本当に移植医療は患者を救うのか?
と題して当ブログに晴耕雨読の早雲さんから下記の趣旨の資料をいだたきました。
『移植の延命効果は限定的』
脳死者から臓器の呈供を受けて移植してもらった人は、かなり長く、巧く行けば健康な人と同等に長生きできる、と思い込んでいる者が多いが、
実は、被移植者の平均余命は健康人に比べてかなり短いことを、全米臓器移植機構2003年8月公表の統計が示している。
移植された臓器の種類により大きな差があるが、10年生きえた人の割合は、心臓45.6%、肝臓45.5%、膵臓20.5%、肺18.6%、小腸0%である。
さらに問題なのは、被移植者(レシピエント)が生きていられるのはすべて移植のおかげと信じられているが、実は心臓移植を受けずに生き長らえる期間の平均と、受けて生き長らえる期間の平均とを比べることのできる統計調査が、1991 年にアメリカで行われて、その結果意外な事実が判明した。
すなわち、(移植)待機患者のうちで、心臓移植の必要を宣告されてから移植を受けられないまま 1年後も生存している者の割合は67%であるのに対して、
心臓移植を受けたレシピエントのうち1年後も生存している者の割合は88%であった。
つまりこの場合の心臓移植の延命効果は21%である。
次に、平均待機期間の6ヶ月間待機した患者がその時点でも心臓移植を受けられない場合の1年生存率は83%であり、延命効果は5%に低下する。
(生存率が上昇しているのは、移植の必要宣告後に受けた内科的治療の効果と思われる。)
『つまり、心臓移植の必要を言われて内科治療で6ヶ月間生きた者は、6ヶ月後に移植を受けようと受けまいと、その時点からの1年生存率には大差がないのである。』
さらに9ヶ月待機してその間内科治療を受けた人の1年生存率は88%で、延命効果はゼロであり、
(待機日数が9ヶ月を越えた場合は)。
待機患者とすでに心臓移植を受けた者の1年生存率は逆転し、移植手術を受けずに内科治療に専念した方が生き長らえる蓋然性が高くなる。
『心臓移植の延命効果はマイナスになる』
日本国内ではこのような統計は(あえて?)取られていないようです。
ご存じの方がいらっしゃいますか?
この資料は、『お玉おばさんでもわかる 政治のお話』でも『移植の予後 』といる記事になっているが、ブログコメント欄の最初の投稿が★であるが、事実と明確に違う、何とも困った内容なのである。
★日本循環器学会心臓移植委員会というのがあって、そこの資料によると、97・4〜08・10の心臓移植希望患者にたいする追跡調査では、10年後の生存率は、国内での移植済み90%以上、国外でも80%以上、一方未移植20%以下、となっていますね。
また移植済み患者の66%が職場復帰したとあります。
技術は日進月歩するものですし、最新のデータでこれなら、もう無意味とは云えないんじゃない?と思いますけど。
注意を喚起する為に、下記を投稿。
『数字のマジックですね』
10年間の統計で『10年後の生存率』が判るとするなどは科学とは呼ばず、暴論というか、滑稽と言うか。
単なる数字のマジックです。
日本では移植法成立12年間で81件しか脳死移植は行われていません。
特に最初の数年は年間一件か二件の少なさで97年当時は十数件もあったはずは有りませんよ。
(これは有り得ない数字です。
何故なら90%の為には最低でも10人は必要だが10人以上ではない。)
ですから>『10年後の生存率は、国内での移植済み90%以上』とは何かの間違いか数字の操作です。
また数字が全く正しいと仮定しても、分母が数件では参考程度にしかなりません。
幾等正しくても3人のうちの2人が職場に一時帰れたなどは『66%が職場復帰』などと言える状態ではない。
ここはやっぱり数十年の脳死移植の実績のある外国での数字しか意味のある数字とは言え無いでしょう。
今までの実績では例え運良く手術に成功しても12年程度が限界です。
子供が手術して元気になって天寿を真っ当出来る訳では有りません。
『技術は日進月歩』で言えば蘇生技術の方が日進月歩で今までなら脳死確実が生還できるようになってきている。
[2009/06/25 14:50] URL | 逝きし世の面影
直ぐに★氏から『>逝きし世の面影氏 』とタイトルが付いた反論コメントが掲載されている。
わざわざ名指しのコメントなので仕方無く『悪質な印象操作と見られかねませんよ』と数字の間違いを指摘するコメントを3通も送るが全て不掲載。
多分『悪質な印象操作』の言葉がお玉さんは気にいらなかったのでしょう。
そのために記事には未だに『間違った数字だけ』は掲載し続けているばかりか、『間違った数字の印象』の影響に引き摺られた「追記」までが書き加えられている始末。
其の後も間違った数字に影響され『言霊の国の移植法』では日本を遅れた臓器移植後進国 扱いで、正に悪質な印象操作と見られかねない行為を今も懲りずに繰り返している。
「去る者は日々に疎し」というが、つい十数年前、過去の実際に有った出来事でも『日々に疎し』らしい。
何とも困ったことですが、自分勝手に60数年前の歴史を簡単に書き換えられると思っているらしい歴史修正主義者を笑っていられない事だけは確からしい。
正に『数字のマジック』
何とも不思議な日米両者の数字である。
数字が余りにも違いすぎる。
日米でトンデモナク技術格差があるのか、数年の差でトンデモナク技術革新が進んだと解釈するべきだろうか。?
