プロローグ
サンタクロースをいつまで信じていたかなんてことはたわいもない世間話にもならないくらいのどうでもいいような話だが、それでも俺がいつまでサンタなどという想像上の赤服じーさんを信じていたかと言うとこれは確信をもって言えるが最初から信じてなどいなかった。
幼稚園《ようちえん》のクリスマスイベントに現れたサンタは偽《にせ》サンタだと理解していたし、記憶《きおく》をたどると周囲にいた園児たちもあれが本物だとは思っていないような目つきでサンタのコスプレをした園長先生を眺《なが》めていたように思う。
そんなこんなでオフクロがサンタにキスしているところを目撃《もくげき》したわけでもないのにクリスマスにしか仕事をしないジジイの存在を疑っていた賢《さか》しい俺なのだが、宇宙人や未来人や幽霊《ゆうれい》や妖怪《ようかい》や超能力《ちょうのうりょく》や悪の組織やそれらと戦うアニメ的|特撮《とくさつ》的マンガ的ヒーローたちがこの世に存在しないのだということに気付いたのは相当後になってからだった。
いや、本当は気付いていたのだろう。ただ気付きたくなかっただけなのだ。俺は心の底から宇宙人や未来人や幽霊や妖怪や超能力や悪の組織が目の前にふらりと出てきてくれることを望んでいたのだ。
俺が朝目覚めて夜|眠《ねむ》るまでのこのフツーな世界に比べて、アニメ的特撮的マンガ的物語の中に描《えが》かれる世界の、なんと魅力《みりょく》的なことだろう。
俺もこんな世界に生まれたかった!
宇宙人にさらわれてでっかい透明《とうめい》なエンドウ豆のサヤに入れられている少女を救い出したり、レーザー銃《じゅう》片手に歴史の改変を計る未来人を知恵《ちえ》と勇気で撃退《げきたい》したり、悪霊《あくりょう》や妖怪を呪文《じゅもん》一発で片づけたり、秘密組織の超能力者とサイキックバトルを繰《く》り広げたり、つまりそんなことをしたかった!
いや待て冷静になれ、仮に宇宙人や(以下略)が襲撃《しゅうげき》してきたとしても俺自身には何の特殊《とくしゅ》能力もなく太刀打《たちう》ちできるはずがない。ってことで俺は考えたね。
ある日|突然《とつぜん》謎《なぞ》の転校生が俺のクラスにやって来て、そいつが実は宇宙人とか未来人とかまあそんな感じで得体の知れない力なんかを持ってたりして、でもって悪い奴《やつ》らなんかと戦っていたりして、俺もその闘《たたか》いに巻き込まれたりすることになればいいじゃん。メインで戦うのはそいつ。俺はフォロー役。おお素晴らしい、頭いーな俺。
か、あるいはこうだ。やっぱりある日突然俺は不思議な能力に目覚めるのだ。テレポーテーションとかサイコキネシスとかそんなんだ。実は他《ほか》にも超能力を持っている人間はけっこういて、そういう連中ばかりが集められているような組織も当然あって、善玉の方の組織から仲間が迎《むか》えに来て俺もその一員となり世界|征服《せいふく》を狙《ねら》う悪い超能力者と戦うとかな。
しかし現実ってのは意外と厳しい。
実際のところ、俺のいたクラスに転校生が来たことなんて皆無《かいむ》だし、UFOだって見たこともないし、幽霊や妖怪を探しに地元の心霊《しんれい》スポットに行ってもなんも出ないし、机の上の鉛筆《えんぴつ》を二時間も必死こいて凝視《ぎょうし》していても一ミクロンも動かないし、前の席の同級生の頭を授業中いっぱい睨《にら》んでいても思考を読めるはずもない。
世界の物理法則がよく出来ていることに感心しつつ自嘲《じちょう》しつつ、いつしか俺はテレビのUFO特番や心霊特集をそう熱心に観《み》なくなっていた。いるワケねー……でもちょっとはいて欲しい、みたいな最大公約数的なことを考えるくらいにまで俺も成長したのさ。
中学校を卒業する頃《ころ》には、俺はもうそんなガキな夢を見ることからも卒業して、この世の普《ふ》通《つう》さにも慣れていた。一縷《いちる》の期待をかけていた一九九九年に何が起こるわけでもなかったしな。二十一世紀になっても人類はまだ月から向こうに到達《とうたつ》してねーし、俺が生きている間にアルファケンタウリまで日帰りで往復出来ることもこのぶんじゃなさそうだ。
そんなことを頭の片隅《かたすみ》でぼんやり考えながら俺はたいした感慨《かんがい》もなく高校生になり――、
涼宮《すずみや》ハルヒと出会った。
第一章
うすらぼんやりとしているうちに学区内の県立高校へと無難に進学した俺が最初に後悔《こうかい》したのはこの学校がえらい山の上にあることで、春だってのに大汗《おおあせ》をかきながら延々と続く坂道を登りつつ気軽なハイキング気分をいやいや満喫《まんきつ》している最中《さなか》であった。これから三年間も毎日こんな山登りを朝っぱらからせにゃならんのかと思うと暗澹《あんたん》たる気分になるのだが、ひょっとしたらギリギリまで寝《ね》ていたおかげで自然と早足を強《し》いられているのかもしれず、ならばあと十分でも早起きすればゆっくり歩けるわけだしそうキツイことでもないかと考えたりするものの、起きる間際《まぎわ》の十分の睡眠《すいみん》がどれほど貴重かを思えば、そんなことは不可能で、つまり結局俺は朝の運動を継続《けいぞく》しなければならないだろうと確信し暗澹たる気分が倍加した。
そんなわけで、無駄《むだ》に広い体育館で入学式がおこなわれている間、俺は新しい学《まな》び舎《や》での希望と不安に満ちた学園生活に思いをはせている新入生特有の顔つきとは関係なく、ただ暗い顔をしていた。同じ中学から来ている奴がかなりの量にのぼっていたし、うち何人かはけっこう仲のよかった連中なので友人のあてに困ることはなかったが。
男はブレザーなのに女はセーラー服ってのは変な組み合わせだな、もしかして今|壇上《だんじょう》で眠気《ねむけ》を誘《さそ》う音波を長々と発しているヅラ校長がセーラー服マニアなのか、とか考えているあいだにテンプレートでダルダルな入学式がつつがなく終了《しゅうりょう》し、俺は配属された一年五組の教室へ嫌《いや》でも一年間は面《つら》を突《つ》き合わせねばならないクラスメイトたちとぞろぞろ入った。
担任の岡部《おかべ》なる若い青年教師は教壇に上がるや鏡の前で小一時間練習したような明朗快活な笑顔《えがお》を俺たちに向け、自分が体育教師であること、ハンドボール部の顧問《こもん》をしていること、大学時代にハンドボール部で活躍《かつやく》しリーグ戦ではそこそこいいところまで勝ちあがったこと、現在この高校のハンドボール部は部員数が少ないので入部|即《そく》レギュラーは保障されたも同然であること、ハンドボール以上に面白《おもしろ》い球技はこの世に存在しないであろうことをひとしきり喋《しゃべ》り終えるともう話すことがなくなったらしく、
「みんなに自己|紹介《しょうかい》をしてもらおう」
と言い出した。
まあありがちな展開だし、心積もりもしてあったから驚《おどろ》くことでもない。
出席番号順に男女|交互《こうご》で並んでいる左|端《はし》から一人一人立ち上がり、氏名、出身中学プラスα(趣味《しゅみ》とか好きな食べ物とか)をあるいはぼそぼそと、あるいは調子よく、あるいはダダ滑《すべ》りするギャグを交えて教室の温度を下げながら、だんだんと俺の番が近づいてきた。緊張《きんちょう》の一瞬《いっしゅん》である。解《わか》るだろ?
