このページでは、ミステリ作家の視点から、書籍、映画、ゲームなど色々な「表現」について評論したいと思います。
・
『博覧強記の仕事術』の正体
三〇冊の本、ざっと一当たり検証したけど、これが『博覧強記の仕事術』の「 唐沢俊一が薦める、常備したい本三〇冊」なのだとしたら、これは惨状ともいうべきものなのだが、何度も指摘しているように「博覧強記」の意味を取り違えているのだから、唐沢が本来なにを意図したものなのか、検証し直してみよう。
しかし、著者と編集者(大内明日香女史)がそろって、博覧強記の意味を知らなかったというのも物凄い話だね。無知が二人つるんで博覧強記を標榜する本を出版したのだ。出版事故と言ってもいいだろう。
唐沢はこの数年、「と学会」との共著は別にすると、「鬼畜」「オタク」「犯罪」「雑学」の本を出版してきた。そして、『博覧強記の仕事術』には雑学本の延長だと思われる箇所が多々見られる。検証した三〇冊の解説にも、
明治教養人の雑学事典にできるくらいの面白さ。 『吾輩は猫である』
単なる雑学趣味が、19世紀風俗、文化の徹底的なテキストを作り上げた 『注釈版シャーロック・ホームズ』
六〇年代男性おしゃれ(服装、食べ物、自動車、それに銃)雑学百科事典になっている 『ドクター・ノー』
ある意味雑学本の大パロディ。 『富士に立つ影』
野坂昭如の小説群は昭和風俗雑学本として読み直すことが可能である。 『エロ事師たち』
どうだろうか。唐沢はそもそも、新しい『雑学本』を書こうとしていたのではなかったのか。例えば『ビジネスに役立つ雑学』『雑学王で仕事に勝つ』とかね。しかし、「雑学」という言葉自体、もはや「陳腐化」しているし、唐沢の雑学本も売れていない。そのことは『pronto pronto?』に連載されていた「トリビア名誉教授 唐沢俊一のビジネス課外授業。」が単行本化されない(京都大学の安岡先生に徹底的に斬られたとはいえ)ことからも推せるだろう。
そこで探し出してきた、起死回生のマジックワードが「博覧強記」だったのではあるまいか。著者と編集者、そろってこれを「雑学」の高級な言い方だと思い、そのままタイトルにしちまったわけだ。違いますか? だとすれば、唐沢がチョイスした三〇冊(役に立つか否かは別にして)、それほど的外れなものはない。
しかし、『博覧強記の仕事術』って、『ノーベル賞の仕事術』っていってるようなものだよね。それをノーベル賞には全然手の届かない奴が書いている。そのくらいみっともないことだよなあ。
さて、あとはkensyouhanさんの検証を楽しもう。
・
唐沢俊一が薦める、常備したい本三〇冊 ⑨
『近世風俗志』 (喜多川守貞 岩波文庫)
流行語、服装、祭儀、食べ物、芝居など、江戸時代の風俗を江戸、大阪、京都の三都を比較して述べたもの。谷沢永一曰く“江戸時代の文献で、高邁な思想を述べたものに今価値あるものはひとつもない。残るは風俗を記録したものだけ”。その典型
この本、一般には『守貞謾稿』と呼ばれている奴だな。唐沢は「守貞謾稿」を知らないのかね。それから、谷沢永一の言説を金科玉条のように崇めるのはやめたほうがいいんじゃないかな。博覧強記を自認するなら。
『エロ事師たち』 (野坂昭如 新潮文庫)
野坂昭如の小説群は昭和風俗雑学本として読み直すことが可能である。『とむらい師たち』『てろてろ』など、知識の奔流がときには小説的結構を押しつぶすところに、逆に知的快感が生まれてくる。
相変わらず無礼だね。お前如きが読み直さなくたって、野坂の小説は不滅だろうし、昭和風俗雑学本なんて評価もいらねえだろっての。
で、ビジネスにこれをどう活用しろっていうのかな。
あ、そうか。
なるほどってことで、総括いたします。
・
唐沢俊一が薦める、常備したい本三〇冊 ⑧
『奇談の時代』 (百目鬼恭三郎 朝日文庫)
