三重のお宝 東海道

       梶野貴美子・栗林康子・幸田則仁・長澤理恵

目次

1.            動機

2.            東海道の概要

3.            三重県内の各宿場について

4.            道は何をつないだか

5.            伊勢神宮と東海道のつながり

6.            現代につながる街道の影響

7.            まとめ

8.            おわりに〜そして見えてきたもの〜


1、  動機

 三重のお宝に何を取り上げるかを考えていた時に、昨年(2001年)が東海道宿場・伝馬制度制定400周年であり、その記念イベントとして、街道ウォーク・inみえが催されていたので、三重のお宝として「東海道」に着目した。 誰もがその名を知っている「東海道」。その東海道にそって歩いていけば、きっと“三重のお宝”と呼ぶにふさわしい何かが発見できると考えたのである。そこで、我々は実際に街道ウォークに参加することを足がかりとして、東海道のお宝性を探っていくことにした。

2,東海道の概要

東海道は古代より都と東国を結ぶ街道であり、七道のうちのひとつであった。鎌倉幕府が成立すると、鎌倉への年貢の輸送や鎌倉への商人の出入りなど、従来見られなかった新しい交通事象が出現し、幾多の道路網が延びていった。しかし当時の主要道路は、やはり鎌倉幕府と京都・朝廷を結ぶ大動脈、東海道であった。のち徳川家康によって、東海道は五街道のひとつとして宿場や伝馬制度などが整備された。東海道においては、江戸と京都を含まない品川宿から大津宿までの五十三の宿が設けられ、俗に東海道五十三次と呼ばれている。東海道の総延長は、江戸の日本橋から京都の三条大橋間のおよそ百二十五里(500キロメートル)で、昔の旅人は朝四時に宿を出、夕方六時くらいまで歩き、この長い道のりを十二〜十五日で踏破した。

3、三重県内の各宿場について

 ここでは三重県内の各宿場を、その宿場にまつわるエピソードと共に紹介する。

l         宿駅の規模(天保14年/1843)  

宿駅名

本陣

脇本陣

旅籠屋

42/桑名        

120

43/四日市

98

44/石薬師

15

45/庄野

15

46/亀山

21

47/関

42

l         宿駅

第四十二宿 〜桑名宿〜

 江戸からの旅人は、熱田神宮のある宮宿の渡し場から海上七里(約27キロ)の船旅を経て桑名に入った。ここからが伊勢国の東海道の始まりである。木曽三川、伊勢湾の港町として栄えた宿であり、旅籠の数は宮宿(本陣2・脇本陣1・旅籠248)に次ぎ、東海道で二番目に多い。また、桑名といえば焼蛤だが、焼蛤は四日市の小向・富田あたりが本場であり、桑名ではむしろ佃煮の「時雨蛤」のほうが有名だったようだ。

第四十三宿 〜四日市宿〜
 江戸時代、四日市の港は蜃気楼の名所として知られていた。蜃気楼は大蛤の吐き出す妖気がつくり出すものであり、特に異国の楼閣などが出現すると思われていた(だから“蜃気楼”)。四日市は桑名同様、蛤の産地として知られていたので、蜃気楼が出るのもさほど不思議でなかったのかもしれない。また、四日市宿は水陸の交通の要衝でもあり、人や物の往来も盛んだった。東海道と伊勢参宮道の分岐点でもある日永の追分には伊勢神宮二の鳥居があり、この周辺には茶屋が立ち並んで繁盛していたようだ。

 ◎実は宮宿と桑名を結ぶ「七里の渡し」に対して、宮宿と四日市を結ぶ「十里の渡し」というものもあった。東海道の正式なルートは七里の渡しだったのだが、桑名〜四日市間の三里八町(約12.6キロ)も歩かずに済む事になるため、旅人には十里の渡しのほうが人気があった。そのため江戸時代を通じて、何度か二宿の廻船の間で争論も起こっていたようだ。

 〜赤福〜

 

 

 

第四十四宿 〜石薬師宿〜

 東海道筋では最も小さな宿場。当時その場所は家が三十三軒しかない小さな農村だったが、四日市宿と亀山宿の距離が長いため、幕府がここに宿場をつくることを命令。当然のことながら、村人たちには年貢、人馬役など、かなりの負担がかかったらしい。さらには、このように小さな宿場であったにもかかわらず、本陣三件・旅籠十五件をかかえており、それらの経営も相当苦しかったと想像できる。ちなみに脇本陣はなかったものの、なぜ三軒もの本陣があったかは分かっていない。

