おもなタイトル
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3・29 安全保障上の国益としての、イラク戦争不支持論 毎日HPをずいぶんいじってる気になってるけど、こっちの日記に書き込むのは3日ぶりだったんだ。 ネットの議論掲示板を見ていると、「アメリカのイラク攻撃反対、でも日本のアメリカ支持賛成」のいわゆるポチ保守君あるいは自称リアリストがあまりに多いもんだから、ちょっとムカムカしてきました。全面的に反論しちゃいます。 いつになく、煽り口調になってるかもしれませんが、悪しからず。 不買運動の趣旨文には、ポチ保守君にも受けるような書き方をしてあるけど、ちょっと書き直すかもしれません。 あ、24日の日記は、タイトルにあるとおり、あくまで妄想だから気にしないでね。 そもそも、「北朝鮮のことがあるから、イラク戦争支持は当然」という論理、そのとおりのようで、よくよく考えると、実はイマイチわからない。 だいたい、北朝鮮が日本に仕掛けてくる=一方的に弾道弾を打ち込んでくる可能性って何? 彼らにとってのメリットは? 北朝鮮って、50年間ずっと日本が仮想敵国だったわけだけど、今まで先制攻撃はしてこなかった。(そりゃ拉致はあったけど、言ってしまえば数十人レベルでしょ? 戦争おっぱじめようって言うのとは次元が違う) それを覆して、「北朝鮮がいま日本を先制攻撃しようと狙ってる」んだとしたら、その政策転換の理由は何? 金正日の身になって考えてみよう。 一番欲しいのは体制の保障であって、そのための日本の金でしょう? すると、脅してるうちが華で、本当にミサイル打ち込んだら彼の目的にとっては元も子もないはずです。 ま、占領でもすりゃ別だけど、テポドンありったけぶち込んだって日本占領まではなかなかいけないのは、いくら金正日だってわかるでしょう。「自衛隊」だけに、敵国攻撃はからきしだが、揚陸艦相手には戦えるからね。だいたい、日本海に海軍展開するまでに、いくらなんでも安保理決議と多国籍軍が出るよ。仮に、イラク戦不支持で亀裂が入ったせいで、日米安保が全く機能しなかったとしても、ね。 地続きの小国クウェートに侵攻して実際あっさり占領できちゃったイラクのケースとはまるで話が違います。それに、あん時イラクは、「同盟国」のアメリカが侵攻を追認してくれる可能性がある、と踏んでいたというのが、今では定説になってるよ(侵攻の一週間前に、米国防省の高官とフセインが握手していたことが確認されている)。 だとすると、北朝鮮と日本(を含めた周辺国)が戦争になることがあるとしたら、アメリカの「先制攻撃」からスタートする可能性のほうが百倍高いと思うんですけど。 今回のイラクと同じパターンで。 そんときって、日本は、まさにいまクウェートがひよひよ狙われてるアッサムードの、数百倍の威力あるテポドンだかノドンだか打ち込まれるわけでしょ? それこそ確実にたくさん死ぬじゃない、他ならぬ日本人が。 だとしたら、「イラク攻撃」のようなアメリカの一国主義的な態度に待ったをかけといたほうが、日本の国益だったという論理こそ成り立たない? 反戦とかそういうのじゃなくて、純粋に安全保障上の議論として。 今回苦戦してくれてるみたいだからいいようなものの、開戦前の大方の予想通り、一週間でケリがついちゃったら、アメリカはあまりにもカジュアルに悪の枢軸退治に乗り出してただろうから、上に書いたようなアメリカ先制攻撃の悪夢、って絶対にありえたと思うよ。 確かに、金正日体制をこのまま残して、アメリカの強い後ろ盾なしに交渉路線・対話路線に入ったとしたら、いろいろと無茶な経済的要求もされるのかもしれない。戦後保障とか何とかね。 でもね、戦後保障を払うのが適切かどうかの歴史学的な議論はおいとくとして、安全保障を金で買えるんなら、それはそれでいいじゃない、と気もする。 ポチ保守君たちが主張するように、アメリカ様の威を借りて北朝鮮に強気に出て、その結果あろうことか「自衛のための先制攻撃」なんて起こしちゃったら、どうせその時は、戦費負担めちゃくちゃ要求されることになるんだから。 どうせどっかにカネ払うなら、ヒト(日本人ね、金体制が維持されることで飢え死ぬ北朝鮮人のことは今は考えない)が死なないですみそうな方法、つまり北朝鮮に金払う太陽政策を日韓共同歩調でとって、適当にキティをあしらっておいたほうがいいような気もするのですが。(あ、自国民を危険に晒してまで「悪の枢軸に抑圧されている人民」を解放しようとするような甲斐性のある政治家、この国にはもちろんいないよね w) そう考えると、アメリカと一致団結して北朝鮮に強気外交展開したほうがいいって主張するポチ保守君は、実は安全保障という日本の国益を考えるリアリストな愛国者でも何でもなく、金正日に頭下げたくない、ビタ一文払いたくないプライドのために熱くなってんじゃないの、って思っちゃうんですよ。 強者アメリカにはいくらでもアタマ下げられるくせにね。俺としては、ブッシュにアタマ下げんのも金正日にアタマ下げんのも同じようなもんだと思うんだがね。 拉致問題が解決していない? そりゃ俺だってムカつくよ。 だけどね、暴論を承知で言えば、「たかだか」数十人のために、数十万人が死ぬ可能性のある戦争を起こすわけにはいかないんだ。メロドラマ好きのマスコミ見てると、拉致問題を全国民的な危機であるかのように思えてくるけど、そこは思考停止しちゃいけない。 そりゃあ、自分の家族を愛するが故の「拉致家族」の無念な気持ちはわかっているつもりだけど、そんな「個人的な感情」に駆られた挙句に、アーミテージに極東の悪の枢軸狩りをお願いしに行くような行動を、手放しで賞賛しちゃいけない。 わかる、自称リアリストのポチ保守君? これが本当のリアリスティックな考え方ってものだよ。 反論、待ってます。 3・26 追記 書いたあとなんだけど、明日になったら忘れちゃいそうな小ネタを、ひとつ。 世界の目が中東に注がれている間に、インドがさくっと核弾頭搭載可能な地対地ミサイルの発射実験を行ったらしい。 いや、それ自体は小ネタ、つぅか結構重大な動きなのかもしれないけど、注目して欲しいのは、その地対地ミサイルのネーミング。 ...ブリトビ。 いやー、めちゃくちゃ飛ぶんだろうなぁ。 ツボにはまって、一人でウケてしまった。 おしまい。 3・26 何のかんので、サイト開設一周年 えーと、細かくは忘れてしまいましたが、本格公開がこの辺であることは間違いないので、そういうことにします(藁 一年で約16500アクセスかぁ。 自分で踏んだのも多いとはいえ、駆け出しテキストサイトとしては、そう悪くない数字ですね。ペコリ。 アクセス解析のほうを見てみると、開設当初の数週間は別として、大体一日30前後はコンスタントにユニークアクセスがあるようです。多いときは50〜60を越えてくるけど。 このサイトは、Yahoo!で「外国人労働者」とひくとトップ表示される登録ページになっているので(ほとんど詐欺だよな)、迷い込み組みの一見さんも結構いる。 あとすごいのは、同じくYahoo!でARASHIとひくと、このページがヒットすること。おかげで、香港・台湾の海外の婦女子(推測)を中心に、一部可哀想なジャニヲタが迷い込んできます。 そういう方を除いて、少なく見積もっても一日のユニークの半分が常連様。またまたペコリ。 常連様が覗いでくださるのは、だいたい4日に1度というペースが平均的なようだから、最低でも60人ぐらいは常連様になっていただいてるみたい。