サンデーとマガジン CC2009年07月10日(金)
大野茂著
NHKのドキュメンタリーとの連動とのことですが、その番組は未見。僕としてはそれより先日読んだ「ビッグコミック創刊物語」の兄弟本という感じで面白かったです。週刊少年サンデーとマガジンが同時に創刊されてからの競争物語ですが、その後編途中に見事に前述「ビッグコミック創刊物語」がハマる。(しかもこちらはあくまで少年誌の物語だから記述の重複も最小限) まあ所々思い込みの記述があるような気がしますが、まあ全体としては面白いし、いくつか「えっ」と驚く部分もありました。
まず最初に踏まえておくのが、現況からすれば驚きなのですが、小学館という出版社が、「小学一年生」から「六年生」までの雑誌を中心とした教育出版社(?)であり、戦前から普通の(少年倶楽部」のような)少年雑誌がなかったということ。それに対して、講談社は勿論前述「少年倶楽部」ですね。ちなみに同族会社としては講談社には光文社の「少年」、小学館には集英社の「おもしろブック(=>少年ブック)」がある。ただ、よくよく考えてみれば、小学館って、学年誌や今回のサンデーに始まる漫画雑誌、成人向けも含めた週刊誌以外、例えば文庫や新書が創刊されたのは最近で、結構総合出版社というイメージではなかったような。
ということで、学年誌は幼稚園から六年まで繰り上がっていくが(だから主力は幼稚園や小学一年生に勢力をつぎ込めば六年まではまあ安泰、その代わりそこで取り込めなかったら、六年間そのまま延びないということになったらしい。そのあたり、昔勤めていた出版社でも同様で、だから幼児雑誌は赤字覚悟で質の良いものを作っていた)、しかし六年が終わると他の雑誌に取られてしまった。(例えば旺文社の「時代」や、いつ出来たか知らないけど、学研の「コース」) しかも当然ながら当時は週刊の少年誌など皆無で成人向けで初めて「週刊新潮」が創刊されて数年というところだった。これまでの雑誌は(学年誌も含めて)月刊誌中心だったのだ。
「サンデー」という誌名は、勿論「日曜日のような気分になれる雑誌」、週日は学年誌、週末は「サンデー」というキャッチだったが、「サンデー毎日」という週刊誌が先行して存在した。しかし当時毎日新聞の大口広告主だった小学館に毎日新聞社側はこの類自名の使用を許可した。
企画は、やはり小学館が先だった。その動きに気がついて追い上げたのが講談社。講談社は大人向けの「週刊現代」と「マガジン」、ふたつを同時に企画する(どちらも後追いですが) ただし、「マガジン」の方は後追いでも創刊前だったので、両雑誌とも相手より早い創刊、安い値段を競争する。ただし、当然サンデーの方が準備期間は長いし、また講談社と違って小学館の方は、同時でもかまわないという余裕があった。その余裕が結果として、同日発売になったわけだ。(値段は付録1のサンデーに対して付録3のマガジンが10円高かったが、後に同じになる。理由後述)
勿論、準備時間が短いマガジンの方が中身は薄い。何しろ「サンデー」は手塚を中心としたときわ荘組を押さえてしまった。(具体的には手塚、寺田、藤子) そこでマガジン側は、総合力でも負けても原作と作画の共同作業を考えつき、梶原一騎の力(チャンピオン太)を借りて格好をつけた訳だが、それだけでは負けは見えているので、月刊誌と同じ付録をつけることにした。初期マガジンに付録がついていたのは知らなかった。ただ、付録をつけると輸送に貨物車しか使わせないという国鉄のお達しで、マガジンの付録はわずか数号で挫折する。そこでマガジンが次に打った企画はおもちゃのコルト拳銃を通信販売すること。更に発展させて切手収集の企画。なるほど。僕は「少年画報」だったがピストルを当てたことがあることを思い出したし、僕は興味が無かったが、子供の間で切手が流行ったのはここからだったのか、と納得。特に切手の方は本当にこれがルーツか確認していないが、この切手の企画の始まりはコルトの通信販売方法が代金を切手を送ることだったのだが、予想以上の評判に、出版社ではとても使い切れないほどの切手が送られてきてしまい、その様々な切手を利用することにより考えついたという。