第四十五宿 〜庄野宿〜
 東海道に五十三ある宿場のうちで最も遅く設置された。この宿も石薬師同様、小さな村であり、本陣・脇本陣が各一軒、旅籠十五軒が置かれたが、やはり経営難であった。このことを気の毒に思った幕府は、東海道の各宿場に人馬百人百匹を置く定めになっているところ、三十五人四十匹に半減をしたという。
 また庄野宿は、広重の「東海道五十三次」の浮世絵のなかの最高の傑作といわれる「庄野の白雨」の題材になっている。

石薬師宿にしても、庄野宿にしても、伊勢参りの旅人は日永の伊勢街道に入ってしまうために東海道からはずれ、旅人は少なく、したがって旅籠や茶店、土産による収入は期待できなかったようである。つまり、石薬師や庄野の村は宿場を置いているがゆえに、苦しい生活を強いられていたものと思われる。

第四十六宿 〜亀山宿〜
 古くから亀山城の城下町として発展していた地域であるが、東海道の城下町としては最も規模が小さい。起伏に富んだ坂の多い町であり、城下町であるため道筋は入り組んでいたようだ。別名「胡蝶城」とも呼ばれた亀山城だが、大手門が東海道に直結していることから、軍事的役割よりも、政庁としての機能が重視されたと考えられる。多門櫓(たもんやぐら)は三重県内では唯一現存する城郭建造物として県の遺跡に指定されている。また、国の史跡に指定されている野村一里塚も、県内では唯一現存するものである。

第四十七宿 〜関宿〜

 〜志ら玉〜

 

 古代三関のひとつ、鈴鹿の関が置かれていた関宿は、難所の鈴鹿峠のふもとに繁栄した宿場である。関宿は峠越えを控えている上に、大和街道、伊勢別街道の二本の街道が始まる交通の要衝でもあったため、古今東西往還の分岐点として大変賑わった。旅籠も繁盛していたようで、「関で泊まるなら鶴屋か玉屋、まだも泊まるなら会津屋か」といわれたほど、人気の旅籠が三軒あった。またここは、東海道で唯一「伝統的建造物群保存地区(まちなみ保存地区)」に定められた地域であるため、現在でも江戸時代さながらの雰囲気が味わえる。
亀山は城下町であるため、亀山藩の支配領域に、幕府の支配地である宿場が飛び地のように入り込む形となった。このため、参勤交代の大名たちは亀山での宿泊をできるだけ避け、関に宿泊することが多かった。関の宿場は賑わいを見せたが、亀山の宿自体は鄙びていたようだ。関宿には飯盛女も多かったので、そのせいもあったのだろう。

(おまけ)用語解説

     宿(しゅく) …宿場。宿駅。人馬の継立や旅行者の休息・宿泊の便宜をはかった場所。
    継立(つぎたて) …次の宿場まで荷物などを輸送するための馬と人足の手配。
    本陣(ほんじん) …参勤交代の大名や勅使、公家や幕府役人などの貴人が休泊した宿。
    脇本陣(わきほんじん) …本陣に準じる休泊施設。本陣利用時の代用として使われた。
    旅籠(はたご) …一般の旅行者や武士の宿泊する宿。普通は一泊二食付。
    追分(おいわけ) …道の分岐点。ここには茶屋などが多くできて繁盛した。
    一里塚(いちりづか) …街道筋に一里(約3.9キロ)ごとに設けた塚。榎などを植えた。
    飯盛女(めしもりおんな) …旅籠で旅人の宿泊や食事などに奉仕する女性。実は遊女。

4、 道は何をつないだか

 ここでは、「道」が何をつないでいるかについて考えていく。

●人と人
 江戸時代の人々は、一生に一度は伊勢神宮に参拝したいと望んでいたようである。そして民衆の伊勢参りが、ある年に爆発的に起こることがあった。「お陰参り」といわれる参宮の大ブームである。本居宣長の随筆『玉勝間』によると、宝永二年(1705年)4月9日から529日までの一ヵ月半に、362万人もの人が訪れていたそうだ。これらの人々は主人の許可をうけないまま抜け参りをしてきた人々であり、十分な旅行の準備もしないままだった。なぜこのような人々が無事参宮を終えられたのか?それは街道筋の人々が無償で食事や銭、旅行に必要なものを提供したからである。施行(せぎょう)と呼ばれる援助だが、これのおかげで抜け参りの人々は無事に伊勢神宮へ行くことができたのである。

