1.
このところ、ネット上で、在特会への抗議デモにおける一部参加者の、「反日上等」というプラカードが論議を呼んでいる。こうした行動は、生命すら脅かされている外国人やその支持者にとっては、迷惑極まりないものだ、というのだ。 ネット(特に「はてな」)界隈の議論にはあまり関わらないことにしているのだが、この議論は大規模かつさすがに酷いと思っていたので、近々まとまったものを書こうと思っていた。だが、この件について論じようとすると、ものすごく基本的なところから説明しなければならないので、面倒でかまけてしまっていた。 ところが、そのあたりも説明してくれている、大変よい文章が現れたので、私が長々と書く必要もなくなったようである。深海魚さんというブロガーの方のものだ。 http://sillyfish.blog2.fc2.com/blog-entry-723.html 基本的なことは、上の文章でほぼ言い尽くされているのだが、いくつか付け加えておくと(以下、この件に関するウェブ上の議論の大要を読んでいない読者には、何を言っているかわからないと思うので、そうした読者はここを飛ばして下の「2」に進んでいただきたい)、 ・「「反日」という言葉を軽々しく使えること自体が日本人の特権なのだから、使うのはやめるべき」といった主張が目についたが、これは、お話にならない本末転倒な主張である。 日本から明日にでも追い出されそうな外国人は勿論のこと、在日朝鮮人や在日中国人も、「反日上等」とは言いにくい。だから、日本人こそが、自らの「特権」を行使して、「反日上等」(という意味内容の発言)を言ってくれるようでないと困る。現在の日本国家の外国人管理体制、日本社会の差別が外国人にとっては大きな問題なのだから。日本人の「特権」をめぐる議論が、まるで大昔の新左翼のような、「内面」の問題になっている。 ・「「反日」を外国人自身が言うのはいいが、それを擁護する日本人が「反日」と言うのは、矢面に立っている外国人に対して迷惑だろう」という主張もあったが、これも珍妙な主張である。仮に、こうした切断が行われたら、「反日」と表象される言動を行なっている外国人は孤立し、ますます「矢面」に立たされることになるのだから。 ・議論の中心人物たるいしけりあそび氏の主張に関する私の認識は、上の深海魚さんのそれと近いが、いしけりあそび氏が、在特会反対運動に対して、自らの主張を押し付けられると考えていることは奇妙である。在特会が主要な標的にしている在日朝鮮人は、いしけりあそび氏が挙げているような、明日にでも強制送還されかねない外国人(こうした人々の主張をいしけりあそび氏が代弁しているかのようになっていること自体も奇妙なのだが)ではない。 ・入管行政の外国人排除の要件は、その外国人の行為の不法性であるから(法治国家として当然だが)、外国人が「反日」的に見られるようになることへの一連のヒステリックな反対は、入管行政よりひどい。「反日」とは思想・信条の問題なのだから、特定の思想・信条を持っている外国人は排除してもよい、という認識にこそ対抗すべきだろう。「反日」への否定は、明日にでも退去強制されかねないケースなど、特殊な例に限定されるべきであって、こんな論理が「外国人」一般に拡大されれ ば大きな迷惑だ。 ・「在特会反対デモで「反日上等」という旗を掲げると、外国人に迷惑がかかる」ということであれば、「反日上等」と言う外国人は、「反日上等」と言う日本人よりも一層迷惑な存在だろう。例えば、日本の歴史認識の是正や戦後補償の実現を訴える在日朝鮮人は、日本の一般世論からすれば、「反日」なのだから、「反日」をやめろという主張は、こうした在日朝鮮人への、声を控えろ、という社会的圧力を強めることになるだろう。 ・今回極めて醜悪だったのは、sharouという在日朝鮮人の振る舞いである。この人物は、「反日」を否定するという行為に躊躇する、ある日本人の姿勢への攻撃に加担していた。在日朝鮮人が、こうした攻撃にお墨付きを与えていたわけだ。この人物は、日本のリベラル・左派の転向を助長させ、お墨付きを与えている、姜尚中と同じ役割を果たしている。しかも、姜のような確信犯ですらなく、善意のつもりなのだろうからどうしようもない。類型としては辛淑玉に近い。 ・外国人をダシにして「反日」を語ろうとするな、という主張が見られたが、むしろ、広範に観察されたのは、外国人をダシにして、「反日上等」という姿勢を崩そうとしない日本人左派(在日朝鮮人もか)を攻撃しようとする、リベラル・左派のブロガーたちの欲望である。 ・今回、つくづく「はてな」界隈の連中に怒りを覚えたのは、上で触れた、デモへの「反日上等」のプラカード持込みを擁護していた日本人が、集団の批判の圧力で、自己批判に追い込まれたことである。これを知ったのは後日だったのだが、経緯を見て、まるで文化大革命だ、と呆れてしまった。深海魚さんの記事への「はてなブックマーク」コメントを見たら、一部の人間が早速弁明と論点ずらしを行なっていたのには笑ったが。hisamatomokiとかいう大学生は、文革期の紅衛兵はどういうものだったのかを身をもって示してくれた。 今回の件は、「はてな」界隈で定期的に起こる集団ヒステリーの一例に過ぎないとも言えるが、「はてな」のブロガーでこういう集団ヒステリーを不快に思っている人は、そろそろ「はてな」をやめた方がいいのではないか。「はてな」のサービスは、「論壇」的なものを極めて容易に形成する。雑誌ジャーナリズムの「論壇」が(ほぼ)死んだことは慶賀すべきことだと思うが、そのかわりに浮上したのが、「論壇」の病理性をより強化した「ブログ論壇」であったならば、救いようがないだろう。雑誌ジャーナリズムの「論壇」に対置されるべきなのは、新しい「論壇」ではなく、「論壇」的なものが解体された言論空間である。 もちろん、「論壇」的なものは必ず発生する、という見解もあるだろうし、それは当たっているかもしれないが、少なくとも、その形成に対して抑制的であるよう努めるべきだと私は思う。その意味で、「論壇」形成装置とでも言うべき「はてな」サービスは、控えるべきだろう。私が使っているexcite や fc2 を勧めているわけでは全然ないが(偶然選択して、そのまま今日まで来ただけだから)、そもそも、「はてな」が、「死ねばいいのに」といったタグを容認している時点で終わっているだろう。まともに「平和」や「人権」について考えようとしている人々で「はてな」を使っている人々は、別のブログサービスに切り替えることを検討すべきだと思う。 2. 今回の議論はいろいろ派生的な論点を生んでいるようだし、私も関連文章を全部読んでいるわけではないが、本質的な論点は、「外国人の人権を擁護する運動は、「反日」的と見られないようにすべきだ」という主張に対する是非である。「日本人左翼が、在特会反対デモに「反日」の主張を持ち込んでよいか」といった議論もここに含まれる。 この論点自体は重要であり、私もいつか論じようと思っていた件なので、この主張の孕む問題性について検討する。 まず確認しておくべきは、この主張は、入管行政の論理からそう外れたものではない、ということである。この主張は、坂中英徳(外国人政策研究所長。元・東京入国管理局長)の主張とも非常に親和的である。 坂中は、後述する浅川晃広との共著『移民国家ニッポン――1000万人の移民が日本を救う』(日本加除出版、2007年10月)などで、「今後50年間で1000万人の移民を受け入れる外国人政策」、「「人材育成型」の移民政策」等を提言している。坂中は、保守層の反発を買った、自民党「外国人材交流推進議員連盟」(会長:中川秀直)の、「日本の総人口の10%(約1000万人)を移民が占める『多民族共生国家』を今後50年間で目指す」という提言の作成に「中心的な役割を果たした」とのことである。 http://jipi.gr.jp/admin/kenkyu/topics.cgi その坂中は、以下のように述べている。 「日本社会に貢献する在日中国人像を国民の間に定着させることも必要なのだ。不法滞在や犯罪を犯す中国人を徹底的に取り締まる一方、国民の間に広がっている「中国人=犯罪者」といった固定観念を克服することが、これからの課題である。」(『移民国家ニッポン』13頁。強調は引用者、以下同じ) 「今日、日本国民の在日中国人を見る目は非常に厳しいものがある。外国人犯罪と在日中国人が結び付けられ、在日中国人に対して抱く日本人のイメージは決して良くない。犯罪とは無縁の在日中国人までもが日本社会から警戒感を持たれている。日本人から不信の目で見られている在日中国人の心情はいかばかりだろうか。 在日中国人問題の解決のため、我々は何をなすべきか。まず、国民の問に存在する中国人に対するマイナスイメージを取り除く必要がある。そのためには、不法就労や犯罪を目論む「好ましからざる中国人」の入国を阻止し、日本人の中国人への悪感情を引き起こす原因を断たなければならない。 