ところで、この週刊誌創刊時期、世間では漫画の悪書運動のまっただ中、援護論者は阿部進等少数だった。しかし、現在から50年前の当時から更に50年前の明治時代の朝日新聞には、「夏目漱石など読んでいては漢文が読めなくなる。子供の危機だ」という記事が載っているという。つまり、現在の文豪の作品も当時は悪書だったのだ。
その他、サンデーの創刊号表紙は長嶋茂雄(人気最高のルーキー)、一方マガジンは朝汐太郎で、現在の感覚ではピンとこないが、それでも長嶋は現在でも通用するが、朝汐の方は、どうして若乃花や栃錦ではなかったのか、とライバルのサンデー側が首を傾げる、一つ格下のモデルだった。ちなみに、表紙ではニコニコしていても、一般的に当時のスポーツ選手は子供雑誌と分かると馬鹿にしていたが、当時唯一、馬鹿にしないで積極的に(サンデー、マガジンの区別なく)対応してくれたのが、長嶋と王だったと言う。(この子供達が将来の財産と助言したのは川上とのこと)
マガジンが編集部主導で、前述通り、原作と作画を分業にしたし、例えば名作「ちかいの魔球」は当時野球など知らなかった少女マンガ家だったちばてつやに原作者福本和也をつけ、編集者が手取り足取り、キャッチボールの相手からちばてつやに野球を教えたという。(ちばてつやを起用したのは、マガジンの初代編集長牧野が、元月刊少女誌「なかよし」で、少女マンガ家にコネを持っていたから) ちばてつやは後に、「野球を知っていたら、消える魔球なんて書けなかった、何も知らないから書けた」と言っている。
一方、サンデーの方は創刊時からの伝統として、原則漫画家に自由に題材を選ばせた。だから、横山光輝を起用して「鉄人28号」のようなロボット漫画を書いてもらいたくとも、横山がそれでは「鉄人以上のものは書けない、それより鉄人で培った人間ドラマを忍者の世界で活かしたい」と「伊賀の影丸」が誕生する。ただし、そんな編集長が一つだけ、なんと手塚治虫の企画にマッタをかけた。実は手塚は創刊号から「もしも君」という医療漫画を提案したという。さすがにそれでは難しそうで受けないだろうとNGを出し、結局「スリル博士」になったのだが、しかし「もしも君」は主人公が悪徳医師ではなかったものの、明らかに「ブラックジャック」のルーツとなる作品だったという。
「おばけのQ太郎」はQ太郎というダサい名前を編集部は反対したが、藤子不二雄に押し切られた。また、最初の連載時は人気が出ず、すぐに打ち切りとなるが、まさにオバケのように消えてから人気が出て、再開が決まった。(もともと、冬にオバケが出るというところから始まった企画と言う)
「おばQ」の連載終了(TVアニメの終了と連動)はスポンサー不二家の意志で、あの終了は失敗だったと振り返る。しかしその失敗が、「ドラえもん」の成功につながる。(ちなみに「おばQ」の後、「パーマン」「怪物くん」「ウメ星殿下」と続くが、「怪物くん」だけは少年画報社系だったな。藤子Aの方だし。僕個人としてはどれも面白かったけど、人気は下がっていったらしい)
「おそ松くん」は確かに面白いアイデアだったが、同じ顔の六人では長いこと持つまいと思っていたが、一年後あたりから次々とサブキャラが生まれて大人気長期連載となる。チビ太は悪書運動の標的の一つとなるがサンデーは徹底的に援護し、チビ太が一見悪童に見えても自分より弱い動物には優しいことを訴える。赤塚不二夫はそうしたサンデーの対応に、自分のホームグラウンドはサンデーであるという想いを強くしたという。
マガジンが「天才バカボン」を依頼したときもサンデーは邪魔をしなかった。だから赤塚は月一度になってもサンデーでの「おそ松くん」の連載を続けた。そして後の「バカボン」サンデー移籍が起こる。このサンデー移籍も、提案はサンデー側ではなく、赤塚自身の申し出だった。(当時、ついに「サンデー」は「マガジン」に部数で追い抜かれていた)
創刊からサンデーはマガジンを圧倒的にリードし続けたが、「サンデー」側経営者(編集部ではない)は、サンデーの100万部を喜ばなかった。当時(赤字でないとはいえ、サンデーの終始はトントンであり、その基本は広告収入であった。つまり、部数が増えても広告収入が増える訳ではないという論理。そちらから見れば、50万部で得た広告収入が100万部売っては半値になってしまうということ)、その姿勢が「マガジン」の100万部祈願(富士山詣でをした)に負けたのかもしれない。