〜二軒茶屋餅〜

 

 

●人ともの
 街道沿いには今も名物餅が多く残っている。東海道の安永餅(桑名市)、志ら玉(関町)、関の戸(関町)、なが餅(四日市市)、伊勢街道の赤福餅(伊勢市)、二軒茶屋餅(伊勢市)、返馬餅(度会郡小俣町)、熊野街道のまつかさ餅(多気郡多気町)、おきん茶屋餅(多気郡勢和村)、さわ餅(松阪市・磯部町)などである。昔の旅人はほとんどが徒歩で、休息のために街道沿いには茶屋が多く出現し、手軽につまめて腹持ちもよい餅が名物としてのこっていった。
『返馬屋さんも二軒茶屋餅さんも太閤餅さんも、はじめは小さな茶屋から始まったのでしょうが、参宮される方がたが多くなりますにつれて次第に繁盛するようになり、やがてなくてはならない名物として広く賞美されるようになったものでございましょう。ただ商いは、ひとつには場所でするものでございます。私どもの店にいたしましても、道路の事情が変わるに連れ店のありかたもそれ相応に変えてまいりました。』(赤福のこと 浜田ます)

●道と道
 東海道について考えた時につながっている、道と道には2種類存在すると考える。1つは東海道を旅してきて、三重県に到着し、伊勢参りするための、分岐道とのつながりである。分岐道としては、四日市の日永の追分で伊勢神宮へ向かう伊勢街道、関の東の追分で分かれ、津で伊勢街道と合流する伊勢別街道、そして、西の追分で上野を越えて奈良へと向かう大和街道が挙げられる。これらの道が、東海道から三重県を案内していたといえる。
 もう1つは少々余談だが、東海道は、そのおおよその道筋を現在の国道1号に受け継ぎ、伊勢街道は、国道23号に引き渡すことで、過去の道と現在の道をつなげ、三重県に残したのではないだろうか。

●土地と土地
 道が開通することで、遠隔な所に位置する土地と土地のつながりが容易になることは現在も理解できるであろう。東海道でも、行商がその土地その土地の様々な商品を運搬することで、中央の諸都市と地方の大名領国とがむすばれていたといえる。京都を例にとってみると、畿内(近江・丹波)から食料・日常物資を移入し、ほぼ全国から原料・半製品を手に入れて絹織・染色・小間物を江戸や諸都市に運び出す。こうして現在の京都の物産は、道に支えられて存在するようになったのである。

 〜へんば餅〜

 

 

●文化と文化

 道は人々だけでなく、文化もつないでいた。参宮土産であった『伊勢暦』(いせごよみ)は各地で利用されていた。伊勢音頭も、もとは伊勢の妓楼で歌われていた民謡であったのだが、やがて全国各地にひろがっていった。三重県には全国から人々がやってくるため情報収集は容易で、江戸に進出して成功をおさめた商人も多かった。津から松阪付近の出身者が主である伊勢商人だが、店の奉公人は原則として伊勢国出身者に限っていた。そのため十一、二歳になる子供が、毎年大勢江戸に奉公にきたのである。もちろん地縁・血縁関係が強く、江戸店でも伊勢弁を使用した。柔らかな響きの伊勢弁は、商売向きの言葉使いだったのだろうが、一種独特な世界が広がっていたようだ。

以上のように、「道」がなにをつないでいるかを見ていくと東海道に対する伊勢神宮の影響は大きいといえる。そこで、次に「伊勢神宮と東海道のつながり」について考えて行く。

5、伊勢神宮と東海道のつながり

  江戸・京都間を結ぶ東海道は、三重県北部を通っている。伊勢神宮参拝の際には、全国の人々が東海道を通って三重県内に入り、さらに伊勢街道や伊勢別街道を通って伊勢に向かったようである。

