

さて、一期生・二期生・三期生とも、論語の講義に入る前にガイダンスと云うか、プロローグと云うか、論語を活学する為のポイントとして「徳」と「中庸」の本質を押さえてもらうべく、「論語開眼」という標題の第一講を、全員必ず受講してもらっておりますが、その講義の中で「徳と中庸の本質を掴んでいないと、論語を百遍読んでもダメ、百年学んでもダメだろう!?」ということを生意気にも語らせてもらっております。

何故「ダメッ!!」などと否定的に断言するのか?と云いますと、私達社会人のやる学問と云うのは、死学であっては困る訳でありまして、活学でなければならん訳です。活学とは「為になって、役に立つ」学問ということです。“instructive
& useful”つまり「教訓として有益」で、「実生活に於いて有用」な学問でなければならん、と云うことであります。

では、死学とは何か?と申しますと、「為にはなるが、役には立たない」学問のことであります。例えば、高校の漢文の時間でやるような「訓古の学」、つまり字句の解釈を専らとするような学問であります。こう云うのを「鉛槧の庸(えんざんのよう)」即ち文字の奴隷と云います。私たちは、死学、つまり訓古学(字句の解釈)をやる為に集(つど)っている訳ではない。
また、「為にはならんが役に立つ」という学問もあります。これを実学と申しますが、実学をやりたければ、中小企業大学校のセミナーにでも行けば良いのであって、当会に来る必要などありません。

学問にはもう一つ、「為にならず、役にも立たない」所謂虚学というものがあります。異端の学とも申しますが、こういうものは百害あって一利なしですから始めから近づかない方が宜しい。どうしてもやりたいのであればマルクス経済学でもやるか、或いはオーム真理教か統一教会にでも入信すれば良いのでありまして、これまた当会に来る必要はありません。

つまり、私達は、死学をやる為でも、実学をやる為でも、虚学をやる為でもない!活学(為になって役に立つ)をやる為に今こうして集っている訳であります。
整理してみますと



と、四通りの組み合わせになりましょうか。

活学を別の言葉で申しますと「学真行道」、真理を学び道を行ずることである!とも云えます。学問の根底には、真理がなければなりません。真理とは、恒久不変、万古不易の実相のことを云うのでありまして、2百年や3百年で変わってしまうようなものは真理とは云いません。2千年も3千年も変わらないものを真理と云います。孔子教学を一般的に儒学と申しますが、儒学の根底にある真理、万古不易の人間の実相、それが「徳」と「中庸」にあるわけです。孔子教学から「徳」と「中庸」を抜き取ったら儒学は成り立ちません。気の抜けたサイダーのようなもの、単なる砂糖水でしかなくなってしまいます。

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