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【格闘技】

全女・松永高司会長 死去

2009年7月12日 紙面から

 マッハ文朱、ビューティ・ペア、クラッシュギャルズと女子プロレスのスターを輩出、一世を風靡(ふうび)した全日本女子プロレス興行の創始者で会長の松永高司氏が11日、東京都大田区の東邦大学医療センターで間質性肺炎のため死去した。73歳。全日本女子プロレスは東京都目黒区に1968年6月30日に松永高司、健司、国松、俊国の4兄弟によって設立。旗揚げは会社設立より前の6月4日。従来の色物的女子プロレスからスピード、パワー、テクニックを売りにファンをつかみ、試合以外でも歌う女子プロレスラーを誕生させた。しかし、バブル期に秩父市に約3万平方メートルの敷地を購入。合宿所を設けて選手の育成に力を入れるかたわら経営の安定化を図って事業を多角化。レストランや不動産事業にも進出したがバブルの崩壊で05年4月に倒産した。全盛期には約170人もの社員や選手で頂点に立った全女子プロレス。倒産後は持病の糖尿病を気にしながらも団体の復活を模索していた。葬儀は家族の希望で密葬で行われる。

 春先、入院中の会長を見舞った。顔色もよく、「もう退院するんですよ」と元気だっただけに信じられない気持ちだ。「もう一度全女を盛り上げたい」と復活興行の夢を聞かされていただけになおさらだ。

 松永4兄弟に接したのは一世を風靡(ふうび)したビューティ・ペアが解散。次代のスター育成に奔走していた時期だった。「空手を習得している長与と同期の飛鳥でペアを組ませ、空手で売り出したい」と相談を持ち掛けられ、特別コーチを受けた。それが後の“クラッシュギャルズ”。ビューティ人気も去って興行も地方会場では100人ということもざら。クラッシュはどん底時代の救世主となった。

 スターは10年のサイクルで生まれているが、経営への不安は消えなかった。選手に安定した給料を払うためにはプロレス以外に事業を拡大。選手思いの浪花節が好きだった。合掌。 (全女プロレス特別コーチ・山崎照朝)

 

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