静かな夜に雨が降る


☆ときめきトライアル16☆
選択/謙也と千歳


(これが最後や。これが最後の試合になるかもしれん。俺は、俺は、俺は……)

忍足はずっと考えている。成行きに身を任せるのを厭うて、情況に流されるのを嫌って、一人でずっと考えている。自力で見つけようとしている。最善の道を選び取ろうとしている。一番大切なものは何か探し当てようとしている。

(勝ったもん勝ちや)

先刻白石に放った台詞が耳に残っている。そうだ、これが正しい道だ。四天宝寺の信条だ。胸に響くのは、頭を巡るのは、口をつくのは、どうしたってその一言だ。
強い者がコートに立つ。勝てる者が試合をする。そうだ、小石川だって了解したのだ。潔く捌けたのだ。ここで忍足が保身に走ってどうする。それは侮辱だ。四天宝寺全テニス部員に対する背徳だ。そんなことは出来ない。忍足が忍足を許せない。

白石が勝った。当然だ、四天宝寺の聖書だ、誇るべき部長だ。金色と一氏が負けた。いい試合だったが負けは負けだ、過程は関係ない。石田も負けた。骨折なら仕方がない、続けるのは無理だった。

次、次で、勝敗が決するかもしれない。四天宝寺の夏が終わるかもしれない。忍足の夏が終わるかもしれない。

ぞわっと、寒くもないのに肌が泡立つ。これでいいのか。これでよかったのか。本当は試合がしたかったんじゃないのか。

忍足はずっとテニスをしてきた。幼い頃は従兄弟と一緒に、中学に入ってからは毎日部活に精を出した。自主練さえ欠かしたことはない。毎日テニスと関わった。テニスをするために生きた。テニスしかしなかった。この二年半ずっと、四天宝寺テニス部員として過ごしてきた。三年生になってやっととれたレギュラーだった。氷帝学園で既にレギュラーとなっていた従兄弟に、やっと堂々張り合えると喜び勇んで電話した。二年生の時分から部長を務めていた白石を、本当の意味でサポートできるのはこれからだと思った。忍足が四天宝寺テニス部の勝利の一端を支えていくのだと思った、背負っていくのだと思った、担っていくと誓った。

千歳がコートに入っていく。対戦相手に歩み寄ってにやりと笑う。その手が握手をする。ラケットを持つ。忍足は千歳の一挙一動を余すことなく見つめる。焼き尽くすほど見つめる。太陽が目を焦がすより強く千歳の動作を見る。

忍足は千歳に勝てとは言わなかった。ただ千歳が立つべきだと、コートにふさわしいのは千歳だと言った。私服の千歳が下駄を鳴らして駆けだした後、忍足は崩おれたかった。勝てと叫びたかった。なぜ千歳なのかと、なぜ忍足ではないのだと、所構わず当たり散らしたかった。オーダー表に書かれた名前が忍足のものでないと知っていた。電光掲示板に表示される名前が忍足のものでないと知っていた。どちらも見ることができずに忍足は俯いた。震える唇を噛みしめた。

千歳は今、四天宝寺の全部員の期待と視線を背負ってコートに立っている。四天宝寺のレギュラージャージを着て、テニスシューズを履いて、聞き慣れぬ言葉で、聞き慣れた台詞を言う。

「勝ったもん勝ちばいね!」

忍足は思わず叫んだ。血を吐くような応援だ。周囲の部員が忍足を見る。忍足の目には千歳しか映らない。目の前の試合しか見ていない。部員は忍足を見るのをやめ、改めて千歳の応援をする。四天宝寺の夢を繋いでくれるはずの仲間を応援する。必死に手を振る。懸命に声を張る。腕がもげたって構わない、一生話せなくなってもいい、勝て、勝て、届け、頼む。

(やりたいんやろ、手塚と)

忍足は一生分の気持ちと熱意をここに置いていくつもりでいる。この中学三年生の夏に置き去りにするつもりでいる。積み上げてきたものを残そうとしている。今までの努力を還そうとしている。できればコートに置いていきたい。ラケットを振るいたい。ボールを打ち込みたい。この足で走りたい。追いつきたい。この腕で掴みたい。もぎ取りたい。

