連載企画 加賀百万石異聞「高山右近」

北國新聞朝刊(2002/07/09付)
〜 バテレン追放令 〜
博多・箱崎の陣で秀吉ひょう変 奴隷売買と寺院破壊を怒る

秀吉の町割りの歴史を語る博多祇園山笠の飾り山笠。博多の夏を華麗に彩る=福岡市博多区
 今、最も元気な地方都市といわれる福岡市は、7月に入ってからは祭り一色である。目の覚めるような巨大な祇園山笠がビルの谷間に立ち並び、浴衣姿の世話役衆が仕事そっちのけで街角の飾り山笠に詰めている。近代都市「福岡」はこの季節、歴史の街「博多」の素顔を色濃く見せるのである。
 山笠には「東流(ひがしながれ)」「中洲流(なかすながれ)」などの名前が付けられている。「流(ながれ)」とは、1587(天正15)年、島津制圧を終えた秀吉が、博多再興のために街を7つに区切った「太閤町割り」と呼ばれる街区組織の呼び方だ。今に続く博多の祭りは高山右近も登場する天正期の秀吉遠征と大いに関係しているのである。
 その年、5月。秀吉は京都を前田利家に5千の兵で守らせ、大坂城は秀次の1万の兵を置き、畿内を固めた上で九州に向け出陣した。利家は留守役に回ったが、すでに越中三郡を与えられ一人前の大名となっていた前田利長が秀吉軍に加わった。利長ら30カ国から集められた秀吉軍は総勢4万。先頭に右近の軍勢があった。
 2年前、明石に転封となっていた右近が秀吉軍に加わり九州に向かったのは1587年4月末だった。フロイス「日本史」によると、右近は秀吉軍の前衛総指揮官の役を命じられて明石を出陣した。600の歩兵、百の騎兵と多数の雑役で組織された右近軍は「ある者は十字架を兜(かぶと)に、あるいは旗に付け、また他の者はそれを衣裳に描き」「鎧(よろい)の上から大きな十字架を下げて」行進。進軍先では真っ先に敵をき、秀吉の本陣を率先して守るなど、並々ならぬ貢献ぶりだったという(別の当代紀などには総勢1300人で旧暦2月に出陣の命を受けたとある)。
日本の三大八幡宮の1つ、博多の筥崎宮。福岡市街地にあり空港が近く、旅客機が低空で宮上を横切る。秀吉の駐留は1587年7月、その当時から存在した拝殿は現在修理中だ
 肥後八代(熊本県)で島津勢を一蹴した秀吉は、軍を博多に引き返し、6月、筥崎宮(はこざきぐう)(地名は箱崎)に陣を張った。博多湾に近い千代の松原で茶席をもうけ、博多の有力商人たちを取り込んだ。堺と並び国際交易都市で知られた博多は、度重なる戦火で著しく荒廃していた。薩摩を支配下に置き、西日本を完全制圧した秀吉は次なる目標、大陸進攻の基地として博多の街を復興させる必要があったのである。
 秀吉 の天下取りの思惑とは別に、大村、有馬の両キリシタン大名を脅かす九州の雄、島津を打ち破るのは右近の願いでもあったに違いない。秀吉と右近の関係は九州平定でますます強固になったと思われた。だが、島津を破り、右近の役割が終わったのを見計らったように箱崎の陣にあった秀吉は突然「バテレン追放令」を出し、右近に棄教を迫ったのである。
 近年、研究者の間で内容の理解の仕方に論争までおきているが、追放令は外国人向けと見られるものと、国内向けの条例のようなものの2種類が出された。定説に従えば1つは次の五項目からなっている。
一、 日本は神々の国である。キリシタン国から邪法を授けるのはよろしくない。
一、 彼らは諸国で宗門を広め、そのために神社仏閣を破壊した。かつてないことであり、罰せられることである。
一、 バテレンは二十日以内に自国に帰るべきである。
一、 商船は商売のためであるから、別の問題である。
一、 今後、神と仏の教えに妨害を加えなければ日本に来るのは自由である。
 もう1つの国内向けとみられる法令は11カ条からなっている。一条から九条までの内容は▽キリシタン信仰は自由であるが、大名や侍が領民の意志に反して改宗させてはならない▽一定の土地を所有する大名がキリシタンになるには届けが必要▽日本にはいろいろ宗派があるから下々の者が自分の考えでキリシタンを信仰するのはかまわない―などと規定する。
 注目すべきは次の十条で、日本人を南蛮に売り渡す(奴隷売買)ことを禁止。十一条で、牛馬を屠殺し食料とするのを許さない、としていることである。
 以上の内容からは▽右近が高槻や明石で行った神社仏閣の破壊や領民を改宗させたことを糾弾▽有力武将を改宗させたのはほとんどが右近によってで、右近に棄教をさせることで歯止めがかかると見た▽バテレン船で現実に九州地方の人々が外国に奴隷として売られていること―などが分かる。秀吉の追放令は、ある意味で筋の通った要求だった。
 さらに重要なのは、日本の民と国土は、天下人のものであり、キリシタン大名が、勝手に教会に土地を寄付したり、人民を外国に売ることは許されないということである。天下統一とは、中央集権国家の確立にほかならない。キリシタンは、その足元を乱す、かつての一向宗と同じ存在になる危険性があると秀吉が感じていたことがわかる。
 「バテレン追放令」は、キリシタンが対象であるかのように見えて、実は日本が新しい時代を迎えるため何が課題かを暗示する極めて重要な出来事だったのである。

●〔西欧に資料多数〕
 秀吉のバテレン追放令は、世界のキリスト教史でも重大事件で「バテレンたちの数百枚に及ぶ膨大ともいえる文書がヨーロッパに存在している」(「南蛮のバテレン」松田毅一著)という。日本側にも資料は多く、博多で秀吉の茶会に同席していた茶人紙屋宗湛(かみや・そうたん)が残した日記によれば、天正15年6月19日(西暦では1587年7月24日)のことで、秀吉の宴席から2人の使者が出され、1人は博多湾に浮かぶバテレンの船へ、もう1人は高山右近の陣営に走ったと書かれている。

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