まずは、これを見て欲しい。これは2007/2/23に埼玉で行われた韓国人慰安婦のイ・ヨンスさんのお話を聞く会での配布資料である。当初から1944年の秋から3年間慰安婦としての生活を送ったとの証言が時期的にありえないウソだと言われていたが、各方面からの指摘により、証言を姑息に訂正した形跡が確認された。
こんな重要な証言を変えてどうやって信じろというのか?
■『「李容洙」(イ・ヨンス)の証言』
@1993.7「写真記録 やぶられた沈黙」
1944年夏、友達の母親に「豊かな生活ができる」所へ行かないかと誘われるが断る。
その何日か後、その友達が家に誘いに来てついて行くと、軍服みたいな服を着た男がおり、ワンピースと赤い靴をもらって感激してついて行く。
→ 明記はされていませんが、「友達は母親に言われて同女を呼びにきた」ということを想像させる内容です。
A1993.10「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」
(P.133)ある日、私がその子の家に遊びに行くと、おばさんが「お前は履物ひとつ満足に履けなくてなんというざまだ。いいかい、お前もうちのプンスンと一緒にあのなんとかというところに行けばなんでもあるらしいから。ご飯もおなか一杯食べられるし、お前の家族の面倒もみてくれるって話だよ」と言いました
→友達のプンスンのおかあさんがイ・ヨンスに娘と一緒に慰安婦になるように諭している様子が克明に描写されています。この頃は日本人、朝鮮人の売春あっせん業者による月300円の「慰安婦募集募」の新聞広告が出ていましたから、彼女らの両親は娘が売春婦になる事を100%認めていたという事になります。
(P.133) プンスンと川で貝を採っていたら、向こうの土手の上にみたことのない老人と日本人の男の人が立っているのが見えました。老人達が私たちの方を指さすと、男の人は私たちの方に降りてきました。男の人が私達に手真似で行こうという仕種をしましたが、プンスンは知らん振りして反対の方に逃げました。
それから何日かたったある日の明け方、プンスンが私の家の窓をたたきながら「そうっと出ておいで」と小声で言いました。私は足音をしのばせてそろそろとプンスンが言う通りに出て行きました。母にも何も言わないで、そのままプンスンの後について行きました。行ってみると川のほとりで見かけた日本人の男の人が立っていました。国民服に戦闘帽をかぶっていました。赤いワンピースと革靴の入った包みをもらって、幼心にどんなにうれしかったかわかりません。もう他のことは考えもしないで即座についていくことにしました。
→イヨンスを呼びに来たのは友達のキムプンスンと言っています。これは後に「軍人と、軍人に首になにかを押し付けられて脅迫されている女性」に変化します。また、日本人の男=慰安所の経営者の服装も国民服です。「軍服を着た」に今は証言が変わっています。
(P.137)テグから私達を連れてきた男が慰安所の経営者でした。私達はその男を「オヤジ」と呼びました。娘たちの中で私が一番年下でした。プンスンは私より一歳年上でしたし、他の人は十八歳、十九歳、二十歳といったところでした。
部屋に入れと言われましたが、入るまいと突っぱねたら、経営者が私の束ねた髪の毛をつかんで、ひとつの部屋にひっぱって行きました。その部屋で電気拷問を受けたのです。
→テグから台湾まで引率したのは、慰安所の経営者です。今の証言では、軍人に強制連行された事になっています。また、イ・ヨンスの証言で有名な電気拷問のシーンですが、これも経営者に虐待を受けたといっています。これも今の証言では軍人にされた事になっています。
(P.142)船が釜山港に降りると、渡しはDDTをかけられ、三百円をもらいました。その時帰国したのはプンスンとよくふとった女の子ともう一人と私、全部で四人でしたが、釜山で別れました。
→300円は慰安婦としての給料でしょうか?当時の事例から推測すると、慰安婦の親は慰安所業者から前金を貰っているはずです。それを返済しつつ、働いた金額から生活費や食費を差し引いて後に給料が支払われる事になっております。理由がなければ300円は支払われる事は無いので、これは給与であると考えます。また、友達のキムプンスンと一緒に帰国したという事で、友達と一緒に稼ぎに出た実態が理解出来ます。。
B元「慰安婦」へ補償を (日本共産党/Japanese Communist Party)(2002.6.26)
韓国の李容洙さん(74)は、14歳で銃剣をつき付けられて連れてこられたこと、拒むと殴られ、電気による拷問を受けて死にかけたことなどを話し、「私は歴史の生き証人として今、生きている。この法案が審議され、成立することを望む」と語りました。
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik/2002-06-26/13_0201.html