免疫抑制剤の開発は日進月歩で有るとしても、全く延命効果が期待できないものが突然正反対に成る等と考えても良いのだろうか。
2003年に公表されたアメリカの数字と日本の数字が余りにもかけ離れている。
同じ物に対する判断、評価が相反する(大きく違う)場合に考えられる常識的な判断は、何れかが間違っている。
あるいは両方共に間違っているのかの、何れかである。
移植者の生存率ではなく、移植希望者かもも知れない。
あるいは、心臓移植以外の移植数で水増ししているのかもしれないが、いずれにしても、記事のままでは数字が合わない。
『日本の心臓移植委員会の数字の可笑しさ』
日本では移植法施行は心臓移植委員会の統計の始まる97年4月(法案成立日か?)ではなく半年後の10月です。(施行以前に行われたら大問題である)
しかも、これからは『脳死は移植時だけは死とみなす』とされても誰も名乗り出ない。
あえて自分が最初に脳死者にメスを入れて『脳死移植を実行してみよう』と思う外科医など誰もいない。
法的には合法になったが誰一人、脳死移植を行う者はいなかった。
時間だけが過ぎ去る。仕方なく政治的な決断が下されたのでしょう。
『大騒動だった脳死移植』
法律の施行で脳死移植は解禁したが、誰もが嫌がって(怖がって?)最初の移植を行うものは無い。
一年近く経ってから、ようやく最初の脳死患者患者からの臓器摘出が行われ(日本で29年ぶり二回目)の臓器移植が日本でも行われたが臓器を運ぶ救急車を新聞社のヘリコプターが何機も追跡す大騒ぎとなった。
(日本での最初の脳死移植(心臓移植)は41年前の1968年前の事です)
臓器法施行後2回目の手術は、その数ヵ月後に行われたが、この時も初回と同じ様な大騒ぎとなった。
脳死臓器移植が新聞の一面で報道されるだけでなく今では考えられないような脳死者となったドナーの個人情報までが事細かくマスコミによって精細に報道され、故人の尊厳などは何処にもない。
あまりのひどさに、流石にこの騒動は批判され、以後は報道を自粛するようになった。
『日本循環器学会心臓移植委員会』の嘘
日本循環器学会心臓移植委員会の心臓移植希望患者にたいする追跡調査と有れば、誰でも心臓移植の話だと誤解する。
『誤解する』も何も、その様に解釈しない方が不思議なくらいだ。
食品偽装でお馴染みの羊頭狗肉か、はたまた『消防署から来ました』といる詐欺的商法か。?