頭でひねっていた最低限のセリフを何とか噛《か》まずに言い終え、やるべきことをやったという解放感に包まれながら俺は着席した。替《か》わりに後ろの奴《やつ》が立ち上がり――ああ、俺は生涯《しょうがい》このことを忘れないだろうな――後々語り草となる言葉をのたまった。
「東《ひがし》中学出身、涼宮ハルヒ」
ここまでは普通《ふつう》だった。真後ろの席を身体《からだ》をよじって見るのもおっくうなので俺は前を向いたまま、その涼やかな声を聞いた。
「ただの人間には興味ありません。この中に宇宙人、未来人、異世界人、超能力《ちょうのうりょく》 者がいたら、あたしのところに来なさい。以上」
さすがに振《ふ》り向いたね。
長くて真《ま》っ直《す》ぐな黒い髪《かみ》にカチューシャつけて、クラス全員の視線を傲然《ごうぜん》と受け止める顔はこの上なく整った目鼻立ち、意志の強そうな大きくて黒い目を異常に長いまつげが縁取《ふちど》り、薄桃色《うすももいろ》の唇《くちびる》を固く引き結んだ女。
ハルヒの白い喉《のど》がやけにまばゆかったのを覚えている。えらい美人がそこにいた。
ハルヒは喧嘩《けんか》でも売るような目つきでゆっくりと教室中を見渡《みわた》し、最後に大口開けて見上げている俺をじろりと睨《にら》むと、にこりともせずに着席した。
これってギャグなの?
おそらく全員の頭にどういうリアクションをとればいいのか、疑問符《ぎもんふ》が浮《う》かんでいたことだろう。「ここ、笑うとこ?」
結果から言うと、それはギャグでも笑いどころでもなかった。涼宮ハルヒは、いつだろうがどこだろうが冗談《じょうだん》などは言わない。
常に大マジなのだ。
のちに身をもってそのことを知った俺が言うんだから間違《まちが》いはない。
沈黙《ちんもく》の妖精《ようせい》が三十秒ほど教室を飛び回り、やがて体育教師岡部がためらいながら次の生徒を指名して、白くなっていた空気はようやく正常化した。
こうして俺たちは出会っちまった。
しみじみと思う。偶然《ぐうぜん》だと信じたい、と。
このように一瞬にしてクラス全員のハートをいろんな意味でキャッチした涼宮ハルヒだが、翌日以降しばらくは割とおとなしく一見無害な女子高生を演じていた。
嵐《あらし》の前の静けさ、という言葉の意味が今の俺にはよく解る。
いや、この高校に来るのは、もともと市内の四つの中学校出身の生徒たち(成績が普通レベルの奴ら)ばかりだし、東中もその中に入っていたから、涼宮ハルヒと同じ中学から進学した奴らもいるわけで、そんな彼らにしてみればこいつの雌伏《しふく》状態が何かの前兆であることに気付いていたんだろうが、あいにく俺は東中に知り合いがいなかったしクラスの誰《だれ》も教えてくれなかったから、スットンキョーな自己紹介から数日後、忘れもしない、朝のホームルームが始まる前だ。涼宮ハルヒに話しかけるという愚《ぐ》の骨頂なことを俺はしでかしてしまった。
ケチのつき始めのドミノ倒《たお》し、その一枚目を俺は自分で倒しちまったというわけだ。
だってよ、涼宮ハルヒは黙《だま》ってじっと座っている限りでは一美少女高校生にしか見えないんだぜ。たまたま席が真ん前だったという地の利を生かしてお近づきになっとくのもいいかなと一瞬血迷った俺を誰が責められよう。
もちろん話題はあのことしかあるまい。
「なあ」
と、俺はさりげなく振り返りながらさりげない笑みを満面に浮かべて言った。
「しょっぱなの自己紹介のアレ、どのへんまで本気だったんだ?」
腕《うで》組みをして口をへの字に結んでいた涼宮ハルヒはそのままの姿勢でまともに俺の目を凝視《ぎょうし》した。
「自己紹介のアレって何」
「いや、だから宇宙人がどうとか」
「あんた、宇宙人なの?」
大まじめな顔で訊《き》きやがる。
「……違うけどさ」
「違うけど、何なの」
「……いや、何もない」
「だったら話かけないで。時間の無駄《むだ》だから」
思わず「すいません」と謝ってしまいそうになるくらい冷徹《れいてつ》な口調と視線だったね。涼宮ハルヒは、まるで芽キャベツを見るように俺に向けていた目をフンとばかりに逸《そ》らすと、黒板の辺りを睨《にら》みつけ始めた。
何かを言い返そうとして結局何も思いつけないでいた俺は担任の岡部が入ってきたおかげで救われた。
負け犬の心でしおしおと前を向くと、クラスの何人かがこっちの方を興味深げに眺《なが》めていやがった。目が合うと実に意味深な半笑いで「やっぱりな」とでも言いたげな、そして同情するかのごときうなずきを俺によこす。
なんか、シャクに障《さわ》る。後で解ったことだがそいつらは全員東中だった。
とまあ、おそらくファースト・コンタクトとしては最悪の部類に入る会話のおかげで、さすがに俺も涼宮ハルヒには関《かか》わらないほうがいいのではないかと思い始めてその思いが覆《くつがえ》らないまま一週間が経過した。
だが理解していない観察眼のない奴もまだまだいないわけではなく、いつも不機嫌《ふきげん》そうに眉《み》間《けん》にしわを寄せ唇《くちびる》をへの字にしている涼宮ハルヒに何やかやと話しかけるクラスメイトも中にはいた。
だいがいそれはおせっかいな女子であり、新学期早々クラスから孤立《こりつ》しつつある女子生徒を気遣《きづか》って調和の輪の中に入れようとする、本人にとっては好意から出た行動なのだろうが、いかんせん相手が相手だった。
「ねえ、昨日のドラマ見た? 九時からのやつ」
「見てない」
「えー? なんでー?」
「知らない」