マガジンとサンデーは囲い込まない度量がある。後続のジャンプやチャンピオンにはそれが無い。もっとも、最近はサンデーでも問題は起きているようだが、ということで、往年の、という但し書きを付けよう。(もっともサンデーは最初の一手として手塚治虫囲い込みを計るのだが、これは手塚自身に拒否される。ただし、とりあえず週刊誌には書かない、月刊誌は続けるということで承諾)
手塚の「W3」移籍をサンデーが諸手を上げて賛成した訳ではなく、手塚に押し切られて、途中からでなく、やり直すという形で承諾。W3事件自体は現在では有名だが、サンデー側の受け入れが消極的だったことは初めて知った。本書は、元々手塚がアニメの価格設定を破格に安くした為に請負側は掛け持ちしなければ喰えず、それによって漏洩が起こったと手塚の責任を匂わせているが、このアニメの価格設定の伝説は、現在では否定されようとしていることを本書は考慮していない。(宮崎駿等の糾弾は責任転嫁である)
初めて知ったと言えば、寺田ヒロオは、漫画界の良心として、これまで一つも悪い噂は聞かなかったが(漫画界に失望して引き蘢った晩年の逸話はあるが)、その寺田ヒロオが、かつてのトキワ荘での弟分赤塚不二夫の「おそ松くん」に拒否反応を示し、編集者に何度も「おそ松くん」の打ち切りを迫っていたことは初めて知った。それも一度だけでなく、酒の席の度に愚痴ったという。「おそ松くんは駄菓子だ。子供に駄菓子を与えては虫歯になる。僕たちは子供を守り育てる責任がある」というのが寺田の言い分であり、寺田の立場としては正論だったのだろう。「スポーツマン金太郎」で人気を博した寺田だが、当時はもう「ちかいの魔球」の登場により古い漫画となっていた。そのアドヴァイスを受けた寺田は「暗闇五段」を生み出す。
日本初の特撮ドラマ「ウルトラQ」は製作されたものの、その気持ち悪さにスポンサーがつかず、一年以上もお蔵入りしていた。それに対して大伴昌司がマガジンに掛け合い、試写を店、その出来に感激したマガジンの内田は放送前に表紙、口絵等で特集を組ませた。怪獣を表紙に使うことは営業サイドから強いクレームがついたが押し通し発売、この大評判は創刊以来初の売上率100%を達成し、このマガジンから発信した人気により、「ウルトラQ」の放送が決定した。(そしてこの「ウルトラQ」の人気がアニメの「W3」を潰した、という遠回しなマガジンの復讐)
ちなみに、この一連のシリーズで大伴の怪獣分析が評判を呼び、怪獣画報や怪獣図鑑を生む。(怪獣図鑑は当時の浩宮様も愛読書だった、と)
ジョージ秋山「銭ゲバ」(サンデー)、「アシュラ」(マガジン)について。「アシュラ」におけるマガジン発禁の危機に、社長の野間は連載を断行した。ここらの記述は面白いが、どうせなら、実際に発禁を受けた「オモライくん」(だったと思う)のエピソードも入れて欲しかった。ここに再録された阿部進の言は見事。
ちなみに僕がジョージ秋山に注目したのは「パットマンX」(おお、当時アダム・ウエスト版「バットマン」は好きだったけど、それをこれほど感動的にパロってくれるとは)、そして「デロリンマン」だった。(「ほらふきドンドン」も良かったけど。サンデーでは「ザ・ムーン」がありましたね)
長くなったので後は追記にて。
NHKのドキュメンタリーとの連動とのことですが、その番組は未見。僕としてはそれより先日読んだ「ビッグコミック創刊物語」の兄弟本という感じで面白かったです。週刊少年サンデーとマガジンが同時に創刊されてからの競争物語ですが、その後編途中に見事に前述「ビッグコミック創刊物語」がハマる。(しかもこちらはあくまで少年誌の物語だから記述の重複も最小限) まあ所々思い込みの記述があるような気がしますが、まあ全体としては面白いし、いくつか「えっ」と驚く部分もありました。
