わが国では、売春防止法が一九五六年(昭和三一年)に制定されました。しかしこの時の問題意識は、貧しくて生活に窮し、手に職もなく生きていくすべのない女性たちの生活の問題あるいは女性の地位の低さとしてとらえられ、売春行為を罰するというよりは、彼女らのかかえる問題を解決し、更生してもらうことが重要と考えられていました。そのようなことから単純な売買春行為はそれだけでは罰する必要はないとされたのでした。 半世紀後の今日、アジアにおいて児童買春、児童ポルノ、商業的性的目的での人身売買の犠牲になっている児童の数は、一〇〇万人から一五〇万人といわれています。八〇年代になってから、欧米諸国やオーストラリアそして日本からの児童買春を目的とするツアーが急増し、児童買春が深刻な社会問題として世論の関心を集めるようになりました。 こうした状況下で、欧米諸国が児童ポルノの規制を強める法改正を次々に進めるなか、立ち後れた日本は世界の児童ポルノ製造流通基地のようになってしまい、ヨーロッパ諸国で流通している児童ポルノの約八割は日本製だといわれて、国際社会の非難の的になったのです。 その後、アジアの多くの国でも法改正が進み、児童買春を法律で禁止する国が多くなりましたが、それにもかかわらず、現実には児童買春はいっこうに減少しませんでした。これによって莫大な利益が生じることから、国際的な組織を含めてさまざまな集団が、「需要」と「供給」をつなぐ仲介業務をしているのです。これらは組織化されたものばかりではなく、個人やごく規模の小さい集団も数多く存在します。また、家庭用ビデオカメラが広く普及するにしたがい、アマチュアによる児童ポルノの製造も増加の傾向にあります。
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