超辛口評論家として知られた著者は、また、日本の怪談・奇談のコレククターでもあった。怪談・奇談をそういう話を伝えた人間学としてとらえるスタンスは多分この人だけのものだろう。
間違っても自分が標的になることはないと思ってか、唐沢は百目鬼恭三郎に入れ込んでいたな。義賊が金持ちを襲うのを見て喜んでいる、長屋の住人の心境だね。でもまあ、一度「怪談・奇談をそういう話を伝えた人間学としてとらえるスタンス」なんて文章を書いていたのがばれたなら、完膚なきまでに叩きのめされたろうな。唐沢の悪文、洞察力のあるおれには意味が推測出来るけど、そんな親切な読者ばかりじゃないぞ。つか、唐沢のシンパはこんな文章の意味が分るのかしら(同族の言葉だから?)。百目鬼恭三郎は大嫌い。
『男色の景色』 (丹尾安典 新潮社)
日本文学を語る際に、どうしても避けて通れないのが通奏低音として流れる男色思想。この本はそれを明らかにした論考だが、古典の能、謡曲から三島、川端といった現代文学、「薔薇族」のような雑誌までの博捜が大変雑学的刺激に満ちる。
やったね、これで得意先が男色家でも大丈夫、なわきゃねーだろ。これを仕事でどう活かせってんだよ。だいたい「どうしても避けて通れないのが通奏低音として流れる男色思想」ってことは周知のことって意味だろう。それをなんでわざわざ「それを明らかにした」りする手間がいるのさ。
『滑稽新聞』(宮武外骨 筑摩書房)
反骨家としてでなく、雑学家の元祖としての宮武外骨をもう少し再評価すべきだろう。政治家のスキャンダルを暴く記事の中に埋め草として書かれた、医学や科学知識の雑学が非常に面白い。私もよくネタに使わせてもらっている。
晩年の外骨のパトロンだった、瀬木博尚は博報堂の創設者(一行知識)。
しかし、雑学家の元祖は宮武外骨と言い切っていいのか。
「私もよくネタに使わせてもらっている」って著作権が切れてるから(2005年)パクリ放題ってことですね。さぞ仕事(P&Gの執筆)には役に立つでしょう。
・
唐沢俊一が薦める、常備したい本三〇冊 ⑦
『新戦争論』 (小室直樹 カッパブックス)
こちらは政治的シニカルを徹底して突き詰めた本。情緒に流されず、露悪的にもならずに、戦争が人間社会に必要なものであるという結論に達している。著者には膨大な著作があるが、ほぼこれ一冊を読めば充分。
「唐沢俊一検証blog」の7月2日にエントリに、tochicaという方からこんなコメントが寄せられている。
学生時代社会学を専攻していたので、小室直樹氏がタルコット・パーソンズの構造-機能分析を解説、敷衍した文章を30年ほど前に読んでその論理的な明晰さに驚いた記憶があります。小室氏自身は多芸(?)多趣味な人なのでカッパの本などは独特な読み応えのあるものになっていますが、学問的には十分な実績のある人ですね。
唐沢氏もせっかくカッパの本で小室氏を「師」と仰いだのなら、その思想の上澄みだけをすくったあげくに劣化したと「見限る」のではなく、思想の源流に遡って理解を深めてもよかったのではないかと思います。唐沢氏は「突き詰める」とか「理解を深める」といったことに興味を持たないのかもしれませんが。
まさに唐沢の本質をとらえていると言えよう。小室直樹がどういう人物かも知らずに、あーだこーだ言っているとしか思えない。しかも言うに事欠いて「著者には膨大な著作があるが、ほぼこれ一冊を読めば充分」とは、博覧強記の意味が分っていないことを如実に示しているね。これを全部読めとは言わないけどさ。
『紙つぶて自作自注最終版』 (谷沢永一 文藝春秋)
人間業とは思えない広範囲の読書を、しかも詳細かつ徹底した辛口の批評眼をもって読み込んだ書評集。博学をもって博学を切るという凄まじい姿勢は読む者の襟を正させる。谷沢永一も、この一冊で充分。
