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【2009.3.1.毎日新聞】 発言席「青年と平和」 創価学会名誉会長 池田大作
危機の打開へ若き活力を アインシュタインが精神分析の創始者フロイトに「戦争を避ける方途」を尋ねた。答えは明快であった。「人と人の間の感情と心の絆を作り上げるものは、すべて戦争を阻む」「文化の発展を促せば、戦争の終焉へ向けて歩み出すことができる!(浅見昇吾 訳)。すなわち対話によって、心の温かみのある社会を建設することだ。そして文化の創造と交流である。特に良質の活字文化は絶対に護らねばならぬ平和の砦だ。
ノンフィクションライター泉流星 辻井正次理事長 辻井正次CEO
イルカ・セラピー 名誉毀損原告 浅見昇吾 浅見淳子
「子供たちの叫び
」 尾崎ミオ
ノンフィクションライター品川裕香
「イジメのプロ集団」による執拗な自閉症イジメ、差別は、私達患者や家族が自殺するまで続く。
本部 愉快犯によるたびたびの放火により改築に次ぐ改築現在の姿
2004年 「自閉症と発達障害研究の進歩」2004/Vol8 寄稿 山岸美代子
自閉症マニア・自閉症アスペルガー症候群研究所 特捜告発課 アップしました。
自閉症の話は、出し惜しみする事にしました。仕事と裁判と忙しいんでね。
その代わり厳選して出しますから、みなさんどんどん遠慮なくコメントください。 Chip 特捜告発課も見てね!
メールはこちら risco002@yahoo.co.jp
おさるに自我はあるか。 無い。
人に自我はあるか。 ある。
自我とは何か。 SAMがあって初めて形成されるモノ である。
では自閉症、アスペルガー症候群に自我はあるか。 無いに等しい極めて希薄なもの。
すると、自閉症、アスペルガー症候群はおさると一緒か。 そうなんです。そこなんです。重要な所は。
誰もが誤解を恐れ、口にしなかったこと。自閉症、アスペルガー症候群は知能の高いおさると一緒なんです。
普段生活している時、例えば学校に行く時赤い看板が生理的に嫌いだったとする。
おさるであれば、本能でここは通らない様になる。(無意識)
ところが、知能がある人間は、学校へ行くという目的のため、通らなければならない。
自我があれば、意識下又は、無意識で道順を変えるとか対処出来るが、自我の希薄な自閉症は、自分が学校へ
行く時、どうして「いらいら」するのか分からない。(察知出来ない) しかし、無理に登校する。登校し続ける。
ある日、何らかの形で爆発する。(これが本当の意味のパニック)
自閉症の子供が身近にいれば、すぐこの説明に納得行くだろう。
これは、知能に係わらす、形を変えて、私達の問題として存在している。
例えば私の場合。
自営業と言いながらも、ある日突然仕事が出来なくなる。 或いは打ち合わせをドタキャンしてしまう。
自分自身では、面白い仕事で、意欲満々なのに、身体が言う事を利かない。
妻がこの様子を見ていて、「・・・・が嫌いなんでしょ」
「そんな事無いよ」 口では否定しながら、言われて初めて「そうかなぁ・・」と思うが、実感は無い。
数年が経って、「ああ、本当にアレが嫌で仕事が出来なくなってたんだ」とやっと気がつく。
まさしく、本来人間が持っているSAMの自動機能が働いていない事を実感するのである。
では、自閉症、アスペルガー症候群とはどんな生物なのか。
私達は「人間の原種」と考えている。
人間(原始人)は集団生活を送っているうちに、SAMを獲得した種類がいた。
SAMは集団生活には、この上なく便利なモノだったから、SAMを獲得した種別は恐るべき繁栄をし、
現代の人間社会を形成するようになった。
しかし、元々SAMの希薄な原種が存在していたのだから、時折、脳が先祖返りをした人間が発生する。
これが、私達、「自閉症」の仲間だ。 何故、未だにこんな人類が存在するのか。その存在意義はあるのか。
これについては、次回。 2007/2/17のブログ 復元記事 (誰だ!消しやがった奴は!貴重な資料を)
「身を粉にして働く」と言うのを、真に受け、本当に身が粉になりそうな位働いていた頃、
当然疲労も蓄積しているから、もうじき死ぬんじゃないかと思うときがあった。
「トクシさん。オレが死んだらパソコンあげるから、もらってね」
仕事をしながら、思わず口から言葉が出た。
