「ジャクソン兄弟物語 2009」 第五章

2009.07.04



7、恩師、ゴーディへの復讐。 
〜マイケル中編「ジャクソンズ時代」〜  

 少し落ち目だったにせよ70年代モータウンの顔でもあったJ5の移籍は、モータウン幕府の「新しい時代への大政奉還」といってもよいほどの大事件だったと言える。社長ゴーディもその点に気づいていたのだろう。ありとあらゆる妨害、そして訴訟をジャクソン家に、そしてその時点でリーダーとなっていた若きマイケルにぶつけてきた。 
 彼は「ジャクソン・ファイヴ」というグループ名の登録商標をたてに、モータウンから新しいJ5を売り出そうとまでしたのだ!!まさに「加勢大周」に「新加勢大周」をぶつけた事務所の社長のように・・・。怒りに震えるマイケルに、ゴーディは冷たく笑いながらこう言った。「ジャクソンなんて名字、アメリカにいくつもある。その中からかわいくて歌のうまい子をボーカルにして5人集めれば新しいジャクソン・ファイヴの出来上がりだよ・・・。」 

 結果的にマイケル・ジャクソンの代わりなど誰にも出来ないことは、マイケル自身が作る歴史が証明してくれるのだが・・・。  

 1975年。この時点では、ゴーディの持つ巨大な権力の前にティーンネイジャーのマイケルは屈服せざるをえなかったのである。 

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 このようにボロボロになりながらも、マイケルは沈没船モータウンから脱出した。未来への希望と、過去との決別。新生ジャクソン(ズ)は1976年、その新しい一歩を踏み出したのだ。 

 マイケルの執念は凄まじかった。打倒ゴーディー、打倒作られたアイドルとしてのJ5。自分に音楽ビジネスの歓び、興奮と冷酷さを教えてくれたゴーディーにこのまま敗北するわけにはいかない。自分たちで作曲をして歌うグループへの変貌。それがすべての鍵だった。 
 ジャーメインの代わりにキーボディストである末弟ランディが加入。ジャーメインの穴を埋めるのは大変だったが、若い兄弟は協力し、音楽的にトライ&エラーを繰り返した。 

 そして移籍後3枚目のアルバム『ディスティニー』で、ジャクソン兄弟ははじめて自分たちでほぼ全曲を作詞作曲しプロデュースするチャンスを得たのである。そこからのシングル、マイケルとランディの共作曲「シェイク・ユア・ボディ」はディスコを中心に爆発的なヒットを記録する。デビューから10年。兄弟は長い夢が心から叶ったことを実感しながら歌い踊るのであった。 

 「シェイク・ユア・ボディ」を歌う1977年末から78年のジャクソンズが「最もまとまっていた」。 共通の敵に対して兄弟が力を合わせた、最も仲の良い時代だった。 
 しかし、遂に手に入れたジャクソンズでの自作のヒット・ナンバー。この頃にはマイケルの才能はジャクソン家の枠には入りきらなくなっていた。 

 1979年。『ディスティニー』のヒット直後に、マイケルは自分でコントロールした「はじめての」ソロアルバム「オフ・ザ・ウォール」をクインシー・ジョーンズのプロデュースで完成させる。 

 この名作で彼は遂にJ5時代に匹敵する人気を手に入れ、そしてソロ・シンガーとしての自分を完全に確立させることに成功することになる・・・!! 
 さぁ、ここからは怒涛の進撃!!来た来た!マイケルの時代が!!マイケル・ジャクソンが支配する80年代がはじまったんだ!!! 

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 You Tube を検索してジャクソンズの集大成といってよいアルバム「トライアンフ」から、超ド級のクオリティのヴィデオ「CAN YOU FEEL IT」をどうぞ。ここにはその後のマイケルの映像世界がめさめさ詰まっています! 

ノーナリーヴス:西寺郷太のブログ「LIFE」