それは入管の仕事である。入管が警察の協力を得て、引き続き中国人に対する徹底した出入国及び在留の管理を行うべきだ。それとともに、在日中国人社会が不法中国人問題を自分たち自身の問題と受け止め、自浄能力を発揮してほしい。」(同書、36頁) 坂中においては、先進国の経済活動によって第三世界が搾取され、その住民が先進国に行かざるを得ないという構図への反省はもちろんないし、現在の日本国家の閉鎖的な出入国管理体制・外国人管理体制が、外国人を「不法就労や犯罪」に追い込んでいる、ということへの反省もない(「認識」はあるだろうが)。また、日本社会の「外国人犯罪」への、差別意識に基づいた過剰な警戒感(例えば、ここ参照)を問題にする姿勢ももちろんない。坂中においては、あくまでも問題は、<不逞>な外国人側にあるのだ。 注意しておくべきなのは、多くの<素行善良>な外国人が日本社会に溶け込む方策としては、坂中の主張は間違っていないかもしれない、ということである(実際には、坂中が楽観的に想定するほど日本社会は善良ではないから、「外国人犯罪」というイメージだけがより固定化され、外国人は日本社会に貢献する、といったイメージが定着することはないだろうが)。だから、<素行善良>な外国人の生活の安定を最優先に置くべき、と考える立場からすれば、坂中の主張は受け入れられやすいかもしれない。だが、もちろんこれは、日本国家・日本社会の排外性を問うことを否定する役割を果たす論理であり、日本国民から、そうした排外性に反対する政治的責任を解除する論理である。ごく当たり前の「正義」や「公正」の観点からすれば、こんな論理に乗っかることはおかしいと言わざるを得ないだろう。 そして、「外国人の人権を擁護する運動は、「反日」的と見られないようにすべきだ」という主張は、この坂中の主張の枠組みを一歩も出るものではない(注1)。むしろ、それに沿っているとすら言える。外国人に対する「日本人のイメージ」の排外性が問われることなく、外国人の自助努力こそがここでは問題になっている。そうすると、日本社会から「反日」だと表象される外国人の人権が抑圧された場合、こうした主張を基にした運動は、守りようがないのである。むしろ、運動にとっては、そうした外国人の存在は迷惑ですらあるだろう。そして、日本社会から「反日」だと表彰される外国人の人権は、外国人に対する「日本人のイメージ」の排外性を問う、「反日上等」の精神で臨まない限り、守られないだろう。 なお、坂中の論理を、日本の<外国人問題>に関わる研究者や活動家の少なくとも一部が支持するであろうことは、リンク先の五十嵐泰正の発言が示唆している(注2)。 http://yas-igarashi.cocolog-nifty.com/hibi/cat720530/index.html また、「外国人の人権を擁護する運動は、「反日」的と見られないようにすべきだ」という主張については、『移民国家ニッポン』のもう一人の著者である、浅川晃広の一連の言動が、多くの示唆を与えてくれていると思う。 浅川は、「在日韓国人三世として生まれ、その後帰化により日本国籍を取得した者」(『在日論の嘘』3頁)であり、外国人政策研究所事務局長である。前掲『移民国家ニッポン』では、坂中とともに、「今後50年間で1000万人の移民を受け入れる外国人政策」を提言している。 ところが、浅川は他方で、著書『「在日」論の嘘』(PHP研究所、2006年5月)等で、姜尚中や朴一ら「在日イデオローグ」やその他の在日朝鮮人(やその同調者の日本人)の日本国家・社会批判の言説について、実質的な社会問題としての「在日問題」など現在では存在していないにもかかわらず、既得権益と道徳的な特権的地位を温存するための動機から発せられたものだと批判している。また、『嫌韓流の真実! ザ・在日特権』(別冊宝島、2006年5月)などという本にも寄稿しており、同趣旨の「在日」批判を展開している。 浅川の行動は矛盾しているのだろうか?私は、極めて一貫していると思う。浅川自身に語ってもらおう。 「元東京入国管理局長(現・外国人政策研究所所長)の坂中英徳は、入管職員としての退職直前に刊行した著書『入管戦記』(講談社、2005年)において、外国人問題に関する日本の未来について、「日本人と外国人との間で諍いが絶えず、互いに誹膀中傷を繰り返し、互いに被害者意識を増幅させながら、双方がマイナスイメージの再生産を続けてゆく未来」と、「日本人と外国人が互いの長所を認め、自らの短所を克服し合いながら人間性を高め合う、プラス思考の魅力あふれる社会を築く未来」との問の選択であると指摘している(『人管戦記』、29頁)。 