○伊勢神宮へ向かう街道
  伊勢街道……日永→神戸→白子→上野→津→松坂→山田
  伊勢別街道……関→椋本→一身田→津(江戸橋)→松坂→山田

  この二つの道の他に、奈良県や和歌山県のほうからの参拝者は以下の道を通っていたようである。

  初瀬街道……奈良→名張→久居→松坂→山田
  伊勢本街道……多気(一志郡美杉村)→大石→相可→田丸(度会郡玉城町)→山田
  和歌山街道……高見峠→粥見(飯南郡飯南町)→丹生→田丸→山田
  熊野街道……熊野方面→山田
  鳥羽街道……鳥羽→山田

 〜まつかさ餅〜

 

 

  江戸時代の人々は、一生に一度は伊勢神宮に参拝したいと望んでいたようである。ことに江戸中期以降になると、農民の生活水準も向上し、旅に出ることが可能となってきた。しかし伊勢参宮は個人でする場合は少なく、むしろ団体が多かった。村では伊勢参宮のために講を組織して、少しずつ積立金をため、数年に一度代表のものたちが伊勢参宮をした。

御師の果たした役割
 語源は御祈祷師の略であるという。
 御師とは、人々に伊勢信仰をはじめ、富士信仰や熊野信仰などを広めるために活躍した神主たちである。彼らは神主であるとともに、特定地域の人々を檀家(旦那とか道者ともいう)にもち、その地域には手代を派遣して神宮のお札(お祓とか大麻という)を配って初穂料をうけ、さらに人々に伊勢参宮を勧めていく。そして檀家が伊勢参宮をする場合は、宮川まで迎えに出て(松坂まで出ることもある)先導し、御師の家に宿泊させたうえで参宮の案内をし、檀家が神楽奉納を希望すれば、御師の家に設置された神殿で神楽を奉納する。以上に述べたように、御師は神主(配札の仕事を含む)、旅行斡旋業者、旅館経営者といった性格を併せもち、さらに商人や金融業者的性格をもつものもいたと思われる。
  御師が檀家に配るのはお札だけでなく、伊勢土産として、煙草入れや櫛・白粉・万金丹なども持参したため、全国に知られるようになった。また伊勢暦も土産として利用され、各地で重宝がられた。
 このように御師は、伊勢信仰を広めるために大きな役割を果たすとともに、参宮客を多数集め、宇治・山田の町や神宮を潤しただけでなく、伊勢土産などを通じて文化の伝播にも一役買ったのである。

6、現代につながる街道の影響

 現代の私達の生活には、旧東海道との関わりはほとんどなくなってしまったように思える。しかし、街道と私達のつながりは物質的なつながりだけではない。 

*街道がもたらした県民性*

 〜おきん茶屋餅

 

 三重県は古くから平穏な気候と肥沃な平野を持つ土地であった。しかも伊勢神宮への参詣客が全国からひっきりなしにやってきたため、街道沿いはとにかく商売が繁盛した。このように、死ぬ気で働かずともどうにか生活していける環境が、どこか欲のない温和な県民性をうんだ。反面、他人との調和を第一に考える、やや積極性に欠けた部分もみられる。また東西の旅人が集まってくるために、極端な方言も育たなかった。

 もちろん県民性はあくまでイメージであり、文化や方言は各地域で違いがみられるのだが、三重県人の県民性は街道をとおる旅人たちとのかかわりの中で育まれていったことは確かであろう。

7、まとめ

 私たちのグループが最初に東海道に触れたのは、昨年の東海道宿駅・伝馬制制定400年を記念した「街道ウォーク」であった。実際に三重県内の宿駅のうち、亀山宿の「街道ウォーク」に参加したのだが、そこでたくさんの歴史的な建物や資料を目にしてもこれといった感動を得ることができなかった。
 これまで「宝」とは目に見えるもの、形あるものであるという考えが支配していたが、今回、道(東海道)の持つお宝性について考えていく上で、その考え方に疑問が生じた。あるものが「宝」と呼ばれるためには、どういった過程があるのだろうか、どのようにして人々にそのお宝性が認められていくのだろうかと考えるようになった。何がものを「宝」たらしめているのだろうかと考えるようになった。そしてその重要な役割を果たしているものの一つに道があるのではないかという考えが浮かんだ。
 世界中どこにでも当然のように延びている道は、土地と土地を結び、人の往来を促し、流通をさかんにし、文化を形成し伝えていく。私たちは道そのものにはあまり素晴らしさを見出そうとはしないが、今日の私たちを形成するありとあらゆるものや、暮らしを豊かにする身のまわりのものは、道を媒介として生まれてきたものであると言っても過言ではないように思う。私たちが今日素晴らしいと思うものは道と大きく関わっているのである。 このように、道は、それ自身が目に見える形としてお宝性をもっているのではなく、その果たす役割として隠れたお宝性をもっているのだと気づいた。
 目に映るものを見ることは非常に簡単なことではあるが、当然ながらその目に映ったものがすべてではない。意識して見ようとし、感じ取ろうとしなければ見つけることができないものの存在に気づき、触れることもまた重要である。今回、「宝」について考えていったことで、ものごとに隠された意味を見つけようとする姿勢を身につけるきっかけを得ることができた。この姿勢を大切にし、今後も精進していきたい。