谷沢永一が「人間業とは思えない広範囲の読書」をしているかどうかの議論は避ける。しかし、唐沢が考えている人間業とは思えないことのレベルは、世間常識よりずっと低いようだな。どちらにせよ「博学」と称える書評家の本が、なんで「この一冊で充分」なの? だったら唐沢の本なんか……。なにからなにまで、効率でものを考える奴だな。
『知的生活の方法』 (渡辺昇一 講談社現代新書)
べストセラーになったがゆえに刊行当時はいろいろ悪口を書かれたが、今読み返してみると、本を読んで知識を蓄えることを中心にするにはどういう生活スタイルをとったらいいのか、を具体的に描いた、極めて実用的な本。今読んでも古びていないのはさすが。
「本を読んで知識を蓄えることを中心にするにはどういう生活スタイルをとったらいいのか」。推敲しろ推敲を。しかし、意味は分る。本当にそんなことが具体的に書かれている実用的な本なら、「博覧強記の仕事術」を投げ捨てて本書を読むべきだと思うぞ。
『綺想迷画大全』 (中野美代子 飛鳥新社)
審美眼で絵画を見るのではなく、あくまでも知的刺激だけを求めて、その要望に応えてくれる絵画を紹介した本。知識による絵画鑑賞というものはこれまで邪道扱いされてきたが、実はこの見方こそ、最も現代に適応する鑑賞法なのだ。
「最も現代に適応する鑑賞法なのだ」。絵画を鑑賞するのに、現代に適応しているかどうかなんて考える馬鹿がどこにいるのだ。感性云々なんて今更語るのも馬鹿馬鹿しい。説明されなきゃ良さが分らん絵に、どうやって感動しろってのさ。
なんて書くと天下の駄本のようだが、これは唐沢の説明が駄目駄目なんであるからなのだよ。北大名誉教授にして中国文学の泰斗(岩波の西遊記の訳者でもある)著者、中野美代子もまた博覧強記の人。図象学の権威でもある著者が提示する、古今東西の綺想迷画の面白さ、をなんで唐沢は伝えられないのかね。仕事で役立つかは別にしてさ。
『黒魔術の手帳(ママ)』 (澁澤龍彦 文春文庫)
魔術の歴史を望見するにはセリグマン『魔術』(平凡社)などの方がいいのだが、やはり澁澤龍彦の本領がすべて出切ったと言っていい本書を進める。そこには、一般教養から外れた、異端の教養の魅力が充満している。
なにがセリグマン『魔術』だよ。カート・セリグマンの『魔術』と澁澤龍彦の『黒魔術の手帖』を下敷きに、水木しげるは『悪魔くん』を描いたといっているから、そこから仕入れた知識なんだろう。それを自著にさりげなく書く技術を、こいつは「博覧」だと思っているに違いない。因みに『黒魔術の手帖』な。いちいち署名を間違えるなよ。それにしても、「澁澤龍彦の本領がすべて出切った」って凄い文章だね。本領って「発揮」するものなのでは?
・
唐沢俊一が薦める、常備したい本三〇冊 ⑥
『富士に立つ影』 (白井喬二 ちくま文庫)
文化二年、富士の裾野において当時著名の二大築城家同士の、将軍立会いの元での築城論対決があった……冒頭から武芸や築城、狼煙花火などについて膨大な薀蓄が語られるが、これがすべて虚構(ウソ)というのが凄い。むしろ本当に調べた方が楽だったのでは? ある意味雑学本の大パロディ。
駄目だコリャ(爆笑)。
小説がなにかということが、根本的に分っておらんようだな。馬鹿で盛大な嘘話、それをどれだけリアルな物語に見せかけるか、それが作家の手腕というものなのではないのか。いや、興味深いのは「これがすべて虚構(ウソ)というのが凄い」というお馬鹿な文章よりも、「むしろ本当に調べた方が楽だったのでは?」と語るに落ちたところだね。本当に調べるのなら「検索、コピペ、改竄一丁挙がり」だもんね(笑)。
真面目な話、「むしろ本当に調べた方が楽だったのでは?」ってねえ、作家は楽か楽でないかで作品を書いているのではないのだ。面白いか面白くないかで、苦吟し推敲し満足いく作品に仕上げていくのだ。効率で仕事しているんじゃねえや。
『奇妙な論理』 (マーチン・ガードナー ハヤカワ文庫)