一番大切なものは何だろう。忍足にとって、千歳にとって、四天宝寺にとって、一番大切なものは何だろう。一番忘れてはいけないものは何だろう。何を置いても守らなければならないものは何だろう。選び取らなければならないものは何だろう。

忍足は叫ぶ。コートに向かって叫ぶ。塀を掴んで叫ぶ。前に突き出して叫ぶ。絞りだすように叫ぶ。忍足の全身から何から一切残るものがないように、過去も未来もすべてを賭けて叫ぶ。これから先がカスみたいな人生でも構わない。

楽しそうにラケットを振るう千歳の目がきらきらと輝く。その目は何も映していなくても美しく光る。汗にまみれた忍足の目には、発光する千歳の全身は輪郭がぼやけて映る。くっきりと鮮やかに残しておきたくて片袖で素早く顔を拭う。スイートスポットを外れない、小気味よい音のラリーがいつまでも聞こえる。

楽しくて仕方がなさそうな千歳を見るのは悪くない。千歳は仲間だ。忍足の仲間だ。

本当に大切なものは何か、その答えを、忍足は忍足の中に見つけようとしている。千歳の中に見出そうとしている。どうしても聞きたいことがある。どうしても言いたいことがある。どうしても確かめたいことがある。どうしても分ち合いたいものがある。願いを託すのと同じ強さで、忍足は千歳に問いかける。

(千歳、お前、テニス好きか?)


2009/06/15 (Mon)



☆ときめきトライアル15☆
見捨てないで/幸村と真田


幸村はそれを聞く度に、不思議だと思う。そんなつもりは毛頭ないのに。真田が幸村を見限らないかぎり、そんなことは元より起こりようもないのに。

それは幸村には言えない台詞だ。どんなに怖くても、どんなに切羽詰まった状況でも幸村には言えない。そんなに下手に出られない。誰に対しても、そんな風に媚びたり縋ったりするのは嫌だ。幸村の自尊心はそれに耐えられない。無理だ、どうしても。言えと強要されたら舌を噛み切りたいくらい嫌だ。
それでも死を選べない幸村は苦しみながらそれを口にするだろう。ものすごく悔いながら。あらゆるものを呪いながら。願わくはそんな日が未来永劫来ませんようにと幸村は祈る。なにせ人生は何が起こるか分からない。

真田は幸村に対して何回でもそれを繰り返す。幸村に対してだけかどうかは知らないが、とりあえずそんなに言われると実行したくなるのが幸村だ。誘われているのかと思ってしまう。恐れていること、少なくとも恐れていると明言していることが現実になったら、真田は泣くのだろうか。どんな顔をするだろう。絶望するか。それとも実は何ともないだろうか。

真田の言葉はただの記号に過ぎないのだろうか。何かの儀式や挨拶のようなものなのだろうか。幸村には真田の言葉が本気だとは思えない。真田は真顔でそれを口にするのだ。それも毎日、ふとした瞬間に何度でも。切羽詰まった様子など皆無だ。今日は暑いな、と同じ調子で言う。頭の湧いたメロドラマでも最近聞かないようなその台詞を、真田が。何度も、幸村に。

本当に見捨てられたくないなら、見捨てられないよう努力すればいい。それをしないで、言葉だけを繰り返して安心を得ようとしているなら、とんだ御門違いだ。幸村の傍にいるために必要なものなど当人の気力と意思だけで、資格も権利もいらない。だから真田はのらくらしているだけでも十分に望みを叶えられる。幸村には真田が自らそれをぶち壊しにかかっているとしか思えない。わざわざ確認するほどのものでもないだろうに、そんなにべったりした関係でもないのに、しかもそんなことは絶対に言わないような真田がそれを言うのは、至極不気味だ。

幸村に見捨てられないのが不思議だと真田は言う。真顔で言う。同じ調子で今日もまた繰り返す。幸村にはそんなことを何度も繰り返し言う真田の方が不思議でたまらない。
幸村に嫌われるのがそんなに怖いかという意味のことを聞いたら、他に友達がいないからとやはり真田はあっさり答える。あっそう、と幸村は頬杖をつく。

しかし真田が今日もクラスメイトと仲よさ気に話していたことを、幸村は覚えている。


2009/06/14 (Sun)