そのうえで、「『共生社会』に向かうための前提条件として、日本人が外国人に対して過剰なアレルギーを持たない社会を築くために、悪感情を引き起こす原因を徹底的に断つ必要があると考え」(同上、30~31頁)、入国管理局幹部として外国人犯罪の取り締まりに尽力してきた。 筆者も、坂中と全く同様に、「プラス思考の魅力あふれる社会を築く未来」の実現を心から希求する者であるところ、自らの非論理性を棚上げして、日本を「哀れな国」と、「誹謗中傷を繰り返し」て憚らない原告人(注・鄭香均)、そしてその同調者である評者、または姜尚中などの「在日イデオローグ」のような「悪感情を引き起こす原因」を「徹底的に断つ必要があると考え」本章を執筆した。 坂中は、「外国人犯罪に対しては一歩も譲歩せず徹底して取り締ま」る決意を表明し、それを実践してきた。 筆者も、原告人のような、一部の偏狭な在日による「マイナスイメージの再生産」にしか貢献しない行動に対して、「一歩も譲歩せず徹底して」批判していく決意である。」(『「在日」論の嘘』161~162頁) 浅川は、日本社会において、「在日」=「反日」という「マイナスイメージの再生産」にしか貢献しない、在日朝鮮人の言説を潰し、日本社会に貢献する「在日」(浅川は同書で、孫正義や、新井将敬の名を挙げている)というプラスイメージを生産させることを志向している、と思われる。だから、「在日」=「反日」という「マイナスイメージ」を潰すためには、「反日」の在日朝鮮人を攻撃する<嫌韓流>と手を組むことも厭わないのである。 浅川はまさに、坂中が上の引用箇所で在日中国人に対して望んでいたような、「自浄能力」を(元)在日朝鮮人(または朝鮮系日本人)として、在日朝鮮人に対して発揮しているのである。 なお、<嫌韓流>も、基本的には、「反日」の在日朝鮮人は徹底的に攻撃するが、『マンガ嫌韓流3』の主人公の在日韓国人4世・松本光一のような、親日で「自浄能力」を発揮しようとしている「在日」は「友好」の対象である。在特会も、建前としてはこのラインである。 したがって、「外国人の人権を擁護する運動は、「反日」的と見られないようにすべきだ」という主張は、坂中や浅川だけでなく、在特会とも、基本的な論理を共有することになってしまう。私からすれば、こうした主張をする人々は、味方なのか敵なのかさっぱりわからない。 (注1)坂中自身、以下のように書いている。 「在日コリアンには、二つの未来像が考えられる。ひとつは、早くに民族名で日本国籍を取得し、コリア系日本人として確固たる地位を築いている人たちだ。その場合の在日コリアンは、日本人と固い信頼関係で結ばれ、多民族の国民統合のモデルであると評価されているだろう。もうひとつは、韓国籍、朝鮮籍の外国人として生きる人たちだ。彼らは少子化に帰化の増加が重なって、自然消滅への道を高速度で進んでいく。その場合の在日コリアンは、日本人から反日的でうとましい存在であったという極印を押されたまま社会から退場するだろう。」(『移民国家ニッポン』43頁) (注2)ちなみに五十嵐は、日朝関係に関して、以下のように述べている。 「確かに、金正日体制をこのまま残して、アメリカの強い後ろ盾なしに交渉路線・対話路線に入ったとしたら、いろいろと無茶な経済的要求もされるのかもしれない。戦後保障(注・ママ)とか何とかね。/でもね、戦後保障を払うのが適切かどうかの歴史学的な議論はおいとくとして、安全保障を金で買えるんなら、それはそれでいいじゃない、と気もする。」 http://homepage2.nifty.com/yas-igarashi/2003-3.htm#安保 和田春樹や日本の外務省は、日朝関係における戦後補償問題の重要さを認識しているからこそ、それを回避するために周到な措置と形式を踏んでいるのである。五十嵐に見られるのは、和田や外務省とも異質な、驚くべき天真爛漫さ(?)である。こうした天真爛漫さと、「日本社会が早く多文化社会になるといいなあ」という善意は、多分親和的なのだと思う。 (つづく)
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