アトランティスから創造説、健康法など、疑似科学図鑑といったおもむきのある本。ただこういうものの科学的間違いを指摘するだけでなく、なぜ人間はこういう考えにとらわれるのか、まで突っ込んでいるところが価値。
なにが「価値」だよ、偉そうに。
いいかね、こうした趣旨の本なら、本来『トンデモ本の世界』シリーズが挙げられるのではないのかね。しかし、「科学的間違いを指摘するだけでなく」笑いものにするという方針。「なぜ人間はこういう考えにとらわれるのか、まで突っ込んでいる」本書に比べたら(執筆者の質を含め)月とスッポン、提灯に釣鐘だよなあ。やっと本来の趣旨に合った役立つ本が出てきたのに、なにが「価値」だよ、偉そうに。
『幻影城』 (江戸川乱歩 光文社文庫)
乱歩によるミステリー評論、当時の世界のミステリーガイドであるが、そればかりでなく、乱歩のトリック論、ミステリー論となっている。本の紹介と批評は、それだけで、その評者の主張を表すものになりうるのである。
もはや、「この本が仕事にどう役立つの?」という突っ込みも空しくなってくるね。ともかく、唐沢は乱歩のこの著作を紹介している。しかし、その紹介は「それだけで、その評者の主張を表すものにな」ってはいない。この自己矛盾に気がつかない……からこそ、紙くずのような著作の山を築いてきたのだろうなあ。
『人間博物館』 (小松左京・他 文春文庫)
人間の行いすべて、政治から教育、戦争や宗教までを“性と食”から読み解き分析した本。漫才のような形式で気楽に読めるが、実は人間をまったく神聖化せず“知能ある動物”のレベルでその行動を分析するという、知的シニカリズムに溢れた本。
(小松左京・他)とはなんたる非礼。著者は小松左京、米山俊直、石毛直道。わが国を代表する博覧強記の碩学が、酒を呑みつつ、肴をつつきつつ、猫(小松の飼い猫)をからかいながら歓談する時空を超越した面白話の数々。梅雨の鬱陶しい休日なんかにカウチに寝そべり、一杯やりながら読むには好適の書だ。
なにが「漫才のような形式で気楽に読める」だよ。いや、博覧強記たあこうゆうことだって本ではあるけれど。
しかし、本当に本の紹介が下手だよなあ。
・
唐沢俊一が薦める、常備したい本三〇冊 ⑤
『竜馬がゆく』 (司馬遼太郎 文春文庫)
坂本竜馬(ママ)の人物像を創作し、国民的ヒーローに仕立て上げた本。ただ面白がって読んでいるだけではダメ。作者がどう、主人公を魅力的に描き、それ以外の竜馬像(ママ)を認めないまでにしてしまったか、その手法を学ぶべし。
現代日本における坂本龍馬像というものは、司馬遼太郎によって創造されたものだという意見は間違いではない(唐沢は土方歳三と並べて、本文で司馬遼太郎の業績を称えている)。司馬は自分なりの竜馬像を創造するに当たり、これはあくまでも架空の人物のこととして、「龍馬」ではなく「竜馬」という字を当てているのだ。したがって、唐沢が書いている「竜馬」云々は厳密に言うと間違い。坂本龍馬の名が、生前「竜馬」と記されたこともない。
「それ以外の竜馬像を認めないまでにしてしまったか」というのも酷い悪文だなあ。そして、毎度のことだが、「その手法を学ぶべし」って、どうしてそんな高いハードルを設定するの? 司馬遼太郎が坂本竜馬という人物を、具体的にどんな手法で創造したかすら分からないのに、どうやって学ぶのよ。
『吾輩は猫である』 (夏目漱石 岩波書店)
岩波書店版の「猫」が優れているのは、その注釈である。煩雑なまでに詳しくつけられた注釈は、それだけ抜き読みしても、明治教養人の雑学事典にできるくらいの面白さ。
ついに堪え切れずに大笑いしちまった。
なるほどなあ。唐沢が書く文章がいつも薄っぺらな理由が分かったような気がする。いいかね、夏目漱石という作家を愛読していれば、その時代背景、登場人物の言動から、明治時代というもの(『こゝろ』『道草』『明暗』は大正期の作品だが)のイメージが自ずと作り上げられていく。それが教養であり、それに関して学んだことを忘れずに覚えていることで、いつか「博覧強記」と呼ばれるようになるのだ。明治教養人の雑学事典として『吾輩は猫である』の注釈を読めとは、まあ、なんと浅薄な教養なんだろう。
