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ニッポン人脈記

〈甲子園アルバム9〉台湾の青春「球は霊なり」

2007年08月15日

 台湾のチームが甲子園で準優勝したことがある。1931年、満州事変がおきた年に海を船でこえてきた嘉義農林である。

写真嘉義農林のユニホーム姿の蘇正生さん(左)。後輩に支えられ車いすから立ち上がった=台湾・高雄で
写真郭源治さん=名古屋市で営む料理店の前で
写真林威助さん

 その中堅手だった蘇正生はいま94歳。台湾・高雄の介護施設に訪ねると、ユニホーム姿で車いすに乗ってあらわれた。

 「はじめて甲子園に入ったら、みな草色。ランニングしたら広かった。グラウンドは砂のごとく平ら。台湾は石ころがゴロゴロ。もういっぺん、行ってみたい」

 とつとつと日本語をつむぐ。涙があふれ、鼻水がたれる。それでも話しつづける。蘇にとって甲子園こそ青春そのものなのだ。

    ◇

 台湾は日清戦争で日本に割譲された。野球は日本人といっしょにやってきた。嘉義農林の監督になったのは近藤兵太郎。愛媛の松山商で監督をしていた人だ。「球は霊(たま)なり」と蘇らを鍛えあげた。

 「近藤先生は、正しい野球、強い野球を教えてくれた。差別、ひとつもありませんでした」

 レギュラー9人のうち3人は日本人、蘇ら2人は「本島人」と呼ばれ、4人は先住民族「高砂族」だった。甲子園のグラウンドをはだしで駆ける者もいた。

 決勝で中京商に4―0で敗れる。作家菊池寛は観戦記に書いた。「日本人、本島人、高砂族という変わった人種が同じ目的のため共同し努力しているということが、何となく涙ぐましい感じを起こさせる」

 日本敗戦後、台湾は中華民国のものとなる。大陸からきた国民党軍による反対派弾圧事件で2万ともいわれる死者が出た。蘇のチームメートだった陳耕元らは混乱をさけて田舎に帰り、先住民のために学校をつくって野球を教えた。

 そのすそのから育ったのが中日ドラゴンズの投手になる郭源治(50)だ。農家に生まれ、7人兄弟の3番目。先住民族の一家は貧しく、野草を煮て食べた。男の子たちの楽しみは野球だった。

 「うちのおやじは日本語ペラペラ。日本が好きでした。逆に僕が教育されたころは、戦争のことなどがあって日本のことが嫌いというところはあったんです」

 12歳で台湾選抜チーム「金龍隊」に入り、米国であったリトルリーグ世界大会に優勝。帰国途中、後楽園球場に寄り、巨人の王貞治(67)に会う。「王さんは『今日ホームラン打つよ』といって、本当に打った。いいな、ここで試合がしたいと思った」

 チームが台湾にもどると、総統・蒋介石夫妻に迎えられ、記念写真におさまった。郭は政府からごほうびに家1軒をもらう。陸軍パラシュート隊で兵役を2年。24歳のとき契約金1250万円で中日に入り、家をもう1軒、一族にプレゼントした。

 マウンドでのガッツポーズでファンの心をつかみ、リーグ優勝の88年、MVP。結婚して日本国籍をとり、いま名古屋で台湾家庭料理店をいとなむ郭はいう。

 「台湾は僕を育ててくれた。日本はチャンスをくれた。もうちょっとお金ができたら、毎年1人か2人のいい選手を日本に連れてきたい」

    ◇

 阪神タイガースの外野手林威助(リンウェイツウ)(28)は幼い日、台湾で衛星放送をみて日本の野球にあこがれた。「甲子園。高校野球なのにスタンドは満杯だった。興奮しました」

 福岡の柳川高に留学する。2年の夏、福岡大会決勝で負けた次の日、顧問室に呼ばれた。

 「おまえ、もうこれで試合に出られなくなる」「えっ?」。入学が1年遅れで、高校野球の年齢制限にひっかかるという。「頭は真っ白。台湾へ帰ろうかと思った」

 だが「3年間はちゃんとやりなさい」という母のことばに気をとりなおす。近畿大からドラフトで阪神に指名された。

 5年目の今年、レギュラーに。目標にする選手は、王と、台湾のスラッガー大豊泰昭(43)だ。

 今冬、故郷で北京五輪アジア予選がある。「日本でずっと野球をしてきたけど、僕も台湾人の誇りをもっている。代表に選ばれたら、がんばるしかない。日本? 強いですね」

 6月10日、甲子園のゲームで、人生初のサヨナラホームランをかっ飛ばした。


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