8、おわりに 〜そして見えてきたもの〜

 ここでは現在の道についても考えてみたいと思う。
 現代版東海道といえば、高速道路が思いつくのではないだろうか。人が車、宿場がサービスエリアにとってかわったが、何かと何かをつなぐという根本的な道の目的はかわっていない。
 もちろん現在の道は高速道路だけではない。しかしこの現代版東海道を筆頭に考えることから、道の目的の背後で変化したものが見えるはずである。まずは、現在の道と昔の道の特徴を比較の形に並べることにより、時間の流れ、旧・現代の移り変わりの中で、人々が何を手に入れ、また手放し、失ったかを見ていく。

 現在の道の特徴》         《昔の道の特徴》

車のための道                人が歩くための道
→あまり歩かない             →歩く
→道を歩く大変さは分からない       →道を歩くこと大変さが分かる

  アスファルトの道              土・砂利の道
  →舗装されている             →まっすぐ平坦ではない
   →足にとっては?             →足にとっては?
   →ひとにとって優しい?          →ひとにとって優しい?

  目的地へひとっとび             人の速度でゆっくり
  →目線は遠い               →目線はやや低い
  →景色は流れていく            →立ち止まることができる
   →大きなものは目にはいる         →小さなものも目にはいる
   →目に入るものを見る           →自らの意思でものを見る
   →寄り道が少ない             →寄り道が多い

高速道路)サービスエリアがある     宿場がある
→人が休む                →人が休む
→食事をする               →食事をする
→土地感・季節感はそれほど感じられない  →土地の物、季節の物が出され
→車を休める               →(馬を使っていた場合)馬も休む             
→ガソリン補給              →餌を食べる

 以上のように比較されたものを眺めてみると、現代の道は「車のためにつくられた道」であり、それを軸として“便利さ”や“速さ”が追い求められているといえる。つまり、車をつかうことで目的地に少しでも速く、そして快適に到達するという現代人の欲求が、現在の道をつくりだしたのである。しかしその結果として、我々は“土”とのつながりを失ったのではないだろうか。
 アスファルトによって覆われた道は大地と我々を引き離し、均一化されたサービスエリアはその土地の土のかおりを奪い、我々をその土地の人々や風土から遠ざける。しかし私達はその状況に満足する一方で、その土地ならではのモノもまた熱烈に求めようとする。この感覚はどこからくるのだろうか。
 その土地ならではのものにはその土地独特のにおいがあり、それはそこに住む人や自然によってつくられる。現在の私たちの生活を考えてみると、このような、「その土地を全身で感じる」ということが少なく、そこから派生して人とのつながりも希薄であるということがいえるのではないだろうか。つまり、“今”にはないものが、“昔”にはあった。そして現代人は昔の生活に、失われた人のあたたかさを見出そうとする。しかし、現代人が手に入れた今の生活を切り離し昔の生活に戻ることは不可能に近いだろう。なぜなら、私たちは科学技術が進み、生活する上で便利になった状況に生きている。私たちはこの便利さを捨てて生活を営むことができるだろうか。今の便利さは昔の人々が求めた結果生まれたものである。しかしその便利さに、現在を生きる私たちは空虚さを感じている。そこに現代人のジレンマがある。そしてこれから私たちはそのことについて何を考え、どういきていくべきだろうか。これがわれわれに課せられた今後の課題であろう。