「そんなもん、いらねーっちゃ。生きててケレ」 そう言われてビックリした。その時何か心に突き刺さった。
後から考えたら、彼の母親は早く死に、遠洋航海で父が留守の間、姉と弟、二人っきりで
肩寄せ合って生きてきたのだ。
年若くても彼が、人の「死」の意味を一番分かっていたのかもしれない。 彼の言葉が私を救った。
えーはなしやなー。 ホンマえーはなしや。自分で読んでもビックリする位の、えーはなしや。
今でも胸がきゅんとする位えーはなしや。 彼とは一緒に仕事をする縁が無くなったから、
二度と会わないだろうし、特別会いたいとも思わない。
ここで言っている「こころ」は「ハート」の事だ。「心の理論」で言われる「心」(マインド)では無い。
これは、日本語の方に問題があるんだけど、自閉症だって、ダウン症だって、知恵遅れだって、めくらだって、
オレだって、「心」「自分の気持ち」ぐらいはある。
しかし、このブログで使われている、或いは児童精神科、脳機能学で言われる「心」「心の理論」(マインド)は、
「ヒト」が「ヒト」として「ヒト」の集団を形成する上で、どの様に「共通の意識」「合意」を得て行動するのか。
その合意を得る道具としての「こころ」(マインド)なのだ。
だから、「心の理論」と聞くと、何となくロマンチックな、優しさとか、いたわり合いとか、そんなイメージを持つ人が
ほとんどの様で、ネットでもそれを口にする人は、ほとんどが勘違いか誤解で使っているよね。
「心の理論」というのは、あくまで、物理学と同じように、力学、ロジック、論理、として解明出来る「こころ」
(マインド)であって、 つらい、悲しい、などと言う情緒的な話では全く無いのだ。
オレだって心ぐらいあるんだ。
(復元記事により、多少前後の記事との脈絡に乏しいのは、ご勘弁)
全回紹介した本は、「心の理論」 と呼ばれる物だ。
この本は、短大や大学でも教材として使われているようで、内容を理解していない子供程「こころのりろん」と
言う言葉を使いたがる。
ところが、この「心の理論」というのは、ロマンチックなモノでは無い。
原書の題名が「マインドブラインドネス」と命名している位で、「マインド」について語ったものである。
日本語で「こころ」というと「ハート」と間違うが、「ハート」では無い。「マインド」だ。
「マインド」を英和辞典で調べると、色々出てくる。これら全てを含んでの命名なんだろうけど、
中でも一つを選び出すとなると「気分」では無いだろうか。
「マインドブラインドネス」 =「自分の『気分』の状態を察知出来ないヒト」
「気分」を知ると言う事は、非常に大切な事だ。
私が、ある仕事をする。気が乗らない。やる気がしない。しかし、現実にはそんな事を無視して、仕事に邁進する。
ところが、ある日突然、会社に行けなくなる。仕事が出来なくなる。嫌で嫌でお客さんの電話に出られなくなる。
もし、自分の「気分」を事前に察知できていれば。 気分転換という、「定形発達」の人たちと同じ事が出来たなら、
事はここまで、もつれない。
しかし、私はそれが出来ない。 だから、いつも、もつれる。
抗鬱剤を飲む事によって、大分良くなった。さらに、自分の特性をしって、とにかくトラブルになりそうなものからは
なるべく近寄らないという知恵がついた。
こんな知恵がついたのは、ようやく50才になった頃からだ。
と言っても、今も原告浅見淳子 原告浅見昇吾と 名誉毀損による損害賠償事件を裁判で争っているから、
本質は変わらないけどね。
とにかく、素晴らしい本 であり、自閉症の理解には欠かせない本なんだけど、チョイ読みの人に誤解を与える本でもあるんだな。
読みこなすには、それ相応の知能と知性がいるんだ。
須賀川の女の子にしても、須藤正和君にしても、生け贄になるには、訳がある。
「ヒト」であるなら、日常生活していて、「嫌悪」する対象からは、逃げ出す。或いは避ける。
これは、意識する事でなく、無意識で行う行動であり、上手く説明できなくても、この「忌避行動」
嫌なものから逃げ出す行動ができれば、事はここまで深刻な事態に至らない。
世の中のほとんどの「ヒト」は、皆無意識に、自分自身が感じる「イヤだ」という気持ちに素直に従う。
ところが、600人にひとりぐらい、自分自身の「イヤだ」という気持ちを感じ取れない人間がいる。
これが、「自閉症」である。
この、理論を肌で感じ、本当に理解できた人こそ、初めて自閉症を理解できる。
つまり、ほとんどの人は、自閉症の事理解してないんだ。特に日本の専門家と称する連中がそうだ。
