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学生日和。―法曹を目指す一橋生のブログ

2009-07-02

またもネットに女子学生への中傷書き込み 京都教育大男子学生に停学6カ月

京都教育大学の学生6人が女子学生(20)に対する集団準強姦容疑で逮捕され、不起訴となった事件にからみ、インターネット上のサイトで女子学生を中傷する書き込みをして同大学から訓告処分を受けたにもかかわらず、再度同様の書き込みをした男子学生に対し、同大学は1日、停学6カ月の処分とすることを教授会で決めた。(産経ニュース)

http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/090702/crm0907020741002-n1.htm

問題になっているのはこの件ですね。

京教大事件ネット中傷学生、反省文後も再び

京都教育大よりも前に立命館でも似たような事件が起こっています。

立命館大、「ミクシィで人権侵害」と学生指導 京都教育大事件

内容被害者女性を中傷するもので当然問題はありますし、僕自身このような書き込みをすることは許せません。が、立命館大学の事件についてはあくまで自分自身の素性が明らかになるミクシィでの書き込みであり、かつ大学生が自分の考えを記したものと考えるならば、これをもって大学側が処分を行うのははたしてどうか。今回の京都教育大の学生の書き込みの内容は(上記記事では;追記)明らかにされていませんが、立命館大の学生の書き込みは個人情報をさらすものでもなく、名誉棄損にあたるような書き込みをしているわけではありません。たとえば、僕は本名でこのブログを書いていますし、個人の中傷は絶対にしませんが批判的な内容も多いと思います。今回の一連の事件と許される「批判」のボーダーラインはどこにあるのか、あくまで度合いの問題なのか。立命館大の学生の書き込みと大学生にあるべき批判的な姿勢との違いは何か。

僕個人は授業や学生活動の中で教授の考えに疑問を感じることはかなり多いですし、そんな学生も少なくないと思います。それでも学生と教授陣の間には圧倒的な力関係があること、今回のように意見表明が処分の対象になってしまうことからすると学生は教授の考え、価値観に合致するような意見表明しか許されないのでしょうか。

これについては是非みんなの意見を聞かせていただきたいです。

ななしななし 2009/07/03 00:30 >今回の京都教育大の学生の書き込みの内容は明らかにされていませんが
少し調べればすぐ分かりますよ。
ヒエラルキーの視点から考えすぎではないですか?

heitarosatoheitarosato 2009/07/03 00:44 ↑ ヒエラルキーの視点てなんだろうねぇ。

yusuke88yusuke88 2009/07/03 00:54 >ななしさん
>heitarosato
コメントありがとうございます。
>ヒエラルキーの視点から
今回はあくまで社会的に問題があるから処分を受けた、というのであって、学生に対する教授会の恣意的な処分ではない、ということですよね?
僕はヒエラルキーの視点以外のある意味対等な制裁(社会的な批判など)については問題なく、されるべきと思っています。しかし、これを持って学生に対して著しい不利益を一方的に課すヒエラルキー的な制裁こそが批判的姿勢や表現の自由を侵すものとして問題がある、と思うのですが―

都内の主婦都内の主婦 2009/07/03 11:16 これは、「教育」的指導 ですよ。
教育機関でのことであることに留意しましょう。
人として対等でも、置かれている立場が違います。

>学生と教授陣の間には圧倒的な力関係がある
教育の場であれば、上記の力関係はあって当然です。なければ教育の場ではありません。

教育とは何か?
教育に必要なものは何か? 
教育を効果的に行うために必要なものは何か?
教える側はどのような態度で臨むべきなのか?
教えてもらう側はどのような態度で臨むべきなのか?
教育の場はどうあるべきなのか?

人間観とともによく考察なさる必要があります。

それから多分、大学入学の際にそれなりの契約をしているはずで、その契約の範囲を逸脱したと判断されたのでしょう。

都内の主婦都内の主婦 2009/07/03 11:21 学生集団の中に被害者がいて、その学生を繰り返し誹謗中傷する学生集団がいる場合、あなたが教授であれば「教授会」でどのように主張されますか? 

