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'09.07.04 (土)

夙川教会の梅原彰神父様は間違っておられる

以下の内容は 「イエスの惑星」 さんでも書かせて頂いたことだが、ここにも掲げておく。
この問題は、事柄としては、ごく小さなものであると言うべきかも知れない。私達は、第二バチカン公会議、あるいは第二バチカン公会議以後の 「適応」、あるいはファチマ問題、そのようなものをこそ扱うべきである。そういう意味では、この問題は 「小さい」 かも知れない。
しかし、掲げておく。それは、このHPに人々の耳目を集めやすい話の種を蒔きたいからではない。また、実名を挙げるけれども、誰かのことを攻撃し、吊るし上げ、喜びたいからでもない。カトリックの聖職者、平信徒、双方において、「認識」 があるべきだからである。


セルフ・インティンクションが日本の 「全教会」 で禁止されることを私達が確実に知るまでは、それについて話す意義はそのまま残ると思います。

しかしながら、ここでは別の話をさせて頂きます。
それは、大阪大司教区の夙川教会の主任司祭であられる梅原彰神父様の文章についてです。(下線強調は管理人)

そのため今後当教会では以下の様式で日曜日のミサのとき両形態の聖体拝領を実施いたします。
 (六月一日より)
一、御体を手に受けとり 「アーメン」 と答え、司式者の横にいる聖体奉仕者の持つ杯に浸していただく。御血を床に落とさないよう細心の注意をはらう。
一、祭壇の上に置かれている左右の杯を手に取り、少量を飲み唇がついたカリスの部分をブッフィカトリウム (布) でぬぐう。勿論今まで通り御体のみの拝領も自由である。

2008年04月01日 『パンとぶどう酒両形態による聖体拝領』
http://shukugawac.exblog.jp/8651831/

しかし、これは見事に 「二つとも」 間違っているのではないかと思います。
前者については、今や議論の必要はありません。以下、後者について。

この後者は 「セルフ・インティンクション」 についてのものではありません。
「信者が主の御体を拝領した後、祭壇に近づき、祭壇の上に置かれているカリスを自らの手で取り御血を拝領する」 という方法についてのものです。梅原神父様はこれを 「良し」 とされているのです。

しかし、『ローマ・ミサ典礼書の総則』の中、両形態拝領を特に扱った箇所に、次のようにあります。

286 御血の拝領をカリスから飲んで行う場合、拝領者はキリストのからだを受けた後、カリスの奉仕者の前に行って立つ。奉仕者は 「キリストの血」 と唱え、拝領者は 「アーメン」 と答える。奉仕者はカリスを拝領者に差し出し、拝領者は自分の手でカリスを口にもっていく。拝領者はカリスから少量を拝領し、カリスを奉仕者に返してから戻る。その後、奉仕者はカリスの縁をプリフィカトリウムでぬぐう。

287 カリスからの拝領が御血にパンを浸して行われる場合、拝領者はパンの小片を入れた容器を持つ司祭に近づき、口の下に拝領用の受け皿を添える[1]。司祭の脇にはカリスを持つ奉仕者が立つ。司祭はパンを取り、その一部をカリスに浸し、それを示しながら、「キリストのからだと血」 と言う。拝領者は 「アーメン」 と答えて、司祭から秘跡を口に受けた後、戻る。

ここで確認されることは、「『総則』の中の両形態拝領を特に扱った箇所には、梅原神父様が "良し" とされた方法については言及がない」 ということです。「言及がない」 ということ自体が、その方法が通常あり得ることとは思われていないということを示唆しているように思われます。

そして更に、『総則』のもっと前の箇所、「会衆の参加するミサ」 の中では、聖体拝領の一般的な在り方について、次のように説明されています。

160 それから、司祭はパテナまたはピクシスを取って、通常は行列をして来る拝領者に近づく。
信者が聖別されたパンやカリスを自ら手に取ること、ましてそれらを互いに手で渡すことは許されない。(…)