本当にありがたいことです。 まあ最初の壁は越えたということでしょうか。 個人テキストサイトのアクセス数見ると、このぐらいのペースのところが結構多いようですね。 そん次に、累計20万アクセスぐらいの、一日ユニーク100〜150&開設3年目、という層がぐわっとありますが、まだこの壁の越え方はよくわかりません、と。 ま、そういうサイトには、気が向かないと一週間日記をほったらかすとこなんてないから、まあこのぐらいで細々やってくのが、分相応というところでしょうか。「負担」に感じるサイトを構築するほどの甲斐性はないもんで。 ただ、一年のうちには、100超のユニークをしばらく続けた、っていう時期が二度ある。 一度は、サポティスタ様にテジョンの日記が取り上げられてた時期。このころはサカーネタを毎日書いてたから、しばらく蹴球好きの方が定着してくれていました。 もう一回は、メールで年賀状出す人たちの定番、一月上〜中旬(藁 サイト一周年記念に何か新機軸を、と思っていたわけですが、まあ「不買運動」ということで勘弁してくだせぇ。 掲示板も作ったことですし。 とりあえず、いくつかの知人のサイト様などに「不買運動」サイト紹介していただいたおかげで、またまたアクセス数がじわじわと伸び始めております。 サカー好きの方がサーッと引いたときのようにならないよう、今回のお客様は逃さないようにせねば(藁 それにしても、一年間のこの日記ページ読み返しますと。 5〜6月はサカー、9〜10月は北朝鮮。そして今は、イラク。 うわ〜、なんて薄っぺらいシャカイ派くん(藁…えない。 てな感じですが、今後とも、ヨロシク(゜0゜)(。_。)ペコッ 3・25 ちょっと想像力を働かせてみよう もう、こんなこと言うのもバカバカしいことばっかりなのだけど、メディアがあんまり言わないもんだから、一応。 今日書くことは、メディア操作がどうのこうのじゃなくて、どれほどの常識的な想像力を働かせることができるか、ってことだから。念のため。 あの「ピンポイント攻撃」っていうの、騙されてる人なんているのかね。 だって、イランの製油所に数発? トルコ領内にも2発で、シリア領内のバスにも命中? こんな隣の国に落ちるような激しい「誤爆」が頻発しているのに、バクダッドでだけ「民間人地区には被害はない、あくまでも軍事施設だけ」なんてはずないじゃない(笑) 狙ってイランやトルコに時々落としてるってのなら、話は別だけど(いや、アメリカにとって、この時期に周辺国を狙ってけん制する意味がないわけではないからね)。 言うまでもないけど、フセインが持ってるかもしれないレベルの中途半端な化学兵器や生物兵器なんかよりも、トマホークミサイルや、いわんや燃料気化爆弾・クラスター爆弾のほうが、はるかに「大量破壊兵器」ですよ。 そもそも、「ピンポイント爆撃」を本気で信じてるんなら、各国が自国民にイラクからの退避勧告なんて出さなくてもいいはずなんですけど(笑)。「人間の盾」は別として。 それから、イスラム教徒(ネイション・オブ・イスラムの人?)の軍曹が、自軍陣地にグレネードを投げ込んだって事件。 これは、「米軍の士気はあまり高くないのかもしれない」なんていう読みよりも、はるかにデカイ意味があるよ。 「不買運動」のほうで、世界中の多くの人が何のかんのアメリカが好きだから、多くのヒトやカネや情報がアメリカに集まる、それがアメリカの強さだ、って書いた。 そのうち、実は一番大きいのは、ヒトの部分だと思うんだけど。アメリカは常に新しい優秀な人材を世界中から輸入して(しかも「自発的」選択として!)、「アメリカン・ドリーム」という神話を維持し、それがまた世界中の「ヒト」を呼び寄せる、という構造で成り立っている社会。言うなれば、常時新鮮な血液を輸血してもらってるような国。 だけど、これは圧倒的な強さの源泉であると同時に、脆さを内包することにもつながっている。 文化的に多様な背景をもつ移民たちの中には、アメリカの富に対する憧れと強い憎悪のアンビバレンスをもってやってくる者も多い。 彼らが「成功」すれば、憧れから同化へと振れるだろう。しかし、失敗して、あの残酷な格差の中で底辺を這いずることになったら? それも、何世代も続いて浮かび上がることができずに、ゲットーに淀んでいったら? すごーく大雑把に言えば、ネイション・オブ・イスラムなどのアメリカのイスラム運動は、そういう層に入り込みつつある。現状への抵抗と先祖返りの二重の「意味」をもって。 だから、「ヤクの売買か、監獄か、(銃撃による)死か、それとも軍隊か」と言われるほど選択肢のない荒んだゲットーから、入隊してきた黒人たちに、軍隊の中でイスラム教に改宗する動きも広まっている。 そう考えていくと、アメリカが本当に崩壊していくほどの悲惨なテロが、手がつけられないほど頻発するとしたら、それは恐らく外部からやってくる脅威ではなく、内側から始まる脅威だろう。もちろん、9.11のような大規模な「外部」のテロが、その引き金になることはあると思うけど。 だって思い出してもみてよ。例のタンソ菌騒動だって、ワシントンの連続銃撃だって、「内部」の脅威だったじゃない。 つーことはだ、アメリカが本気で化学兵器テロを起こされる可能性があるとしたら、そのVXガスは、フセインからアルカイダに供与されたものではなくて、アメリカの基地から、アメリカ人に盗み出されたものってことになる惧れのほうが極めて高い。 これはね、アメリカはもうイスラム圏からの移民を受け入れるべきじゃない、って言っているんじゃないの。誤読しないでね。 だって、どんどん改宗者が増えてるんだもん、移民規制なんて意味ないじゃん。それに、国内でテロ起こす可能性があるの、イスラム教徒だけじゃないし。ブッシュ政権は、そこばっかケアしてるけど。 そうじゃなくて、本気でテロ防ぎたいなら、バグダッドを空爆するより、国内での格差とか、「世界のど真ん中」にいるのに「グローバル化」から阻害されて不満渦巻いてる人たちを、何とかするほうがずっと実効性があるんじゃないのってお話。 「市民派」も「非戦」なヒトたちも含めて、どうしてこうゆうこと誰も言わないかなぁ。 僕にとってはあまりにも当たり前すぎて、本来はわざわざ書くほどもない話なんだけど。 3・24 核妄装 あー、もう読むほうも戦争ネタはうんざりなのでしょうが(書く方もですよ)、打ち止めまでもう少し勘弁してくだせぇ。 これだけ強烈な反米を掲げていると、そろそろ「おめ−北朝鮮はどうなんだよー」的突っ込みが来ると思うので、予防線を張っておきますか。先日かすかに予告した件なんですけど。 NPT体制の存在を考えると現状での実現性は低いことですが、今までも何度か小出しにしていたように、僕個人は一貫して日本の核武装を主張しています。それも、戦術核ではなくて、ミサイルでどこぞの首都を直接狙える戦略核。もちろん、もっぱら抑止力としてです。 コストをかけずに(=財政負担を増やさずに)、自国の意志でこの情況をコントロールしようと思ったら、これ以外もう道はないと思うんだけど。 何でどの新聞もまだ一言も触れないかなぁ。ギリギリのところ(北朝鮮にノドンを打ち込まれた後とか)でヒステリックに言い出して、後戻りが聞かなくなるような重武装化路線をひた走るよりは、今から議論しておいたほうがいいと思うんだけどなぁ。 ちょっと異論だけど、この辺読んでもらえるとわかるとおり、もしかしたら日本が抑止力のために核をもつ、というテーゼの場合、極端に言えばハッタリでもいいかもしれないのですよ。