そこから考えてみても面白いかと思いますよ。
被害者学生にこれ以上害が及ばず、誹謗中傷する学生集団にどのような教育的指導をするか? があなたに与えられた問題です。

yusuke88yusuke88 2009/07/03 20:17 >都内の主婦さん
コメントありがとうございます。
たしかに教育的指導であることは間違いありませんね。このことは記事でも触れていない点、不十分な考察であったと思います。ご指摘ありがとうございます。
そして効率的教育のためにはこのような措置はあってしかるべき、という考え方も合理性があるものと思います。しかしそのうえでその点について僕の考えを以下に述べます。

教育的指導ゆえ、大学側に一定の教育の裁量を認めるべきであることはたしかです。もし学生が犯罪行為等行った場合に何の措置も行わないことは社会的批判をあびるのも当然ですよね。
しかし僕が問題にしているのは、「教育的指導」の圧倒的な正当性を有する名のもとに学生の言論や表現の自由が大学側の求める枠内でしか許されない、というのはどうか、ということです。これは教育裁量と学生の権利とのぶつかりあいですから、どっちが大事か、ということによってしかもはや解決することはできないと思います。
それでは、どちらが大切か、という点、この考察が上記の記事の要素でもあります。今回僕が処分に疑問を感じるのは、(あくまで立命館大の件に限って、になりますが)
・名誉やプライバシーを侵害するものではなく、あくまで自分の考えを述べたものであること
・ミクシィというインターネット上でも私的な場での表現であること
・同じく、身分、身柄がわかる場での表現であること、ゆえに誹謗中傷ではなく自分の考えを主張する意図での書き込みであったこと
等を考察しています。そのうえで、表現や言論、批判がもっとも強く保障されるべき大学という場においての処分が今回の事件で下されたことに問題を感じるわけです。
ちなみに、これはあくまでごくごく個人的な意見ですが処分というのは教育的指導ではなく、制裁だと思っています。停学にせよ退学にせよ教育をうける場を否応なしに奪われるわけですから。それ以降、処分対象となった学生の学問への道は少なからず阻まれますから。

僕が教授会にいたならば、処分に賛成する可能性も高いでしょう。それはそうやって学生を抑圧することが大学側にとっては手っ取り早い、早い話が楽だからです。一般の社会通念上今回のような事件では厳罰を望む人が多いですから、社会的にも批判を浴びる可能性も少ないと考えられますしね。しかし問題はそこではなく、かりにそれが教授会としては合理的な判断といえたとしてもそれを許していいのか、という点にあるのではないでしょうか。

都内の主婦都内の主婦 2009/07/05 04:16 京都教育大の対応は、「いじめ問題を教育の場としてきちんと対応できなかった学校・教師」と同じ事をしていると私は見ます。子ども集団の感情の流れを十分に理解していない。
そして、立命大学の対応については、及第点を取っていると見ています。

さて、ブログ主さんにお尋ねしたいですね。「批判」と「誹謗中傷」の違いをどう見ているのか?を。

都内の主婦都内の主婦 2009/07/05 04:45 立命館の女子学生がミクシーでコメントし、問題となった文面です。


今回の事件は被害者側も悪いですしむしろ同情すべきは加害者の男の子達かと
お互い泥酔状態で誘ってきたのは女の子からだとか
事件のあった居酒屋、何度かいったことがありますが、逃げようと思えば声を出せば誰かに気付かれます
内側から扉を押さえていたのを店員が不審に思ったのならその場で騒ぎになっているはずですよね
そりゃーあんな場でそんなことをしたらみんな興味津々で見るでしょうし
それを酔いが醒めて
我にかえって
法に訴えかけるなんて卑劣きわまりない
のこのこと飲み会に出向き、未成年にもかかわらず酒を飲んで泥酔したのは自己責任かと
bitch女のせいで将来ある人たちが6人もこんな事になってしまって残念です


この文面、あなたは「批判」と見るわけですね?

yusuke88yusuke88 2009/07/05 10:32 >都内の主婦さん
コメントありがとうございます。

>京都教育大の対応は、「いじめ問題を教育の場としてきちんと対応できなかった学校・教師」と同じ事をしていると私は見ます。子ども集団の感情の流れを十分に理解していない。
そして、立命大学の対応については、及第点を取っていると見ています。
理由を教えていただけますか?