ちょっと見には、286 と 160 は矛盾しているように見えます。286 では確かに 「信者がカリスを手に持つこと」 を許していながら、160 では同じそれを 「許されない」 としている、と。
しかし、実は両者は別のことを言っています。286 は 「奉仕者が差し出した (提供した) カリスを信者が『受ける』時、信者がカリスを『手にする』こと、『持つ』ことは許される」 と言っているのであり、一方 160 は 「信者がカリスを『自ら取る』ことは許されない」 と言っているのです。つまり、「受ける」 という流れの中で 「持つ」 に至るのは構わないが、「自ら取る」 という流れの中で 「持つ」 に至るのは駄目だ、ということです。
( 私自身は、個人的に、平信者が御聖体拝領の場で 「カリスに触れる」 ことには一切反対ですが、話を進めます。)

それ故、「祭壇に置かれているカリスを信者が自らの手で取り、カリスに口をつけて御血を拝領し、再び自らの手でカリスを祭壇の上に戻す」 という形式の両形態拝領、すなわち梅原神父様が 「良し」 とされている方法は、『総則』によって 「許されない」 とされていると読むことができます。

そして、これは2005年における私の個人的な体験ですが、参考までにお話します。私は地元司教様のお口から、直接、次のように伺っています。

「確かに台の上に置かれたカリスの中の御血に自分で-------自分だけで-------主の御体を浸せば、それは明らかに『自分で』であろうが、奉仕者がカリスを持ち、それを『提供』の意味をこめて信者の方に傾けて持つ時、その中の御血に信者が自分の手で御体を浸したとしても、それは必ずしも『自分で』ということにはならないのではないか。聖役に携わっている奉仕者から『提供された』わけだから。 ・・・まあ、そのような議論が、私達の間にはあります。」

これは 「セルフ・インティンクション」 を題材としながらも、「典礼において基本的にあるべき考え方」 についての話です。つまり (私は典礼の神学について少しも知らないけれども) 天主から来るこのような恵みは、天主のお定めになった秩序に従い、天主 → 聖役者 → 信者と 「受け渡される」 べきものであるという考え方です。

その司教様は、かなり自由な考え方をするお方です。第二バチカン公会議後のインカルチュレーションを良いものと思い、押し進めたお方です (私はその主観の善意は疑いません)。しかし、その司教様でさえ、「台の上に置かれたカリスの中の御血に信者が自分の手で御体を浸すことは、確かに典礼の精神に反するだろう」 という御認識なのです。たとえそれが司教様にとって断定的な 「結論」 にまでは至っていなかったとしても、それが重要な主題であり観点であることはお認めになっているわけです。

ですから、『総則』の 160 とこのような司教様のお言葉によって、私は、「祭壇の上に置かれたカリスを信者が自分の手で取り上げること」 は、まず確実に 「退けられるべきもの」 だろうと思います。

もう一度 『総則』 の 160 を見て下さい。
「信者が聖別されたパンやカリスを自ら手に取ること (…) は許されない。」

私達は、どのようにして、梅原神父様がおっしゃっていること、インターネットを通して広くカトリックの公衆に向けて明確に発信しておられることが正しいことであると思うことができるのでしょうか。

私は、仮に 「『総則』は全てではない」という主張に何らかの空間を用意すべきであるかも知れないとしても、以上の理由によって、「この梅原神父様のお考えとご表明は非常に疑わしいものだ」 と思います。池長大司教様の承認を得ているのでしょうか。そして、もしそうだった場合、池長大司教様のそのご判断は正しいのでしょうか。

梅原神父様のこの文章の他の部分に関しても、私は非常に違和感を覚えます。

ミサの奉納のとき、私たちはパンとぶどう酒を捧げます。ユダヤ人にとってパンとぶどう酒は日々の労働の実りであり、喜びのしるしです。パンは生きる力、働く力を与えます。奉納のとき、パンとぶどう酒を捧げることは労働(生活)の苦しみと喜びを捧げることを表わしています。このパンとぶどう酒が聖変化のとき、キリストの体と血に変化するのです。このキリストの体と血を拝領することによって完全なかたちで、聖体にあずかるのです。