C「消せない記憶」-李容珠 (2004.12.4)
1928年韓国の大邱(テグ)生まれ。1944年、16歳の時に「軍服みたいな服を着た男」に連行され、台湾へ。移動中の船の中で、日本の兵隊たちに繰り返し強かんされる。
その後、連れて行かれた先の台湾で、日本軍「慰安婦」としての生活を3年間強制された。「慰安所」では1日に何人もの兵士の相手をさせられ、抵抗すると電線のようなもので電流を流されたり、丸太で叩かれたりの暴行を受けた。「解放」(日本の敗戦)後、しばらくしてから韓国に戻る
16歳から三年間です。
1944年から1947年、終戦後も慰安婦していたことになりますね。明らかに嘘です。
http://www.geocities.jp/kesenai_kioku_04/kyoto/profile.htm
D埼玉上田知事発言に元慰安婦が抗議(JanJan 2006.10.13)
この後、イさんは県庁内で記者会見。15歳で韓国・大邱の家から軍人に拉致され、台湾まで連れ去られ、敗戦で解放されるまでの3年間の経過を証言した。その中でイさんは「当事者の私が来ているのに、知事はなぜ会って自分の意見を言わないのか!」と強く批判した。その後、安久沢秘書課長に「要請書」を手渡した。
http://www.janjan.jp/area/0610/0610042248/1.php
EStatement of Lee Yong-soo (U.S. House of Representatives)(2007.2.15)
In the autumn of 1944, when I
was 16 years
old, my friend, Kim
Punsun, and I were
collecting shellfish at the riverside when we noticed an
elderly man and a Japanese man
looking down at us form the hillside......
A few days later, Punsun knocked on my window early in the morning,
and whispered to me to follow her quietly. I tip-toed out of the house after
her.
http://www.internationalrelations.house.gov/110/lee021507.htm
1944年の秋、私は16歳で、友達のキムプンスンと私が川のそばでエビを捕っていたとき、
年老いた男と日本人が丘の方から私たちを見てるのに気づきました。…(中略)…
数日後の早朝、プンスンは私の部屋の窓をノックして、静かに私の後についてくるようにとささやきました。
私はこっそりと家を出て、彼女について行きました(!?)。
Fイヨンスさいたま公聴会 (2007.2.23)
15歳の時、家で寝ているとき小窓をたたく音に目を覚まし・・(画像)
GJapan PM war slavery denial uncovers old pain (CNN) (2007.3.3)
Lee
Yong-soo, 78, a South Korean who was interviewed during a recent trip
to Tokyo,
said she was 14 when
Japanese soldiers took her from her home in 1944 to work
as a sex slave in
Taiwan.
http://edition.cnn.com/2007/WORLD/asiapcf/03/03/japan.sexslaves.ap/
14→16→15→16→15→14 歳ってどうみてもおかしいでしょ、これ。
しかも慰安婦だった期間が3年→1年未満、10ヶ月に大幅に訂正されているし。
これななぜかと言うと、当初1944年の秋から3年間慰安婦として働かされたと言っていたが、終戦後も働いていたなんて絶対におかしい、嘘だ!と各方面から指摘されて、イ・ヨンスをダシに使っている人権ゴロが1944年→1945年8月15日に大幅に修正せざるを得なかったのが真相である。また、「7人兄弟なのに軍人が小窓を叩いて連れて行った時に何もしなかったのはおかしい」と指摘されてあたかも一人娘だったかの様に展示物を修正した形跡も確認されている。
http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1829931
もうね、何をやっているんだか、この人たちは。嘘に嘘を重ねたから全く辻褄が合わずに一貫性が無い証言が続出している。全員が全員だ。こんな糞証言、どうやって信じろと言うのか?
