「テッド・ファイヤー! がががっ!」

■知人の日記要旨

最近の若者は根性がないぞ。
なんで?

 

■コメント返信

1.インフラの整った生育環境
2.苦労の不足
3.情報化による世界のネタバレ化

1.
生活機能の行政化、コンビニ化で、
答えがすでに整理され、用意されている環境で生育する。
果たして、試行錯誤に耐えられない、近道を求める、
あいまいな解を不快と感じる。

2.
団塊世代~新人類世代の親は、
「わが子には自分のような苦労をさせずに偉くしてあげたい」と考える。
果たして、打たれ弱く、わがままな子どもができあがる。

3.
高度に情報化した社会では、危機回避のための事前情報、
自己分析のための比較情報、周囲観測のための統計情報が与えられる。

これらは非常に便利な反面、
子どもから感動(喜怒哀楽、不安または安心)を奪い、
自己存在の矮小化(かつて自分だけのものと思えた経験が、
実はありふれたものだった)と、自己同一性のゆらぎ
(自分と似たような人間はいくらでもいるようだ)を招来する。

世界がネタバレしている状態なので、
期待の水準が低下し、あきらめが早くなり、
あるいは始めから努力をしなくなる。

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「あんた、あの子の何なのさ」

interface@S.C.C. さんの発言:

音楽は編曲が九割。
つまらない歌詞も、どうでもいいメロも、編曲しだいで名曲になってしまう。
少なくとも音が第一で、テキストは二番目。

 

interface@S.C.C. さんの発言:

その歌詞が歴史に名を残すには、
・時代の文脈をとらえること (例、ピンクレディー)
・人間の実存ないし死生観を言い当てること (例、千の風)
のどちらかが必要。

 

interface@S.C.C. さんの発言:

http://www.youtube.com/watch?v=e7v5wBYitL0
「私ピンクのサウスポー」「魔球は魔球はハリケーン」とか何だよ、
意味がわかんないよ。

でも当時はまさにサウスポーでハリケーンだったわけ。
阿久悠は別格。

 

interface@S.C.C. さんの発言:

http://www.youtube.com/watch?v=2Fq2cwZf7pc
時代の文脈という点で、かなり評価したいんだが。

 

interface@S.C.C. さんの発言:

いや、必ずしも今わかる必要はないと思うのよ、
十年後に何これってパターン。

十年後に、「ああ、十年前って確かにこんな感じだったよね」
と思える曲に価値がある。

 

interface@S.C.C. さんの発言:

その曲自体が懐かしいのではなくて、
その曲によって思い起こされるその時期の出来事が懐かしい。

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罰としてごほうび。

巷間(こうかん)叫ばれるところの自己責任論は、その実、他者責任論である、
悪いのは失敗したお前であって、俺は悪くないということだ。

本来、個の内心において語られるべき反省が、しかし他者の口から発せられる、
果たしてこれはペテンであり、奴隷を指嗾(しそう)する貴族の工夫に相違ない。

リスクは万人に平等でなく、配当もまた公平でない、
奴隷とはつまり無知の檻だ、私のような奴隷にこそ、知への参与が必要だ。

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少年が神話になったりならなかったり

その場を無難にやり過ごすべく意思疎通の抽象度を上げる(空気を読む)と、
当事者らにおいて関係の履歴は捨象され、代替可能性がやおら高まる。

すると、その場そのときその位置にいるべきは、必ずしもその者でなくてよく、
その場そのときその位置における結果は、きっと以降の関係を左右しない。

果たして、疎通不能を回避するための演技は、つど一回的であり郵便的である、
かつて友人は過去に連なっていたが、今日それは未来に連なる。

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その昔、小室ファミリーが集まって作った「you are the one」という曲があってだな……。

サイドバーに新作のamazonリンクを設置、過去作品の一覧を別ページで作った。ひととおり眺めてみて、小銭につながるリンクが個別記事の文脈に依存していなければ、まあいいかと思うようになった。

全体、自分においてがっくりくるのが、記事を読んでみてなるほどと思ったところに商品のリンクが張ってあって興ざめというパターンで、ライターの利他性に対して立ち上げた敬意がとたんに行き場を失って精神的に疲れるという流れ。amazonリンクを末尾につけるだけで、その前に書いた文章の説得力が損なわれるのはひどく損な話で、それは避けたいと前々から思っていた。

まあ、細かい話はどうでもいいんだが、amazonもgoogleもすでにインフラの一部になっているし、気にしているのは自分だけかもしれない。商品への言及があれば、そこにはごく自然に商業的リンクが張ってあって、読むほうもそれをあまり気にしない、それが今後のweb空間のスタンダードだとすれば、身振りを真似てみて、わかることもあるかなと思うわけで。

商業的リンクサービスとネズミ講が混在していたネットの一時期を知っているもので、アフィリエイトというと、まずインチキくさいという印象が先に立つ。自分も年くったなあと思う。

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ナチますか? ナチませんか?