私は今までも何度も言わせて頂きましたが、私達の戦いは 「強調点」 の戦い、「重点」 の戦いです。間違いが 「明らかに間違い」 なら、事は簡単です、苦労は要りません (敵もそんな馬鹿なことはしません)。間違いが 「明らかに間違い」 なら、聖職者の方々も 「迷い」 の中に陥りません。

そのような一種微妙な (本当は微妙でもありませんが) 意味合いにおいて、私は 「梅原神父様は間違っておられる」 と思います。

何故、カトリック教会のミサ聖祭における 「奉納」 について述べる時に、真先に 「ユダヤ人にとって」 なのですか。私達カトリック教徒に何の関係がありますか。

歴史の話ですか。典礼の発展の歴史の話ですか。そこにおいて確かにカトリックとユダヤ教に 「何らかの接点」 があるのですか。御意 [2]。しかし、だからこそ 「敵の攻撃ポイントは微妙である」 というのです。(本当は微妙でもありませんが。)

私は歴史に詳しくありません。けれど、自慢の第六感によってこう言うことができます。「 "歴史を点検" し、"起源をよく調べる" ことによって、私達は『信仰の原点』によく還ることができるのだ」 などという考え方は、敵の撒いた毒麦であります。

ある種の人々は、「初代教会において確かに手による拝領が行われていたようだ」 ということをもって (しかしそれはなにぶん大昔のことであり、「十分に確認」、また 「詳細に確認」 され得るものなのでしょうか?)、その後の何百年もの間極めて安定的にカトリック教会の中に存在し実践されていたもの (舌による拝領 ) が 「聖霊によってよく導かれた結果」 であった可能性をほとんど顧慮しません。

また同様に、一説では、「現在の教会で大流行りの御ミサに付された『会食』という言葉も、初代教会の頃からあるにはあったらしい」 とのことです。私は言います、「そりゃそうでしょう。それはむしろ当り前のことです」。しかし、そこからが問題だと言うのです。

私達は、同じ言葉でも、継承された意味とは全く別の意味を持たせる、全く違った "色合い" をその上に被せる、という手法を警戒しなければなりません。「起源に遡れば遡るほど信仰の真理に近づく」 などというのは、敵の仕掛けた罠であると同時に、単純な傾向を持つ人達の 「神話」 であります。そのような人達は、教会の典礼が聖霊の導きのもとに 「善き発展」 を遂げて来たであろうことを、簡単な身振り一つで排除し無視します (必ずしも悪意からでないにしても)。そのような人達にとっては 「敬虔に跪いて舌で御聖体を受ける」 などということは、ただの 「中世の遺産」 です。

また私達は、ハッキリ言って第二バチカン公会議にも警戒しなければなりません。それが第二バチカン公会議 「自体」 でなく、それに引き続いた 「適応」 のことであったとしても。「新しければ新しいほど信仰の真理に近づいている」 というのも、もう一つの 「神話」 であります。

ここに私達の 「目」 が試されています。

http://www.youtube.com/watch?v=8A11ecHJd4k

[1] 「口の下に拝領用の受け皿を添える」
因みに、セルフ・インティンクションを取りやめ、一見『総則』に則った両形態拝領形態に移行したように見える教会においても、「拝領者は口の下に拝領用の受け皿を添える」 というこの部分は一顧だにされていないのが実情のようです。

彼らはおそらく内心でこう言います。
「気を付けてやれば、大丈夫だろう。御血が床に落ちることはないだろう。それに、たとえ受け皿を添えてみたって、落ちる時には落ちるのだ。この世に完全はない。」
もしこの通りであれば、「超自然的に聖」 であるものに対する何という横着!

「聖体が両形態で信徒に授けられるためには、まず教区司教の判断に従って、その状況を十分に考慮すべきである。聖体が汚されるいささかの危険も完全に排除されなければならない。」
             ( 「あながいの秘跡」 101)

もちろん、「この世では完全は望むべくもない」 というのは、ある意味、本当です。本当ですよ。しかし、その先が大切だと言うのです。この世に完全はないことを知っていても、「完全を目指すこと」 が大事なのです。人生論を語っているのではありません。「相手は天主様である、天主様の "聖" である」 ということです。

[2] 実際、現在の奉納文自体が、そのような視点から導入されたものなのでしょう。

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