まず最初に踏まえておくのが、現況からすれば驚きなのですが、小学館という出版社が、「小学一年生」から「六年生」までの雑誌を中心とした教育出版社(?)であり、戦前から普通の(少年倶楽部」のような)少年雑誌がなかったということ。それに対して、講談社は勿論前述「少年倶楽部」ですね。ちなみに同族会社としては講談社には光文社の「少年」、小学館には集英社の「おもしろブック(=>少年ブック)」がある。ただ、よくよく考えてみれば、小学館って、学年誌や今回のサンデーに始まる漫画雑誌、成人向けも含めた週刊誌以外、例えば文庫や新書が創刊されたのは最近で、結構総合出版社というイメージではなかったような。
ということで、学年誌は幼稚園から六年まで繰り上がっていくが(だから主力は幼稚園や小学一年生に勢力をつぎ込めば六年まではまあ安泰、その代わりそこで取り込めなかったら、六年間そのまま延びないということになったらしい。そのあたり、昔勤めていた出版社でも同様で、だから幼児雑誌は赤字覚悟で質の良いものを作っていた)、しかし六年が終わると他の雑誌に取られてしまった。(例えば旺文社の「時代」や、いつ出来たか知らないけど、学研の「コース」) しかも当然ながら当時は週刊の少年誌など皆無で成人向けで初めて「週刊新潮」が創刊されて数年というところだった。これまでの雑誌は(学年誌も含めて)月刊誌中心だったのだ。
「サンデー」という誌名は、勿論「日曜日のような気分になれる雑誌」、週日は学年誌、週末は「サンデー」というキャッチだったが、「サンデー毎日」という週刊誌が先行して存在した。しかし当時毎日新聞の大口広告主だった小学館に毎日新聞社側はこの類自名の使用を許可した。
企画は、やはり小学館が先だった。その動きに気がついて追い上げたのが講談社。講談社は大人向けの「週刊現代」と「マガジン」、ふたつを同時に企画する(どちらも後追いですが) ただし、「マガジン」の方は後追いでも創刊前だったので、両雑誌とも相手より早い創刊、安い値段を競争する。ただし、当然サンデーの方が準備期間は長いし、また講談社と違って小学館の方は、同時でもかまわないという余裕があった。その余裕が結果として、同日発売になったわけだ。(値段は付録1のサンデーに対して付録3のマガジンが10円高かったが、後に同じになる。理由後述)
勿論、準備時間が短いマガジンの方が中身は薄い。何しろ「サンデー」は手塚を中心としたときわ荘組を押さえてしまった。(具体的には手塚、寺田、藤子) そこでマガジン側は、総合力でも負けても原作と作画の共同作業を考えつき、梶原一騎の力(チャンピオン太)を借りて格好をつけた訳だが、それだけでは負けは見えているので、月刊誌と同じ付録をつけることにした。初期マガジンに付録がついていたのは知らなかった。ただ、付録をつけると輸送に貨物車しか使わせないという国鉄のお達しで、マガジンの付録はわずか数号で挫折する。そこでマガジンが次に打った企画はおもちゃのコルト拳銃を通信販売すること。更に発展させて切手収集の企画。なるほど。僕は「少年画報」だったがピストルを当てたことがあることを思い出したし、僕は興味が無かったが、子供の間で切手が流行ったのはここからだったのか、と納得。特に切手の方は本当にこれがルーツか確認していないが、この切手の企画の始まりはコルトの通信販売方法が代金を切手を送ることだったのだが、予想以上の評判に、出版社ではとても使い切れないほどの切手が送られてきてしまい、その様々な切手を利用することにより考えついたという。
ところで、この週刊誌創刊時期、世間では漫画の悪書運動のまっただ中、援護論者は阿部進等少数だった。しかし、現在から50年前の当時から更に50年前の明治時代の朝日新聞には、「夏目漱石など読んでいては漢文が読めなくなる。子供の危機だ」という記事が載っているという。つまり、現在の文豪の作品も当時は悪書だったのだ。
その他、サンデーの創刊号表紙は長嶋茂雄(人気最高のルーキー)、一方マガジンは朝汐太郎で、現在の感覚ではピンとこないが、それでも長嶋は現在でも通用するが、朝汐の方は、どうして若乃花や栃錦ではなかったのか、とライバルのサンデー側が首を傾げる、一つ格下のモデルだった。ちなみに、表紙ではニコニコしていても、一般的に当時のスポーツ選手は子供雑誌と分かると馬鹿にしていたが、当時唯一、馬鹿にしないで積極的に(サンデー、マガジンの区別なく)対応してくれたのが、長嶋と王だったと言う。(この子供達が将来の財産と助言したのは川上とのこと)
