「文語」って、何のことでしょう。今日はその説明をします。
「文語」というのは、源氏物語の文章がその一つです。「いづれのおほんときにか、女御、更衣あまた侍ひたまひける中に--------」なんてパターンです。
戦前は、公式文書は文語で書いていました。「天佑ヲ保有シ万世一系ノ皇祚ヲ踐メル大日本帝国天皇ハ昭ニ忠誠勇武ナル汝有衆ニ示ス」がその例です。
読み方もつけましょうね。「てんゆうをほゆうし、ばんせいいっけいのこうそをふめるだいにっぽんていこくてんのうは、あきらかにちゅうせいゆうぶなるなんじゆうしゅうにしめす」
源氏物語と同じ平安時代の文法に準拠したものですが、ずっと簡潔で分かりやすい表現になっています。漢語が多いことは言うまでもありませんが、文体そのものも、相当に漢文の影響を受けています。
そういえば、漢文の読み下し文も文語です。
漢文の送り仮名、返り点は日本でつけたんですよ。
ある生徒は、「送り仮名は日本でつけたんでしょうけど、返り点は中国人がつけたんでしょう。だって、ひっくり返ってよまなきゃ、意味が分からないじゃないですか」と言いました。
そうじゃないんですよ。
「漢皇重色思傾国」は日本では「漢皇(かんのう)色を重んじて傾国(けいこく)を思ふ」と読みます。「漢の皇帝が色事を重視して、美人を探していた」ということ。傾国は、「王様が美人に夢中になると国(城)が傾いてしまう」ということから、美人のことを言います。傾城とも言います。「傾城」は江戸時代の日本語では、転じて、遊女を指すようになりました。
この「漢皇重色思傾国」は、中国では、Han huang zhong se si qingguo(ハンホアン、チュンソー、スーチングオ)と読みます。
「頭から読んで行って、意味が分かるのだろうか」と首をかしげる人もいるでしょうが、だって、これを英語に直訳すれば、次のようになると思いませんか。
Han Emperor made much of love affairs and searched for beauties.
英語と中国語の語順が似ているということは聞いたことがあるかも知れませんが、英語と同じように、中国語も、中国人は、頭からふつうに読んでいって、ふつうに理解したのです。
ところが、日本語は英語や中国語とはだいぶ語順が違いますので、そのまま「漢皇、思う、色、思う、傾国」と読んだのでは意味が通じません。通じても、たどたどしい言い方になってしまいます。
そこで、今度は英語を例に取りますと、I love you.を「アイはラブする、ユウを」ではなく、「アイはユウをラブする」と日本語の語順に読み替えたものが、漢文だと言ったら、分かりやすいでしょう。
そして、日本語の語順を示すものが、返り点なんですよ。
いわば、漢文の読み下し文(訓読)とは、「古代中国語を古代日本語で直訳したもの」と定義することができます。
ところで、漢文訓読の文法は、古代日本語なんですから、源氏物語と基本的には同じです。さらに、前述の「天佑ヲ保有シ------」の勅語の文も同じです。
驚くかも知れませんが、漢文にも「係り結び」があるんですよ。もっとも、「係り結び」のうちの、「ぞ」「なむ」「こそ」は、強調などの微妙なニュアンスを表わすので、事務的な口調の漢文ではふつうは使われません。
漢文で係り結びが現れるのは、疑問の「か」と「や」だけ。「ぞ」も疑問の意味のときは、漢文でも使われます。
「誰か故郷を思はざる」(たれかこきょうをおもわざる)の文末が、終止形の「思はず」でなく連体形の「思はざる」になっているのはなぜでしょう。
それは、前に疑問の助詞「か」があるので、係り結びを起こして、連体形で結んだからです。
ある生徒は、「この『か』は疑問の助詞であって、係りの助詞でなないのだから、係り結びは起こらないんじゃないですか」と聞きました。
そうじゃないんですよ。「係りの助詞」の「か」は疑問(または反語)の意味にしか使われないのですから、この「か」を「疑問の助詞」と言っても、「係りの助詞」と言っても同じことなんですよ。
これで、漢文訓読も、源氏物語や勅語の文と同じ文法に支配されていることが分かったでしょう。
そして、「文語」を定義するならば、「平安時代の文法を基準にした、時代を超越した共通の文体」ということができます。
