平成13年秋 帯広の娘 梅子宅へ逃避していた当時の母親の元気な姿
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平成3年2月17日、当時母親セツは74歳で娘 ちどり夫婦が毎晩北海道へ売却して戻ることに抗議して睡眠不足にさせ糖尿病が悪化して眼底出血して眼が見えなくなってはいたが手術し実家自宅での療養程度であった。
それから治療により糖尿病も良くなり杖は突いても長時間は無理でも一人で歩き廻るし急な階段も登り降りできたのだった。
しかし、平成3年の秋に娘 ちどり夫婦が山形市内の中桜田自宅の横に母親セツに買わせていた土地に母親から強奪した黒の手提げの中から預金を卸して6畳2間の平屋を新築し母親セツを実家から深夜拉致して監禁した。
それから食事は、全て配膳業者に頼み糖尿病で食べさせられないと嘘を言い一日二食でお粥の御飯をシャモジ二杯と味噌汁がコップ一杯だけを与えられていたことから痩せた。
その理由は、その新築した「離れ。」からの逃走をさせないように歩けなくさせたのだった。
それから母親セツは、オムツをさせられ業者が交換に一日二回朝夕来ていたと言う。
平成13年8月に母親セツを公証人役場に車椅子で連れて行き公証人の前で「全財産を全部武田ちどりに渡す。」と言えといい「言うとおり言わないと殺す。」と脅して証人の大嶋夫婦と待ち合わせて公証人に会ったが母親が拒否した。
それで公正証書作成出来なくなったので外に出てから近くの大嶋夫婦が経営する居酒屋に連れ込み母親を皆で叩いた。
その後、直ぐ「離れ。」叩き込み全て戸締りして断食させたのだった。
一週間目に、母親が気を失っていると証人の妻の大嶋礼子が入って来て母親に、コップ一杯のお茶を与えたのだった。
それから又、監禁生活だったが間もなく夫 利雄も部屋に連れられ同じ生活をさせられていた。
父親 利雄は、既に認知症が進み朝から寝るまで「25万円貸せ。」と叫んで居たらしく母親が煩くて困ったと話す。
それからお盆も過ぎてから母親は、このままでは娘夫婦から殺されると感じて無一文だし考えた末に娘 ちどりに「死ぬ前に頼むから帯広の梅子に逢わせて欲しい。」と何回も嘆願してやっと飛行機に乗せてもらい帯広の娘のところへ逃避に成功したのだった。
これで助かったと思って喜んで居たら直ぐ、山形の娘 ちどりから梅子に携帯電話が掛かって来て「逃がさないから。」と話したのを聞き助けを求めるのを止めておいたと話した。
何とか息子 亨 が助けに来て欲しいと毎晩神様に心で嘆願していたと言う。
平成13年の12月始めにその効果があってか、息子 亨 が実家の母親とも父親とも連絡が着かないので不信を感じ度々帯広の姉 梅子に電話をしていたが何度かの電話で予感がして「そこに婆ちゃん居るだろう。」と聴いたら溜まり込んだので確信を持ち「今から行くから。」と切って帯広へ向かったのだった。
驚くほど痩せている母親セツに、逢ったとたん涙を流して何も言わないで母が眼で訴えていた。
梅子も同じ部屋で寝ているらしくベットが二つ置かれていたがトイレを借りて驚いた。
トイレの横に、小さなシングルベットが置かれていたので母親が寝かせられているベットと直ぐ解かったのだった。
帯広の梅子の住宅は、以前地下一階にエアロビックスやカラオケ室のワンルームのある地上二階建て住宅でしたが棟揚げして地上三階の建物に改造していた。
以前の地下室の台所の無いワンルームに母親と娘の梅子が生活していたのだったが食事は、当然二階へ急な階段を登って食べていたのである。