自閉症の子供を持って不安な人が読む本が エリーの本
自閉症の子供と現実にどう対応しようかと考える人が読む本が 内山ティーチ本
自閉症の事をもう少し、専門的に知りたいという人が読む本は ウイングの自閉症スペクトル
自閉症の原理を今一番上手く解説している本が 自閉症とマインド・ブラインドネス
ただ、一度読んだ位じゃ理解出来る訳が無い。 2年3年と時間を掛け、自閉症児を観察しながら考える本だ。
須賀川第一中学で、リンチにあった女子中学生の名前は知らない。しかし、本になったそうだ 。
私が同じ構造の事件だと考えているのが、栃木の須藤正和君の事件だ。
日産自動車に勤め、真面目で大人しい須藤君。
それに目を付けたのが、悪質な男とその仲間。
金をせびり取り、貯金を下ろさせ、借金させ、その上イジメ殺した。
なんの裏付けも無いが、この二人は「アスペルガー症候群」だったと考えている。
動物と言うのは、どんな動物でも残酷な物である。
その集団を維持するためなら、弱い個体を平気でなぶり殺しにする。
それをしないように、不自然に決め事を作っているのが、「人間」である。
「法律」とか、「モラル」とか、「よそ様の目」とかで、何とか規制しているのだ。
しかし、中には「ケモノ」のままの人間が居る。
そんなケモノのターゲットになるのが、殺しても構わない相手「自閉症」だ。
ケモノから見れば、自閉症の子供たちは「ヒト」ではない。
彼らは、ケモノだけあって、そういうところだけは、天才的に敏感で、嗅ぎ分ける能力を持っている。
そのケモノが、野放しになったとき、こういう事件が起きる。
事件に至らなくても、同じような話は、「自閉症の子供」がいるところにはいくらでも転がっているはずだ。
そして、今、「自閉症」という科学、医学、そのものが、ケモノの生け贄になっている。
私には、言葉がある。知能がある。彼らの代わりに私は戦う。 簡単に生け贄にはならない。
2009年6月22日 テレビ朝日の「ドキュメンタリ宣言」で福島県須賀川市の女子中学生の事件が放送された。
全く非道い話で、柔道部の部活の時に、上級生が中学一年の女子部員を好き放題の乱取りをして、
挙げ句に脳障害で植物人間にまで追い込んだ事件。
現場の教師、教頭、校長は一貫して暴行の事実を認めなかったが、約1億5000万円の損害賠償を認める事で、
原告側の全面勝訴となった。しかし、それでも尚、県側はハッキリと事実を認めようとしない。
これは、彼らなりの「教育的配慮」等の勝手な理屈があるんだろう。
一歩さがって見てみれば、思春期の男子が、幼い少女(中1)を暴行したのだ。
もし、部員の目が無ければ、強姦まで発展していたかもしれない。そんな事件だ。
何処かの教室に、女子教師を閉じ込めて、暴行しても、教育的配慮から、警察沙汰にしないのだろうか。
彼らなら、しないのかもしれない。
京都教育大学の学生達も、居酒屋で婦女暴行強姦に至った。
学長は、「教育的配慮」から、事実を公表しなかったと言う。そりゃ、暴行した側への教育的配慮はいいよ。
では、暴行された女子学生への「教育的配慮」はどうなるんだ。
須賀川市の校長、教育委員会の連中は、「暴行は無かった。私達は生徒を信じるんです。信じなきゃいけないんです」と言う。
では、「リンチがあった」「この話をするなと脅された」という生徒の話はどうか。「ヤラセじゃないですか?」
一方では、生徒を信じると綺麗事を言いながら、勇気を出して真実を語った少年の話は、絶対信じない。
教師とは、そういう物なのだろうか。 教師が集団になるとそうなるのだろうか。
まあ、私が知ってる教授連中は、馬鹿ばっかりだから、そんなモンなのかな。真実の声をあげる人は居ないな。
障害者自立支援法は、始まる前からバカげた法律で、障害者団体もこぞって反対していた法律だ。
賛成していたのは、モロ与党系の団体だけだったのに、あっという間に決まった。
あのバカげた法律を作ったのは、今捕まっている官僚がほぼ一人で仕切って作り上げたと聞いて驚いた。
と、言うことは、発達障害の味噌糞一緒教育法もきっと何処かの官僚が一人で決めたんだろう。
自閉症を他の発達障害とひとくくりにするには問題がある 。その話とは別に、
発達障害があるなら、その反対語はなんだ? 定形発達か? 違う。 英才児だ。
発達障害の教育支援を殊更に騒ぐが、人より勉強が出来る子供はその間何をしていればいいんだ?