しかし日本循環器学会心臓移植委員会の出した心臓移植希望患者の数字は、心臓移植の数字では断じて有りません。
『行われなかった心臓移植』
確かに、97年98年と脳死移植は行われたが心臓移植は行わなかった。
行われていたのは、腎臓移植の様な直接『脳死』と直結しない移植で、『脳死者の死』に直結している心臓移植は誰も怖くて行わなかったのです。
(心臓以外の他の臓器でも出来る限り新鮮な状態が望ましいのは言うまでも無い)
法案が出来ても医者の心までが変化するわけではない。
心臓移植が行われないまま経過して3年目の1999年。
とうとう和田心臓移植以来31年ぶり2回目の心臓移植が(医学的判断なのか政治的判断なのか)大阪大学医学部によって再開される。
以来今まで日本国内では年平均5件程度、50件ほどの心臓移植が行われている。
『そもそも有り得ない10年後の生存率』
ですから来年に成って初めて脳死心臓手術後10年が経過して、我が国の『10年後の生存率』が出せるのです。
日本における『心臓移植希者の10年後の生存率』であるかに装うなどは、昨今問題になっているウナギの産地偽装や豚肉を牛肉と偽った食品偽装の様な犯罪的な偽装工作で悪質な印象操作である。
『未移植の生存率も可笑しい』
余りにも高すぎる日本での臓器移植者の生存率の日本循環器学会心臓移植委員会、資料の一方で、余りにも低すぎる日本の『未移植20%以下』の数字。
アメリカの四分の一程度の短さですよ。
人の良い権威を疑う事を知らない人は、僅か数年で革命的に技術が改革されて以前の数字とかけ離れた高い生存率だと思っている様だが、その一方の内科的治療をした『未移植患者』(日本では大部分で、反対の移植組まれ)は外国に比べ極端に低い。
日本の内科医は第三世界並み以下の力量なのであろう。
この数字を何の疑いも無く信じる人がいるかと思うと暗澹たる気持ちにならざるを得ない。
心臓移植では今までの実績では例え運良く手術に成功しても12年程度が限界です。
子供が手術して元気になって天命を真っ当出来る訳では有りません。
『技術は日進月歩』で言えば蘇生技術の方が日進月歩で今までなら脳死確実が生還できるようになってきている。
『日本で十年後に心臓移植の生存率90%以上』の数字を何故信用する人が現れるのか。何とも不可思議
そもそも絶対に、ありえない数字なのですよ。
人は、どれだけプロパガンダなどの印象操作に弱いか、マスコミや権威にどれ程弱いか、どれ程不思議なものでも自分に都合がよければ受け入れてしまうのか。
『人は自分の見たいものだけを見て、信じたいものだけを信じる』典型例である。
|
http://plaza.umin.ac.jp/~hearttp/
「心臓移植適応検討症例追跡予後調査」の、
【資料】2008年度心臓移植適応検討症例の予後調査結果(PDF)
ですかね、問題の資料は。
素人目に見た話ですけど・・・
このPDF書類の5ページをみると、
97年・国内4、98年・国内5、99年・国内3・国外3(計6)、00年・国内9・国外3(計12)・・・とあり、
確かに「90%以上」という数字が出るための最低レベルの必要数(10)をクリアするのは、2000年の12例からということになりますね。
そうなると、10年後の結果は少なくとも2010年にならないと分からない。
今年は・・何年でしたっけ? (^_^;)
★氏が言っている「10年後の生存率は、国内での移植済み90%以上、国外でも80%以上、一方未移植20%以下〜〜」は、グラフで表されているだけのようです。(p21)
p23の「まとめ2」では、心移植患者の生存率については、具体的な数字を何も挙げずにまとめがなされていますね。
一応、★氏が言っているようには表明できないことは、この資料をまとめた人は分かっていたのでしょう。 (^_^;)
まぁそれを考えると、悪質っちゃぁ悪質ですね。
しかし、誤解して当たり前です。何故なら、数字を出した方(心臓移植委員会)がワザと間違うように操作しているからです。
日本循環器学会心臓移植委員会の出した「心臓移植適応検討症例追跡予後調査」の2008年度心臓移植適応検討症例ですからね。
誰でも心臓意移植の話と誤読する。
ところが心臓移植に限れば、話は違っている。
真実は『心臓移植も混じっている』なのですよ。
内容と外側の表示が全く違うので、これが臓器移植の話でなく、食品の話なら詐欺罪で刑事告発されていますよ。
国産ウナギは全国のスーパーマーケットの店頭に並べるほどの数量がない。