長男 亨 は、姉の自宅には頻繁に仕事の関係で帯広へ立寄るたびに出入りしていたので良く解かっていたのだ。
確かお盆過ぎにも姉の自宅に立寄っていたのに母親セツの気配が無かったし一階には入らなかった。
姉 梅子は、C型肝炎で人口透析を週に二回の治療していたので留守にすることから元、地下室の部屋は、窓が全て高い位置に設置されているので入り口ドワ以外は、逃走のすべが無かったのだった。
従って、一切コンクリートが厚く解からなかったのだった。
時々二階へと姉 梅子が登った機会に母親に連絡が着かなかった理由を聴こうとしていたがチャンスが無かった。
それで母親セツを温泉旅行に連れ出して事情を聴く事にして帯広市内から少し離れた十勝川温泉を選び一泊することにした。
ところが姉も同行すると言い出したので機会無く帰ってから深夜母親のベットにトイレに行く振りして聴き出した。
母親セツから全財産の入った手提げを奪われ中桜田での生活していたことを聴いてからは、翌日姉を呼んで問いただしたのだった。
しかし、姉も「何も知らない。」と言い関与していない振りをしていたが「山形に行って調べたら解かるかもね。」と言い出したので長男 亨も土地や自宅の権利書と実印も盗られたことから調査に向かうことに決めたのだった。
しかし、それにも姉が同行を求めたのだった。
何故、山形への調査を勧めたかが後に解かったのでした。
母親セツからそれ以上のことを聴かれるのを避けさせたのだったのである。
結果的に、全て姉が仲裁に入った形で何ら取り返すことも出来ないでかえったのだった。
その後、内容証明を出して返還を要求したが返答も無く妹 ちどりの夫の勤務先に山形県警本部の友人から手を回して当時、天童警察署長に事情を伝えて貰ったのである。
もう歳の瀬になってから騒ぎ立てたくないので母親セツから息子 亨 は、それまでの経緯や今後のことに関して相談をしようと構え札幌と帯広を二度程往復した。
母親セツが札幌で山形へは、二度と戻らないから頼むと言うので平成12年に母親からもらった380万円を使ってバリヤフリーマンションを借りて住む事にして正月過ぎるのを待って行動することに決めていた。
その間に、母親セツや姉 梅子と一緒に近くにゲームへ出掛けたり母親セツの帯広へ出て酪農する前の初婚時代に耕した土地を見に行き遊んだのだった。
その頃の元気で札幌での生活を楽しみにしている母親セツの最後の姿である。 |
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娘 梅子から目薬をつけても
らっている母親
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母親セツは、監禁されていたお盆まで娘 ちどり夫婦から生きるだけの食事しか与えられてなかったので痩せたが本来、糖尿病でも食事は1500カロリー以上を摂って生活していたのに、すっかり断食虐待で痩せていた。
この平成13年12月の撮影画像の時には少し太ってきて元気にはなっていたが精神的には、娘の梅子が山形の娘 ちどりとグルだった事にクョックだったのである。
笑顔がないのは、息子 亨 に助けて欲しいと言いたいが梅子が側にいるので言えないのだった。
歩くのが眼が悪く不都合なだけで杖を突いて歩き廻っていたのに・・・この二ヵ月後には、半身不随にさせられたのだった。 |
徳洲会 山形病院・・・徳田虎雄理念とはほど遠い病院だったね 母さん!!