発達障害に目を向けると言うことは、発達しすぎている子供も同等に扱うと言うことだ。
つまり、発達に遅れが在る子供は、その子供に応じて教育を受け、発達しすぎている子供は
その子供に応じて教育を受ける。 それが、教育に於ける平等の姿だ。
もし、「真剣に」発達障害の子供の事を考えているならば、教育自体に年齢の枠を取り外し、
個々の発達に応じた教育を施すというのが、正常な姿だ。 間違いない。
選挙が近づくと色々なことが表に出てくる。民主党小沢さんの資金問題はクローズアップされた割に尻すぼみ。
今度は、「白山会」の郵便不正で厚生省の役人が捕まった。これで日本郵政の社長責任を問う声も挙がったが、
私は、逆に「民営化」されたからこそ、やっと表に出てきたんだと思う。 「白山会」は「自称障害者団体」だな。
町で出会う障害者の数の少なさの割に、障害者団体の多さを考えると、「障害者商売」というのは、
やりようによって、非常に儲かる商売で、この儲け話はそういう連中の間では周知の事実だったんだろう。
「自閉症」もモノの見事に障害者商売になったようだ。 儲かったんだな。一部の人は。
厚生省の女性局長は、首謀者なのか、巻き込まれたのかそれは分からない。しかし、
東京都教育庁で主催した「今後の自閉症の理解・啓発はどうあるべきか」で紹介したメインゲストの
「村上由美」は自閉症当事者として堂々と出てきたが、「自閉症の診断」すら受けていない「自称当事者」だった。
これは、村上由美 を呼んだ東京都の役人の責任か 。それとも上手く自閉症と信じ込ませた「村上由美」 の犯罪か。
私が、自閉症の事を書くと、ブログが消される。ランキングに登録すると、ランキングが消される。
FC2というブログでは、アクセスすら今では出来ず、ブログ村の登録は門前払いだ。誰の運動によるものだろう。
2ちゃんねるですら、私は書き込めないようになっていて、日本自閉症協会のホームページは、
書いたことも無いのに、初めからアクセス禁止設定になっている。 誰が、わざわざ設定したんだ?
ブログは、毎週のように削除され、ランキングも毎週の様に外され、その数11回か12回。
おかげで、ほぞぼそと出来上がってきた、自閉症の仲間との繋がりもズタズタだ。
しかし、考えようによっては、最高の選挙運動が出来たと思う。何も私が何処かの党を支援している訳じゃない。
何処かの党を熱心に支援している人たちが、どういう人たちか、逆に心ある人には分かったんじゃないか。
「障害者のため」と声高に叫ぶ人たちが、如何に障害者を食い物にしているか。障害者の家族を食い物にしているか。
障害者とその家族はそんなに金の成る木か? なけなしの金を搾り取っているだけじゃないか。
先日、成人したアスペルガー症候群のパニックを見て、新たなことに気が付いた。
今までの話は、脳が疲労困憊したのにも気が付かず、脳が突然「てんかん状態」になり、パニックを起こすと言ってきた。
この推測は、数あるその様子を観察したところからしても、自閉症に実際接触している人間なら頷けるだろう。
しかし、もう一つの例に気が付いた。
ある事について、1時間ほど討論を交わしていた。その時、一人が突然「パニック」を起こした。
これは、常々本人が「パニック」と定義している状態で、涙が止まらなくなる。
この状態になると、30分ほど放っておくしかない。やがて、「パニック」がおさまるとケロッとした顔で笑う。
その、切り替えの早さというか、その様子のギャップから見ても「パニック」と言って良いだろう。
ところが、今回の「パニック」は原因がハッキリしている点が今までのモノと違う。
今まで言っていた「パニック」は原因が特定出来ず、突然「パニック」が始まる。だからこそ、脳の疲労と表現した。
しかし、今回の「パニック」は原因がある。何か?