ですから今まで並んでいなの外国産を混ぜて(産地偽装)していたから。様は絶対数が足りないのです。
今度の話も全く同じ話で、統計を出そうにも絶対数が足りない。
それで心臓移植委員会の名前のラベルで偽装して水増しの数字を出している。
耐震偽装から初まり食品偽装から。今度は医療の移植偽装にまで。恥ずかしい限りです。
日本国内に限定すれば、一番最初の手術例は北海道大学の和田教授による41年前の疑惑の手術例を除けば、記事にも書きましたが、移植法施行年の1997では無く、世紀末の1999年なのですよ。
「心臓移植適応検討症例追跡予後調査」【資料】にある『97年・国内4』の数字は心臓移植数ではなく脳死者からの移植例ですね。
心臓移植委員会の連中は本当に悪質です。
典型的な印象操作で、数字自体は正しいが中身が全く違っていて、読んだ読者をわざと間違うように間違うように誘導している。
これは、間違った人が悪いのではなく、間違うように誘導している日本循環器学会心臓移植委員会に全責任がある。
本邦二例目は大阪大学のチームが行っている。
考えてみると、北大も阪大も一流国立大学ではあるが学閥的な序列を考えれば、東大や京大などからは一段下で微妙な位置ですね。
阪大と言えば常温核融合を成功?した教授とか男85cm女90cmという世界基準の逆さまの数字を出した医学部教授も阪大。誰もやらない9・11陰謀論退治に狂奔するきくち君も阪大。
ヘレンケラーでもあるまいが、教授だけに限れば三重苦ですね。
【 97年・国外4、98年・国外5、99年・国外3・国内3(計6)、00年・国外9・国内3(計12)・・・とあり、・・】
ですね。
僕がこの数字を書き出した元の資料のp5においては、国内での心臓移植症例は確かに99年からでした。
凡ミスです、失礼しました。
和田寿郎札幌医科大学教授による日本最初の(世界で50番目の)心臓移植は当時は大騒ぎで、色々物議をかもした。
これについては私も幾等か興味が有り調べてみましたが、調べれば調べるほど疑惑が膨らむ不思議な事件でした。
当時和田教授の胸部外科ではないが、同じ札幌医科大の外科の現役の講師をしていた渡辺淳一はこの事件を題材にノンフィクション小説を書き、それ以外にも医学を題材にした作品を書いている。
医者で作家はいても、大概は精神科か内科で現役外科医からの転進は珍しい。
今では官能小説の大家らしいが、其方の方は余り読まないので良く判らないが医学関係は文句無く面白い。
渡辺淳一の其の後の針路変更の大転換の原因が和田心臓移植事件らしいですよ。
和田移植が無ければ現在の作家渡辺淳一は生まれていなかったかもしれない。
この問題は、良く知っているはずなのに何で北海道大学なんて書いたのでしょうか。
実に不思議です。
困った北海道の大学の教授繋がりで、何か頭の中で当ブログのムペンバ効果の記事中の雪氷学会の権威の前野北大名誉教授の話とが、ごっちゃ混ぜに成っていたようです。
NHKためしてガッテンで「ムペンバ効果(Mpemba Effect)」でこの前野先生、困った事に「ムペンバ
効果」を信じている人には肯定的に、反対の立場からは全く正反対に読めるような不思議な見解を表明している。
NHK放送を監修している自分の立場からは『インチキだ』とは口が裂けてもいえないが、さりとて科学者の立場からは『正しい』とも言えない。
しかしですね。この数字は考えれば考えるほど不思議な数字ですよ。
記事にも書いたが、脳死移植で心臓移植が解禁になったが誰も実施する勇気のある医者はいなかったのですよ。
だから97年に最初の脳死者からの移植は行われていますが、脳死とは直結しない腎臓なんかの移植でお茶を濁している。
光るナスで、直ぐ指を切りたがる外科医の話をしましたが、指くらいなら人の命には直接関係無いので良心が傷む事も無いが、脳死患者からの心臓ではそうはいかない。
心臓を取り出せば、脳死患者は確実に死ぬ。
当たり前ですが、学生の頃に遺体の解剖実習を行っている医者は、死体からの臓器の摘出なら何の心の呵責も感じません。
身体を切り刻んだからと言って当たり前の正当な行為なら何ら疾しいところはない。
ところがの脳死者はそうではない。
心臓移植が何年も遅れた原因は、みんな誰もやりたくなかったのですよ。
『脳死は人の死』とは法的な建前上の事で、実際に手術を行う外科医でさえ、『脳死者は人の死なのか?死でないのか?』と迷っている部分が頭の隅の方では存在するのです。
一般論として賛成だが、自分の話となると怖気づき実行できないでいる。
其れが1億2千万人で年間平均たったの5件になる理由ではないでしょうか。?
