経歴
ジーコが初めてたどたどしく口遊んだ言葉の一つが「Di-da(ヂ…ダ)」だったと、ジーコの両親は口癖のように話していました。アラゴアス州出身の名選手の才能はキンチーノ地区の子供アルトゥール及び1950~1960年代の数多くのファンの心を魅了したのです。この偶像崇拝は決して偶然の賜物ではありませんでした。ヂーダ選手(エヂヴァオド・アオヴェス・デ・サンタ・ホーザ)は、フラメンゴ史上最も偉大なる選手の一人であり、244得点を記録した彼は、ジーコに次いでクラブ第二位のストライカーなのです。
ヂーダのサッカー史は、セントロ・エスポルチーヴォ・アラゴアーノ(CSA)に誘われた1951年にスタートしました。でも、彼は既に地元クラブ・アメリカで活躍していました。凄まじいボールコントロールと、巧みなドリブル、そしてずば抜けたジャンプ力と、両足での正確なシュートによるゴールでその存在をアピールしていました。更に、翌年にはCSAをタイトルへと導いたのです。
そして1954年、20歳のときに将来の名選手の人生にフラメンゴが大きく関与したのです。ヂーダは、アラゴアス州選抜がパライーバ州選抜を4対3で下した試合で、ハットトリックを達成して、フラメンゴ首脳陣の関心を引いたのです。
移籍当時のヂーダは未だ若く、ドクター・フービスことフーベンス、ジョエーオやベニーテス選手などの大御所が犇めく軍団の中で厳しい現実に直面していました。しかしアラゴアス州出身の彼は、徐々に「魔法使い」の異名で知られていたフレイタス・ソリッチ監督の信頼を得ていく事になりした。1953年には、フラメンゴは優勝しておりディフェンディング・チャンピオンだったことも付け加えておくべきでしょう。そして、決戦と成ったヴァスコ・ダ・ガマ戦で、エヴァリストとベニーテス選手が怪我で欠場を余儀なくされ、ヂーダはババー選手と組んでデビュー戦を飾りました。フラメンゴが2―1で勝利を収めました。この試合がこれからの躍進への第一歩となりました!
1954年にフラメンゴは2連覇を果たしたのですが、自己の初タイトルの年にはヂーダは依然としてサブのメンバーとして参加しながら、サテライトのチームでプレーをし得点王に輝いたのです。彼が実際にレギュラーの座を確立したのはフラメンゴが3連覇を成し遂げた1955年であり、リオ・デ・ジャネイロ州選手権でアメリカを4対1で圧勝した決勝戦で3得点を挙げて、彼はフラメンゴの不動の背番号10という存在になりました。
そして1956年は、リオ・デ・ジャネイロ州選手権のバングー戦では、太腿の肉離れを起こして数ヶ月間グランドを遠ざかるというアクシデントに見舞われ、ヂーダにとっては試練の年となりました。ヂーダは全てを放棄してアラゴアス州の首都であるマセオ市へと戻り、治療に専念しながら早期現役引退を熟考したのです。
回復後、ヂーダはフラメンゴへと復帰しましたが、度重なる怪我が彼を思うようにはプレーさせませんでした。そして、1958年にはスウェーデンで、ブラジル代表の一員としてワールドカップ優勝を果たし…、怪我を負って帰国したのです。彼は僅かに、ブラジル代表の初戦のみに犠牲を払いながら出場するも、途中でヴァヴァー選手にピッチを受け渡しました。その折、ヂーダのサブには、3試合目までベンチに甘んじた、ペレー選手がいたのです。
1961年には、ヂーダはリオ・サンパウロ杯でフラメンゴにタイトルをもたらしました。そして、1963年には再びフラメンゴで、リオ・デ・ジャネイロ州選手優勝を成し遂げたのですが、フレイタス・ソリッチ監督が退任し、フラーヴィオ・コスタ監督が就任したことで、彼は威信を失う事になります。ヂーダは、その翌年にフラメンゴを後にして、サンパウロ市のポルトゲーザ・デ・デスポルトスへと移籍し、準優勝に輝きました。2シーズン後に彼はバッハンキージャ市のアトレチコ・フニオールでプレーすべく、コロンビアへと向かったのです。そこで1968年まで在籍して、現役を退きました。
短期間の充電を経て指導者の道を歩み始めた彼は、先ず故郷のフェッフォヴィアーリア・アトレチコ・クルーベの監督に就任しました。その後、ブラジル北東部と中西部を流離い、フラメンゴへと凱旋したのです。20年以上に亘りフーブロ・ネーグロの下部組織で指導に専念するも、煙草の過剰浪費による肺癌で衰弱状態に到り、2002年09月17日に他界しました。