東京弁(江戸言葉)をベースにして、標準語ができました。地域差を克服するための共通語でした。
それと同じように、時代の差を克服するための共通語が文語だということができます。
その時代時代の話し言葉ではなく、一貫性のある文語を使って書けば、後世の人もこれを理解することができるのです。
昔は、地域差を克服する標準語がありませんでしたので、文語は、そのためにも使われました。
江戸時代に、東北地方の船が漂流して、薩摩に流れ着いたことがありました。
東北弁も薩摩弁もなまりがひどいですから、話が通じません。
その船の中に、一人武士がいました。武士は当時は教養のある階級ですから、薩摩の役人は、その武士を尋問して、「問ふ。汝の名、如何に」(とう。なんじのな、いかに)と聞きました。そうしたら、やっと意味が通じ、その後は、文語で話をしたそうです。
文語のもう一つの有名なバリエーションが「候文」(そうろうぶん)です。
「大兄には御恙無之被過給ひ候や」(たいけいには、おんつつがこれなく、すごされたまいそうろうや)などと書きました。主として、手紙文で使いました。
「被」が面白いでしょう。ここでは「尊敬」の意味の「る」の連用形「れ」が使われているのに、それを表わす漢字がないので、受身の「被」で代用したのです。日本語では「る」が受身にも尊敬にも使われるからです。
文語というものがどういうものか、だいたい分かってもらえたでしょうか。
戦前の公式文書は、みんな、前述の勅語と同じ文体で書かれていました。これを「文語普通文」と言いました。
「自己または他人に対する緊急不正の侵害を避くる為め已むことを得ざるに出でたる行為は之を罰せず」(じこまたはたにんにたいする、きんきゅうふせいのしんがをさくるため、やむことをえざるにいでたるこういはこれをばっせず)
これは、旧刑法の中の「正当防衛」を規定した一条です。
原文はカタカナです。
ちょっと気をつけるのは、後半は原文では「得サルニ出テタル行為ハ之ヲ罰セス」となっていること。つまり、濁点がついていないのです。
戦前の公式文書の普通文の特徴は、濁点を振らないことと、句読点をつけないことでした。
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「文語」というのは、源氏物語の文章がその一つです。「いづれのおほんときにか、女御、更衣あまた侍ひたまひける中に--------」なんてパターンです。
戦前は、公式文書は文語で書いていました。「天佑ヲ保有シ万世一系ノ皇祚ヲ踐メル大日本帝国天皇ハ昭ニ忠誠勇武ナル汝有衆ニ示ス」がその例です。
読み方もつけましょうね。「てんゆうをほゆうし、ばんせいいっけいのこうそをふめるだいにっぽんていこくてんのうは、あきらかにちゅうせいゆうぶなるなんじゆうしゅうにしめす」
源氏物語と同じ平安時代の文法に準拠したものですが、ずっと簡潔で分かりやすい表現になっています。漢語が多いことは言うまでもありませんが、文体そのものも、相当に漢文の影響を受けています。
そういえば、漢文の読み下し文も文語です。
漢文の送り仮名、返り点は日本でつけたんですよ。
ある生徒は、「送り仮名は日本でつけたんでしょうけど、返り点は中国人がつけたんでしょう。だって、ひっくり返ってよまなきゃ、意味が分からないじゃないですか」と言いました。
そうじゃないんですよ。
「漢皇重色思傾国」は日本では「漢皇(かんのう)色を重んじて傾国(けいこく)を思ふ」と読みます。「漢の皇帝が色事を重視して、美人を探していた」ということ。傾国は、「王様が美人に夢中になると国(城)が傾いてしまう」ということから、美人のことを言います。傾城とも言います。「傾城」は江戸時代の日本語では、転じて、遊女を指すようになりました。
この「漢皇重色思傾国」は、中国では、Han huang zhong se si qingguo(ハンホアン、チュンソー、スーチングオ)と読みます。
「頭から読んで行って、意味が分かるのだろうか」と首をかしげる人もいるでしょうが、だって、これを英語に直訳すれば、次のようになると思いませんか。
Han Emperor made much of love affairs and searched for beauties.