日本が「戦略核もってるよ」と言えば、もうそれだけでいいわけですよ。ロケット技術が転用できるのは世界中わかってるし。 今現在の防衛体制では、ノドンやテポドンが迎撃できません。日本を仮想敵国としている(らしい)隣国があり、弾道ミサイルを保有しています。核兵器もあるかもしれない。でも今の日本の防衛体制では、それを迎撃できません。日本から仕掛ける気はさらさらありませんが、ミサイル迎撃体勢が整う数年間は、自衛のための抑止力として戦略核を保有します。こういう声明をアナウンスしてみてはどうでしょう。論理的に考えると、これしかないような気がします。これをアナウンスした時点で、実際には核兵器を保有していなくても、それはハッタリで押し通す。 この内容なら、実はイージス艦を長躯派遣したり、航続距離の長い爆撃機や空母を開発するよりも、はるかに憲法9条には抵触しないという罠。反戦な人も、文句はないはずでしょ? しかも、何事もなく隣国が平和的な政権に委譲した暁には、「自発的に核を捨てた国」という魁になって、被爆国の面目躍如でデカイ顔もできる。 まあ、そう甘くはないか。世界も、国内も。 以上、オチなし。 3・23 不買運動補足 不買運動に関して、masa-nさんからありがたい援護射撃があった。 彼がタイトルで的確に指摘するとおり、まさにこれは「われわれ自身のため」の行動でもある。 masa-nさんは、ナショナリストを自認している一方で、僕は社会的には左派とみなされているようだが、こういった現状認識と、八方塞の状況の中で見つけ出す僅かな戦略的隘路は、ほとんど一致する。 「日本的」なべたべたした共同体を忌避するあまりに、今ではただのネオリベラルの旗振り役になってしまった感のある村上龍だが、彼の80年代の代表作と言える『愛と幻想のファシズム』にあったこんなくだりを思い出した。あまり物語の本筋に関係のあるところではないのだが、印象深かったのでよく覚えている。 物語の序盤では、日本での政権奪取を目指すファシスト政党を立ち上げた主人公のもとに、続々と有能な人材が集まってくるのだが、彼の最初のブレーンとなる国粋主義者の編集者・洞木と、左派の法律家・千屋は、たちまち意気投合し、奇妙なことに、天皇制の位置づけを除いて二人の理論的立場や現状認識に全く差異がないことを発見する。 無論、僕とmasa-nさんの間にも若干の違いはあるが、議論の出発点がずいぶん違うにも拘らず、結論が似通ってくることは非常に多い。 え、じゃ、どこが立場の違いかって? おそらく、彼がsnobistで、僕が「やんちゃ好き」という性格に起因する、公共的なるもの、あるいは「文化」に対するイメージの違いだろう。 はい、そうですね、書簡を自分で言い出しておいて半年もほっぽときながら、何言ってんの、ですよね。うーん、実は何度も書きかけているのだが、あまりにここのところ時代の流れが速すぎて、一度間隔があくとなかなかエイヤと書けなくなっているのですよ。 でも、さすがに年度内に書くよ。と宣言してしまうテスト。 さて、不買運動の件に戻るが、ネットで調べてみると、それなりに不買運動を呼びかけている組織や個人は多いようだ。最も代表的なものはこれだろうか? そして、不買運動などというものの馬鹿馬鹿しさを指摘する個人サイトなどもたくさんあった。まあ当然の反応であるし、すべて正論であるのだけど、そういった真っ当な指摘に対して僕はどういうスタンスを取っているのかを、簡単にまとめておこう。 ・「不買運動なんかやったらデフレが加速して不況が深刻化するだけ。」 ・「不買運動は全くの「誤爆」。これだけ外資系企業が雇用を生み出しているご時世に、普通の日本人で誤爆される人も多いことぐらい、すぐわかるはず。」 この種の反論がまず一つのパターン。 米英製品不買運動は、消費を手控えろ、といっているわけではなく、米英製品を消費する分を、国産か、それ以外の国からの輸入品での消費に振り替えろ、と言っているわけ。だから、デフレ云々はマクロには的外れ。 それと、後者のほうの言い分は正しいことは正しいのだが、スターバックスがどれだけの街の喫茶店に閑古鳥を鳴かせ、トイザラスがいかほどの駅前のおもちゃ屋さんをシャッター商店街の一部に追いやっているのかを考えに入れたら、また話は違ってくるんじゃないだろうか? 不買運動はあくまで選択の問題であることを確認しておかなければならない。 ・「そもそも、マイクロソフトにもマッキントッシュにもネットスケープにもTCPIPにも関わらずに生きてくことなんて不可能なんだから、不買運動なんて馬鹿馬鹿しい。」 これもまさにおっしゃるとおり。 でも、考えて欲しい。そもそも、リナックスがじわじわと頑張っていることを除けば、WINかMACしか選択肢がないような状況は、どうして生み出されたのか、ということを。僕はこの手のことには疎いが、識者の指摘を受け売りすれば、80年代末にトロンOSで一歩も二歩もリードしていた日本は、半導体にまつわる「日米構造協議」とやらで難癖をつけられ、自前のOSを普及していくことを強引に阻害されたとのことだ。 その結果として、OSやネット環境に関しては、今やアメリカに由来するもの以外を使うことが事実上不可能になっている。クレジットカードもそうだし、航空機もそう。こうしたかなり基幹的な産業を、アメリカは政治的な脅しをちらつかせながら、バシッと押さえているわけだ。 OSやクレジットカードに関しては、不買運動なんてもうできない。これはもう仕方ない。手遅れだ。 だとするならばなおのこと、他の領域でも政治的介入含みのアメリカの一人勝ちにならないよう、「まだ手遅れでない」分野に関しては、国産であれ、ヨーロッパ製であれ、はたまた韓国製や台湾製であれ、積極的に他の選択肢を確保しておく必要があるんじゃないだろうか? 私見では、生保なんて中期的には「手遅れになる」危なさがあるような気がする。 よきナショナリストであるmasa-nさんが、不買運動を「われわれ自身のために」と呼んだのはまさにこうした文脈においてである。 ・「イマドキ、表に出るブランドと内部で使われている部品や労働力が全く違う国旗を背負っていることは、むしろ当たり前。こうしたグローバルな相互依存の時代に、特定の国の産品への不買運動なんて、ナンセンスである。」 この指摘は、本当に正しい。 で、この指摘に関しては、米英製品不買運動という「反米」思想に寄生しているロジックの内部からは、構造的に反論することができない。 この指摘を前にした米英製品不買運動擁護のロジックというのは、反グローバル化の思想とか、もっと大きな話を経由してなされることになるが、また別の機会に、ということにしよう。それこそが、最も重要な論点なのだが、本来。 3・21 重要なお知らせ こんなみっともないことをすべきかどうか、悩みました(実はこのページ自体は20日に作っていたが、リンクするかどうか迷っていた)が、こういう行動をささやかながらはじめることにしました。 一人でも二人でも賛同してくれるヒトが出て、みなさまのHPにリンクして頂けたり、あるいは、僕の勘違いを批判するメールを頂けたりすれば、嬉しく思います。 もうこの状況に至ると、メディアに流される何から何まで嘘っぽくて、こんな一個人に振ってくる情報から判断してイラク戦のことをどうこう評論すること自体、滑稽なことですね。 ですので、イラク戦に関する発言は、判断停止したような印象記的放言以上のものは書けないし、また書く意味もないと思います。 