選択/謙也と千歳
(これが最後や。これが最後の試合になるかもしれん。俺は、俺は、俺は……)
忍足はずっと考えている。成行きに身を任せるのを厭うて、情況に流されるのを嫌って、一人でずっと考えている。自力で見つけようとしている。最善の道を選び取ろうとしている。一番大切なものは何か探し当てようとしている。
(勝ったもん勝ちや)
先刻白石に放った台詞が耳に残っている。そうだ、これが正しい道だ。四天宝寺の信条だ。胸に響くのは、頭を巡るのは、口をつくのは、どうしたってその一言だ。
強い者がコートに立つ。勝てる者が試合をする。そうだ、小石川だって了解したのだ。潔く捌けたのだ。ここで忍足が保身に走ってどうする。それは侮辱だ。四天宝寺全テニス部員に対する背徳だ。そんなことは出来ない。忍足が忍足を許せない。
白石が勝った。当然だ、四天宝寺の聖書だ、誇るべき部長だ。金色と一氏が負けた。いい試合だったが負けは負けだ、過程は関係ない。石田も負けた。骨折なら仕方がない、続けるのは無理だった。
次、次で、勝敗が決するかもしれない。四天宝寺の夏が終わるかもしれない。忍足の夏が終わるかもしれない。
ぞわっと、寒くもないのに肌が泡立つ。これでいいのか。これでよかったのか。本当は試合がしたかったんじゃないのか。
忍足はずっとテニスをしてきた。幼い頃は従兄弟と一緒に、中学に入ってからは毎日部活に精を出した。自主練さえ欠かしたことはない。毎日テニスと関わった。テニスをするために生きた。テニスしかしなかった。この二年半ずっと、四天宝寺テニス部員として過ごしてきた。三年生になってやっととれたレギュラーだった。氷帝学園で既にレギュラーとなっていた従兄弟に、やっと堂々張り合えると喜び勇んで電話した。二年生の時分から部長を務めていた白石を、本当の意味でサポートできるのはこれからだと思った。忍足が四天宝寺テニス部の勝利の一端を支えていくのだと思った、背負っていくのだと思った、担っていくと誓った。
千歳がコートに入っていく。対戦相手に歩み寄ってにやりと笑う。その手が握手をする。ラケットを持つ。忍足は千歳の一挙一動を余すことなく見つめる。焼き尽くすほど見つめる。太陽が目を焦がすより強く千歳の動作を見る。
忍足は千歳に勝てとは言わなかった。ただ千歳が立つべきだと、コートにふさわしいのは千歳だと言った。私服の千歳が下駄を鳴らして駆けだした後、忍足は崩おれたかった。勝てと叫びたかった。なぜ千歳なのかと、なぜ忍足ではないのだと、所構わず当たり散らしたかった。オーダー表に書かれた名前が忍足のものでないと知っていた。電光掲示板に表示される名前が忍足のものでないと知っていた。どちらも見ることができずに忍足は俯いた。震える唇を噛みしめた。
千歳は今、四天宝寺の全部員の期待と視線を背負ってコートに立っている。四天宝寺のレギュラージャージを着て、テニスシューズを履いて、聞き慣れぬ言葉で、聞き慣れた台詞を言う。
「勝ったもん勝ちばいね!」
忍足は思わず叫んだ。血を吐くような応援だ。周囲の部員が忍足を見る。忍足の目には千歳しか映らない。目の前の試合しか見ていない。部員は忍足を見るのをやめ、改めて千歳の応援をする。四天宝寺の夢を繋いでくれるはずの仲間を応援する。必死に手を振る。懸命に声を張る。腕がもげたって構わない、一生話せなくなってもいい、勝て、勝て、届け、頼む。
(やりたいんやろ、手塚と)
忍足は一生分の気持ちと熱意をここに置いていくつもりでいる。この中学三年生の夏に置き去りにするつもりでいる。積み上げてきたものを残そうとしている。今までの努力を還そうとしている。できればコートに置いていきたい。ラケットを振るいたい。ボールを打ち込みたい。この足で走りたい。追いつきたい。この腕で掴みたい。もぎ取りたい。
一番大切なものは何だろう。忍足にとって、千歳にとって、四天宝寺にとって、一番大切なものは何だろう。一番忘れてはいけないものは何だろう。何を置いても守らなければならないものは何だろう。選び取らなければならないものは何だろう。
忍足は叫ぶ。コートに向かって叫ぶ。塀を掴んで叫ぶ。前に突き出して叫ぶ。絞りだすように叫ぶ。忍足の全身から何から一切残るものがないように、過去も未来もすべてを賭けて叫ぶ。これから先がカスみたいな人生でも構わない。
楽しそうにラケットを振るう千歳の目がきらきらと輝く。その目は何も映していなくても美しく光る。汗にまみれた忍足の目には、発光する千歳の全身は輪郭がぼやけて映る。くっきりと鮮やかに残しておきたくて片袖で素早く顔を拭う。スイートスポットを外れない、小気味よい音のラリーがいつまでも聞こえる。
楽しくて仕方がなさそうな千歳を見るのは悪くない。千歳は仲間だ。忍足の仲間だ。
本当に大切なものは何か、その答えを、忍足は忍足の中に見つけようとしている。千歳の中に見出そうとしている。どうしても聞きたいことがある。どうしても言いたいことがある。どうしても確かめたいことがある。どうしても分ち合いたいものがある。願いを託すのと同じ強さで、忍足は千歳に問いかける。
(千歳、お前、テニス好きか?)