「いっぺん見てみなよ、あーでも途中《とちゅう》からじゃ解《わか》んないか。そうそう、だったら教えてあげようか、今までのあらすじ」
「うるさい」
こんな感じ。
無表情に応答するならまだしも、あからさまにイライラした顔と発音で応《こた》えるものだから話しかけた人間の方が何か悪いことをしているような気分になり、結局「うん……まあ、その……」と肩《かた》を落としてすごすご引き下がることになる。「あたし、何かおかしな事言った?」
安心したまえ、言ってない。おかしいのは涼宮ハルヒの頭のほうさ。
別段一人で飯喰《く》うのは苦にならないものの、やはり皆《みな》がわやわや言いながらテーブルをくっつけているところにポツンと取り残されるように弁当をつついているというのも何なので、というわけでもないのだが、昼休みになると俺は中学が同じで比較的《ひかくてき》仲のよかった国木田《くにきだ》と、たまたま席が近かった東中出身の谷口《たにぐち》という奴《やつ》と机を同じくすることにしていた。
涼宮ハルヒの話題が出たのはその時である。
「お前、この前涼宮に話しかけてたな」
何気《なにげ》にそんな事を言い出す谷口。まあ、うなずいとこう。
「わけの解らんこと言われて追い返されただろ」
その通りだ。
谷口はゆで卵の輪切りを口に放り込み、もぐもぐしながら、
「もしあいつに気があるんなら、悪いことは言わん、やめとけ。涼宮が変人だってのは充分《じゅうぶん》解ったろ」
中学で涼宮と三年間同じクラスだったからよく知ってるんだがな、と前置きし、
「あいつの奇人《きじん》ぶりは常軌《じょうき》を逸《いつ》している。高校生にもなったら少しは落ち着くかと思ったんだが全然変ってないな。聞いたろ、あの自己|紹介《しょうかい》」
「あの宇宙人がどうとか言うやつ?」
焼き魚の切り身から小骨を細心の注意で取り除いていた国木田が口を挟《はさ》んだ。
「そ。中学時代にもわけの解らんことを言いながらわけの解らんことを散々やり倒《たお》していたな。有名なのが校庭落書き事件」
「何だそりゃ?」
「石灰《せっかい》で白線引く道具があるだろ。あれ何つうんだっけ? まあいいや、とにかくそれで校庭にデカデカとけったいな絵文字を書きやがったことがある。しかも夜中に学校に忍《しの》び込んで」
そん時のことを思い出したのか谷口はニヤニヤ笑いを浮《う》かべた。
「驚《おどろ》くなよ。朝学校来たらグラウンドに巨大《きょだい》な丸とか三角とかが一面に書きなぐってあるんだぜ。近くで見ても何が書いてあんのか解らんから試しに校舎の四階から見てみたんだが、やっぱり何が書いてあるのか解らんかったな」
「あ、それ見た覚えあるな。確か新聞の地方|欄《らん》に載《の》ってなかった? 航空写真でさ。出来そこないのナスカの地上絵みたいなの」
と国木田が言う。俺には覚えがない。
「載ってた載ってた。中学校の校庭に描《えが》かれた謎《なぞ》のイタズラ書き、ってな。で、こんなアホなことをした犯人は誰《だれ》だってことになったんだが……」
「その犯人があいつだったってわけか」
「本人がそう言ったんだから間違《まちが》いない。当然、何でそんなことしたんだってなるわな。校長室にまで呼ばれてたぜ。教師総|掛《が》かりで問いつめたらしい」
「何でそんなことしたんだ?」
「知らん」
あっさり答えて谷口は白飯をもしゃもしゃと頬張《ほおば》った。
「とうとう白状しなかったそうだ。だんまりを決め込んだ涼宮のキッツい目で睨《にら》まれてみろ、もうどうしようもないぜ。一説によるとUFOを呼ぶための地上絵だとか、あるいは悪魔召喚《あくましょうかん》の魔方陣《まほうじん》だとか、または異世界への扉《とびら》を開こうとしてたとか、噂《うわさ》はいろいろあったんだが、とにかく本人が理由を言わんのだから仕方がない。今もって謎のままだ」
俺の脳裏《のうり》には、真っ暗の校庭に真剣《しんけん》な表情で白線を引いている涼宮ハルヒの姿が浮かんでいた。ガラゴロ引きずっているラインカーと山積みにしている石灰の袋《ふくろ》はあらかじめ体育倉庫からガメていたんだろう。懐中《かいちゅう》電灯くらいは持っていたかもしれない。頼《たよ》りない明かりに照らされた涼宮ハルヒの顔はどこか思い詰《つ》めた悲壮《ひそう》感に溢《あふ》れていた。俺の想像だけどな。
たぶん涼宮ハルヒは本気でUFOあるいは悪魔または異世界への扉を呼び出そうとしたのだろう。ひょっとしたら一晩中、中学の運動場でがんばっていたのかもしれない。そしてとうとう何も現れなかったことにたいそう落胆《らくたん》したに違いない、と根拠《こんきょ》もなく思った。
「他《ほか》にもいっぱいやってたぞ」
谷口は弁当の中身を次々と片付けつつ、
「朝教室に行ったら机が全部|廊下《ろうか》に出されてたこともあったな。校舎の屋上に星マークをペンキで描いたり、学校中に変なお札、キョンシーが顔にはっ付けているようなやつな、あれがベタベタ貼《は》りまくられたこともあった。意味わかんねーよ」
ところで今教室に涼宮ハルヒはいない。いたらこんな話も出来ないだろうが、たとえいたとしてもまったく気にしないような気もする。その涼宮ハルヒだが、四時間目が終わるとすぐ教室を出て行って五時間目が始まる直前にならないと戻《もど》ってこないのが常だ。弁当を持ってきた様子はないから食堂を利用しているんだろう。しかし昼飯に一時間もかけないだろうし、そういや授業の合間の休み時間にも必ずと言っていいほど教室にはいない奴《やつ》で、いったいどこをうろついているんだか。