ということで。適当に。 アレが影武者か本物か議論が起こっているが。 俺が「イラク指導部」だったら、フセインが死んでても生きてても、死んだことにしちゃうけどなー。とりあえず、フセインが死んだら兵をひかないと、アメリカの理屈はなくなるわけだから、ここでアメリカの出方を「試す」のもいいんじゃないだろうか? そんで、武器弾薬がほんの少しでもあるうちに、精鋭部隊を野に下らせて、泥沼のゲリラ戦。まあ、最悪に犠牲者が多くなるやり方だけど、「国際世論」と連動しつつ、できるだけ有利に進めていくとしたらこれしかないんじゃない? ま、そういうことができない人たちを「独裁政権」と呼ぶわけだが(w ブッシュの演説とか聞いてると、このヒトたち、アメリカって本当に「怖がりさん」なんだなーって思う。9・11は本当に本当に怖かったんだね。自分が少しでも殴られるとヒステリーを起こす、惨めなガキ大将。 ブッシュの「自衛のための戦争」と言うロジックはあながちレトリックではなく、国民に響くのだろう。世界中で、自分に刃向かいそうな国が一つでもあることが、真剣に怖いんだね。普通の発想をしていたら、「それならそんな恨みを買うことは止めよう」と思うはずだが、そう考えることはできずに、「危険な可能性のある芽は徹底的に摘み取ろう」というのが強者の発想だ。 とまらない底なしの恐怖心と不信感。戦前の日本も、そうした「恐怖心」から破滅的な拡張を続けていったわけだし、スターリンやヒトラーに続くあまたの独裁者たちが、国内でやってきたこととも同じ心性を共有している。 これが、石油のための戦争だったら、利権をめぐる冷静な詰め将棋のような戦争だったら、まだましだ。無論、そういう側面もあるが、打たれ弱いガキ大将が、恐怖心から起こした戦争でもあるところが、一番怖い。 怖がりな怪物が、「敵」を食べ尽くすうちに、世界には自分以外誰もいなくなっちゃいました。というようなお伽話がどっかになかったっけ? もしかして、フランツ・ボナパルタ作の作中作だったろうか?(w そんな感じ。 3・20 開戦の日に 先日、ウダウダと書いていたが、結局僕は、反戦論者でも平和論者でも「非戦」論者でもなかったのだ。 グローバル化からも、いや、それ以前に高度経済成長からも取り残されていた本州最西端の老人ホームの一室で、アソーレスから帰国した「世界」の中心にいるらしい権力者の「最後通牒」を聞き、改めてそのことに気づいた。 僕は、人が人を殺すと言う暴力的な手段を、やむを得ずとる必要が存在することを、必ずしも否定しない。 姿も見えない絶対的な強者によって、真綿で首をしめられるように生かされ、そして緩慢に殺される人々による、死を賭した無謀な訴えを、僕は必ずしも否定しない(フセインがそうだと言う気は、毛頭ない)。 言うまでもなく、僕はそうした訴えによって殺される側である。 断言しよう。 2003年春現在、僕の立場は第一義的に反戦ではない。 反米である。もう少し正確に言うと、反「世界新秩序」である。 恐らくここで独仏露に組していたら、短期的には日本は「損」をしていただろう。 しかし、日本よりもはるかに貧しく、「天国はあまりに遠く、アメリカはあまりに近い」国・メキシコでさえ、今回あまたの圧力に拘わらず、アメリカに全面的に与することを拒んだ。 独仏露にせよ、今回アメリカを突っぱねたことで、相応の短期的マイナスはあるはずだ。だからこそ、計算高いフランスは、最終局面−−それはまさに今である−−では攻撃に参加すると、日本の外務省や評論化連は揃って考えていた。 しかし、その近視眼的な損得勘定でしか判断していない予測は外れた。 では、今回アメリカに与しなかった各国は、何を考えているのか? もちろん、それぞれに固有の事情はあろうが、結局のところ、一国が惑星の生殺与奪をすべて握る世界を築くべきではない、ということを、短期的利害を超えて主張したということに尽きるだろう。 2003年は、後世の歴史家に大きな時代の転換点と目される可能性が高い。 アメリカが、国連の役割を公然と否定したという事実は、一般に言われている以上に重い。それは、17世紀以来続いてきたバランス・オブ・パワーとしての国際関係が、終わろうとしていることを意味しているからだ。フランス、ドイツ、ロシアの三国は、常にこの王侯たちのゲームの中心的プレーヤーであったが、今やもう権謀術数のゲームは終わった。 ブッシュは、今回の戦争は自衛のための戦争だと言っている。 恐らく、今後アメリカと政治的・経済的そして文化的に対立するすべての国々は、「自衛」のためにアメリカの介入を受けるだろう。これからの世界では、アメリカを「自衛」することは、すべからく世界システムを「自衛」することと同義になるのだから。 多くの反戦運動家たちは、開戦を数時間後に控えたいま、無力感を噛みしめているかもしれないが、一国が世界そのものとなる歴史的状況に異議を差し挟みたいのならば、やるべきことはむしろこれからだろう。 われわれは、アメリカを拒絶しなければならない。 アメリカが提示する世界観−−それは大抵、悪夢としてではなく、「民主主義」と繁栄の甘い囁きとしてやってくる−−に取り込まれてはならない。 遠回りかもしれないが、歴史の歯車に棹差す道は、それしかないだろう。そのために、極東の一庶民ができる範囲での絶望的に空しい試みを、近々ひっそりとはじめてみようと思う。 実際に命を落とすイラクの人々を思うとやりきれない物言いになってしまうが、今回のイラク戦は、世界中がアメリカを晒し上げ、嗤い、アメリカへの憧れを断ち切る絶好の機会になるかもしれない。 3・15 割愛 なんだか最近、アクセス数の変動幅が大きくて、よくわかんないなー HP開設一周年を控え、ちょっと方針に悩む今日この頃。 明日(今日)から、山口のほうに行くため、3日ほど更新できません。 フグ喰うぞ! と書いたあとに、今日のメインの書き物があったのですが、アレな内容なので3時間ほどの公開後、割愛しました。 少なくとも、掲示板を数日いじれないときに書くことではないので。 3人ぐらい見た方もいるかと思いますが、またいつかそのことについて、さっきいい加減に書いた文章を修正してきちんと書くこともあるでしょう。 題目だけ言っておくと、日本の核武装のことです。 3・12 せれぶってなに? うわーこれ書きたい、ってことがたくさんあるのに、やっぱ実名公開サイトでそりゃ無理だよ、ってことが続くと、どうしても更新頻度が落ちてしまいます。う〜む。 触りだけ言っておくと。みなさん、履歴書や研究計画書を書くときに、聞かれてもいない「自分語り」をするのは止めましょう、ハイ。とゆうことが、初めてそうゆう書類を読む側になってみて痛いほどわかりました。 プロポーザルの内容の薄さを、「自分語り」で粉飾しようとしてもイタイだけです。研究者のポジショナリティ? 当事者性?(笑) 内容そのものの弱さを隠すための自意識過剰であざといモノガタリを、そんな言葉で正当化しちゃいけません。バチが当たります。 ところで、唐突ですが、セレブレティという言葉が、いつのまにか短縮されてセレブって言葉になったのはいつだろう? 叶姉妹が騒がれだした98、99年ごろ? (ちなみに、「叶姉妹って本当は姉妹じゃないんだってねー」としたり顔でいうことほどナンセンスなことはない。だって、叶姉妹ってユニット名なんだから。誰も「ダチョウ倶楽部ってダチョウじゃないんだねー」とか言わないでしょ?) 