<引用・参考文献>
・「体系日本史叢書24・交通史」1994年  山川出版社
・「体系日本史叢書13・流通史」1994年  山川出版社
・「三重県の歴史」2000年7月1日 山川出版社
  稲本紀昭・駒田利治・勝山清次・飯田良一・上野秀治・西川洋著
・「伊勢まいり」1993年9月20日 矢野憲一・山田考雄・宮本常一他  新潮社
・「三重の街道」 観光みえ推進協議会
・「47都道府県別 県民性なるほどオモシロ事典 これだけ知っていれば役に立つ」                    1996年2月10日 日本実業出版社
・「伊勢志摩」1994年12月・1995年1月号、東海道七道めぐり
  
伊勢志摩編集室
  「ラ・ソージュ/文化展望・四日市」2000年第17号、2001年 
  東海道の旅「伊勢七道をゆく」  四日市市文化振興財団
・江戸時代図説16・東海道三  筑摩書房
・岩波新書の江戸時代 「おかげまいり」と「ええじゃないか」藤谷俊雄  岩波書店
・「東海道ウォーキング・マップ」  東海道宿場・伝馬制度制定400周年記念事業              実行委員会
・「東海道、見どころ」2000年 三重県教育委員会
・「こんなに面白い江戸の旅、東海道五十三次ガイドブック」菅井靖雄 2001年
  東京美術
・「図説東海道五十三次(ふくろうの本)」今井金吾 2000年 河出書房新社
 「広重五十三次」を歩く 下、見付宿〜京都」 土田ヒロミ 1997年                         NHK日本放送協会
 「お国ことばのふしぎ大辞典、エッ!?こんな日本語はじめて!」ハイパープレス著                      2000年  青春出版社

*********「三重のお宝」東海道に取り組んで…**********

  東海道 感想                    梶野貴美子

 正直とてもしんどかった。最初はかなり気楽な気持ちだったのだ。歴史ある東海道を歩き、イベントを楽しんで何かスゴイものがあったらそれについて調べて、それで三重のお宝にすればいいや。私は遠足気分で街道ウォークに参加した。街道ウォークはそれなりに楽しかった。最後に参加賞の東海道五十三次がデザインされているピンバッチをもらい、私は歩いたという達成感に満足しながら家路に着いた。…で、お宝はみつかったのか?みつからなかったのである。もちろん「県内唯一現存…」「県文化財」などと、お宝と呼べそうなモノはたくさん目にしていた。しかし、それだけだった。私たちが「これが三重のお宝です!!」と自信を持って紹介したくなるような「お宝」ではなかったのである。
 授業が進むにつれて、どんどん追い詰められていった気がする。今日は東海道の歴史を発表した。次は何?そもそも何がお宝なの?かなり辛かった。正直、テーマが悪かったのだろうか?と思ったりもした。古人が利用した道、それは現代の私たちには昔を偲ぶ事以外なにももたらさないのではないだろうか?
 何かないですかね?いい宝…。そんな感じで苦しんでいた。光がさしたのは授業での「道がつないでいるものは何か?」という言葉だった。
 「道が何をつないでいるか?」人、モノ、土地、文化、時間…。これを考えて話し合いを進めていったとき、何か見えてきたように思えた。なにも形あるもの、目に見えてすばらしさが分かるモノだけがお宝というわけではない。そういうお宝を、お宝として皆が認めるまでにしていったのは「道」ではないだろうか?そんな道は隠れたお宝性をもっているのではないか?また、調べていくにつれて、三重に住む私たちが当たり前のように食べている名物、しゃべっている言葉、気質なども密接に街道とつながっていることがわかった。現在の私たちを形作ったもののひとつが、街道だったのである。
 「道」について考えていくにつれ、いろいろな物がどんどんつながっていったように思う。もっともそのお宝性がみえた後も、私たちはそれを文章化して示すことに大いに苦しんだのだが。現われた結果のみを語るのは簡単だが、誰もがこの結果をお宝性として認めるためには、過程もしっかり語らねばならなかった。
 今日、社会は「道」が感じられない方向に進んでいるのではないだろうか。「よく知っている、でもそこに行けと言われれば行くことができない」場所が私にはある。夜行バスツアーなんてバスに乗り、目覚めればもう外は白銀の世界だったり、イマジネーションの国だったりするのだ。車を運転するからそんなことはない、という人もよく考えてみてほしい。今日買った物はどうやってその店にやってきたのか?その過程をあなたは意識するだろうか?社会は過程を省き、結果ばかりを求めていないだろうか。一瞬で目的地に辿り着く方法が世の中にはあふれている。そしてそれは何も物質に限ったことではない。
 今回の授業で、私たちは結論に至るまでの過程を嫌になるほど味わったように思う。まさに長い道のりであった。こんなところにもお宝性はひそんでいたのですね。終わってほっとしました。皆さんおつかれさまでした。