マガジンが編集部主導で、前述通り、原作と作画を分業にしたし、例えば名作「ちかいの魔球」は当時野球など知らなかった少女マンガ家だったちばてつやに原作者福本和也をつけ、編集者が手取り足取り、キャッチボールの相手からちばてつやに野球を教えたという。(ちばてつやを起用したのは、マガジンの初代編集長牧野が、元月刊少女誌「なかよし」で、少女マンガ家にコネを持っていたから) ちばてつやは後に、「野球を知っていたら、消える魔球なんて書けなかった、何も知らないから書けた」と言っている。
一方、サンデーの方は創刊時からの伝統として、原則漫画家に自由に題材を選ばせた。だから、横山光輝を起用して「鉄人28号」のようなロボット漫画を書いてもらいたくとも、横山がそれでは「鉄人以上のものは書けない、それより鉄人で培った人間ドラマを忍者の世界で活かしたい」と「伊賀の影丸」が誕生する。ただし、そんな編集長が一つだけ、なんと手塚治虫の企画にマッタをかけた。実は手塚は創刊号から「もしも君」という医療漫画を提案したという。さすがにそれでは難しそうで受けないだろうとNGを出し、結局「スリル博士」になったのだが、しかし「もしも君」は主人公が悪徳医師ではなかったものの、明らかに「ブラックジャック」のルーツとなる作品だったという。
「おばけのQ太郎」はQ太郎というダサい名前を編集部は反対したが、藤子不二雄に押し切られた。また、最初の連載時は人気が出ず、すぐに打ち切りとなるが、まさにオバケのように消えてから人気が出て、再開が決まった。(もともと、冬にオバケが出るというところから始まった企画と言う)
「おばQ」の連載終了(TVアニメの終了と連動)はスポンサー不二家の意志で、あの終了は失敗だったと振り返る。しかしその失敗が、「ドラえもん」の成功につながる。(ちなみに「おばQ」の後、「パーマン」「怪物くん」「ウメ星殿下」と続くが、「怪物くん」だけは少年画報社系だったな。藤子Aの方だし。僕個人としてはどれも面白かったけど、人気は下がっていったらしい)
「おそ松くん」は確かに面白いアイデアだったが、同じ顔の六人では長いこと持つまいと思っていたが、一年後あたりから次々とサブキャラが生まれて大人気長期連載となる。チビ太は悪書運動の標的の一つとなるがサンデーは徹底的に援護し、チビ太が一見悪童に見えても自分より弱い動物には優しいことを訴える。赤塚不二夫はそうしたサンデーの対応に、自分のホームグラウンドはサンデーであるという想いを強くしたという。
マガジンが「天才バカボン」を依頼したときもサンデーは邪魔をしなかった。だから赤塚は月一度になってもサンデーでの「おそ松くん」の連載を続けた。そして後の「バカボン」サンデー移籍が起こる。このサンデー移籍も、提案はサンデー側ではなく、赤塚自身の申し出だった。(当時、ついに「サンデー」は「マガジン」に部数で追い抜かれていた)
創刊からサンデーはマガジンを圧倒的にリードし続けたが、「サンデー」側経営者(編集部ではない)は、サンデーの100万部を喜ばなかった。当時(赤字でないとはいえ、サンデーの終始はトントンであり、その基本は広告収入であった。つまり、部数が増えても広告収入が増える訳ではないという論理。そちらから見れば、50万部で得た広告収入が100万部売っては半値になってしまうということ)、その姿勢が「マガジン」の100万部祈願(富士山詣でをした)に負けたのかもしれない。
マガジンとサンデーは囲い込まない度量がある。後続のジャンプやチャンピオンにはそれが無い。もっとも、最近はサンデーでも問題は起きているようだが、ということで、往年の、という但し書きを付けよう。(もっともサンデーは最初の一手として手塚治虫囲い込みを計るのだが、これは手塚自身に拒否される。ただし、とりあえず週刊誌には書かない、月刊誌は続けるということで承諾)