<追加>
http://sikoken.blog.shinobi.jp/Entry/10/ より転載
【考察】
実は、この方、証言には全く信憑性がありません。
それは、「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」と「証言集会(同志社大学)」の連行時の内容を比べると明白です。(以下、「証言」・・・「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」、「同志社」・・・「証言集会(同志社大学)」)
友達と川辺で貝を採っていた時に、見知らぬ男2人が見ていたのは同じなのですが、その後、連行されるのが
○「証言」・・・それから何日かたったある日の明け方
○「同志社」・・・その後、1ヶ月か2ヶ月が経った頃。ある日の夜
同女の家の窓を叩いたのが
○「証言」・・・一緒に貝採りをしていた友達
○「同志社」・・・軍人に首の方に何かを突きつけられた、ある女性
その後
○「証言」・・・友達の招きに従い、母には何も言わないでこっそり家を出て友達の後に付いて行く
○「同志社」・・・怖くなって居間で座っていたところ、その女性と軍人が入ってきて、口を塞がれ、背中に何かを突きつけられて連れて行かれる
「証言」では、その後、友達に付いて行くと川のほとりで日本人の男の人(※軍人ではない)が立っていて、ワンピースと革靴をもらい、「もう他のことは考えもしないで即座について行くことにしました。」となっています。また、その男が慰安所の経営者でした。
「証言」と「同志社」では、連行された時の話が全く別物になっており、物に目が眩んで人さらいについて行ったのが、軍人に無理やり拉致されたことに変更されています。しかも、「同志社」では、日本軍人の理不尽な暴力もかなり追加されています。
今回は、連行時のみにスポットを当てて比較しましたが、まあヒドイものです。さらには、「同志社」では集会の20日前に、連行時に母がいなかった理由を「赤ちゃんが泣いていたので、部屋から離れていた」と弟から初めて聞いたと語っているのですから開いた口が塞がりません。このような、観衆を取り込む為のテクニックを駆使している所を見ると、「プロ証言者」と言ってもいいかも知れません。
なお、両証言共に連行されている時に、桔梗の花が登場します。「同志社」の証言では、連行の時期をを1、2ヶ月ずらしているので12月頃の話になっており、桔梗の花が咲いているはずがありません。(桔梗の開花は6〜8月)
【資料等】
年月 | 資料名等 | 著者 | 出版社 |
内 容 等 | |||
1993.7 | 写真記録 破られた沈黙 −アジアの「従軍慰安婦」たち | 伊藤孝司 | 風媒社 |
1944年夏のある日、酒屋をやっていた友だちのお母さんが「今のような苦しい生活をしている必要はないじゃないか。私の言うところに行けばご飯がたくさん食べられ、豊かな生活ができる」と言いました。ですが私は「嫌だ」と言って飛び出て来ました。 それから何日かすると、その友だちが私の家に来て手招きするのです。外に出ると、そこには軍服みたいな服を着た男がいて、3人の娘を連れていました。その男は私に包みを渡しました。友だちが「それは簡単服(ワンピース)と赤い靴が入っている」と言いました。私はこうした新しい物を生まれて初めてもらった嬉しさで感激しました。 この男に「一緒について来るように」と言われ、私と友だちも含めた5人の娘が連れられて駅に行きました。それまで私は汽車に乗ったことがありませんでした。汽車の中では、私は車酔いで泣いていました。 (※2007.4.23 追加) |
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1993.10 | 証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち | 韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編集 | 明石書店 |
一九四四年、私が満十六歳の秋のことです。〜(中略)〜 当時、私の着ていたものといったらみすぼらしくて話にもなりませんでした。それから幾日かたったある日、プンスンと川辺で貝をとっていたら、向こうの土手の上に見たことのない老人と日本人の男の人が立っているのが見えました。老人が私たちの方を指さすと、男の人は私たちの方へ降りて来ました。老人はすぐ何処かに行ってしまい、男の人が私たちに手真似で行こうという仕種をしました。私は怖くなりましたが、プンスンは知らんぷりをして反対の方に逃げました。 それから何日かたったある日の明け方、プンスンが私の家の窓をたたきながら「そうっと出ておいで」と小声で言いました。私は足音をしのばせてそろそろとプンスンが言う通りに出て行きました。母にも何も言わないで、そのままプンスンの後について行きました。〜(中略)〜行ってみると川のほとりで見かけた日本人の男の人が立っていました。その男の人は四十歳ちょっと前ぐらいに見えました。国民服に戦闘帽をかぶっていました。その人は私に包みを渡しながら、中にワンピースと革靴が入っていると言いました。〜(中略)〜それをもらって、幼心にどんなに嬉しかったかわかりません。もう他のことは考えもしないで即座について行くことにしました。(P.132〜133) 船上で一九四五年の新暦のお正月を迎えました。〜(中略)〜このように強姦されたのは私だけではありませんでした。プンスンも他の娘たちも私と同じことを軍人からされたと言っていました。その後も私たちはその船の中で随時軍人たちにそういうやり方で同じことをされました。(P.135〜P.137) 大邱から私たちを連れて来た男が慰安所の経営者でした。(P.137) |