定形発達であれば、突然涙が出てきたとき、自分の感情を把握し、「怒り」「悲しみ」「喜び」等の言葉に統合する。
だから、すぐに「嬉しくて泣いたの」「悲しくて泣いたの」と説明出来る。
ところが私達自閉症は「マインド・ブラインドネス 」、自分の状態、感情を上手くモニター出来ない。
いくら「マインド・ブラインドネス」(心の理論 を備えて無い人)でも「ハート」はある。だから感情はある。
感情があっても、その感情を簡単に「概念化」出来ない。
だから、自分自身何と言って良いか分からない感情が爆発し、制御できなくなる。
これが、「制御できない感情」を原因とした「パニック」である。
「原因」はある。 → 「感情が爆発する」 → 「制御できない」 → 「自然鎮火を待つしか無い」
これが、もう一つの自閉症のパニックである。
自分自身、この感情が何によるもので、何に属する感情か分からないから、他人がどんなに慰めようと、
慰めにはならず、うるさいだけである。
ここは、ただただ、自然鎮火を待つのが一番効果的だと私は思う。
「ニキリンコ」や「アスペ」の連中は、みんな「・・のせいでパニックになった」と簡単に言う。
パニックの原因がそんなに簡単に分かったんだったら、その原因に近づかなければいい。
みんな都合の良いところで、パニックを起こしたり、我慢したり出来る。
それが、「パニック」か?
パニック障害で口に紙袋を当てて、落ち着かせたり、何とか回避するのとは違う。
自閉症の「ヒステリー」は突然起きる。
何が原因かは分からない。だから、周りはビックリするんだ。
「ニキリンコ」は女性自身の記事の中で、
「いまのは悪い言葉!悪い言葉!私は悪い子!悪い子だ!悪い子だあっ!」
握りしめた左の拳が、容赦なく頬を叩く。唇が切れた。真っ赤な血が歯の間ににじむ。
絶叫と殴打は、3分間ほど続いた・・・。
ここで「ニキリンコ」はパニックを起こした原因「悪い言葉」を説明し、カナー型の子供が
起こす「パニック」の様相を呈する。
ほとんどの人が勘違いしているのが、この様な「パニック」の様子は、「知的な遅れ」が
引き起こすモノで、「自閉症」の部分で起きているのでは無い。
だから、表面だけを見ていると、知恵遅れで自閉症の子供と、ただ知恵遅れの子供と
本当に見分けが付かなくなってしまうのだ。
とにかく、自閉症の子供や、患者が「ヒステリー」を起こす原因(きっかけ)は、些細な事が多く、
しかし、突然起きる。
私が、この突然起きる「ヒステリー」を観察していると、やはり「脳味噌の疲労」がある限界を超えると
発生するように見える。
ただ、この「限界」はその時のコンディションや、環境などで、変化するが、
何れにしても、くたびれてきて(この時自分自身では分かっていない)それが、
何かきっかけを見つけると、それをきっかけに突然「ヒステリー」になる。
慌てた両親や、周りの人間はそのきっかけが「原因」だと思い込むが、
次の時はすでに、そのきっかけは、原因では無くなっていて、注意したほうが、肩すかしをくらう。
「ヒステリー」を起こしたとき、或いは、起こすとき、「原因」ばかり探さずに、
疲れた彼らをとにかく休ませてあげて欲しい。