「それだけ抜き読みしても」って、それだけ抜き読みして「猫」を読んだことにしたのかしら(苦笑)。
『世界の喜劇人』 (中原弓彦 新潮文庫)
ギャグを文章化し、整理番号を付けるという方法をとることで、単なるコメディ論からギャグ事典にまで突き抜けた名著。ギャグを記載することも雑学なのである。
オリジナルは晶文社版なんだけど。いや、なんでそんなこと書くかというと、著者名が中原弓彦なのは晶文社版なのだ。新潮文庫版は小林信彦(言うまでもないが中原弓彦とは同一人物)。なんとも中途半端なペダンチスムだろう。世界の喜劇人を取り上げて、そのギャグ(映画における台詞)を列記したのは確かに本書の特徴だけど、事典という仕様で書かれたものではない(本書の二年後に出た、和田誠の『お楽しみはこれからだ』と同様の書だから)。
唐沢はなにかというと「事典」といった言葉で説明するけど、これって「引用元」ってことなのかしら。つまり唐沢にとってはパクリ元ってことだな。
同様の趣旨で同時期に出た同じ著者の、『日本の喜劇人』を紹介しないのも不思議。
「ギャグを記載することも雑学なのである」。あの……。雑学なんだから、なんだっていいんでしょう?
『注釈版シャーロック・ホームズ』 (小池滋 ちくま文庫)
熱狂的ホームズ・マニア、シャーロッキアンたちが、ホームズの原典を徹底して調べ上げ、詳細極まる注釈をつけた全集。単なる雑学趣味が、19世紀風俗、文化の徹底的なテキストを作り上げた見本。
「熱狂的ホームズ・マニア、シャーロッキアン」というのが、唐沢いうところの「私が博覧強記なのは、“私の好きな分野において”である」ということを体現化した方々なのでしょうね。
19世紀の風俗、文化を知りたいなら、その分野の本を読みまくればいい。肝心のポイントを忘れなければ、博覧強記の第一歩だよ。わざわざシャーロック・ホームズの注釈(またかよ)をその度にチェックする必要はないだろうってか、役に立つのか。唐沢は蔵書七万冊と豪語しているが、「いつでも使えるパクリ放題雑学事典」という類の奴が一冊あれば事足りそうな気がするけど。
『下等百科事(ママ)典』 (尾佐竹猛 批評社)
明治・大正期の、犯罪、賭博・性業界用語をいろは順に羅列した事典。一項目ずつ読んでいっても楽しいが、読み通すことで、下等と呼ばれる世界に住む人間のパワーが伝わってくる。
というわけで、やっと事典が出てきた。しかし、こんな事典のどこが仕事に役立つというのだろうか。商談のときにぺダンチックな話題を提供するためか。下等と呼ばれる世界というのは風俗業界も含まれるようだが、酷い言い様だな。用語が羅列された事典を通し読みすると「パワーが伝わってくる」てのはフォローのつもりなんだろうか。
因みに『下等百科辞典』な。
ふう……。
『ドクター・ノオ』 (イアン・フレミング 創元推理文庫)
007シリーズの魅力は、スパイものという形をとった、六〇年代男性おしゃれ(服装、食べ物、自動車、それに銃)雑学百科事典になっていることである。ボンドもどきが続々輩出したのもそのため。
苦笑。
たった30冊の常備本も、まともに挙げられないのね。「服装、食べ物、自動車、それに銃」ってさ、せめて「ファッション、グルメ、車」くらいの言葉が選べないんじゃろうか。大体、「男性おしゃれ雑学百科事典」になんで「銃」なんてものが出てくるのか。
因みにフレミングにはジェフリー・ブースロイド(Qのモデルになった人)という銃器のアドバイザーがいたのだが、あまり機能していなかったようで、007シリーズの銃器の薀蓄はかなりオソマツ。
しかし、またもや雑学百科事典ですか。