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1998.8.23 | 英文中国日報 | ***** | **** |
日本軍の性奴隷として足かけ三年間従事〜(中略)〜1944年のある夜、韓国の故郷からどのようにして日本軍により誘拐され〜(中略)〜慰安所に送られた時はわずか数え年16歳であった。 | |||
2002.6.26 | 日本共産との会合 | ***** | **** |
十四歳で銃剣をつき付けられて連れてこられた | |||
2004.12 | 京都での市民集会 | ***** | **** |
1944年、16歳の時に「軍服みたいな服を着た男」に連行され〜(中略)〜日本軍「慰安婦」としての生活を3年間強制された。 | |||
2004.12.5 | 京都新聞 ※リンク切れ | ***** | **** |
16歳でわけが分からないまま連行され、〜(中略)〜1944年ごろ、旧日本軍に拉致され、台湾で約3年間従軍慰安婦として | |||
2005.4.21 | 証言集会(同志社大学) | ***** | **** |
私はいつも母と一緒に寝ていたのですが、ある日の夜寝ていたら、コソコソと音が聞こえました。起きて見てみたら、ある女性が首のほうに何かを突きつけられながら、こちらを覗いていました。それでそこをよく見てみたら、帽子を深くかぶった軍人が立っていました。その女性が、私を見て何も言わずに手振りで私を呼んでいたので、私は怖くなり、部屋を出て外の居間のところで座っていました。するとその女性と軍人が一緒に居間まで入ってきて、その女性が片手で私の肩を抱いて、もうひとつの手で口を塞いで私を連れて行きました。〜(中略)〜その時、私は韓国の年齢で16歳でした。 | |||
2005.8.11 | 朝日新聞 ※リンク切れ | ***** | **** |
韓国の大邱から15歳ごろ連行された | |||
2007.2.16 | 中央日報「米議会で初の‘慰安婦聴聞会’…韓国・オランダ人女性3人が証言」 | ***** | **** |
1944年の16歳の時に台湾に慰安婦として連行され | |||
2007.2.26 | JANJAN「米公聴会でも証言した李容洙さんが、埼玉で再び「証言・告発」 | ***** | **** |
15歳のとき、小銃で脅され、大連から、台湾に連行され新竹海軍慰安所で特攻隊員の慰安婦とされた (※2007.3.24追加) |
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2007.3.6 | le
Monde.fr 「Le combat de Lee Yong-soo, ancienne "esclave sexuelle" au service de
l'armee imperiale japonaise」 ※フランスのルモンド紙 リンク先はフランス語 |
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現在の韓国南東部、大邸に近くで生まれたイさん(マダム・イ)が14歳のときだった。『1944年の秋のある朝のことです。寝ていると、わたしを呼ぶ女の声がします。出て行きました。日本兵がひとりいて、わたしを捕まえ、力ずくでわたしを連行したのです』。汽車は彼女をピョンヤンから中国の大連へと運んだ。大連で彼女は台湾行きの船に乗せられ、自殺パイロット(カミカゼ)の基地の軍用売春宿に配備された (※2007.4.4追加) |
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2007.4.30 | 朝鮮日報「79歳元慰安婦、ハーバード大学で涙の訴え」 | ***** | **** |
「強姦しようとする日本兵に抵抗すると、足をメッタ切りにされました。血まみれになってもその痛さにも気づかず必死に“助けて”としがみつきました。しかし容赦ない日本兵は電気による拷問までしました。恐ろしさのあまり叫んだ“お母さん”という声は、今も耳に残っています」 28日午後、米ハーバード大学ケネディー・スクール(行政大学院)の講義室。さまざまな人種の聴衆約100人が見守る中、時には感情を抑えきれず絶叫に近い声を上げる高齢の韓国人女性の話に耳を傾けた。16歳の時に強制連行された後2年間、日本兵の「慰安婦」をさせられたイ・ヨンスさん(79)は、ハーバード大の学生の前で同日、当時の「地獄の日々」について証言した。1944年に強制連行された後、繰り返し受けた無差別な暴行・強姦・拷問の悪夢を60年以上経った今でも忘れることのできないイさんの叫びに、聴衆は嘆き、目頭を熱くした。〜(後略)〜 (管理人:ようやく、慰安婦をした期間が「3年間」から「2年間」に修正されたようです。ただし、「1944年」は動いていません。「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」では、連行時の船上で「一九四五年の新暦のお正月を迎えました」と証言しており、この証言を信頼するなら、慰安婦をしていた期間は1年にもなりません。 そもそも辻褄を合わせたいなら、西暦を全体的に前倒しするしかないのですが、その内、気付いて修正してくるかもしれません。) |