「でもなぁ、あいつモテるんだよな」
谷口はまだ話している。
「なんせツラがいいしさ。おまけにスポーツ万能で成績もどちらかと言えば優秀《ゆうしゅう》なんだ。ちょっとばかし変人でも黙《だま》って立っていたら、んなこと解《わか》んねーし」
「それにも何かエピソードがあんの?」
問う国木田は谷口の半分も箸《はし》が進んでいない。
「一学期は取っ替《か》え引っ替えってやつだったな。俺の知る限り、一番長く続いて一週間、最短では告白されてオーケーした五分後に破局してたなんてのもあったらしい。例外なく涼宮が振《ふ》って終わりになるんだが、その際に言い放つ言葉がいつも同じ、『普通《ふつう》の人間の相手してるヒマはないの』。だったらオーケーするなってーの」
こいつもそう言われたクチかもな。そんな俺の視線に気付いたか、谷口は慌《あわ》てたふうに、
「聞いた話だって、マジで。何でか知らねえけどコクられて断るってことをしないんだよ、あいつは。三年になった頃《ころ》にはみんな解ってるもんだから涼宮と付き合おうなんて考える奴はいなかったけどな。でも高校でまた同じことを繰《く》り返す気がするぜ。だからな、お前が変な気を起こす前に言っておいてやる。やめとけ。こいつは同じクラスになったよしみで言う俺の忠告だ」
やめるとくも何も、そんな気ないんだがな。
食い終わった弁当箱を鞄《かばん》にしまい込んで谷口はニヤリと笑った。
「俺だったらそうだな、このクラスでのイチオシはあいつだな、朝倉涼子《あさくらりょうこ》」
谷口がアゴをしゃくって示した先に、女どもの一団が仲むつまじく机をひっつけて談笑《だんしょう》している。その中心で明るい笑顔《えがお》を振りまいているのが朝倉涼子だった。
「俺の見立てでは一年の女の中でもベスト3には確実に入るね」
一年の女子全員をチェックでもしたのか。
「おうよ。AからDにまでランク付けしてそのうちAランクの女子はフルネームで覚えたぜ。一度しかない高校生活、どうせなら楽しく過ごしたいからよ」
「朝倉さんがそのAなわけ?」と国木田。
「AAランクプラス、だな。俺くらいになると顔見るだけで解る。アレはきっと性格までいいに違いない」
勝手に決めつける谷口の言葉はまあ話半分で聞くとしても、実のところ朝倉涼子もまた涼宮ハルヒとは別の意味で目立つ女だった。
まず第一に美人である。いつも微笑《ほほえ》んでいるような雰囲気《ふんいき》がまことによい。第二に性格がいいという谷口の見立てはおそらく正しい。この頃になると涼宮ハルヒに話しかけようなどという酔狂《すいきょう》な人間は皆無《かいむ》に等しかったが、いくらぞんざいにあしらわれてもそれでもめげずに話しかける唯一《ゆいいつ》の人間が朝倉である。どことなく委員長っぽい気質がある。第三に授業での受け答えを見てると頭もなかなかいいらしい。当てられた問題を確実に正答している。教師にとってもありがたい生徒だろう。第四に同性にも人気がある。まだ新学期が始まって一週間そこそこだが、あっという間にクラスの女子の中心的人物になりおおせてしまった。人を惹《ひ》きつけるカリスマみたいなものが確かにある。
いつも眉間《みけん》にシワ寄せている頭の内部がミステリアスな涼宮ハルヒと比べると、そりゃ彼女にするんならこっちかな、俺だって。つーか、どっちにしろ谷口には高嶺《たかね》の花だと思うが。
まだ四月だ。この時期、涼宮ハルヒもまだ大人しい頃合いで、つまり俺にとっても心安まる月だった。ハルヒが暴走を開始するにはまだ一ヶ月弱ほどある。
しかしながら、ハルヒの奇矯《ききょう》な振《ふ》る舞《ま》いはこの頃から徐々《じょじょ》に片鱗《へんりん》を見せていたと言うべきだろう。
と言うわけで、片鱗その一。
髪型《かみがた》が毎日変わる。何となく眺《なが》めているうちにある法則性があることに気付いたのだが、それはつまり、月曜日のハルヒはストレートのロングヘアを普通に背中に垂らして登場する。次の日、どこから見ても非のうちどころのないポニーテールでやって来て、それがまたいやになるくらい似合っていたのだが、その次の日、今度は頭の両脇《りょうわき》で髪をくくるツインテールで登校し、さらに次の日になると三つ編みになり、そして金曜日の髪型は頭の四ヶ所を適当にまとめてリボンで結ぶというすこぶる奇妙《きみょう》なものになる。
月曜日=○、火曜=一、水曜=二……。
ようするに曜日が進むごとに髪を結ぶ箇所《かしょ》が増えているのである。月曜日にリセットされ後は金曜日まで一つずつ増やしていく。何の意味があるのかさっぱり解らないし、この法則に従うなら最終日には六ヶ所になっているはずで、果たして日曜日にハルヒがどんな頭になっているのか見てみたい気もする。
片鱗その二。
体育の授業は男女別に行われるので五組と六組の合同でおこなわれる。着替《きが》えは女が奇数《きすう》クラス、男が偶数《ぐうすう》クラスに移動してすることになっており、当然前の授業が終わると五組の男子は体操着入れを手にぞろぞろと六組に移動するわけだ。
そんな中、涼宮ハルヒはまだ男どもが教室に残っているにもかかわらず、やおらセーラー服を脱《ぬ》ぎ出したのだった。
まるでそこらの男などカボチャかジャガイモでしかないと思っているような平然たる面持《おもも》ちで脱いだセーラー服を机に投げ出し、体操着に手をかける。
あっけにとられていた俺を含《ふく》め男たちは、この時点で朝倉涼子によって教室から叩《たた》き出された。
