(※この連載は、全12回の予定です)
10 「日本人の誇り」論の変質 連載の「8」で、私は、「日本の周辺アジア諸国の民衆からすれば、戦後日本国家の顔は、右翼が「平和国家」という小さいお面をかぶっているように見えるだろう」と述べたが、私自身の認識としては、「いつか日本は、仮面をはがして、本当の姿を晒すはずだ」と考えているわけではない。そもそもはがす必要自体がないのである。仮面と肉体が癒着して、そもそもそれが仮面であるか肉体であるかわからなくなっている、というのが現状だと思う。例えば、和田の以下の発言は、仮面なのか、肉体なのか。 「(注・日韓の)和解のためには、それぞれのナショナリズムを尊重し、二国間の連帯をつうじて、国際主義的なものを求めていくことが必要だ。相手が自らに誇りを持ちたいと願っているということを相互に尊重しなければならない。そのことは日本人が韓国に反省と謝罪を表明する場合でも必要である。」(和田、前掲論文、146頁。強調は引用者、以下同じ) 和田の論理からすれば、当然、「慰安婦」問題や植民地支配に対しても、日本人が「自らに誇りを持ちたいと願っているということ」が尊重された上で、その「誇り」を傷つけない範囲で、「反省と謝罪」が行われるべきだ、ということになろう。これは、戦後補償問題と日本人の「誇り」についての従来の言説からすれば、極めて奇妙な主張なのである。 日本人の「誇り」との関係から戦後補償について語られる際には、日本人が「誇り」を回復するために、戦後補償を日本政府に果たさせなければならない、といったものが一般的だったはずである(こうした立場は、現在では、リベラルからも「反日」として切り捨てられる)。「<佐藤優現象>批判」で引用した安江良介のように、他国の「利益のためではなく、日本の私たちが、進んで過ちを正しみずからに正義を回復する、即ち日本の利益のために」歴史の清算を行おうとする姿勢である。 「日本人としての誇り」、「正義」を回復するために、日本人として、過去清算を行うという立場である。多分、日本で、戦後補償運動に関わったり関心を持っていたりする市民の多くは、こうした認識を持っていた(いる)と思う。 前回も触れたが、和田が転向したかどうかを評価するのは難しい問題なのだが、下記の発言を見れば、少なくとも言説レベルでは一定の立場の移行があることは否定できないだろう。和田は、1989年時点では、安江らとの共著において、以下のように述べているのである。 「植民地を領有してきた国家は、その支配を終えるべく強いられた時には、当然ながら清算の手続きをおこなわなければなりません。植民地支配を植民地支配とみとめ、それによってもたらした苦痛にたいして謝罪し、必要な補償をおこない、反省を未来に生かすことを表明することが必要です。それをなさずにきた、あるいはそれをなしとげずにきた日本人は、道義的に恥ずべきものというべきです。 したがって日本が植民地支配の清算をおこなうのは、なによりも日本人の道義の問題なのです。そして日本が植民地支配の清算をおこなうのは、あくまでも全朝鮮民族にたいして、全朝鮮民族との和解をめざしておこなうのでなければなりません。それがなされれば、韓国の人びととの若いを求めることができるし、北朝鮮政府との公式的な交渉を申し出ることができるはずです。在日朝鮮人・韓国人と日本人の関係を抜本的に変える出発点もできるでしょう。」(和田春樹「植民地支配の清算を」朝鮮政策の改善を求める会『提言・日本の朝鮮政策』岩波ブックレット、1989年3月、19頁) ここで和田が言う「道義」とは、上で引用した安江が言う、回復すべき「正義」とほぼ同じ意味であろう(注1)。一部のリベラル・左派は、こうした認識を「日本人の立ち上げ」などと批判するが、それは馬鹿げているのであって、周辺アジア諸国の対日批判と連帯できるのは、こうした認識以外にはない。 ところが、現在の和田の主張は、こうした認識とは真っ向から対立している。こうした認識が、おおむね、戦後の日本政府が大日本帝国と何ら断絶しておらず、植民地支配の法的責任、戦後補償を一貫して否定していることを前提としているのに対して、現在の和田の主張は、戦後の日本政府はそうした問題は基本的に解決済みであり、そこから漏れる被害者に対しては、国家責任が前提となる個人補償ではなく、償い金でよい、というものなのだから。 現在の和田においては、日本人としての「誇り」は、回復されるべきものではなく、所与として存在しており、「反省」や「謝罪」はそれを傷つけない範囲でしか行えない、と言っているわけである。そして、その範囲の決定権は当然、日本人が持つことになる。こんな身勝手な主張は、右派勢力と本質的にどう違うというのか。 右派勢力を包含した、あるいは毒抜きしたつもりでいて、左派は逆に、右派勢力に包含されたのだと私は思う。左派のかなりの部分は、「サヨク」または「ウヨク」と化すことで、右派勢力=日本国家に回収されたのである。だからこそ私は連載の「1」で、日本の「進歩派勢力」が右派勢力に取り込まれたという認識(連載「1」の③)は、それほど間違っていないと言ったのである。 (注1)「国民基金」における「道義的責任」とは、日本政府が「法的責任」を負わないことが前提であるから、和田においては、同じ「道義」という言葉が、少なくとも「国民基金」以降は、180度逆の性格のものに変質しているのである。 (つづく)
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