「レティ」の三文字が削られただけで、なんか急速に世間が「セレブ熱」に浮かされ出してる気がします。 去年、SPA!でもこんな特集があったようだけど、女性誌はどれを見ても「セレブ熱」一色。Frau やSpur あたりがド真ん中なの? JJ あたりの用語法まで来ると、もはやセレブも「奇麗なお姉さん」とほぼ同義語まで陳腐化しているようだけど。Elle Japon の凋落を尻目にFigaroなんかは相変わらず(セレブでなく)セレブレティを記事にして一線を画すことに躍起になってるけど、ホンマもんの地に足がついた世田谷マダムは意外に婦人画報、ってそんな感じの認識でよろしいか? テレビを見てても、セレブ番組ってやたらに多い。昔から豪邸訪問、みたいな企画はたくさんあったけど、芸能人のお宅訪問っていうのから、次第に「アシヤレーヌの普段着の暮らし」みたいのに中心がシフトしてきてるようだ。 ワンダフル!の後釜で始まったPooh! でも先月一ヶ月間「セレブの暮らし」を手を変え品を変え連日特集してたけど、いい意味で田舎っぽさの抜けない白石美帆が、すなおーにセレブライフを垣間見るっていう絵、その辺が絶妙に今の「セレブ熱」の絵を表象してるんしょうね。 今日は一日家にいたんだけど、昼のワイドショーで「豪華客船飛鳥号で世界一周に行くリピーターたち」の特集をしていました。一航海、最安で450万、最も高いと1800万。引退した会社社長や医者のご夫婦がメイン客層で、平均年齢は70歳、航海そのものだけでなく、「楽しいお話のできるいい方々と知り合える」ことを目的に、何度も航海に参加するそうな。 それを見ていたバアさまが、「何でこんなことテレビで見せ付けたがるんだろうねぇ。見ちゃうと腹が立つよねぇ。黙っていけばいいのにねぇ」とゆっていた。まったく持って同感である。 「世界一周って言えば紅海は通るだろうから、イエメン沖あたりでアルカイダに撃沈されないかなぁ、あ、マラッカ海峡の海賊の餌食ってのもいいかなぁ」なんて、不謹慎な妄想がふわふわと浮かび上がってきてしまいます。 というのはちょっと歪みすぎとしても、世のあまたの白石美帆ちゃん@8割減な女子たちが、セレブセレブいうのがさっぱりわからないんである。 ようし、私も仕事がんばって老後は豪華客船で南極いっちゃうぞぉ ( ・∀・) とか 今の旦那なんかとっとと捨てて、ウォルドルフ・アストリアのロイヤルスィート1ヶ月借り切ってくれる男を探すぞぉ ( ・∀・) とかそんな風に思う人がただの一人でもいるんだろうか(←根が貧乏なので、いくら頭をひねってもこんな贅沢しか思いつかない)。 それとも、 はぁ、生まれ変わったら南イングランドの貴族のお嬢様になりたいなぁ。それでスローン・スクエアで毎日お買い物するの( ´ー`) なんて逃避してみたり、 中村江里子さんにはちょっとひいちゃうけど、設楽りさ子さんみたいに一歩一歩内面からキレイになれたら・・・( ´ー`) なんて癒し頑張りなら、できちゃうんだろうか。 謎である。僕にとっては、はっきり言って謎である。うちのバアちゃんの言うことのほうが、はるかにしっくり来る。 僕は金持ちのことは妬むか憎むかが相場だと思っているんだけど、そんなさもしい人は世の中にほとんどいないんだろうか。 「どうせ私たちには縁がないことなんだけど、キラキラした世界をちょっと覗くだけで、幸せな気分になってくるのよ」なんて向きが多いのだとしたら、それは、セレブと完全に「リアリティ切断」しているが故である。 言ってみれば、マハラジャもののマサラ・ムービーばっか見てるボンベイのスラム住民とたいした変わらない精神構造が育まれている、ってことになっちゃいます。 それは、ちょっと、いや、かな〜りイヤかも。 3・9 別にいいじゃん、トリニータ ナビスコカップでJリーグ開幕、トト・ゴール初年度でいきなりケチがついちゃったねぇ。 大分トリニータ期待の新戦力ロドリゴが、スローインで相手(京都サンガ)に返したボールを、強引にドリブルで持ち込んでゴールしてしまった。それに対し、大分の小林監督の指示で、一切守備をせぬまま京都の中払に一点を「献上」したという事件。 この手のことでは、ミラノでの失意の日々を経てアーセナルにやってきたばかりのカヌーが、やはり「返した」ボールを猛然と持ち込んでゴールしてしまった、ということが思い出される。98-99シーズンかな? これは、相手にボールを「返す」というチームの意識をあえて無視したというよりは、入団したばかりで意思疎通に難がある外国人選手に稀に起こる、ミス・コミュニケーションによる問題であることのほうが多いだろう。 カヌーのときは、確かヴェンゲル監督は相手に1点を献上はしていないはずだが、試合後のインタビューでカヌーを公然と非難し、カヌーも平謝りだった記憶がある。 南米のサッカーには、コスいプレーを賞賛する"Malicia(マリーシア)"という言葉がある。 これは、何もサッカー用語というわけではない。「悪知恵」で相手を出しぬく抜け目のなさが、庶民が厳しい生活を生き抜くために不可欠なこうした国々の文化では、この"Malicia(ワル賢こさ)"というのは、プラスの価値を与えられている(ただ、"Malicia"を若干の侮蔑と自嘲をこめて否定的に語る人もいるので、ブラジル人−−主にインテリ層かな?−−と話すときは、ちょっと注意したほうがいいかも)。 ペルー人が戸籍を偽造して「日系人」として日本にやってくるのもマリーシアだし、ボンクラな小役人から大金を搾り取ったアニータをチリ人が賞賛するのも、このマリーシア観ゆえだと言っていい。 今ひとつチームと意思疎通ができていないロドリゴが、日本での公式戦緒戦の気負いもあったのだろう、空気を読まずに持ち前のマリーシア精神を思わず発揮してしまったのが、今回のことの真相ではあろう。 今回はそのロドリゴの「非紳士的」行為というよりは、その後の一点相手に故意に与える、という行為の是非が問題となっているのだが。サッカー的な文脈内部では、これはまあ、それほど非難されることではないだろう。 事情は違うが、香港のカールスバーグカップで、観客の吹いた笛をハーフタイムと誤解したイラン人の選手が、ペナルティエリア内で手でボールを持ってしまってもらったPKを、デンマークのオルセン監督は外すように指示したという事件がつい最近起きているのだが、そのときは全スポーツ紙が賞賛の荒らし、じゃない、嵐だった。まあ親善試合、ていうのもあるし、オルセン監督とデンマークチームの紳士ぶりは、日本でもよく知られてるってこともあるけどね。 今回の議論は、サッカー的文脈ではOKでも、トトゴール的にはどうなの?ということに尽きるのだろう。 ただ、それを言うのならば、本当に近いうち地球上すべてのサッカーの試合が賭けの対象になるんじゃないかという勢いのブックメーカーで、香港で行われている国際Aマッチ、デンマークvsイランが賭けの対象でなかったはずはない。 基本的にサッカーに対する賭けは、サッカーで行われることすべてを受け入れた上で成り立つものだ。 ゴール献上が、サッカー内部の文脈でアリならば、当然ながらトト的にもアリなのだ。これは、議論するまでもなく自明のことで、「サッカー的には美しい行為ではあるが、トトの運用的には問題がある」などと言う詭弁はナンセンス極まりない。サッカーがトトに従属しているのではなく、トトがサッカーに付随しているのだから。 ゴール献上はいわゆる八百長行為とは根本的に違う。