2009年7月1日16時13分
幕末に苅部清兵衛が奉行に送った文書。「丸投げ」の実態が書かれている
横浜道を描いた五雲亭貞秀の浮世絵(1860年作、横浜開港資料館所蔵)
1859年の横浜開港に際し、幕府によって急ピッチで整備された横浜と東海道を結ぶ「横浜道」。この建設をめぐり、現代の公共工事をほうふつとさせる「丸投げ」が横行、道路開通が危うく開港に間に合わない事態になっていたことが、旧家から見つかった古文書で分かった。完成は開港の1日前だったという。
古文書は、幕末、横浜町の総年寄(町政の責任者)を務めた苅部(かるべ)家の横浜市保土ケ谷区にある子孫の蔵から昨年夏に見つかった。保土ケ谷宿の名主だった苅部清兵衛から奉行にあてた文書で、横浜開港半年後の安政6(1859)年12月23日付になっている。
文書によると、現在のJR関内駅に近い吉田橋付近から西区の戸部に至る道路と橋3本の工事を、勘七という業者らが4470両で落札。勘七らはこのうち最も時間と費用のかかる橋の工事を、785両で平左衛門なる業者に丸投げした。平左衛門もさらに555両で半兵衛なる下請けに請け負わせたという。
丸投げの過程で抜かれた金が多く、作業者に支払う工事資金が不足して工事は停滞。開港日に間に合いそうにない事態に陥った。このため、幕府は「諸外国に対して威光が保てない」と清兵衛に泣きついたという。
清兵衛は自ら借金をして工事を進め、開港1日前の6月1日に完成させた。しかし、その後、清兵衛のもとには次から次と金の督促があり、困り果てて窮状を訴えたのが、今回の文書だったという。
横浜開港資料館の西川武臣主任調査研究員は「幕府が開港したといっても、実際は住民の力が大きかった。丸投げして、費用を途中でピンハネしてしまう構造は150年前も今とほとんど変わらない」。文書は同資料館の企画展で7月26日まで展示されている。(佐藤善一)