手塚の「W3」移籍をサンデーが諸手を上げて賛成した訳ではなく、手塚に押し切られて、途中からでなく、やり直すという形で承諾。W3事件自体は現在では有名だが、サンデー側の受け入れが消極的だったことは初めて知った。本書は、元々手塚がアニメの価格設定を破格に安くした為に請負側は掛け持ちしなければ喰えず、それによって漏洩が起こったと手塚の責任を匂わせているが、このアニメの価格設定の伝説は、現在では否定されようとしていることを本書は考慮していない。(宮崎駿等の糾弾は責任転嫁である)
初めて知ったと言えば、寺田ヒロオは、漫画界の良心として、これまで一つも悪い噂は聞かなかったが(漫画界に失望して引き蘢った晩年の逸話はあるが)、その寺田ヒロオが、かつてのトキワ荘での弟分赤塚不二夫の「おそ松くん」に拒否反応を示し、編集者に何度も「おそ松くん」の打ち切りを迫っていたことは初めて知った。それも一度だけでなく、酒の席の度に愚痴ったという。「おそ松くんは駄菓子だ。子供に駄菓子を与えては虫歯になる。僕たちは子供を守り育てる責任がある」というのが寺田の言い分であり、寺田の立場としては正論だったのだろう。「スポーツマン金太郎」で人気を博した寺田だが、当時はもう「ちかいの魔球」の登場により古い漫画となっていた。そのアドヴァイスを受けた寺田は「暗闇五段」を生み出す。
日本初の特撮ドラマ「ウルトラQ」は製作されたものの、その気持ち悪さにスポンサーがつかず、一年以上もお蔵入りしていた。それに対して大伴昌司がマガジンに掛け合い、試写を店、その出来に感激したマガジンの内田は放送前に表紙、口絵等で特集を組ませた。怪獣を表紙に使うことは営業サイドから強いクレームがついたが押し通し発売、この大評判は創刊以来初の売上率100%を達成し、このマガジンから発信した人気により、「ウルトラQ」の放送が決定した。(そしてこの「ウルトラQ」の人気がアニメの「W3」を潰した、という遠回しなマガジンの復讐)
ちなみに、この一連のシリーズで大伴の怪獣分析が評判を呼び、怪獣画報や怪獣図鑑を生む。(怪獣図鑑は当時の浩宮様も愛読書だった、と)
ジョージ秋山「銭ゲバ」(サンデー)、「アシュラ」(マガジン)について。「アシュラ」におけるマガジン発禁の危機に、社長の野間は連載を断行した。ここらの記述は面白いが、どうせなら、実際に発禁を受けた「オモライくん」(だったと思う)のエピソードも入れて欲しかった。ここに再録された阿部進の言は見事。
ちなみに僕がジョージ秋山に注目したのは「パットマンX」(おお、当時アダム・ウエスト版「バットマン」は好きだったけど、それをこれほど感動的にパロってくれるとは)、そして「デロリンマン」だった。(「ほらふきドンドン」も良かったけど。サンデーでは「ザ・ムーン」がありましたね)
長くなったので後は追記にて。
「巨人の星」連載にあたり、ネックとなったのが、当時「巨人軍」の使用権を集英社が持っていたこと。それをマガジン側は巨人軍広報と交渉し、巨人軍広報が強引に集英社から使用許可を受けて連載が決まった、とのこと。(そういえばジャンプの「侍ジャイアンツ」の頃、似たような噂を聞いたような。巨人軍の漫画が読めるのはジャンプだけ、というようなキャッチ。多分、その頃になるとジャンプが日の出の勢いだったのだろうな)
川崎のぼるもちばてつやと同様、野球を知らなかった。それを強引に作画させたのだが(ちばてつやと同様、キャッチボールから始めるという過程が繰り返される)、あの有名な「ガーン」というフレーズ、目の中の炎は川崎のアイデア、梶原一騎はそれをとても気に入り、自分の文章にも使うようになった。
ついでに、アニメの「巨人の星」は本元日本テレビは本物の巨人軍放送があるからそんなものはいらない、と拒否、敵地の大阪読売テレビが放送を決めた。四国のオロナミンもこの時からの巨人軍との付き合い。
サンデーの初代編集長豊田亀市を除いて、マガジン初代編集長牧野も、二代目編集長内田も、サンデー二代目編集長小西も、マンガ志向でなく、文学志向だった。牧野はそれまで嫌々「なかよし」編集長をしていたのだから、今度は「マガジン」でなく「現代」を担当させてくれと訴えたが却下された。だから彼らは、「漫画雑誌」をある種「文芸誌」として扱おうとした。ここら詳細は確か「ビッグコミック創刊物語」で書いたと思う。
