きょうのコラム「時鐘」 2009年7月7日

 生きていれば74歳かと、感慨深い石原裕次郎さん二十三回忌法要の記事だった。国立競技場に11万人余が詰めかけ巨大な「裕次郎寺」も登場。全員で空に向かって「裕ちゃーん」と合唱したという

かつて多大な影響?を受けたファンのひとりとして、われらがヒーローをしのぶ法要に異議はない。が、豪華な寺の模型に、裕次郎らしくない違和感を持った。その寺の中にいるはずの「裕ちゃん」だが、空に向かって叫ぶのも、いかにも芸能イベントらしい

映画「おくりびと」が話題となった時、宗教界は反省したという。死者を扱う映画に宗教観がほとんどなかったからである。「千の風になって」の歌がヒットした時も同じ意見があった

故人の霊魂が寺やお墓でなく、空や風とともにあるとする方が納得し易いのは、宗教の敗北だというのである。お葬式や法事の時だけに思い出す寺院や僧侶とはいったい何か、と

宗教の本質を語るのは凡夫の手に余る。が、日本人の宗教観のいい加減さと、権威に頼りがちな宗教界を時に思うことがあってもいい。そこに気づかせてくれて「裕ちゃん、ありがとう」。