☆ときめきトライアル14☆
隣/白石と千歳


どうしていつもそんな風に消えるのかと問われた。だってつまらんけんとは流石に千歳も応えなかった。その代わり申し訳なく見えるように、にっと笑みを浮かべた。白石は嫌な顔をした。千歳は可笑しくて、そんな顔をする白石が滑稽で、今度は本気で嗤った。

引き止められたならいくらでも留まるのに、それをしないのは白石なのだから、千歳がどうしたって関係ない。嫌なら白石が千歳に構えばいいのだ。白石が千歳の腕をとり、千歳の声を請えばいいのだ。それをしないのは白石なのだから、千歳には責められる謂れがない。白石がいつも千歳を見て、千歳を愛し、千歳を望むなら、白石は消えようとする千歳に文句を言う権利があるけれど、白石は千歳に何かを捧げる気などないのだ。労力や時間を捧げる気はないのだ。愛情も薄いのだ。

仲間を侍らせたいだけならば、千歳を繋ぐことなど出来はしない。差し出さなければ。それも本気で願って主張して行動しなければ千歳は満足しない。ちょっと頼まれたくらいで千歳の心は動かない。

もっと本気で差し出してほしい。いかに千歳が必要か、その必死さを、心を晒してほしい。醜悪だって構わない。どれだけ千歳を望んでいるのか、全身で示してくれれば十分だ。それをしないで千歳を縛ろうとするのは、傲慢だ。不条理だ。卑怯だ。千歳にはそれが許せない。

どうして白石がそこまで不満そうな顔をするのか、千歳には理解できない。欲しいなら欲しいと言えばいいのだ。己が千歳をいかに好きか表明すればいいのだ。それをしないのは白石なのだから、千歳には何の義務もない。何の制約も、罪悪感もない。

千歳の所有権を得たいなら行動に移せばいい。許しを待つだけの人間に、千歳は己の何をも明け渡したくない。どんな感情も教えない。行く場所なんて知らせない。消えたって関係ない。断わる必要もない。千歳は今や誰のものでもないのだから、風や水のように振る舞って何の支障があるだろう。規則や団結に、どれだけの意味と価値があるというのだろう。少なくとも千歳にとって、それらは大切なものではない。微塵も意義などない。一体そこにどんな利点があるだろう。得るものは何だろう。千歳を望まない人間の傍にいることが、どうして千歳の利益になるだろう。千歳はどうしてもそこに価値を見出せない。

捧げろ差し出せ曝け出せ、そして全てを明け渡せ。
犠牲を、贄を、千歳の為に。千歳だけの為に。

死ぬ気で欲するならいくらでも与えてやるのに、血を吐いて叫ぶならいくらでも駆け寄ってやるのに、それをしないのは白石なのだから、千歳にはやはり白石の不快など、遠く離れて関係ない。


2009/06/13 (Sat)


☆ときめきトライアル14☆
Calling /伊武と神尾


毎日まっとうに暮らしていれば、思うことはあるわけで。吐き出さなきゃ、やっていられないわけで。都合のいい相手が、神尾だったわけで。

発信履歴から番号を呼び出す。呼び出し音はいつも通り単調で、どうしてか聴くたびにそわそわと落ち着かない気分になる。

「もしもし」
「Mステ見た? ありえないよな今の明らかに口パクじゃん堂々としてるのが信じられない恥ずかしくないのかなアイドルならまだしもこいつらごついおっさんだろ? 踊ってるわけでもないのに調子のってるよな」
「あー俺も思った、あれはひどい」
「だろ? 恥を知れ恥を、全国放送の偉大さを自覚しろ」
「相変わらず辛口だな」
「あんなもんを見させられる俺の気持ちになってみろよへこむから」
「好き好んで見てるのはこっちだろ」
「それはそうだけどそんなんじゃないんだよ俺が求めてるのはもっとハイクオリティな演奏であって最近のJポップは死んでるジャニーズだけが音楽じゃないってことを世間のブスどもは分かってない」

神尾が笑い出す。ははっと最初は大きく、次第に小さく。
何笑ってんだよと思わないでもないが、伊武は大人しく口を噤む。面と向かって話している時はあちらの反応など気にしないのに、電話だと神尾が笑い終わるのを待ってしまう自分が不思議だ。