八百長行為とは、巨額にその試合に賭けている何者かに事前に依頼され、それなりの対価を受け取ることと引き換えに、故意にゴールを与えたりする行為だ。 これはサッカー的にも認められない行為だから、当然トト的にも認められない。それと、今回の事件は、根本的に異なっている。 残念なのは、この極めて稀な事態が、よりにもよってトトゴール初年度の開幕戦で起こってしまったということだ。ただでさえ収益の上がってないトト事業にとって、これはもう、悲劇的なめぐり合わせと言うほかない。 しかしまあ、言っちゃえば、いくらトトゴールができたからと言って、あまりに「射幸心をあおる」宝くじ的(しかもテラ銭率極めて高し!)なやり方しか受け付けてないトトのほうに、根本的な問題があるのは明らかであって。 イギリスのブックメーカーのように、ありとあらゆる種類の賭けが存在するならば、一試合での一点いれたどうのが、(ギャンブル的に)ここまでの大問題になることはありえない。 だから、みんなトトなんてやらずに、ウィリアムヒルをオンラインでやろうって。(←そういうオチですか) 今現在も、スペインリーグのオンライン・ライブスコアと睨めっこで書いているのだが、週末のちょっとしたスリルですよ。入門編は、こちらへ。 3・8 「インターナショナル」スクールと朝鮮学校 一昨日「悪口」を書いたら、今日のデモはそれなりに人が集まったようだ。まだまだ、欧米主要都市に比べて少ないけどね。 言うまでもなく、僕は参加していないけど。そんなこと、聞いてないね。 でも今日言いたいことは別のこと。 ちょっとこれは、話にならないぐらいひどい。 「規制緩和」の一環で、インターナショナルスクールの卒業生に国立大学の受験資格を認めた。それはいい。 しかし、それは「教育内容などが一定水準にあると認証されたインターナショナルスクール」に限るそうで、そのためには英米の学校評価機関の認証を要する、ときた。 すると、こうした「国際的」機関の認証は、英語での教育が前提となっているから、欧米系の学校=「インターナショナル」スクールが優遇される一方で、朝鮮学校や、その他のアジア系(韓国・中国・インドネシア)は、はじかれてしまう。 文部科学省の役人は、「あくまで客観的な学力を基準に認証することが目的である」と言っているそうだが、結果的に、近年聞いたことがないほどあからさまな国籍・人種差別が公的に行使されることになる。 無論、そんな「客観性」なんてとってつけたようなものであり、役人たちの発想の本当のところは相も変らぬ欧米>日本>アジアのレイシズム、もう少し本音を言えば、朝鮮学校を「思想差別」して排除しようとして、中華学校や韓国学校がそのとばっちりを受けたというところだろう(逆にいうと、本当に「客観的」に学力で基準をつけようとしたのが本義であって、その結果としてこうしたレイシズム的な構造が発生することには無自覚だった、ということならば、文部科学省の役人たちのアタマの弱さ・ナイーブさに絶望するほかない)。 さすがに、国立大学教官たちの間には署名運動とか起こっているみたい。そりゃそうだよね。 勝手に私淑している冨山一郎さん(この方は、いろんな意味でホントにカッコいい!)も運動の中心のようで、先日記者会見もやったそうだ。あの、言葉をじっくり紡ぎだすしゃべり方で、記者会見に臨んでいる姿が目に浮かぶ。 これをレイシズムだ、といって批判するのは真っ当なことで、絶対にしなければいけないことなのだが、それを除いても、2つほどきわめて重要な(政治的)問題点がある。 1つは、「インターナショナル」スクールや民族学校を評価するときに、英米の評価機関に頼ろうと発想したことである。文科省に評価能力がないことを曝け出し、かつ教育領域においても、英語圏の基準を、日本独自の基準に優越させること=一連の「グローバルスタンダード」とまったく同じ構造を、はっきり示したことになる。それは、現在「大学改革」の名のもとに起こり始めていることと、同じ線上にある。 これは、ものすごく大きな問題である。良くも悪くも、近代教育はナショナリズムと手を携えてきたものであるが、サヨクな方々がさんざん批判してきたその部分が、こういった「規制緩和」の形で「グローバル」なものに乗り越えられるということは、何たる皮肉か。 もう1つは、この北朝鮮情勢緊迫するみぎり、これは話にならない政策だという点。 僕も繰り返し強調しているように、現在、望むと望まないとに拘わらず、在日朝鮮人の方々は、北東アジア情勢のキャスティング・ボートを握る重要な位置に置かれてしまっている。戦争になるのならば話は別だが、このまま暫く睨み合うのならば、在日の方々の出方一つで、金正日体制はどっちにも転がる可能性さえある。 そこにおいて日本政府がいますべきことは、「在日朝鮮人としてであれ、朝鮮系日本人としてであれ、日本政府は長らく日本に住んでいる半島出身の人々とその子孫の生命・権利・行動を、日本社会の一員として最大限守り、支持する」ということをアナウンスすることなのだ。 日本政府が、日本社会が、自分たちを認め、守ってくれることに懐疑的なままでは、あの体制とその出先機関に弓引くことなどできようはずもないのは自明の理。 そうしたあるべき方向性に、正反対の政策を、今このタイミングで打ち出してくるというセンスのなさ。この時期に、朝鮮学校、ひいては在日朝鮮人社会をよりゲットー化するようなことをしてどうするんだ。 現在、朝鮮学校は「変わろう」としているという。 朝鮮学校といえば長らく、近所に住んでいても、朝鮮語のマンセー唱歌が聞こえてくるだけで、50年間中を覗いたことがない、というような、地域社会の中でもものすごく秘せられ、孤立した存在だったが、ここ数年「オープン・デイ」みたいなものを設ける学校がだいぶ増えてきたそうだ。ところによっては、大学生の見学グループが、毎日のようにうろうろしている朝鮮学校さえあるそうだ。 また、中には、朝鮮学校こそ、日本で最も古くから多文化教育を行っていた学校、と自分たちを定義しなおして、一般日本人向けのビデオを作成しているところさえある。 まあ、日本語を授業中にしゃべると「民族反逆者」と呼ばれてしまうような学校を「多文化主義教育」と呼ぶのは、さすがにオイオイではあるが、少なくとも変わろうとする意思を持った学校も存在していることは間違いない。 こうした周囲への説明責任を引き受けようとする姿勢、自らの存在意義さえ変えていこうとする方向性は、昨年の日朝首脳会談以降、加速していこう(せざるを得ない)とする矢先であったはずだ。それ自体は、まだまだ不十分な部分はあるにせよ、十分評価できるものである。 それなのに、という今回の話である。 絶望的な気分にさせられる。 3・6 反戦 たとえば、坂本龍一のサイト。「非戦」をまとめた教授ゆえ予想通りとも言えるが、No war のフラッシュムービーが出迎えてくれる。 僕もそうであるが、日本の「市民」の大半が、今度のイラク戦は快く思っていないようである。ここのところ「戦争どうなるんだろうねぇ」という話題になることも、日常生活で多いと思うが、今のところ、僕の周りで「いまイラクを叩きのめさなければいけない」というスタンスの人は皆無である。 その割には、といっていいと思うが、日本ではデモのうねりがほとんど見られない。小泉政権は、「新決議なくてもイラク攻撃支持」「安保理の中立国を説得する」と、国際社会の中でもかなり突出した親米路線を打ち出しているにもかかわらず、である。 