『脳死は人の死か』を天動説か地動説かの論争だと誤解している人がいるようだが、事実は全く違う。
今度の論争では、脳死移植自体の賛成反対はあるが、『脳死に対する考え』ではそれ程の違いはない。
違いは生死を、デジタルに白黒はっきりと『分離出来る』と考えるか、アナログ的に連続していて簡単には『完全分離できない』と考えるかの違いですよ。
今のように正誤白黒がはっきり断定する教育制度(試験のやり方)のせいでしょうか。?
それとも0か1か、ON、OFFしかないコンピューターやネット文化の発展のためでしょうか。?
生活実感が、何時の間にか希薄に成っている。
物事は白黒、正誤簡単に別けれるものの方が少ないのに。
生身の自然の生活体験がなくなっている。
太陽が地平線の下にある黎明や黄昏なんで言葉は、今では死語なのでしょうか。?
日の出前でも明るいし、日没後でも矢張り明るい。
今の脳死論議は『太陽が地平線に沈みかかった瞬間』に、誰か他人が勝手に関係ない大勢に向かって
『ハイ。ここからは夜で真っ暗です』と言うような実に不思議な話ですよ。
確かに沈む太陽は誰にも止められないが、まだ十分に明るい。
『黄昏』(たそがれ)は決して夜ではない
皆さんは私のように生物学を専攻した訳じゃないから少々間違いがあっても当然です.それと,確かに外科医で小説家になったのは渡辺淳一が有名ですけども,他にも数名,本職へ戻った人もいます.最近だと九大を定年退官した北山修が本格的に詩人・歌手の活動を始めましたけど,確かに人間の心を扱うだけに精神科医はどうしても文学へ向かう人が多いのは確かです.先年亡くなられた加藤周一もそうですね.
ブログ主さんが言われていた「今のように正誤白黒がはっきり断定する教育制度(試験のやり方)のせいでしょうか」というのは相当程度当たっていると思います.私は現役の時は一期校・二期校,浪人の時は共通一次という2つの入試制度を体験したため,共通一次の弱点を知り抜いています.皆さんもセンター試験の数学の問題を見られると分かるのですけど,試験問題作成者の意図する「解き方」の思考方向で計算をしていかないと,穴埋めができない仕組みになっている.これは理科の物理や国語の現代文にも言えます.
つまり,正誤白黒をはっきりさせると言うよりも,国家のイデオロギーの通りに洗脳させられているという方が正確です.ところが特に生物とか現代文なんてのはどれが正しいなど決められなく,ひどい時には問題文の著者から文句が出たりする.
小学生相手の塾の先生をしている知り合いが一番困るのはやはり子供の自然経験,それも日常的な体験なのだそうです.今月末の部分日蝕だって,朝日新聞に書いてあったように「サングラスや黒い下敷きは網膜を傷つける」と国立天文台が警告しているほどです.