内田はマガジン二代目編集長だが、異例の大抜擢、30才での編集長就任だった。サンデーの小西編集長とは個人的には仲が良く、よく二人で酒を飲んだという。(二人とも校了日が同じだからね) ここには詳しく書かれていないが、マガジンが採用した楳図かずおは、サンデー側は編集方針が合わないとして使わない。しかし小西が楳図を買っており、「ビッグコミック」で起用する話も「ビッグコミック創刊物語」に有り。そういえば「サンデー」で楳図は「おろち」あたりからかな? たしかに「マガジン」の「半魚人」あたりよりずっと後だ。「キング」の「猫目小僧」の方がずっと早い。元々楳図も「フレンド」の怪奇漫画からだから、ちばてつやと同じ少女漫画経路ですね。(当時、楳図だけは少女漫画でも親戚のお姉さんから借りて機会さえ有れば読んでいた。楳図と「マーガレットちゃん」(よこたとくお)だけ)
「右手にジャーナル、左手にマガジン」、という言葉は有名だが、最初に「京大生が読んでいる」と噂されたのは実は「サンデー」だった。当時、サンデー編集者でさえ、「サンデー毎日?」と聞き返したそうだが、「少年サンデー」だったのだ。後年、大伴昌司は「28歳まで読んでいるマガジン」はもはや「少年誌」とは言えないと、「ライフ」「タイム」を越えることを目指したが・・・・
「少年」という冠が必要か論。「サンデー」は実にストイックに「少年」というジャンルを守って、やがて「ビッグコミック」という青年誌を発射出来た。一方、「マガジン」はそこで青年誌に乗り損ね、少年誌」「ぼくらマガジン」(元は月刊誌「ぼくら」)「少年マガジン」を中途半端な共存状態において、「ぼくらマガジン」を殺し、「少年マガジン」の「少年」が邪魔な存在になってしまった。ここにおいて明確に講談社は小学館に週刊誌創刊時と同じく敗北を喫している。(後追いもしないだけ今回は重傷。「ビッグコミック創刊物語」で触れたが、講談社は「マガジン」=>青年誌でなく、「現代」=>「青年誌」というミスリードもしてしまった) ここらは勿論、内田等編集側は分かっていた。つまり、「サンデー」は聖人になれば「ビッグコミック」に移行出来たが、「マガジン」は自らが「ビッグコミック」も兼務せざるを得ず(それを目指してもしまった時点で「少年」の冠が邪魔になったが)、しかしルーツたる「少年」に戻らざるを得なかったのだ。(そうすると成年側が空いてしまう)
今考えれば、万博は、一夜の夢の楼閣たる(70年代に一瞬だけ出現してしまった)「ディズニーランド」だったのでは。
「あしたのジョー」における力石の告別式に丹下段平の声優小池朝雄という記述があるが、周知のごとく段平の声は藤岡重慶である。これは記述ミス? 或は事実で、告別式後に声優が代わった? ちなみに小池朝雄は「あしたのジョー」のエンディング・テーマを唄っている。
ちなみに、「よど号ハイジャック犯」が「われわれは明日のジョー」である、と声明したのは事実だが、本書の「矢吹ジョーのように燃え尽きるまで戦う」という解釈は先走っている。この時点で、本書によれば、アニメの「あしたのジョー」は事件中に第一回放送をしているというのだ。つまり「あしたのジョー」完結にはほど遠い。ちばてつやが(梶原一騎ではない)「白い灰になって燃え尽きるまで」という言葉をキーにするのは、完結前紀子との会話においてなのだ。
当時の矢吹ジョーは全く反対の状態、ライバル力石の死により、不完全燃焼そのものでのたうち回っていた状態ではなかったか? (当時の風潮として、力石の死をもってひとつのピリオドという受け取り方はあったのだろうが)
川崎のぼるもちばてつやと同様、野球を知らなかった。それを強引に作画させたのだが(ちばてつやと同様、キャッチボールから始めるという過程が繰り返される)、あの有名な「ガーン」というフレーズ、目の中の炎は川崎のアイデア、梶原一騎はそれをとても気に入り、自分の文章にも使うようになった。
ついでに、アニメの「巨人の星」は本元日本テレビは本物の巨人軍放送があるからそんなものはいらない、と拒否、敵地の大阪読売テレビが放送を決めた。四国のオロナミンもこの時からの巨人軍との付き合い。