その後朝倉涼子をはじめとしてクラスの女子はこぞってハルヒに説教をしたらしいが、まあ何の効果もなかったね。ハルヒは相変わらず男の目などまったく気にせず平気で着替えをやり始めるし、おかげで俺たち男連中は体育前の休み時間になるとチャイムと同時にダッシュで教室から撤退《てったい》することを――主に朝倉涼子に――義務づけられてしまった。
それにしてもやけにグラマーだったな……いや、それはさておき。
片鱗その三。
基本的に休み時間に教室から姿を消すハルヒはまた放課後になるとさっさと鞄《かばん》を持って出て行ってしまう。最初はそのまま帰宅してるのかと思っていたらさにあらず、呆《あき》れることにハルヒはこの学校に存在するあらゆるクラブに仮入部していたのだった。昨日バスケ部でボールを転がしていたかと思ったら、今日は手芸部で枕《まくら》カバーをちくちく縫《ぬ》い、明日はラクロス部で棒振り回しているといった具合。野球部にも入ってみたというから徹底している。運動部からは例外なく熱心に入部を薦《すす》められ、そのすべてを断ってハルヒは毎日参加する部活動を気まぐれに変えたあげく、結局どこにも入部することもなかった。
何がしたいんだろうな、こいつはよ。
この件により「今年の一年におかしな女がいる」という噂《うわさ》は瞬《またた》く間に全校に伝播《でんぱ》し、涼宮ハルヒを知らない学校関係者などいないという状態になるまでにかかった日数はおよそ一ヶ月。五月の始まる頃《ころ》には、校長の名前を覚えていない奴《やつ》がいても涼宮ハルヒの名を知らない奴は存在しないまでになっていた。
そんなこんなをしながら――もっとも、そんなこんなをしていたのはハルヒだけだったが――五月がやってくる。
運命なんてものを俺は琵琶湖《びわこ》で生きたプレシオサウルスが発見される可能性よりも信じない。だが、もし運命が人間の知らないところで人生に影響《えいきょう》を行使しているのだとしたら、俺の運命の輪はこのあたりで回り出したんだろうと思う。きっと、どこか遥《はる》か高みにいる誰《だれ》かが俺の運命係数を勝手に書き換《か》えやがったに違《ちが》いない。
ゴールデンウィークが明けた一日目。失われた曜日感覚と共に、まだ五月だってのに異様な陽気にさらされながら俺は学校へと続く果てしない坂道を汗水《あせみず》垂らして歩いていた。地球はいったい何がやりたいんだろう。黄熱病にでもかかってるんじゃないか。
「よ、キョン」
後ろから肩《かた》を叩かれた。谷口だった。
ブレザーをだらしなく肩に引っかけ、ネクタイをよれよれに結んだニヤケ面《づら》で、
「ゴールデンウィークはどっか行ったか?」
「小学の妹を連れて田舎《いなか》のバーさん家《ち》に」
「しけてやんなあ」
「お前はどうなんだよ」
「ずっとバイト」
「似たようなもんじゃないか」
「キョン、高校生にもなって妹のお守りでジジババのご機嫌《きげん》うかがいに行っててどうすんだ。高校生なら高校生らしいことをだな、」
ちなみにキョンというのは俺のことだ。最初に言い出したのは叔母《おば》の一人だったように記憶《きおく》している。何年か前に久しぶりに会った時、「まあキョンくん大きくなって」と勝手に俺の名をもじって呼び、それ聞いた妹がすっかり面白《おもしろ》がって「キョンくん」と言うようになり、家に遊びに来た友達をそれを聞きつけ、その日からめでたく俺のあだ名はキョンになった。くそ、それまで俺を「お兄ちゃん」と呼んでいてくれていたのに。妹よ。
「ゴールデンウィークに従兄弟《いとこ》連中で集まるのが家の年中行事なんだよ」
投げやりに答えて俺は坂道を登り続ける。髪《かみ》の中から滲《し》み出す汗がひたすら不愉快だ。
谷口はバイトで出会った可愛《かわい》い女の子がどうしたとか小金が貯《た》まったからデート資金に不足はないとか、やたら元気に喋《しゃべ》りまくっていた。他人の見た夢の話とペットの自慢《じまん》話と並んで、この世で最もどうでもいい情報の一つだろう。
谷口の計画する相手不在の仮想デートコースを三パターンほど聞き流しているうちに、ようやく俺は校門に到達《とうたつ》した。
教室に入ると涼宮ハルヒはとっくに俺の後ろの席で涼《すず》しい顔を窓の外に向けていて、今日は頭に二つドアノブを付けているようなダンゴ頭で、それで俺は、ああ今日は二ヶ所だから水曜日かと認識して椅子《いす》に座り、そして何か魔《ま》が差してしまったんだろう。それ以外の理由に思い当たるフシがない。気が付いたら涼宮ハルヒに話かけていた。
「曜日で髪型変えるのは宇宙人対策か?」
ハルヒはロボットのような動きで首をこちらに向けると、いつもの笑わない顔で俺を見つめた。ちと怖《こわ》い。
「いつ気付いたの」
路傍《ろぼう》の石に話かけるような口調で、ハルヒは言った。
そう言われればいつだっただろう。
「んー……ちょっと前」
「あっそう」
ハルヒは面倒《めんどう》くさそうに頬杖《ほおづえ》をついて、
「あたし、思うんだけど、曜日によって感じるイメージってそれぞれ異なる気がするのよね」
初めて会話が成立した。
「色で言うと月曜は黄色。火曜が赤で水曜が青で木曜が緑、金曜は金色で土曜は茶色、日曜は白よね」
それは解《わか》るような気がするが。
「つうことは、数字にしたら月曜がゼロで日曜が六なのか?」
「そう」
「俺は月曜は一って感じがするけどな」
「あんたの意見なんか誰も聞いていない」
「……そうかい」
投げやりに呟《つぶや》く俺の顔のどこがどうなのか、ハルヒは気に入らなそうなしかめ面《づら》でこちらを見つめ、俺が少しばかり精神に不安定なものを感じるまでの時間を経過させておいて、