後段についてですが、僕は内容によって批判と誹謗中傷の違いを指摘し、今回の件は批判にあたるから処分すべきでない、と言っているのではなく、あくまでミクシィという場の性質からその点について指摘しているわけです。
掲示板のような、一見すると誰が書いたかわからない(調べられればすぐわかるのですが)ものと、身分のわかるミクシィでは性質が違う、すなわち問題となった書き込みをした女子学生はこれが自分の意見として見られることを承知のうえで書き込みをした、という点を重視しているわけです。その違いをいうために便宜上言葉を使い分けています。あくまで僕のその定義に従うのであれば「批判」にあたるでしょうし、一般的な感覚に照らせば「誹謗中傷」にもなると思います。前述の通り、問題の中核は言葉の選び方ではない、ということです。

都内の主婦都内の主婦 2009/07/05 11:22 まず、確認をさせて下さい。

>掲示板のような、一見すると誰が書いたかわからない(調べられればすぐわかるのですが)ものと、身分のわかるミクシィでは性質が違う

とブログ主さんは仰いますが、ミクシィでのプロフィールが現実その通りだと誰が「即座に」保証してくれるのでしょうか?

それと「法曹をめざす」ということですから当然法学で学ばれていることを前提としてのご意見と、私は考えているのですが、「書き込まれた場によって『批判か誹謗中傷か』の基準は分かれる」と、法学では見ることが出来るのでしょうか?

yusuke88yusuke88 2009/07/05 11:33 たしかに「即座に」は保証してくれないでしょうね。言い換えます。あくまで相対的な、しかしかなりの程度の差がある、ということです。
法学の観点からいえば書きこまれた場も処分の正当性をみるうえで考慮の一要素とするべき、ということです。

都内の主婦都内の主婦 2009/07/05 14:17 お答えありがとうございます。
>あくまで相対的な、しかしかなりの程度の差がある、ということです。

主婦をしておりますと、日常の玄関先での訪問客との対面で、詐欺行為を目撃することは日常茶飯事です。訪問客から頂いた名刺の「電話番号だけ違う(名刺で信用させる)」ということだってあるわけです。 不審に思い即答は避けて、後で電話帳とネットで確認したところ名称を騙っていることが判明しました。

対面で言葉を数分交わしてもこの程度なのです。顔も見えず、OFF会で人となりを確認してもいない状態で、「実名を出しているから」と信じることは早計ではないかと思います。もしかしたら、「友人の実名」を自分のものとしているかも知れませんから。

ミクシィは会員制となっていますが、その会員数は数万人を超した一つの地方都市人口と大差ない大所帯です。そして、会員全てが実名制を取っているわけではないのです。まして、その全会員がOFF会を開催しているわけでもないのです。つまり、全員が顔見知り程度の知人でもない。

そして、立命大の女子学生は 地方都市人口に匹敵する全会員に向けて発言したわけです。

私がネットリテラシーを学んだ場所は、10年前ネットに生まれて初めて接続し、即入会したクルマ関連の会員制MLでした。当時会員が千人、一日のメール流量が300通という実に活発なMLでした。活発に発言するメンバーのことごとくが男性で、会員の女性比率が極端に少なく、発言する女性は私一人という有様でした。

メンバーたちは、当時既に中年おばさんでネット初心者である私に、危機感と老婆心から色々と教えてくれたものでした。

最初に教えてくれたのが「会員制とはいえ、1000人もいれば変な奴もいるかもわからんから、本名と住所と電話番号は晒すな!!!!」でした。

都内の主婦都内の主婦 2009/07/05 17:40 >京都教育大の対応は、「いじめ問題を教育の場としてきちんと対応できなかった学校・教師」と同じ事をしていると私は見ます。子ども集団の感情の流れを十分に理解していない。
>そして、立命大学の対応については、及第点を取っていると見ています。