はっきり言わせていただくけど、小説を読んでいて知らず知らずのうちに、知識が身についてくることは当然ながらあるけれど、それを目的に1冊本を読んだところで、そこから得られる知識は微々たる物。況や真偽の検証もなされていないのだ。唐沢のいう雑学は、コンビニの雑学本より薄く、博覧強記にいたってはネット検索と同義語なのではないか。
・
唐沢俊一が薦める、常備したい本三〇冊 ④
『忠臣蔵とは何か』 (丸谷才一 講談社)
忠臣蔵が実は反体制劇であった、という主張は実はどうでもいい。通説に対し異説を唱え、それをどう、世間にアピールしていくか、という方法論の教科書として読むべき。
読んだのかよ(笑)。
『忠臣蔵とは何か』でググルとトップにamazonが出てくるのだが、そこのカスタマーレビューにこんな文章がある(レビューは2件)。
忠臣蔵とは何か、との表題に対し著者は忠臣蔵は反体制劇だったといいたいらしい
強固な忠君忠孝の啓蒙近世戯曲が反体制戯曲であることが知れて来ます。
解題して反体制劇だと理解してもレトリックさは煩瑣で、尚反体制劇など、体制迎合の次世代にとっては理解する意味をなさない(太字は引用者)
amazonでのレビューがどうあれ、『忠臣蔵とは何か』が発表当時話題になった(最終的には野間文芸賞を受賞した)のは、丸谷が忠臣蔵を、怨霊慰撫と捕らえたところにある。陰陽師でお馴染みの百鬼夜行、あれは菅原道真の怨霊が、時の帝を取り殺そうと夜な夜な徘徊していたものなのだ。それが恐ろしかったから、天神様として祀ったのである。同様に、浅野内匠頭の怨霊を慰めるために、赤穂の義士は吉良を撃ったというのが丸谷の説なのだ。傍からは、お上の裁きを不服として吉良を撃ったと見えるだろう。だったら、反体制劇でもいいけれど、丸谷が説いているところはもっと穿ったものなのだ。
しかし、そんな内容が読み取れぬくせに「忠臣蔵が実は反体制劇であった、という主張は実はどうでもいい」とは言いも言ったりだな。内容が理解出来もしない本をどうやって教科書として用いるのか教えて欲しい。
『十二支考』 (南方熊楠 東洋文庫)
ぺダンチック(衒学的)な書物数あれど、その最高峰と言ってもいい論考。博学でものを語るというのは、こういうことなのだということがよくわかる。文体も魅力的。
『博覧強記の仕事術』と題し、冒頭に名前を出した以上、南方熊楠に触れないわけにはいかないだろう。それが『十二支考』というのもよく分かる。熊楠が残した文献の中で、最も平易で分かり易いものだからだ。なんせ、おれも平凡社の南方熊楠全集、まともに読めたのは30年近く前に購って、『十二支考』だけなのだから。
(おれの書棚)
だから、『十二支考』を選んだのは間違いではないと思うのだが、ぺダンチックってどういう意味だと思っているのだろうか。
ペダンチック【pedantic】 「ぺだんちっく」
[形動]学問や知識をひけらかすさま。衒学(げんがく)的。「―な論文」(大辞泉)
熊楠は自分の知識をひけらかそうとして『十二支考』を書いたわけではない、当たり前だ。唐沢は、自分の理解の範疇を越えることは、「衒学的」とか「耽美的」といった自分の理解の範疇を超える言葉で形容すりゃなんとかなると思っている節があるようだ。その伝でいけば専門分野の論文なんか全部、「ぺダンチック」ってことになるんだろうな。
せっかく熊楠の話をしているのに、「博覧強記」と言わずに、なんで「ぺダンチック(衒学的)」とか「博学」なんて言葉を使うのかね。『十二支考』の内容にも、魅力的な文体に関しても、具体的なことは全然書かないのは、いつもの理由からなんだろうね。
・
唐沢俊一が薦める、常備したい本三〇冊 ③
『「お葬式」日記』(伊丹十三 文藝春秋)
映画制作という現場で、誰がどう動き、作品はどう作られるか。後に日本を代表する映画監督となった著者の処女作の記録だけに、一切の幻想化を廃し、ダイレクトに“物作りの過程”が記されている。
