星に願いを/神尾と桃杏
誰がどれだけ辛いかなんて話をする気は毛頭ない。どちらが苦しいかなんて主張は無意味だろ。優しい先輩、良い環境。羨みも妬みもしない。俺には俺の場所があったから。あの人がいたから。
公園のストリートテニスコートは彼女の城だ。今日の俺はそれを拝借している。彼女にお伺いを立てて使わせてもらっている。みんなそうだよ。だって彼女はここの女王様なんだから。管理しているのはもちろん区の人だけど、そういうことじゃなくて、ここは彼女の居場所だから、だからあの人は来ない。あの人は彼女の庭に入れない。あっという間に奪ってしまうから来られない。彼女の大切なものを彼女の所有物のまま留めておくためには、あの人はここに来てはいけない。
今日は桃城が打ちに来ている。こんなところで油を売っている暇があったら他のことをしろよ。だってお前が来ると彼女が嬉しそうに笑うんだ。誰に対してもそうだけど、それとは違う種類の匂い。俺には分かる。常の如くきらきらの笑顔に、甘い媚びが混じる瞬間の色香。それを間近で見てしまうこの苦しさとときめきがお前に分かるか。分かる、か。なんせお前はそれを真正面で受け止めているんだもんな、分からないはずがない。
お前はずっとそうやって輝いていればいいさ。俺の命はお前よりずっと短い。でも完全燃焼させてやるから。お前は長距離、俺は短距離。花火みたいに走り抜いて死ぬから。筋肉を縮めて生きるから。全力ダッシュで死んでやる。そんな風に思っていたのにいつの間にか夏は過ぎて秋風の吹く季節になった。俺の熱はどこかに行って、あんなに燃え盛っていた炎は吹き消されて、まさしく打ち上げられた花火みたいにパーンと無くなってしまった。
ゼロから始めることがどんなに難しいか、あの人がいなくてようやく悟る。俺はあの人が不動峰にきてからずっと魔法をかけられたみたいに夢中で体を投げうってテニスに打ち込んだけれど、やはりそれは魔法でしかなかったのだろうか。夢から醒めてしまった子どもはもう舞台から退くしかなくて、もうあんなに何かを追いかけることは出来ないのだろうか。
「後輩入ってきたのか」
ゲームを終えたお前が涼しい顔で隣に座る。高校生と組んで試合に臨む彼女に爽やかな笑顔で手を振る姿が憎い。
「ああ、二、三人。辞められたら困るから、すげえ大事」
「なるほど」
大げさにならない程度に驚いてみせるから、こちらとしては話しやすい。楽だ。楽だからこそ嫌いだ。なんだって俺にはない能力を見せつけられる度に苦しい。
「後輩、貴重だぜ。むしろ俺らが気を遣うっていうか、深司はまあ相変わらずだけど」
「だろうなあ」
はは、と笑う反応の一つさえこぼさないように神経を張る。彼女を目で追いながら、耳は隣に座る男の情報をキャッチしようとびんびんに働く。
「雑務も俺らが率先してやってる感じ。橘さんがそういう人だったから。仕事は上の人間がやって、下になるべく負担かけないようにって」
「体育会系っぽくねえな」
「だろ、そういう人なんだよ。だからいつも忙しそうにしてた。不満なんて聞いたことねえけど、時々つかれたってため息つくことはあったよ。んで、俺とかがぎゃあぎゃあ騒いで、楽しかった」
「うん」
「なんか寂しいよ。俺、橘さん大好きだもん」
隣で口を開く気配がしたけど、俺は何も言わせなかった。夜が俺の口を滑らかにしていた。
ライトアップされたコートで彼女がスコートを翻して踊る。俺の目は彼女の髪や、顔や、足や、腰なんかをとりあえず捉える。その内どこを見たらいいのか分からなくなる。俺は彼女のパーツのどこが一番好きで、どこを見るべきなのだろうと考えても答えは出ずに目移りする。光のなかで動く彼女はきらきらしている。夜に潜む俺の息はきっと醜い。