「あたし、あんたとどこかで会ったことがある? ずっと前に」
と、訊《き》いた。
「いいや」
と、俺は答え、岡部担任教師が軽快に入ってきて、会話は終わった。
きっかけ、なんてのは大抵《たいてい》どうってことないものなんだろうけど、まさしくこれがきっかけになったんだろうな。
だいたいハルヒは授業中以外に教室にいたためしがないから何か話そうと思うとそれは朝のホームルーム前くらいしか時間がないわけで、たまたま俺がハルヒの前の席にいただけってこともあって何気なく話かけるには絶好のポジションにいたことは否定出来ない。
しかもハルヒがまともな返事をよこしたことは驚《おどろ》きだ。てっきり「うるさいバカ黙《だま》れどうでもいいでしょ、んなこと」と言われるものだとばかり思っていたからな。思っていながら話しかけた俺もどうかしてるが。
だから、ハルヒが翌日、法則通りなら三つ編みで登校するところを、長かった麗《うるわ》しい黒髪をばっさり切って登場したときには、けっこう俺は動揺《どうよう》した。
腰《こし》にまで届こうかと伸《の》ばしていた髪が肩《かた》の辺りで切りそろえられていて、それはそれでめちゃくちゃ似合っていたんだが、それにしたって俺が指摘《してき》した次に日に短くするってのも短絡《たんらく》的にすぎないか、おい。
そのことを尋《たず》ねるとハルヒは、
「別に」
相変わらず不機嫌そうに言うのみで格別の感想を漏《も》らすわけもなく、髪を切った理由を教えてくれるわけもなかった。
だろうと思ったけどさ。
「全部のクラブに入ってみたってのは本当なのか」
あれ以来、ホームルーム前のわずかな時間にハルヒと話すのは日課になりつつあった。話しかけない限りハルヒは何のアクションも起こさない上、昨日のテレビドラマとか今日の天気とかいったハルヒ的「死ぬほどどうでもいい話」にはノーリアクションなので、話題には毎回気を使う。
「どこか面白《おもしろ》そうな部があったら教えてくれよ。参考にするからさ」
「ない」
ハルヒは即答《そくとう》した。
「全然ない」
駄目《だめ》押ししてハルヒは蝶《ちょう》の羽ばたきのような吐息《といき》を漏らした。ため息のつもりだろうか。
「高校に入れば少しはマシかと思ったけど、これじゃ義務教育時代と何も変わんないわね。入る学校|間違《まちが》えたかしら」
何を基準に学校選びをしているのだろう。
「運動系も文化系も本当にもうまったく普通《ふつう》。これだけあれば少しは変なクラブがあってもよさそうなのに」
何をもって変だとか普通だとかを決定するんだ?
「あたしが気に入るようなクラブが変、そうでないのは全然普通、決まってるでしょ」
そうかい、決まってるのかい。初めて知ったよ。
「ふん」
そっぽを向き、この日の会話、終了《しゅうりょう》。
また別の日は、
「ちょっと小耳に挟《はさ》んだんだけどな」
「どうせロクでもないことでしょ」
「付き合う男全部|振《ふ》ったって本当か?」
「何であんたにそんなこと言わなくちゃいけないのよ」
肩にかかる黒髪をハラリと払《はら》い、ハルヒは真っ黒な瞳《ひとみ》で俺を睨《にら》みつけた。まったく、無表情でいないときは怒《おこ》った顔ばかりだな。
「出どころは谷口? 高校に来てまであのアホと同じクラスなんて、ひょっとしたらストーカー
かしら、あいつ」
「それはない」と思う。
「何を聞いたか知らないけど、まあいいわ、たぶん全部本当だから」
「一人くらいまともに付き合おうとか思う奴《やつ》がいなかったのか」
「全然ダメ」
どうやらこいつの口癖《くちぐせ》は「全然」のようだ。
「どいつもこいつもアホらしいほどまともな奴だったわ。日曜日に駅前に待ち合わせ、行く場所は判で押したみたいに映画館か遊園地かスポーツ観戦、ファストフードで昼ご飯食べて、うろうろしてお茶飲んで、じゃあまた明日ね、ってそれしかないの?」
それのどこが悪いんだと思ったが、口に出すのはやめておいた。ハルヒがダメだと言うからにはそれはすべからくダメなのだろうな。
「あと告白がほとんど電話だったのは何なの、あれ。そういう大事なことは面と向かって言いなさいよ!」
虫でも見るような目つきを前にして重大な――少なくとも本人にとっては――打ち明けごとをする気になれなかっただろう男の気分をトレースしながら一応俺は同意しておいた。
「まあ、そうかな、俺ならどっか呼び出して言うかな」
「そんなことはどうでもいいのよ!」
どっちなんだよ。
「問題はね、くだらない男しかこの世に存在しないのかどうなのってことよ。ほんと中学時代はずうっとイライラしっぱなしだった」
今もだろうが。
「じゃ、どんな男ならよかったんだ? やっぱりアレか、宇宙人か?」
「宇宙人、もしくはそれに準じる何かね。とにかく普通の人間でなければ男だろうが女だろうが」
どうしてそんなに人間以外の存在にこだわるのだろう。俺がそう言うと、ハルヒはあからさまにバカを見る目をして言い放った。
「そっちのほうが面白いじゃないの!」
それは……そうかもしれない。
俺だってハルヒの意見に否《いな》やはない。転校生の美少女が実は宇宙人と地球人のハーフであったりして欲しい。今、近くの席から俺とハルヒをチラチラうかがっているアホの谷口の正体が未来から来た調査員かなにかであったりしたらとても面白《おもしろ》いと思うし、やはりこっちを向いてなぜか微笑《ほほえ》んでいる朝倉涼子が超能力《ちょうのうりょく》 者だったら学園生活はもうちょっと楽しくなると思う。