「後に日本を代表する映画監督となった著者の処女作の記録だけに」ってどういう意味? そんな立派な方が書いているだけに、嘘偽りは書いてないってことかしら。少なくともこの本が発行された時点(1985)では、未だ伊丹は『お葬式』以外の映画は作っていない。つまり処女作なのか、最初で最後なのか未だわからない時点で書かれた本なのだ。しかし、これをどう仕事の参考にせよというのだろう。
伊丹十三は、英語はペラペラ、オーディションで勝ち取った役でハリウッド映画に出演、俳優としてもエッセイストとしてもイラストレーターとしてもCM作家としても、既に確固たる地位を築いていて、それらの才能が総て発揮できる総合芸術としての映画に挑んだときの記録なのだ。素人が参考にしようたって出来るもんじゃないことは、昨日のエントリでも触れた、壇一雄、山田風太郎と同じこと。
まさか、唐沢俊一は、自分が評論家としてもエッセイストとしても作家としてもプロデューサーとしても俳優としても三流の人間であることに気付いていないわけではあるまいね。
『わが闘争』(アドルフ・ヒットラー 岩波文庫(ママ))
アジテーションのやり方を学ぶためにも目を通しておくべき。ヒトラーの行為は否定されるべきものであるが、しかし目的のために大衆を動かす、という点では彼ほどの成功者はいないのである。
「彼ほどの成功者はいないのである」って(苦笑)。プレゼンテーションの技術を学ぶなら、秋葉原の駅前で包丁売ってるおじさんの話でも聞いたほうがよほど役に立つ。
で、オリジナルは黎明書房版で、現在入手できるのはその改訳の角川文庫版(岩波文庫ではない)なんだけど(書影も角川文庫)。
『不道徳教育講座』(三島由紀夫 角川文庫)
世の中の“常識”には、すべてについて“しかし、そうでない部分もあるんじゃない?”という反論、ツッコミが可能。その技術の最高峰が学べる本。“流行に従え”“教師を馬鹿にしろ”など、今やこっちが常識になってしまった項目もあるが……。
余技で書いた本をその技術の最高峰が学べる本なんて持ち上げられて、三島もあの世で苦笑なんかしてるわきゃないよな、再三、ホモだって書き殴られてんだからさ。唐沢の文章(三島は同性愛者云々)をコピーして平岡家(三島の著作権継承者)に送れば確実に名誉毀損で訴えられるだろう。
もう一度題名を読み直そうね。『不道徳教育講座』だよ。『非常識教育講座』じゃないからね。不道徳と謳いながら、後半は「道徳教育講座」になってしまっているという指摘は、発刊当時既になされていた。突っ込みを学びたいのなら『さまぁ~ずの悲しいダジャレ』で三村突っ込みでも学ぶ方が早いと思うぞ。
『大地』(パール・バック 新潮文庫)
人間という集団の力学を学ぶ教本に、よく人は『三国志』を挙げるが、こちらの方が現代人には理解しやすい。人間を集め、動かすのは“食べ物”と“生まれ育った場所”への愛着だということがよくわかる。
kensyouhanさんも指摘しているが、唐沢は本文でも『大地』に関して、こんなことを書いている。
清朝末期から共産主義中国成立までの時代を背景に、父子三代にわたる一家の変遷をたどる物語だが、中国の歴史と人を描いていて、私は『三国志』などより、こちらの方が優れた作品ではないかと思っている。
はいはい。『三国志』読んでないんですね(笑)。話題が三国志になりそうになったら「いや、でもね『大地』の方が、そういう意味でははるかに――」とか話題をふって逃げるわけですね。
いや、一番の問題は、共産主義中国(中華人民共和国)の成立は1947年、『大地』が発表されたのは1931年。「大地」「息子たち」「分裂せる家」の三部作『大地の家』ですら1935年なのだから、「共産主義中国成立までの時代を背景」にしているわけがないのであるよ。
本当に読んだのかい?