「三重のお宝〜東海道〜」感想             栗林康子

 冊子をつくり終えて 

今回、三重のお宝として私達の班では、東海道を取り上げ、道の果たしてきた役割知り、そこから三重県、強いては現代の生活状態について考えた。最初に思い描いていたもの()には、県を代表するだけの存在の美しさ・すばらしさとしての力量が十分でないことが分かった。そのもの(物)が背後に秘めた現代への問いかけこそ宝だと考えたのである。ただ、お宝発見もうれしかったわけだが、その話し合いの途中で、東海道の“三重県”へのお宝として、伊勢神宮との関係を知り、その視点で見ていくことに気付いた時は、何とも言えず、宝の“つながり”を感じてうれしかった。今回たどり着いたジレンマ問題を考える時にも、「結局どちらでもかまわない」という感覚を先に立て、流されるように過ぎていく現代の道路形式で問題を流していく前に、ふと立ち止まって、個々の問題に“つながり”を発見しようと考えてみる必要があるのかもしれない。
 今回の学習の中で学んだことは、実際に歩いて何かを感じることも、知識を求めて資料と向き合うことも、話し合うこともそれぞれ単独では、宝にはたどり着かず、そこには何らかの“つながり”があるということである。そしてこの事は今後の問題解決のなかで、大いに役立つと思われる。

自分のなかで見えてきたもの〜ルポに取り組んで〜    幸田則仁

 私の本音
 道の持つお宝性に気づくまでの道のりは、本当に厳しく険しいものだった。歴史的価値からそのお宝性に近づこうとした私たちであったが、亀山での「街道ウォーク」ではほとんどこれといった感動も得られず、一番最初の中間発表では無感動のまま安易に「東海道=宝」と定義付けしてしまい、先生方や他のグループから厳しい指摘を受けた。この時点では、私たちの心を揺さぶるようなものを東海道から見出すことが全くできていなかった。 テーマを東海道にするということだけが決定されていて、中身が何もない状態が数週間続いていた。その間に他のグループはどんどん調査を重ね、着実に各グループのお宝性にせまっていっていた。それに対して私たちの中間発表は本当にその場しのぎのものばかりで、発表当日の数分前にレジュメを印刷するということもあった。中間発表でも他のグループの素晴らしい発表を聞き、私たちのグループだけが置いてけぼりを食らっているように感じた。
 しかし、昨年の暮れにちょっとしたことから発想の転換が起こった。他のグループのなかに「伊勢型紙」と「赤福」を扱っているところがあったのだが、その材料や製品の流通経路に興味をもったことがきっかけだった。いったい「伊勢型紙」や「赤福」はどのようにして全国にその名を知られるようになったのかと考えた。モノや情報を伝えるのは人間である。では人間はどのようにしてモノや情報を伝えたのか。そう考えることができたとき、初めて道の存在に気づき、そのお宝性に迫ることができた。
 私たちの目指すべきお宝性に気づいたことで、それからは非常にスムーズにルポを展開させていくことができた。私たちのルポにようやく「骨格」ができたのである。残された「肉付け」はグループの他のメンバーが本当に一生懸命に取り組んでくれた。最終発表に使う冊子の構成から、私の調査すべき内容に至るまで、あらゆることにそのエネルギーを注いでくれた。本当に本当に頭の下がる思いである。他の3人がいなければこのようなルポはできなかったといっても決して過言ではない。
 このようにして、私たちのルポは出来上がったのである。道の持つお宝性に気づくきっかけを与えてくださった先生方と他のグループの皆さんに感謝の気持ちを伝えたい。そして、共に悩み、苦しみ、そして私を支えてくれた同じグループの梶野さん、栗林さん、長澤さんに改めて感謝の気持ちを伝えたいと思う。