サンデーの初代編集長豊田亀市を除いて、マガジン初代編集長牧野も、二代目編集長内田も、サンデー二代目編集長小西も、マンガ志向でなく、文学志向だった。牧野はそれまで嫌々「なかよし」編集長をしていたのだから、今度は「マガジン」でなく「現代」を担当させてくれと訴えたが却下された。だから彼らは、「漫画雑誌」をある種「文芸誌」として扱おうとした。ここら詳細は確か「ビッグコミック創刊物語」で書いたと思う。
内田はマガジン二代目編集長だが、異例の大抜擢、30才での編集長就任だった。サンデーの小西編集長とは個人的には仲が良く、よく二人で酒を飲んだという。(二人とも校了日が同じだからね) ここには詳しく書かれていないが、マガジンが採用した楳図かずおは、サンデー側は編集方針が合わないとして使わない。しかし小西が楳図を買っており、「ビッグコミック」で起用する話も「ビッグコミック創刊物語」に有り。そういえば「サンデー」で楳図は「おろち」あたりからかな? たしかに「マガジン」の「半魚人」あたりよりずっと後だ。「キング」の「猫目小僧」の方がずっと早い。元々楳図も「フレンド」の怪奇漫画からだから、ちばてつやと同じ少女漫画経路ですね。(当時、楳図だけは少女漫画でも親戚のお姉さんから借りて機会さえ有れば読んでいた。楳図と「マーガレットちゃん」(よこたとくお)だけ)
「右手にジャーナル、左手にマガジン」、という言葉は有名だが、最初に「京大生が読んでいる」と噂されたのは実は「サンデー」だった。当時、サンデー編集者でさえ、「サンデー毎日?」と聞き返したそうだが、「少年サンデー」だったのだ。後年、大伴昌司は「28歳まで読んでいるマガジン」はもはや「少年誌」とは言えないと、「ライフ」「タイム」を越えることを目指したが・・・・
「少年」という冠が必要か論。「サンデー」は実にストイックに「少年」というジャンルを守って、やがて「ビッグコミック」という青年誌を発射出来た。一方、「マガジン」はそこで青年誌に乗り損ね、少年誌」「ぼくらマガジン」(元は月刊誌「ぼくら」)「少年マガジン」を中途半端な共存状態において、「ぼくらマガジン」を殺し、「少年マガジン」の「少年」が邪魔な存在になってしまった。ここにおいて明確に講談社は小学館に週刊誌創刊時と同じく敗北を喫している。(後追いもしないだけ今回は重傷。「ビッグコミック創刊物語」で触れたが、講談社は「マガジン」=>青年誌でなく、「現代」=>「青年誌」というミスリードもしてしまった) ここらは勿論、内田等編集側は分かっていた。つまり、「サンデー」は聖人になれば「ビッグコミック」に移行出来たが、「マガジン」は自らが「ビッグコミック」も兼務せざるを得ず(それを目指してもしまった時点で「少年」の冠が邪魔になったが)、しかしルーツたる「少年」に戻らざるを得なかったのだ。(そうすると成年側が空いてしまう)
今考えれば、万博は、一夜の夢の楼閣たる(70年代に一瞬だけ出現してしまった)「ディズニーランド」だったのでは。
「あしたのジョー」における力石の告別式に丹下段平の声優小池朝雄という記述があるが、周知のごとく段平の声は藤岡重慶である。これは記述ミス? 或は事実で、告別式後に声優が代わった? ちなみに小池朝雄は「あしたのジョー」のエンディング・テーマを唄っている。
ちなみに、「よど号ハイジャック犯」が「われわれは明日のジョー」である、と声明したのは事実だが、本書の「矢吹ジョーのように燃え尽きるまで戦う」という解釈は先走っている。この時点で、本書によれば、アニメの「あしたのジョー」は事件中に第一回放送をしているというのだ。つまり「あしたのジョー」完結にはほど遠い。ちばてつやが(梶原一騎ではない)「白い灰になって燃え尽きるまで」という言葉をキーにするのは、完結前紀子との会話においてなのだ。
当時の矢吹ジョーは全く反対の状態、ライバル力石の死により、不完全燃焼そのものでのたうち回っていた状態ではなかったか? (当時の風潮として、力石の死をもってひとつのピリオドという受け取り方はあったのだろうが)