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じいさんがハシゴに登るのがおっくうになったということで、剪定を代理、
一日一時間、三日がかり、梅雨はどこへ行ったんだ? 暑いよ。

本当は葉が伸びる前にミドリ摘みをして、剪定は冬前にやるんだろうが、
今回はしかたない、ボサボサになる前にバッサリ刈った。

クロマツは多少つよく鋏んでも枯れないから、融通が利く、
これの前にアカマツを一本やったけど、あれは面倒だった。

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セブンイレブン、いい身分。

祖母を含め、わが地域の老婦人らの会話は非常に辛辣である、
あの家の旦那が、嫁が、やれけしからん、やれ不遜だと口々にいう。

忌憚(きたん)なく大いに語り、また大いに笑う、
方言による会話は、その土地の人間でない限り、まず意味がわからない。

思うに、これは共通感覚の確認であり、本音の可視化に係る営みである、
おのおのがどこまでを可とみなすか、その感覚の共有が他に優先している。

つまり、互いの本音を知ればこそ、過度な不信や不安に陥らないのであり、
どのような行為であれ、諒解された範疇に収まる限り無害と解されるのである。

ここに、可視の本音は不可視の規範を構成し、抑止の力場を形成する、
そしてまた同時に寛容の予期として機能する、もってこれを世間という。

体罰教師は即刻懲戒、夫婦喧嘩で騒いだら隣の住人に警官を呼ばれた、
これらは世間が収縮した結果である、過度の懐疑が過度の反応を招いている。

互いに干渉せず、馴れ合いなどは厳に慎んで、個別化された社会を生きるか、
いまやそれも可能だが、しかしそれではだめなのだ。

個別、縮小、先鋭化された社会は互いに反目するのみならず、
一般に資力を有しない個は、かような社会を生きることができない。

世間が極度に収縮すると、不信や不安が社会を覆う、
果たしてわが地域の老婦人らの会話には、それらを駆逐する威力があるのだ。

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ハーゲンダッシュ

あさやけぼーだーらいんについて。

 

十代の頃における、空も飛べるとさえ思えたあの万能の感覚と、
永遠とさえ感じられたあの時間の停滞とは、いったい何だったのだろう。

私たちは、しかしそれをいつの間にか失ってしまう、
果たしてそれはいかなる時点だったか、その境界とはどのようなものだったか。

けれどその解は与えられず、また導くこともかなわない、
ただ喪失の事実、すなわち「痛む今」があるのみである。

そして、かつての自分はその万能の直感をもって、
やがて訪れる喪失の確実性をすら、予感していたに違いない。

すると、過去がただまぶしく、この上なく尊いものに感じられるようになる、
その境界のようす、たとえば朝焼けの色あいをみるときにおいてそうである。

自己とは過去でできていて、世界とはまったき現在であるゆえん、
もってその相克がこそ、自己と世界とのかかわりである。

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おぜうの日記。

私は蜘蛛と蛇を殺さない、敬意を抱いてさえいる、理由はよくわからない、
元来、何かを守っている気がする、宿る場所に意味があるのかもしれない。

軒先の蜘蛛の巣に朝露がひかる、古寺の石段に蛇がやすんでいる、
彼らはいつも私の呼気に反応し、やおら私のほうをみる。

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アナロ熊「まるで話にならん」

意外に事態は最悪とならない、世界は慰めにみちている、
回復の兆候を見逃さない程度に敏感であれば、苦痛にうろたえることもない。

傷つきやすいから傷つきにくく、傷つきにくいから傷つきやすい、
幸も不幸も主観に過ぎない、ただ一己(いっこ)の境地があるだけだ。

蛇口をひねればお湯が出る、ある朝ドアを蹴破られない、
これは異常である、きっと異常でなくてはいけない。

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