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平成18年11月15日の出来事だった。
昼御飯に間に合うように母親セツの入院病棟へ行ったら何となく母親セツの様子が悲しそうだった。
何時も息子の顔を声を聞いたら笑顔で答えるのに・・・その日は、顔が歪んでいたのだった。
車椅子に乗せてから足を台に乗せて靴下を履かそうと右足の甲を見たら真っ青に変色していたのだった。
「なにこれ。」と母親セツに問いただしたら・・・娘のちどりが母親セツに対して「婆ちゃん、11月に入ったら亨君に必ず札幌へ帰れって言えよと言ったのに言っていない悪い子だね・・・また痛い目に遭いたそうだね。」と言って帰ったら、必ず同じ扱いの荒い女が来て黙って車椅子に乗せられてから、足を踏み付けられた。」と言うのである。
その女の声聞いたら解かるかと母親に聴いたら「無言で突然黙って入って来て抱き上げ車椅子に手荒に乗せるから解らないし顔も見せないから良く解からない。」と答えた。
何時やられたのかと聴いたら「仕返しが恐ろしいから言えない。」と答えたのだった。
そして「抱かかえられた時の臭いが女だし太めだよ。」と言うのである。
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平成18年11月30日、メディカル ソーシャル ワーカー 古山 647ー3434
に相談するが、母親の話した全く詳しい状況を説明しても対応が「パイプにでも当たったのでしょう。」と取り合わないので途中で電話を切ったのでした。
所詮、徳洲会病院から給料を受け取っている立場なので形式的な見せ掛けのもので患者側には逆に不利な立場になるので中止しました。 |
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この事件は、平成19年7月22日の昼食事の後に、母親の部屋に搬送されてからベットに身体を乗せられてから誰か一人から足を押さえられてる時にもう一人から足の指の爪を剥されたと母親セツが状況を息子 亨に痛さでうめきながら説明した。
この日は、日曜日で朝方まで仕事して遅くなり息子 亨は、午後から母親のところへ行ったのだった。
7月16日までは、娘 ちどりが暫く母親のところへ立寄らなかったのに、その後は続けて息子 亨のバイクが無いのを確認してから留守の時に様子を見に来ていたのたった。
母親セツに息子 亨 が「そろそろ何か企んでいるから気を付けた方が良いね。」と言い母親セツも「部屋にも入らないで覗いて帰っているから何かあるな。」と前の日に話していたばかりの出来事だったのです。
母親セツの話では、「爪を剥された時に痛さで悲鳴をあげたら廊下の方で携帯電話の呼び出し音が鳴って7階病棟の阿部看護師の婦長の声がしていた。」と言うのである。
この婦長と娘 ちどりは山形大学付属病院から深い仲で特別の関係であったと母親セツも他の患者の家族も教えてくれていた。
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母親セツから息子 亨 が阿部婦長が近くに居たことを聞いて直ぐ、婦長に抗議に行こうとした矢先に母親の病室へ阿部婦長が入って来たのです。
「阿部さん」と息子 亨が声を掛けると同時に「済みません、介護士が誤ってベットに足の爪を引っ掛けて。」と頭をコクリと下げて歩みよって来たのです。
「その介護士を呼んで下さい。」と言うと「私の責任だから誤っているでしょう。」と居直るので「剥した者が誤りに来るのが常識だろう。」と言い返すと、「上司と相談して回答しますから。」と言い部屋から出て行ったのでした。
それから一時間ぐらい経過してから阿部婦長が来て「面会室に待たせてますから。」と東病棟の面会室と案内されたのでした。
阿部婦長に続いて部屋へ入ると背の高い介護士が座っていたので「母親が女の人二人からベットに乗せてもらったと言っているのに違うしょ。」と言うと
、その男が「私は、食堂に搬送したのですが。」と言うので「阿部さん、どうなっているの。」と聴いたのです。
「それじゃあ違ってたね。」と言い、「私は、解かりませんがとにかく誤りましたから川窪さん。」と言って男も立ち上がり部屋から出て看護師控え室へ二人で逃げ込んでしまったのでした。
それを負い掛けるようにして「とにかく痛がっているから医師を呼んで局部麻酔して下さい。」と言って母親の病室に戻ったのでした。
その後、結局医師も来ないで母親セツは、唸りながら寝ていたのだつた。