どういう事か簡単に説明します。
その前に断っておきますが、今回の京都教育大学集団レイプ事件の一部始終を見ていて、学生達の心の発達は小・中学生と何ら変わらない段階と見て取れましたので、私は「子ども」と表記します。

学校が教育する対象は、学内の子どもたちです。ですから、今回の集団レイプ事件に対して説明・教育する対象は、学内の子ども達です。社会に対するものではありません。そこを間違えないように。

加害者である子どもは自分のやったことの是非はおおよそ判っています。そして、それが公に明らかにならなければ、「ラッキィー」と思い、その中の一部分は「事実を曲げてしまおう」と戦略を練って実効するものが出てきます。

これは、人の性です。実行するかどうかは別にして、ほとんどの人の脳裏によぎる考えなのです、大人・子どもにかかわらず。

さて、教育機関で考えなければならない事は、加害者である子どもに対してと同時に、周囲の子ども達がこの事件からどんな影響を受けるのか?ということです。これだけの事件ですから、周囲の子ども達に色々な影響が及ぶことは当然考えられるわけです。

教師にとって、自分のクラス・学校でいじめが発覚した時が、「事の是非とその結果起きること、今後どう考え・どう行動すべきかを教える」ある意味最大のチャンスなのです。

この時教師がすべき事は、断固とした姿勢を見せることなのです。何が許され、何が許されないことなのか。それにどのような理由があるのかがをきっちりと示し、行動に移していることを子ども達に見せなければならないのです。これは、教師を通して子ども達に社会を見せることでもあるのです。

これにより周囲の子ども達の動揺が静まり、冷静に客観的に起きたことについて考えることが出来ます。教師の姿勢・考え方と自分の中にある個人の意見を、子ども達は比較検討するでしょう。

つまり、教師の後ろにある社会と、子ども達の個人的考えとをどう折り合いをつけるかを、子ども達は考えるきっかけとなるわけです。その中で「社会性」「協調性」「他者に対する思いやり」を学ぶのです。そして子ども達は、成長し社会に出た段階で、あるいは自分の子どもを育てる段階で、この経験を生かして次世代に繋げることが出来ます。

さて、京都教育大学の対応はどうか?といえば、断固とした姿勢を学内の子ども達に示すことに失敗しました。つまり、「何だ、この程度の処分で済むのか…。ってことは、加害者という奴らのやった事って、大したことじゃないんじゃないの?」と思わせてしまったのです。

その「ってことは、加害者という奴らのやった事って、大したことじゃないんじゃないの?」という考えが集団に広がるとどうなるか といえば、今回の集団レイプ事件は大したことではないという子ども達の世論になってしまうということなのです。なぜなら、大学の態度が子ども達にとっては、社会の態度と同じ意味を持つ となるからです。

子ども達はまだ、「他者の痛み」に想いを馳せる力が不十分です。特に、性的暴力の被害者の痛みなど想像することが出来ない段階ですから、そんな状態の子ども達に断固とした姿勢を取れない大学の態度では、今回のセカンドレイプ騒動が起きるのは当然のことといえます。

立命大学の態度が及第点としたのは、同じ考え方から来ています。子ども達は大学の態度から、「あっ、この程度でも大学は、許さないのか」→「社会はこの程度でも許さないんだな」と学ぶからです。

ZZ 2009/07/05 20:33 基本的に第三者には当事者能力なし。
まわりがとやかく言うことではない。

yusuke88yusuke88 2009/07/06 00:39 >都内の主婦さん
説明ありがとうございます。よくわかりました。
仮に今回の事件で「学生達の心の発達は小・中学生と何ら変わらない段階と見て取れ」たとしてもそこから大学の役割を見出すのは乱暴ではありませんか?僕は少なくとも(大学生、はともかく)大学とはそんな知的レベルの低い場ではないと思っています。

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