英語と中国語の語順が似ているということは聞いたことがあるかも知れませんが、英語と同じように、中国語も、中国人は、頭からふつうに読んでいって、ふつうに理解したのです。
ところが、日本語は英語や中国語とはだいぶ語順が違いますので、そのまま「漢皇、思う、色、思う、傾国」と読んだのでは意味が通じません。通じても、たどたどしい言い方になってしまいます。
そこで、今度は英語を例に取りますと、I love you.を「アイはラブする、ユウを」ではなく、「アイはユウをラブする」と日本語の語順に読み替えたものが、漢文だと言ったら、分かりやすいでしょう。
そして、日本語の語順を示すものが、返り点なんですよ。
いわば、漢文の読み下し文(訓読)とは、「古代中国語を古代日本語で直訳したもの」と定義することができます。
ところで、漢文訓読の文法は、古代日本語なんですから、源氏物語と基本的には同じです。さらに、前述の「天佑ヲ保有シ------」の勅語の文も同じです。
驚くかも知れませんが、漢文にも「係り結び」があるんですよ。もっとも、「係り結び」のうちの、「ぞ」「なむ」「こそ」は、強調などの微妙なニュアンスを表わすので、事務的な口調の漢文ではふつうは使われません。
漢文で係り結びが現れるのは、疑問の「か」と「や」だけ。「ぞ」も疑問の意味のときは、漢文でも使われます。
「誰か故郷を思はざる」(たれかこきょうをおもわざる)の文末が、終止形の「思はず」でなく連体形の「思はざる」になっているのはなぜでしょう。
それは、前に疑問の助詞「か」があるので、係り結びを起こして、連体形で結んだからです。
ある生徒は、「この『か』は疑問の助詞であって、係りの助詞でなないのだから、係り結びは起こらないんじゃないですか」と聞きました。
そうじゃないんですよ。「係りの助詞」の「か」は疑問(または反語)の意味にしか使われないのですから、この「か」を「疑問の助詞」と言っても、「係りの助詞」と言っても同じことなんですよ。
これで、漢文訓読も、源氏物語や勅語の文と同じ文法に支配されていることが分かったでしょう。
そして、「文語」を定義するならば、「平安時代の文法を基準にした、時代を超越した共通の文体」ということができます。
東京弁(江戸言葉)をベースにして、標準語ができました。地域差を克服するための共通語でした。
それと同じように、時代の差を克服するための共通語が文語だということができます。
その時代時代の話し言葉ではなく、一貫性のある文語を使って書けば、後世の人もこれを理解することができるのです。
昔は、地域差を克服する標準語がありませんでしたので、文語は、そのためにも使われました。
江戸時代に、東北地方の船が漂流して、薩摩に流れ着いたことがありました。
東北弁も薩摩弁もなまりがひどいですから、話が通じません。
その船の中に、一人武士がいました。武士は当時は教養のある階級ですから、薩摩の役人は、その武士を尋問して、「問ふ。汝の名、如何に」(とう。なんじのな、いかに)と聞きました。そうしたら、やっと意味が通じ、その後は、文語で話をしたそうです。
文語のもう一つの有名なバリエーションが「候文」(そうろうぶん)です。
「大兄には御恙無之被過給ひ候や」(たいけいには、おんつつがこれなく、すごされたまいそうろうや)などと書きました。主として、手紙文で使いました。
「被」が面白いでしょう。ここでは「尊敬」の意味の「る」の連用形「れ」が使われているのに、それを表わす漢字がないので、受身の「被」で代用したのです。日本語では「る」が受身にも尊敬にも使われるからです。
文語というものがどういうものか、だいたい分かってもらえたでしょうか。
戦前の公式文書は、みんな、前述の勅語と同じ文体で書かれていました。これを「文語普通文」と言いました。
「自己または他人に対する緊急不正の侵害を避くる為め已むことを得ざるに出でたる行為は之を罰せず」(じこまたはたにんにたいする、きんきゅうふせいのしんがをさくるため、やむことをえざるにいでたるこういはこれをばっせず)
これは、旧刑法の中の「正当防衛」を規定した一条です。
原文はカタカナです。
ちょっと気をつけるのは、後半は原文では「得サルニ出テタル行為ハ之ヲ罰セス」となっていること。つまり、濁点がついていないのです。
戦前の公式文書の普通文の特徴は、濁点を振らないことと、句読点をつけないことでした。
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