先月中旬の土曜日は、世界的な反戦集会デーだったが、ハイドパークに50万、全世界で2000万と言われるデモ参加者の前で、渋谷に集まった3000人と言うのは、いかにも頼りなかった。これでは、よその国がみたら、日本は官民挙げて開戦容認、もしくは無関心に映っても、文句は言えない。 週刊朝日で、個人的にもお世話になっている某先生は、イラク戦争が北朝鮮問題とリンクされている限り、日本人の反戦意識は不毛にあてどなくさ迷うほかない、と言っていた。 その現状認識はもちろん正しいんだけれども、政権与党や外務官僚が反戦を打ち出せない理由にはなっても、大衆運動としての反戦運動が起こらない理由には、必ずしもならないだろう。 最近憂国ムードを前面に出している宮台さんなら、「日本人は民度が低い」と言うだろうが、別にヨーロッパだってそんなに民度が高いわけでもない(とにかくいつでもブリリアントな宮台さんの発言には勉強させてもらうことだらけだが、欧米の「民度」の高さを持ち上げるようなことを時々言うのは、納得できない点の一つだ)。 もちろん、たとえばユーゴ問題に関しては、ヨーロッパの「民度」は日本と比べて著しく高く見えたかもしれないが、それは「民度」の問題ではなく、地政学的な切迫感と移民を通した身近さの関数だ。本質的に極東にそれほどの関心がないイギリスの大学に留学した韓国人は、"From which Korea are you from?" というほとんど信じられない質問を受ける羽目になる。そんなもんだ。 イラクに関しては、まあ地理的にもヨーロッパ人のほうが切迫感はあろうが、日欧の差はそう本格的なものではないはず。 じゃあ、この彼我の差は一体どこに求めたらいいのか。 この件で、自分のことを棚にあげるのは許されないかもしれない。2月15日のデモに、僕自身も某筋から声をかけられてはいたのだが、結局行かなかったからだ。 出席しておきたい研究会が重なったので行かなかったというのが表向きではあるにせよ、どうしてもやりくりできなかったというほどのこともない。 ようは、僕自身、結局反戦デモに参加することを選ばなかったのだ。 「アメリカの態度は容認できないが、フセイン政権を打倒すべきなのは認識している」だの、中途半端な態度を留保するためのこじつけは、まあ1ダースでも用意できるが、「デモに参加するまでには至らなかった」ことの本質は、そんなところにはないだろう、ジッサイ。 最近とみに話題らしい「惑星開発〜」風に言えば、今の若者にとって「政治的立場」とか「思想」なんてものは存在せず、あるのは「キャラの棲み分け」だけだということだ、ということになろうが、まあそういう部分が大きいということになるだろう。 なぜ僕がデモに行かなかったかと胸に手を当てて正直になってみれば、デモやその後の飲み会のノリがキツイだろうな〜と予想したからであり、イタいサヨクとたくさん会って嫌な気分になるだろうなぁと怖れたからであり、デモ隊に加わっている自分を渋谷の町を歩いてる他の人たちに晒したくないなぁと思ったからである。 僕は、ボトムアップのウンドウよりは、ロビイングなどのトップに介入していく活動のほうが遥かに意義があると考えるタイプ(その意味でも、少なくともそうゆうポーズはとる宮台さんを尊敬している)であるとはいえ、大衆運動としてのデモ(や暴動?)の役割や意義を否定するものではない。 さらに言えば、これからどんどんショッパイ世の中になることが予想される中、宮崎学さん流にいうところの「たたかいかた」を経験し、学んでゆく一手段として、デモという形態の重要性は高まってくる可能性は高い。 だからこそ、市民運動に携わっている人たちは、「キャラの棲み分け」という言葉に象徴されるような問題にもっと自覚的になり、社会や言説空間における市民運動・デモ参加などということの位置づけを、変えるように努力していって欲しいのだ(これに関しては、さすがに僕は今のところ傍観者でしかないだろう)。 ヨーロッパの民度が日本に比べて全然高いということはないだろうけど、少なくともヨーロッパにおいてウンドウに携わることは、それほどイタいことでもキモいことでもない。ウンドウやデモという言葉を取り巻くイメージの結節のパターンが、根本的に違うのだ。 デモやウンドウをするということのイタさを、少しでも減らすような方向性は何とかないもんだろうか。まずはあのムセ返るようなアタマの悪いサヨク臭をどう解体するのか、ってことだろうけど。 ところで、PANTA(respect!)がバグダッドに行ったということでちょっと調べてみたら、名前を聞かなくなって久しい制服向上委員会と一緒にいろいろやってるんだってね。このところ。 この制服向上委員会って「清く正しく美しく」をモットーにいろいろ「ボランティア」に取り組んでるらしいけど、見てみたらすんげぇ社民党人脈ゴリゴリだよ。この辺誰の「プロデュース」(藁)なの? ま、こういうハンパなアイドル連れてきたところで、ウンドウ・キャラのポジションは上がらないだろうが(ヲタク色が増して、なお悪化する?) 3・4 自作。 瀬戸内海の小鯵の煮干が送られてきたので、昆布と鰹節と鯵煮干とで、コトコトと出汁をとってみる。4時間ぐらい。 別鍋では、熱した胡麻油で浅葱と大蒜を炒め、醤油と鶏がらスープ(顆粒)を加えたカエシを作る。 そんで、その二つを合わせてスープを作ってみる。浅葱と半熟卵を浮かべ、ラーメン自作。 まあまあ、うまい。自作ラーメン史上では一番。少なくとも、煮豚スープで作ってみようとしたときよりは、遥かにうまい。 ちょっと湯島の大喜に近い味か? ただ、やはり今ひとつコクに欠けるので(当たり前)、麺を食べ終わったあと、スープを完食するのはチト厳しい。 野菜出汁の甘さがなくて、鋭角的な味になってるのがいけないんだろうけど、今時のあっさり系と言われるラーメンと比べてすら、油分が足りないのも事実。かなりドボドボ胡麻油使ったのに。 今更ながら、ラーメンってカラダに悪いんだなーって実感。 3・3 最近のスピリッツ 唐突ですが、最近スピリッツが楽しみです。といっても、買わないが。 こんなに読むものが多いのは、『伝染るんです』のころ以来かな。(←といっても、そのころの連載マンガを一つも思い出せず。ああ、えっと、と始まると今日の午後は記憶の闇に挑戦して終わるので、自粛) 読者はわかりきっている謎かけを延々と思わせぶりに引っ張ってしまい、一時期沈滞していた『20世紀少年』は、「ともだち」後の世界を描くという予想しない展開が始まって、再び期待感が沸き立ち始めています。 ただ、いくつも消化できてない伏線があるから、このままいくと『モンスター』になって終わりという可能性も高いですが、その中に、「ともだちの顔は掴みどころがない」という便利な伏線が一個残っているのは、今後の展開をいかようにもフレキシブルにする上で大きなプラスでしょう。 『ティーンズ・ブルース』は、この手のマンガに今まで欠落しがちだった生活感を前面に押し出していて、好感。生活感は、プロットや台詞以上に、パッと見何の魅力もないのに、なぜか心の芯の部分で萌えてしまう、奇妙に貧乏くさい少女の絵柄から発せられているのでしょう。 『3名様。』は、ナンセンス・ショートというスピリッツのよき伝統を受け継ぐ佳作。読んだか読まなかったかも忘れてしまうが、読んでる間だけはクスクス笑える。 ツボにはまったときの『高校アフロ、田中』も同じく。 『オメガトライブ』は、典型的な誇大妄想屑マンガですが、なぜかやめられない。だって「モントリオール娘。」の「なっちん」だもの(苦笑)。