〜「三重のお宝」東海道〜 に取り組んで考えたこと     長澤理恵

 昨年の10月から今年1月まで進めてきた総合演習は、長かったようで非常に短い時間であった。振り返ってみると、10月に「三重のお宝」として「東海道」に目をつけてから、1月の発表までは決して楽な道のりではなく、まさに一歩進んでは二歩下がっていくような苦しい状態だった。まさに「道」はわたしにとって「未知」だった。
 知識を越えた宝としての東海道を追求するべく、街道ウォークにも参加し、実際に東海道を自分自身の足で歩いた。歩けば何かお宝性につながるようなことが見えてくるのではないか、なにかヒントが見つかるのではないかという思いを持って歩いたが、歩いたその時に、その“何か”は見えてこなかった。そこで私たちは行き詰まったわけだが、その状況の中で、少しでも何か発展させたいという気持ちから、そもそも「道」とは何なのかを知る手がかりとして、「道」は何をつなぐのかというところへ考えをめぐらせ、そして物質的なつながりだけではない、時を越えたつながりを見いだした。私たちの周りにあるあらゆるものは「道」を媒介として生まれ、何らかの形で多くのものが「道」と関わっているということから、「道」には目に見えるものとしての「宝」ではなく、その「道」が果たす目に見えない役割にこそ、お宝性があるというところへ行き着いたのである。
 そしてその後、今まで「昔の道」ばかりに焦点をあわせてきたということから、では現代の私たちが使う「道」はいったいどう違うのか、という観点で「昔の道」と「今の道」の比較を行い、そこから“現代人のジレンマ”を見いだした。そこでは、いま生きている私たちの生き方、つまり21世紀の生活感を問い直し、新たな課題を提示することとなった。
 「東海道」という一本の「道」から、現代人の生き方を問い直すところにまでいたったことは、予想もしなかった非常に大きな成果でもあり、私自身、ここまで行き着けたということに感動した。おそらく私以外の他のメンバーも感動しているに違いない。ここまで思考を押し進めることが出来たのも、実際に自分の足で東海道を歩いたからだと言っても過言ではない。実際に道を歩いた時の足の裏の感触や、雨、風、目線など、そこで感じたすべてのものが、この発表の中に取り込まれ、そこから生まれるものがあり、現代の課題へとつながった。つまりここでも「道」は、“私たち”を“現代人に課せられた課題”へ向かい合わせ、つないだのである。ここへ来てはじめて、「歩いたことは無駄ではなかったのだ」と思える。あるものの本質こそは、目に見えない隠れたところに潜む。これは他のグループの研究発表を見ても明らかであろう。ただでさえ目に映ったものにとらわれがちな人間が、その潜んでいるものにどのように気付き、いかにそれを今の「わたし」に引きつけて考えるかということが、私たちに前進をもたらすか、そうでないかの大きなポイントとなるのではないだろうか。
 「総合学習」においては、子どもたちの体験や経験を重視しているが、子どもたちがその体験・経験をただする、というだけでは全く意味をなさないと考える。体験・経験から子どもたちなりの発見や感動、疑問が沸き上がり、そしてそれらが何らかの形で子どもたちの「今」に働きかけ、考えるというプロセスがなければならないのではないだろうか。そうでなければ、本当の「生きる力」をつけるということにはならないし、決して「生きる力」を獲得することもできないだろう。
 「総合学習」にはまだまだ多くの課題が残されており、現場の教師にとっても大きな悩みになっている部分があるようである。今回、私たちなりの「総合学習」を実際にやってみたが、そこで感じたことは、「総合学習」という大きな枠組みだからこそ、いろいろなことにチャレンジし、考えることが出来るということである。たしかに、たいへんな時間と労力とを要し、その負担は並々ならぬものがある。これは現場の教師には大変なことだろうという想像もつく。しかし、これほどまでに自分の今までの経験や知識をフルに活用し、考えるという作業はなかなかないものである。このような機会を与えてくれるだろう「総合学習」を、やはり活用しない手はないだろう。賛否両論あるこの「総合学習」という枠組みを得た今、学校の教育は、この「総合学習」に正面から取り組み、そして子どもたちと共に考えることが必要となると感じた。
 以上のようなことを今回、この「総合演習」を通して感じ、また考えた。そしてテーマであった「総合学習の授業の課題と方法を体験的に学び明らかにする」ということを、達成できたのではないかと感じる。