えるべきです。「死」というものを理解し「死」を受け入れる「心(がまえ)」ができなければ、臓器移植はやるべきではありません。臓器は「もの」でも「商品」でもはありません。自分の子供が障害を持っていたり、心臓病や内臓の病気で生まれたならばそれは宿命です。特に限りある命の場合、その限界に逆らってまで生き延びさせることが、果たして子供にとって本当に幸せな事でしょうか?限りある命は、おそらくそれだけの期間を定めて生きることの大切さを教示しているのだと思います。短い人生であっても、一緒に精一杯生き、寿命を全うさせることこそが親の勤めだと思います。
脳死については、もう一度別のスレッドをたてて頂きたいと感じます…
私自身は反対ですが、脳死を受け入れることができる親御さんの臓器移植については反対しません。
先生の言われる、道義的責任というのはちょっと違和感を感じます。
立場が逆転した場合でも、ドナーの親御さんは脳死自体を既に受け入れている訳ですから、拒否することは自由ですが、結果的に拒否しないのでは無いかと推測します… 推測の域を出ません。

terutellterutell 2009/07/13 18:24 移植待機患者やその家族の道義的責任ということについては、親族優先提供ともからめて、滝本太郎さんが、以前からブログに意見を書いていらっしゃいます。
http://sky.ap.teacup.com/takitaro/837.html

ユニークフェイスユニークフェイス 2009/07/13 18:27 ユニークフェイスな子供を持った親が、健康な顔をした子ども(脳死の子ども)の顔面移植をもとめる、ということが起きるかもしれない。そういう状況は止めないといけない。

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