しかし、まともなものが一つもないってのも凄いね。
・
笑犬楼大通り 偽文士日碌
筒井康隆先生が、6月28日の日記にこんなようなことを書いておられる。
筒井さんは、丹後半島、夕日ケ浦温泉にいらっしゃったのだが、都会から離れた地なので、テレビに出ている人間を珍しがって、地元の連中がやたらと声をかけてきたそうだ。紙切れにサインをねだるあつかましいのもいて、そうした奴に共通するのは、「読んでいます」ではなく「見てます」と言うところだとか(筒井さん無論断わった)。
東中野というのは、大分都会から離れたところなのだろうな。その僻地で、唐沢俊一は「見てます」と言われて至上の喜びにのた打ち回っているということか。
・
唐沢俊一が薦める、常備したい本三〇冊 ②
では、早速。
『円生(ママ)の録音室』 (京須偕充 中公文庫)
オリジナルは青蛙房。別に落語ファンでなくとも、ひとつのプロジェクトの立ち上げから完成まで、ここまで詳細に段取りを記録した本はそうない。情熱を形にする教本。
「オリジナルは青蛙房」ってなに? いや、唐沢は青蛙房版のオリジナルを所蔵していると自慢したいのね。でもまあ嘘だろうな。持ってりゃ、得意げに書影を載せるだろう(書影は文庫本)。こんなときはね、しれっと出版社名は青蛙房にしておいて、「絶版。ただし中公文庫版は入手可能」としておけばいいの。分かった?
いや、それはそれとして、この本、一体何の本なの? そもそも、「別に落語ファンでなくとも」って言葉はどこにかかるの? こんな短い文章もまともに書けないんだなあ(推敲しろよ)。
『圓生の録音室』は著者、京須偕充が圓生の人情噺を後世に残そうとしてはじめた記録作業が、ついには「圓生百席」を生むまでに至るドキュメント。その作業を通して、落語というものの記録(録音)のしかた、圓生の知られざる人柄までが描かれた傑作なのだ。名著だが、これを以って「情熱を形にする教本」と定義されても困るよね。
ま、唐沢の日常の「仕事」が如何に手抜きか、本書を読んで比較してみればよおっく分かるよ。
※本文中でも
京須氏の代表作『 圓生の録音室』(青蛙房、一九八七)では、筆者が、TBS定年退職後、プロダクションを作って 圓生のマネジメントを引き受けている出口(註:人名)の事務所を訪ねるところが前半のポイント(出口がグイと拳を握って突き出し、三遊亭はこれだ、というあたり)にもなっている。
というよう分からん説明しかなされていない。
因みに「筆者」というのは「著者」京須偕充のこと。TBSを定年退職したのは京須ではなくて出口。分かりにくい文章だよなあ。
『壇流クッキング』 (壇一雄 中公文庫)
料理という、ひとつの作業を、ここまで簡略化しつつ魅力的に表現した本はちょっとない。この手法をマスターすれば、料理以外のことの手順解説に応用できるはず。
なんだよ、この出鱈目な文章は。「料理という、ひとつの作業を、ここまで簡略化しつつ魅力的に表現した本はちょっとない」かどうかは異論のあるところだろうが、あくまでも唐沢の解釈の問題として措いておこう。しかし、そうだとするなら、それは壇一雄という才能ある作家の手によって初めて成立するものなのではないのか。「この手法をマスターすれば」なんて簡単に言うが、壇一雄なみの文章が書けるようになるってことで、まあ、それだけでハウツー本が書けるぞ。況やそれが「料理以外のことの手順解説に応用できる」というなら、ベストセラーも夢ではねえぞ、おっさん。
少なくとも、唐沢自身が全く「この手法をマスター」出来ていないことは火を見るよりも明らかだ。
『人間臨終図鑑』(山田風太郎 徳間文庫)
手軽な文化人データベースにも使えるが、要はひと一人の一生を、死亡という時点に合わせてどうダイジェストするかという“まとめ方”の教科書。
「手軽な文化人データベース」。そんなデータベース、ネット上にならいくらでもあるよ。山田風太郎だってなもんに手軽に使われちゃあたまらんだろう。しかし、「要はひと一人の一生を、死亡という時点に合わせてどうダイジェストするか」というのはまた物凄い悪文だね。「人生を臨終という視点で総括する」くらいのことが書けないのだから、中学生以下だよなあ。
いいかね、本書は、あの山田風太郎の著作なんだよ。能無しが「“まとめ方”の教科書」と看做すのはいいが、自分にこんな文章が書けると思っているのかね。ほんと、小学生の教科書から勉強しなおしな。
ふう。なんか、情けなくなってくるな。多分、自分なりにハウツー本の紹介をしているつもりらしいが、唐沢から「仕事術」を学ぼうとしている連中(唐沢より低レベル)には高度すぎて全く役に立たない情報だと思うけどね。