http://www.asahi.com/science/update/0630/OSK200906300150.html
# また,長くなってすみません.ヘンな奴が出てきたら,無視されて下さい(笑)
これでは心臓移植の効果を世にアピールできないですよね。
そこで考えたのが基準を余命1年に変更することでした。
つまり健康な患者に移植すれば術後の余命が長くなるということです。
1年後に生存していれば先のデータによれば移植を受けてもうけなくても期待できる余命は代わりがありませんから、心臓移植以外では生存できない患者を適応から外し健康な患者に移植すれば「心臓移植適応検討症例追跡予後調査」のようなデータを取れるはずです。
ただもう少し記事の主題に近いコメントをお願いします。
今回は心臓移植の話で、
>日本循環器学会心臓移植委員会の出した「心臓移植適応検討症例追跡予後調査」の2008年度心臓移植適応検討症例<ですよ。
ところが日本国内では今までに50例しかない。
しかも始まって(再開されて)10年が経過していない。
心臓移植委員会の統計を皆さんが誤読したような
、心臓移植が、今までに数千例もあり10年経過後の生存率も高いなどの議論は、そもそもが有り得ないのです。
しかし、これは誤読した皆さんが悪いのではなく、
心臓移植と関係ない数字を混ぜて水増しして誤読させた心臓移植委員会の方に全面的に責任が有る。
そもそも、10年以内の50例ほどの記録から、何かの有意義な統計が出せる筈も無く、移植委員会の予後調査報告とは『為にする』行為で、実にケシカラン話ですよ。
早雲さん、コメント有り難う御座います。
みなさんは、条件が整えば『心臓移植が誰にでも受けられる手術』か何かと勘違いしているようですね。
原理的に心臓移植は誰もが受けれる手術ではない。
そして心臓移植が『手術すれば命が助かる』手術だとも勘違いしている。
手術の有るなしで平均余命に差が無ければ、大金を使って行われている日本の無駄な箱物行政の公共事業と同じ性格のものだと言うことになるが、移植委員会が絶対に認めたくない所でしょう。
良い数字を出す為には、状態の悪い患者ではなく、健康な状態の患者ほど良い事になる。
>『心臓移植以外では生存できない患者を適応から外す』
のは、ある意味当然の行為ですよ。
移植現場で、一番酷い状態の脳死患者と心臓病患者とをある種のトリアージ(命の選別)が行われているのですが、
心臓移植患者のなかでもトリアージ(命の優先順位)が行われる。
トリアージ(Triage)の基本は、軽症者が最優先で助かる見込みの無い(死につつある)重体患者は放置して治療から除外する。
もともとトリアージとは軍事作戦の現場で軽症の兵士を即座に治療して速やかに前線に送り返しす為です。
治療の原則は、傷の大きさに反比例して戦場に復帰出来そうにも無い重症者は、一番最後に回される。
戦争とは、如何に多くを破壊することが、如何に多くの殺す事ができるか、が何よりも大事で其れ以外のことは瑣末な事柄です。
軍隊にしか出来ない、軍本来の任務は破壊と殺戮です。これは軍にしか出来ない。
命を奪う事が最重要なので、命を助ける医療現場とは正反対になるのは当たり前です。
ところで,ブログ主さんも「たとえ話」に関して,やや勘違いをされているようです.
>今回は心臓移植の話で、
>日本循環器学会心臓移植委員会の出した「心臓移植適応検討症例追跡予後調査」の2008年度心臓移植適応検討症例<ですよ。
と指摘されてましたけど,国内でわずか50例だけの術式だけで,生存率を念頭に入れない「誤読が生じること」自体,国家による洗脳ではないかと,教育の世界の例を用いて指摘しただけの話です.記事の主題そのものについては,以下に書いたことだけで「終わり」です.
要するにWHOからの勧告があったから,国内で臓器を調達しよう,そのためには脳死で新鮮で健康な臓器を取り出してしまえ,というのがホンネで,さすがに開業医の団体である日本医師会もそれは遺族に責任が負えないと言い出したということに収まるのでは?
脳死移植(心臓)などの移植医療で命が助かるとの、(日本循環器学会心臓移植委員会が誘導している一般社会の誤解)間違った前提がある。
困りますねえ。
移植で助かるかも知れないが、助からないかもしれない。
特に脳死心臓移植では手術後の患者の予後では、
『手術の有無と患者の生存率にはそれ程の違いが無い。』
との03年のアメリカの資料がある。
それに反論したらしい日本側『日本循環器学会心臓移植委員会』資料には数々の(悪質な印象操作と思われる)疑惑がある。
これが今回の記事の主題です。
それで、>『ただもう少し記事の主題に近いコメントをお願いします。』とわざわざ書いたのです。
コメントフリーは最初からで「承認制」に移行もしていません。
生存率が少ないことは,移植を受ける患者の体力や状態に依存します.日本循環器学会の印象操作にはそのような「合併症が少ない患者に移植すれば生存率は上がる」という目算があることも知って欲しかったからで,記事の主題からはまったく外れておりません.
# 議論にならないので,このコメントツリーからは私から外れます.