次の日も医師も来ないし娘 ちどりも来なくなり25日になって、やっと医師が診察に来て爪の根元に少し残っていた爪を外したのでした。
母親セツは、痛さで毎晩寝られないと零していたが、息子として如何しようもなく側で見ているだけであった。
そして7月26日、息子が午前10時ころ母親のところへ行くと、「ちどりが痛い足の指を痛いかと言って握って帰えりやがったから病んで疼く。」と言って
唸っていた。
何時来たのと聴いたら「朝来て直ぐ帰った。」と話した。
午後から阿部婦長に足の爪剥しの件で話があると言って抗議し、その会話を録音収録した。
7月27日は、母親セツを朝食に連れて行っている間に娘 ちどりが来ていたのか花を替えて帰った跡があった。
それを母親に伝えると「馬鹿にやがって亨、その花を捨ててくれ、痛いのに業と触りやがって。」と怒っていた。
以前にも、娘 ちどりが続けて来ていた時の最後に足の甲を太った女に踏み付けられたのだった。
今回も、同じだった。
娘 ちどりが来て母親の剥された指を又、触りにくると思い息子が朝少し早めに行き7時に玄関が開かれるのを待って入った。
ところが29日には、6時には母親の病室へ顔を出して帰ったと母親が言うのだった。
翌日の30日には、今度は息子 亨のアパートに入っている岩尾さんのところへ乗り込みデジカメで写真を何枚も撮影して帰ったというのである。
そして、7月31日の早朝も娘 ちどりが母親の病室へ6時に顔だして帰った。
前の東棟の部屋と違って4人部屋なので他の患者さんの目が有るので助かったのでした。
その替わりにテレビのイヤホーンを壊して帰っていた。
母親の話から8月1日も午前6時に娘 ちどりが来て部屋の外で覗き帰っていた。
母親セツの足の指の包帯が取られ痛みが治まるまで時間を変えて続いたのである。
母親セツは、「我が家には魔者が取り付いているから気が気でない。」と口癖になっているのだった。
それに対し息子が「マムシから魔者に昇格したね。」とからかったのでした。 |
特別老人施設へ・・・深夜突然だった!!
その実態は?
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母親は、平成19年9月に山形徳洲会病院の母親の病室へ何時ものように早朝から行き長男 亨か午後7時過ぎたので帰った。
しかし、それを避けて、後見人弁護士から搬送を頼まれていた妹 ちどりと元警察官の強夫婦が深夜11時頃突然母親の病室へ来て、無言で母親セツを強が車椅子に乗せて連れ出したので母親セツは、必死に叫んで助けを呼んだが看護師も誰も助けなかったと告白している。
深夜なので「殺されるかもと思い、車椅子から自家用車に載せ替えられてからも必死に叫び続けていた。」と言う。
そして
山形市内表東1番地
地域密着型介護老人福祉施設(特別老人ホーム)
やすらぎの里 金井
に搬送され、着いたのは老人施設で入居させられたのだった。
長男 亨は、翌日も知らずに早朝から病院へ行ったところ、母親の部屋のベットが無く姿が無かった。
驚いて、看護師に聴くと「これ。」と弁護士からの手紙を渡された。
母親が「ケムシ」「マムシ」と妹を罵り痛い爪の剥された足の親指を業と触って虐待して帰っていた妹・・・その夫婦に、この搬送を頼み、それも深夜に突然後見人弁護士が搬送させたのを息子 亨が疑った。
母親は、毎日長男に警護されて夕食を終えて安らかに安堵に更けて寝ていたのに・・・・突然の出来事に精神的にもさぞ驚いたことだろう。
母親セツが妹 ちどりのから散々痛い目にあっていることを、長男が裁判所を通して報告しいたのに。
このような精神的な虐待行為を堂々と妹夫婦を使って搬送させて後見人弁護士として許されることでは無い。
母親セツと息子 亨が逢った時に、声を聞きつけ直ぐ大粒の涙を流しながら語った。
「真夜中に、突然来たので如何したかと思ったら、何にも言わずに抱かかえられ車椅子に載せられた。」
「何処へ連れて行くのだ!!」と聴いても一言も言わずに運ばれて車に乗せられた。
「このまま何処かに連れて行かれて殺されると本当に思った。」
「着いたところが真っ暗で何処か判らないが、凄く恐ろしくて朝まで寝られなかった。」
「朝が明けても、老人ホームと判っても誰もいないので落ち着くまで恐怖で脅えていた。」
と息子に訴えた。
この山上弁護士と初めて逢って母親セツの資産譲渡の際に、公証人から指示され実印を改印した物を届けた時だった。
母親がお世話になりますと言った途端、「君は我々の敵だからな、言われた時間に来てくれよな。」と言われたのだった。
常識として約束時間の10分前に事務所前に行き少し待って入ったのにと・・・弁護士の人間性を感じ取ったのだった。