だが。そんなことはまずあり得ない。宇宙人や未来人や超能力者がいるなんてことがあり得ないし、たとえいたとしてもホイホイ俺たちの前に登場することも、だいたい何の関係もない俺の前にやってきて「いやあワタクシ、その正体は宇宙人とかでして」と自己|紹介《しょうかい》してくれるわけねーだろ。
「だからよ!」
ハルヒは椅子《いす》を蹴倒《けたお》して叫《さけ》んだ。教室に揃《そろ》っていた全員が振り返る。
「だからあたしはこうして一生懸命《いっしょうけんめい》、」
「遅《おく》れてすまない!」
息せき切って明朗快活岡部体育教師が駆《か》け込んできて、拳《こぶし》を握《にぎ》りしめて立ち上がった姿勢で天井《てんじょう》を睨《にら》んでいるハルヒとそのハルヒを一斉《いっせい》に振り返ってみている一同を目にして、ギョッと立ちすくんだ。
「あー……ホームルーム、始めるぞ」
すとんとハルヒは腰《こし》を下ろし、机の角を熱心に眺《なが》め始める。ふう。
俺も前を向き、他の連中も前を向き、岡部|教諭《きょうゆ》はよたよたと壇上《だんじょう》に登り、咳払《せきばら》いを一つ。
「遅れてすまない。あー……ホームルーム、始めるぞ」
最初から言い直し、いつもの日常が復活した。おそらくこんな日常こそがハルヒの最も忌《い》むべきものなんだろうな。
でも人生ってそんなもんだろ?
しかしな。ハルヒの生き様をうらやましいと思う理屈《りくつ》では割り切れない感情が心の片隅《かたすみ》でひっそり躍《おど》っていることも無視出来ない。
俺がとうにあきらめてしまった非日常との邂逅《かいこう》をいまだに待ち望んでいるわけだし、何と言ってもやり方がアクティブだよな。
ただ待っていても都合よくそんなもんは現れやしない。だったらこちらから呼んじまおう。で、校庭に白線引いたり屋上にペンキ塗《ぬ》ったりフダを貼《は》り回ったり。
いやはや(これって死語か?)。
いつからハルヒが傍目《はため》から見るとトチ狂《くる》っているとしか思えないことをやっていたのか知らんけど、待てど暮らせど何も現れず、業《ごう》を煮《に》やして奇怪《きかい》な儀式《ぎしき》を行なってもナシのツブテ、そりゃいつも全世界を呪《のろ》っているような顔にもなる……わけないか。
「おい、キョン」
休み時間、谷口が難しい表情を顔に貼り付けてやって来た。そんな顔してると本当にアホみたいだぞ、谷口。
「ほっとけ。んなこたぁいい。それよりお前、どんな魔法《まほう》を使ったんだ?」
「魔法って何だ?」
高度に発達した科学は魔法と見分けがつかないという警句を思い出しながら俺は聞き返した。授業が終わると例によって教室から消えてしまったハルヒの席を親指で差して谷口は言った。
「俺、涼宮が人とあんなに長い間|喋《しゃべ》ってるの初めて見るぞ。お前、何言ったんだ?」
さて、何だろう。適当なことしか訊《き》いていないような気がするんだが。
「驚天動地《きょうてんどうち》だ」
あくまで大げさに驚《おどろ》きを表明する谷口。その後からひょっこりと国木田が顔を出した。
「昔からキョンは変な女が好きだからねぇ」
誤解を招くようなことを言うな。
「キョンが変な女を好きでもいっこうに構わん。俺が理解しがたいのは、涼宮がキョンを相手にちゃんと会話を成立させていることだ。納得《なっとく》がいかん」
「どちらかと言うとキョンも変な人間にカテゴライズされるからじゃないかなぁ」
「そりゃ、キョンなんつーあだ名の奴《やつ》がまともであるはずはないんだがな。それにしても」
キョンキョン言うな。俺だってこんなマヌケなニックネームで呼ばれるくらいなら本名で呼ばれたほうがいくらかマシだ。せめて妹には「お兄ちゃん」と呼んでもらいたい。
「あたしも聞きたいな」
いきなり女の声が降って来た。軽《かろ》やかなソプラノ。見上げると朝倉涼子の作り物でもこうはいかない笑顔《えがお》が俺に向けられていた。
「あたしがいくら話かけても、なーんも答えてくれない涼宮さんがどうしたら話すようになってくれるのか、コツでもあるの?」
俺は一応考えてみた。と言うか考えるフリをして首を振《ふ》った。考えるまでもないからな。
「解《わか》らん」
朝倉は笑い声を一つ。
「ふーん。でも安心した。涼宮さん、いつまでもクラスで孤立《こりつ》したままじゃ困るもんね。一人でも友達が出来たのはいいことよね」
どうして朝倉涼子がまるで委員長みたいな心配をするのかと言うと、委員長だからである。この前のロングホームルームの時間にそう決まったのだ。
「友達ね……」
俺は首をかしげる。そうなのか? それにしては俺はハルヒの渋面《じゅうめん》しか見てないような気がするぞ。
「その調子で涼宮さんをクラスに溶《と》け込めるようにしてあげてね。せっかく一緒《いっしょ》のクラスになったんだから、みんな仲良くしていきたいじゃない? よろしくね」
よろしくね、と言われてもな。
「これから何か伝えることがあったら、あなたから言ってもらうようにするから」
いや、だから待てよ。俺はあいつのスポークスマンでも何でもないぞ。
「お願い」
両手まで合わされた。俺は「ああ」とか「うう」とか呻《うめ》き、それを肯定《こうてい》の意思表示と取ったのか、朝倉は黄色いチューリップみたいな笑顔を投げかけて、また女子の輪の中へ戻《もど》って行った。輪を構成する女どもが残らずこちらを注目していたことが俺の気分をさらにツーランクほどダウンさせる。
「キョン、俺たち友達だよな……」