あの辺の描写、所属事務所のダメ出しとかないのでしょうか? 『マリオガン』も、その系譜になりそうだな。 『日露戦争物語』 は、絵柄も台詞も演出も見るに耐えない代物だが、江川達也という、肥大した自意識と妙な「社会的使命感」を持つ作家が、「今の若者に何を伝えたいのか」(キモ!)を知るネタ本として、時々読んでいます。 さて、現在イチオシのマンガは、村上かつら作『サユリ一号』です。 イタイし、キモいお話だけど、バブル期以降に大学生活を送った人はみな楽しめるんじゃないでしょうか? 僕らのころ、遊び系のサークルというのは既に、ホイチョイの描く華やかさも、初期柴門ふみの描く麗しさもなく、ただただ中途半端なものでした。クラブや「ストリート」で人間関係を作るには臆病すぎるし、オタクと呼ばれることに平然としていられるほど好きなものもない。そんなフツーのサークルのフツーの人間関係を描くマンガです。 東京でなく京都(どうも同志社らしい)に背景を設定したもの絶妙。学生たちの選択肢がそう多くない地方都市の割には、学生人口密度だけ多い町で、それぞれのサークルは内閉し、人間関係は心地よく淀んだムラになっている。 確かに、ムラ社会のキモさを描き、その中で一喜一憂する凡人の悲哀を自嘲的に笑うのもこのマンガの一つのテーマではあるんだろうけど、まあ、チャラ系サークルだってゼミだってオタクのコミュニティだって、同じようなムラであることには大差ありません。「社会」に出たところで、そんなムラを突き抜けられる人間なんてほとんどいないことを考えると、あんまし笑えないわけで。 「世界」に剥き出しで放り出されることなんて、(言うまでもなく自分を含めて)誰も望んでないわけだから、小さなムラの中で自分の「キャラ」を立てることに日々血道をあげる。どんなにキモくたってイタくたって、それが自分を「世界」に晒さない代償。 そんなところにやってくる、これまた中途半端にメタな「他者」は、サークル荒らしで「ヤリマン」のミスキャンパス。物語としては、ま、そんな感じ。 結構、いろんな読み方ができて楽しいですよ、『サユリ一号』。 女性の目には触れにくいかもしれないけど、ぜひ読んでほしいです。 追記:書き終わってから、こんなの見つけた。そそ、こんな感じ。このサイトの「いつも通り」、実も蓋もなく的を射た話ですが。 3・2 7万円。 先週末前に見たドキュメンタリーがまだ引っかかっている。 フジテレビの日曜昼の「ザ・ノンフィクション」の枠は、地味だけど、割と好きでよく見ている。 是松孝典という崖っぷち企業の救世主とも言われているコンサルタントを中心とした、不景気話の連続である。 HPを見てもらえればわかるが、アメリカで学んだ経済合理性という神話の外側で、経営的にはどうしようもないが地域社会への破壊力を考えると単に潰すわけにはいかない企業ばかりに首を突っ込む羽目になっている、このヤクザ然とした浪花節のコンサルタントには、きわめて好感を持った(メディア・ハイプでなければ、だが)。 ある種の「社会の医者」である。実学とは、こういうことをいうのだろう。僕には、彼のようなスキルもノウハウもチームもないし、それを身に付けていくこともないだろうが、その精神だけでも見習わせていただきたいものだ。 番組中で中心的に扱われていたのは、ある秋田県の山林業者のエピソードであった。 その会社は、もう何代も続く(恐らくは封建領主までさかのぼれるのだろう)山林一家が社長で、秋田杉を育てている。世が世なら山林王というところだろうが、今では、往時に200人いた社員も30名前後まで減らしてしまい、それでも青息吐息である。ここまで残っている社員は、みな地元の集落の人たちで、ほとんどが、三代にわたってこの会社に勤めているというような人たちだ。 この集落全体が、林産と運命共同体であり、ほかの産業など村役場ぐらいしかない。 この会社をこれ以上「リストラ」すること、あるいは、「整理」することは、この集落を死滅させることとほぼ同義だ。 しかし、この産業に最早経済合理性など、ない。 秋田の材木市場に出品すると、40年の杉材が、たったの7万円しか値がつかない。そんなことでは、いかなる合理化計画も焼け石に水であることは、直感的にもわかる。 それにしても、40年で、7万円である。バブル期には一本35万円ほどだったというが、それでも35万円か、という言い方もできよう。 雪深い冬も含めて、毎日のように山に入って枝を落とし、下草を刈って、親から子にかけて40年間慈しんだ後に、チェーンソーで切り倒し、精魂込めて皮を剥いだ対価が7万円である。どうしても地方の山林からは遠い暮らしをしている僕にとってこれは非常に衝撃的で、不意に涙ぐんでしまう。 しかし、そういう値段がついていることに関して、もちろん誰も責めることはできない。 誰だって安く木材を手に入れて、できるだけ安く家を建てたい。輸入木材は相当安く手に入るが、もしそれより少し高い程度であれば、秋田杉の家もいいだろう。そういう需要を掘り起こし、販路を確保するために、秋田県の林産市場も奔走してくれている。別に、誰が誰を搾取したわけでもなく、妥当な価格として、40年間の労働に対して7万円という金額が支払われる。消費者も、生産者も、仲買も、誰も悪くない。 これを、市場原理という。 一方、マネー経済の領域にかかわっている敏腕ディーラーや、ビジネスモデルを開発した腕利きのビジネスマンには、平均しても一日に数千万円稼ぐ者もいるだろう。その自ら稼ぎ出した富の、ほんの数%を自分の所得として、何の悪いことがあろうか? これも、恨みっこなしの市場原理である。 この秋田杉の会社は、結局、民事再生法を適用して、社長自らが立ち上げに参画した仙台を拠点とする先鋭的な林業組合に資産をすべて引き継ぐことで、決着した。 山の仕事は、一年たりとも欠かすことはできない。一年手を入れなかった山は、数十年使い物にならない。林産の山としては死んでしまうのだ。会社の清算や再起を待つ余裕などなく、事業を継続することを最優先させねばならないのだ。 「山を守る」ことは、単なる経済活動では、もちろんない。それは、地域全体の死活的な生業であると同時に、景観と地方のライフスタイルと水源を守り、災害を防ぐことでもある。 それは、市場化できない価値を含んでいる、と少なくとも僕は思う。たとえば、そのためには、景観税・水源税・環境税というようなものを都市民にかけ、それを分配するようなことがなされても妥当だと考える。もちろん、そんな税金は冗談じゃない、秋田杉などいらない、東北の山が二度と利用不可能な雑木ばかりになってしまっても一向に構わない、という意向が多いのならばそれは仕方がないが、少なくともこうしたことを議論すべきだとは思う。 僕はどうしても「地方」の事情には疎いが、こうした市場合理性にはまったく乗れないが、安易に潰すわけにはいかない価値を含んでいる産業ばかり、というようなところも多いことだろう(無論、東京にもそういう産業がないわけではない)。 何でもかんでも「強引に高速道路を引こうとする地方の族議員と土建屋」と同一視するのではなく、「市場の外部」をどう制度化していくのか、真剣に構想しないと、にっちもさっちも行かなくなっている。それもまた、「社会の医者」の仕事である。 現在の営み 過去の営み 2003・2(シャトルやクラブで事故が起き、ラーメン魂は高まりつつ寿司もカレーもどぜうも食べるよ)
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