案の定、家裁の「家族関係の調整」調停の際にも、長男 亨に対して「君には金も無いから弁護士も使えないだろう、私がお父さんの方の他の資産関係を調べてやるから任せて欲しいね。」と言って何の連絡も無かった。
それも修習生を三人も調停に連れ込み母親セツの代理弁護人とは、思えない態度で娘 ちどりの代理弁護士への追求も全くしないで帰ったのでした。
当然、葬儀の玉串料問題など全て母親セツに代わって長男が報告していたのに呆れていたのでした。
その後、事務所も山形の市内の外れから急に高価な裁判所近くのビル街に事務所を構えたと聞き又、娘 ちどり夫婦が根回し工作したなと感じました。
母親セツが認知症でない証拠に、母親の収録テープをダビングして何本も事前に送っていたのに一度も母親セツと接見にも来ない後見人弁護士だったのでした。
山形の弁護士で選任弁護士って金弦の持ち回りなのか裁判所も疑うのです。 |
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広大な敷地に
建てられた
たった29名だけの
特別老人施設
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有り余るスペースに
29名の入居者が
多くの介護士や看護婦が
登録されて交替で介護され
ている。
しかし、実際の内容は
少数で賄い高額な入居費を
取られ国からの補助を
受けていた。 |
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二箇所の入り口が有って、通常は正面の中央玄関から
特別老人施設に入る。
玄関に入ると正面に、事務所が有って事務員が必ず
対応し、誰に面会するのかを記載し署名する。
その後、母親の場合は、真っ直ぐに伸びた廊下を進むと
第一回目の施錠してある扉が有って、更に次の第二回目
の施錠してある扉に出会う。
そして、更に進むと第三回目の施錠してある扉に出会う。
何れも扉は、自動施錠装置で一連に施錠が開くように
なっている。
中からも外からも暗証番号を機器に入力しなければ
出入り出来ない状態になっている。
従って、勝手に入居者を出入りさせたり外部から
出入りは、一切出来ない状態であった。
各扉に向かう手前には、それぞれの施設への
廊下の通路になっていた。
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母親の部屋は、約6畳の洋間で入り口の左手に
直ぐ、トイレが有り、突き当たりには窓が一つ
設置されていた。
その窓に添って母親がベットで寝せられていた。
先月から虐待していた娘の○○○が液晶テレビを買って
措いてあった。
私が補聴器や目薬などを措いて帰ったら必ず妹が
来た時には、業と枕元の洋タンスに隠されていた。
ラジオを母親に聴かそうとして帰ったら必ず
片付けられていた。
テレビが有っても母親は、自分で立ち上がれない
自由にテレビは観られない。
ただの飾りであった。
母親は、まだ確りしているが以前より
物忘れが多くなっていた。
妹は、出来るだけ孤立させて母親が
早くボケるのをただ待っているだけだ。
・・・・・・・
母親は、「札幌から土地売りに山形へ出掛けたのが
間違いだった。」と後悔していた。
平成20年07月09日午後2時10分ころ )
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長男が通うのより更に遠い山形市から寒河江へ向かう途中の金井と言う場所に特別老人施設は有った。
まだ新しく新築されたばかりの施設で、たった29名の入居者に対して数十名の職員が交替で働いていた。
母親も含めて全ての入居者は、カプセル型と称する個室に入居していた。
母親の部屋に入ると母親が、「亨か・・・来てくれて良かった。」と涙を流した。
「ちどりの野郎が勝手に真夜中来て病院から、ここに居れたのでもう亨と連絡取れないと思った。」と怒って言った。
「助けてくれと騒いでも誰も助けてくれなかった。」と母親は興奮してなかなか話が止まらなかった。
「証人で話したかったのに裁判官も信じられなくなったなあ・・・亨よ、死んでも死煮きれない。」と最後に叫んていた。 |
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| 泣きながらの叫んでいた母親セツだった。 |
念のために長男が母親セツの足を確認したら元、警察官 強 が担ぎ出す時に乱暴に扱ったらしく擦り傷が残っていた。 |