「そりゃあお前のとこみたいに数はいねえし、一緒にいた時間だって比べたら短いけど、やっぱりあの人すげえもん。違うもん。俺らなんかとは全然」
「俺んとこだって」
悲しい声が遮った。
「あーあやめやめ! こんなとこで沈むなよ。気張っていこうぜ」
豪快に笑って背中をたたく、そういうところが彼女の心を奪うのかもしれないと思うと物凄くムカついた。
あの人はもしかしたら知っていたのかもしれない。今の俺が死ぬほど後輩を必要としているように、俺らはあの人の生命線だったのかもしれない。だったらもっとやれることがいっぱいあったんじゃないかとか思うけど、所詮俺にそんな力はなかったと思いなおす。俺らがあの時からずっと先輩ってものの存在に忌避感を抱いていたことなんか自明の理で、だからあの人が先輩っぽくなかったのも道理なのかもしれない。なんだか申し訳ない。
僻む気持ちはないけれどベスト8と優勝ではあからさまに輝きが違って、俺にはお前がヒーローみたいに見える。でもお前は決勝戦に出なかったんだな。ウチとやった時もそうだったな。結局青学とウチが当たったのは地区大会だけだったな。
お前が部長じゃないって聞いた時は正直驚いた。お前がウチにいたらお前は部長になっていたと思う。悔しいから認めないけど、お前がウチにいたらあの人はどんな時も俺でも深司でもなくお前を選んだだろう。あの人は正しいから。強さに対して真摯だから。俺はお前に負けるつもりは毛頭ないけど、そういう話じゃなくてお前は部長に向いているぜ、俺よりも。でもマムシの方が向いていたんだな。お前とマムシ、仲の悪いライバルなんだろ。それってどんだけ辛いのよ。俺なら死ぬほど嫌だ。嫌いな奴が俺より偉い立場にいるなんて。でもそういう風に選んだんだな。選ばれたんだな。
可哀想な感じが少しして、すぐに消えた。お前にはお前の環境があって、そこに俺の価値観は関係なくて、逆も然りだ。互いが互いの場所でそれぞれ勝手に頑張るしかなくて、そういう気持ちで深呼吸をした。感情の導火線はいたる所にある。
彼女が飛び跳ねて嬉しがって、相方とハイタッチするのを忌々しい思いで見つめる。奴の掌が嫉妬の炎で焼け焦げてしまえばいい。俺の体が炭になるのが先かもしれないけど。軽快に俺のもとに帰ってくる彼女に頬が緩んだ瞬間に「ちゃんと見てた?」なんて愛らしく小首を傾げて興味と愛情をせびる相手はお前なんだから嫌になる。分かっていた、分かっていたけど、楽しそうに会話するんだもんな。ほんとうに、彼女は可愛いけれど残酷だ。
「頑張れよ」
「ああ、お前もな」
ラケットバッグを背負って笑いながら階段を降りる。彼女がお前に寄っているのはこの際気にしない。気になるけど。悔しいのでバッグを背負直して、首だけで振り返ってなるべく嫌味に見えるように口角をあげて手を振る。
「マムシによろしく」
「りょーかい」
お前は両手を上げて振って笑う。いい奴だ。隣に彼女がいなけりゃ。自転車を押しながら並んで歩く二人はカップルみたいで反吐が出る。お前の腕に手をあてる後ろ姿だけが、俺の嫌いな彼女だ。
俺はお前をいい奴だと思っているが、彼女のことがあるからお前よりマムシが好きだ。部長同士だし。
この後ふたりはどこに行くんだろう。マック? ミスド? まっすぐ帰るにしたってお前は彼女を送るだろう。ゴクトラに噛まれて死んじまえなんて馬鹿なことを、俺は夜空に真剣に願う。