言葉を繋げることができなくなる。反応を遮ることが難しくなる。片方の耳だけに集中して、取りこぼさないようにしなければと思ってしまう。

携帯を強く押し当てて耳が痛くなるのも、手に持つ機体がいつの間にか呆れるほど熱くなるのも、伊武は嫌いではない。

(ところでさー、今月の電話代いくらだった? 俺、八千円つかって親に怒られたんだけど。どうしても電話したいなら家電の子機でしろってさ、ありえないよな)

言いたくて言いたくてたまらないことがある。不満を冗談に還元して消化してしまいたいと思う。けれどそれを口にしたらもう神尾と電話できないかもしれないと思うと、伊武は口を噤んでしまう。


2009/06/12 (Fri)


☆ときめきトライアル13☆
About us/切原と杏
奇跡の30.5巻ネタ


「ただいま〜」
「……おかえり」

ゴクトラの散歩に行った兄が切原になって帰ってきたので、杏は驚き半分呆れ半分で挨拶を返した。

あちーとか何とか言って切原が額の汗を拭うから、今しがたごくごく飲んでいたカルピスをつい癖で差し出すと、さんきゅと一気に飲み干されてしまう。ああ、またついでこなくてはいけない。惜しみなく氷を入れて並々と甘いカルピスで浸したコップを台所から持ってくるとリビングのソファに切原はいなくて、庭でゴクトラの首のあたりを嬉しそうにうりうりしていた。だから杏は、犬好きの人に悪い人はいないというあれは嘘だと思う。

「切原くんは犬が好きなの?」
「あ? うん、好き好き。かわいいじゃん、ゴクトラ」
「そりゃあ可愛いわよ、可愛くないわけないじゃない」

杏が両手に持ってきた内の一つを切原は遠慮のかけらもなく受け取り、うめーと言ってにかっと笑う。杏の口調が喧嘩腰なのは、切原が嫌いなわけでも、ゴクトラをとられて嫉妬しているわけでもなく、お腹が空いているからだ。ぺぺロンチーノが食べたくて兄にせびろうと思っていたのに、帰ってきたのが切原では役に立たない。

「あ、もしかして切原くん、料理得意?」
「はあ? んなわけねえじゃん」
「だよねえ」

はあ、と溜息をついて、橘杏はちびちびと薄くて冷たいカルピスを飲む。このままお腹がたぷたぷと水分ばかりで膨れたら悲しい。

「ねえ、兄さんは?」
「うーん? なんかあー、買い物してくるっつってたけど」
「いつ帰ってくるの?」
「知らねえ」
「ええー、お腹空いたー」
「自分で作ればいいじゃん」
「はあ? 作れるわけないじゃん」
「だよなあ」

先程の切原の口調を真似て返すと、切原も橘杏の口調を真似てきた。下らなくて、ちょっと笑う。
本当はこんな蒸し暑い屋外じゃなくてクーラーの効いた部屋にいたかったけれど、切原が庭から動く素振りを見せないので、せっかくだから付き合ってあげることにする。暑い暑いと言いながら切原はちっとも辛そうじゃない。毎日と言っていいほど炎天下でコートを駆け回っているだけあって、流石に体力があると思う。どうせこのままご飯も食べていくのだろうから、兄が帰ってくるまでだらだらと話を続ける。

「切原くんはさー、なに食べたいの?」
「ええ? 美味けりゃなんでもいいよ」
「鍋でも?」
「お前、それは極端」
「だってなんでもって言うから」
「熱いのは流石に勘弁な」
「ラーメンとかカレーとかも嫌なの?」
「うーん、別に……こう、常識で考えろよ」
「常識ってなにさ」
「うわあ」

出たよ、と低く呟いて切原が顔を顰める。あんたら兄妹はほんとダメ人間だよな、とか思っているに違いない。この少年はほんとに失礼だ。

「そんなの知らなーい、分かんなーい」
「おーよしよし、可哀想に……」

杏の足元に懐くゴクトラの頭を憐れむように撫でる切原の、もじゃもじゃと暑そうな髪を今すぐにでも刈ってやりたい。


2009/06/11 (Thu)