谷口が胡乱《うろん》な目で俺に言う。何の話だよ。国木田までが目を閉じ腕《うで》を組んで意味もなく頷《うなず》いている。
どいつもこいつもアホだらけだ。
席替《せきが》えは月に一度といつの間にやら決まったようで、委員長朝倉涼子がハトサブレの缶《かん》に四つ折りにした紙片のクジを回して来たものを引くと俺は中庭に面した窓際《まどぎわ》後方二番目というなかなかのポジションを獲得《かくとく》した。その後ろ、ラストグリッドについたのが誰《だれ》かと言うと、なんてことだろうね、涼宮ハルヒが虫歯をこらえるような顔で座っていた。
「生徒が続けざまに失踪《しっそう》したりとか、密室になった教室で先生が殺されてたりとかしないものかしらね」
「物騒《ぶっそう》な話だな」
「ミステリ研究会ってのがあったのよ」
「へえ。どうだった?」
「笑わせるわ。今まで一回も事件らしい事件に出くわさなかったって言うんだもの。部員もただのミステリ小説オタクばっかりで名|探偵《たんてい》みたいな奴もいないし」
「そりゃそうだろう」
「超常《ちょうじょう》 現象研究会にはちょっと期待してたんだけど」
「そうかい」
「ただのオカルトマニアの集まりでしかないのよ、どう思う?」
「どうも思わん」
「あー、もう、つまんない! どうしてこの学校にはもっとマシな部活動がないの?」
「ないもんはしょうがないだろう」
「高校にはもっとラディカルなサークルがあると思ってたのに。まるで甲子園《こうしえん》を目指す気まんまんで入学したのに野球部がなかったと知らされた野球バカみたいな気分だわ」
ハルヒはお百度参りを決意した呪《のろい》い女のようなワニ目で中空を眺《なが》め、北風のようなため息をついた。
気の毒だと思うところなのか。ここは?
だいたいにおいて、ハルヒがどんな部活動なら満足するのか、その定義が不明である。本人にも解っていないんじゃないのか? 漠然《ばくぜん》と「何か面白《おもしろ》いことをしてて欲しい」と思っているだけで、その「面白いこと」が何なのか、殺人事件の解決なのか、宇宙人探しなのか、妖魔《ようま》退散なのか、こいつの中でも定まっていない気がする。
「ないもんはしょうがないだろ」
俺は意見してやった。
「結局のところ、人間はそこにあるもので満足しなければならないのさ。言うなれば、それを出来ない人間が、発明やら発見やらをして文明を発達させてきたんだ。空を飛びたいと思ったから飛行機作ったし、楽に移動したいと考えたから車や列車を産み出したんだ。でもそれは一部の人間の才覚や発想によって初めて生じたものなんだ。天才が、それを可能にしたわけだ。凡人《ぼんじん》たる我々は、人生を凡庸《ぼんよう》に過ごすのが一番であってだな。身分不相応な冒険心《ぼうけんしん》なんか出さないほうが、」
「うるさい」
ハルヒは俺が気分よく演説していることろを中断させて、あらぬ方向を向いた。実に機嫌《きげん》が悪そうだ。まあ、それもいつものことだ。
多分、この女は何だっていいんだろう。ツマラナイ現実から遊離《ゆうり》した現象ならば。でもそんな現象はそうそうこの世にはない。つーか、ない。
物理法則万歳! おかげで俺たちは平穏《へいおん》無事に暮らしていられる。ハルヒには悪いがな。
そう思った。
普通《ふつう》だろ?
いったい何がきっかけだったんだろうな。
前述の会話がネタフリだったのかもしれない。
それは突然《とつぜん》やって来た。
うららかな日差しに眠気《ねむけ》を誘《さそ》われ、船をこぎこぎ首をカクカクさせていた俺の襟首《えりくび》がわしづかみにされたかと思うと恐《おそ》るべき勢いで引っ張られ、脱力《だつりょく》の極《きわ》みにいた俺の後頭部が机の角に猛然《もうぜん》と激突《げきとつ》、俺は目の前に刻《とき》の涙《なみだ》を見た。
「何しやがる!」
もっともな怒《いか》りをもって憤然《ふんぜん》と振《ふ》り返った俺が見たものは、俺の襟をひっつかんで突《つ》っ立っている涼宮ハルヒの――初めて見る――赤道直下の炎天下《えんてんか》じみた笑顔《えがお》だった。もし笑顔に温度が付帯しているなら、熱帯雨林のど真ん中くらいの気温になっているだろう。
「気がついた!」
唾《つば》を飛ばすな。
「どうしてこんな簡単なことに気付かなかったのかしら!」
ハルヒは白鳥座α星くらいの輝《かがや》きを見せる両眼をまっすぐ俺に向けていた。仕方なく俺は尋《たず》ねる。
「何に気付いたんだ?」
「ないんだったら自分で作ればいいのよ!」
「何を」
「部活よ!」
頭が痛いのは机の角にぶつけただけではなさそうだ。
「そうか。そりゃよかったな。ところでそろそろ手を離《はな》してくれ」
「なに? その反応。もうちょっとあんたも喜びなさいよ、この発見を」
「その発見とやらは後でゆっくり聞いてやる。場合によってはヨロコビを分かち合ってもいい。ただ、今は落ち着け」
「なんのこと?」
「授業中だ」
ようやくハルヒは俺の襟首から手を離した。じんじんする頭を押さえて前に向き直った俺は、全クラスメイトの半口あけた顔と、チョーク片手に今にも泣きそうな大学出たての女教師を視界に捕《と》らえた。
俺は後ろに早く座れと手で合図し、次いで哀《あわ》れな英語教師に掌《てのひら》を上に向けて差し出して見せた。
どうぞ、授業の続きを。
なにかを呟《つぶ》きつつ、ともかくハルヒは着席し、女教師は板書《ばんしょ》の続きに戻《もど》り……
新しいクラブを作る?
ふむ。
まさか、俺にも一枚|噛《か》めと言うんじゃないだろうな。
痛む後頭部がよからぬ予感を告げていた。