「 骨の髄まで憲法の価値観に染まった人びと 官僚たちに欠落する『公と国家』の観念 」
『週刊ダイヤモンド』 2007年5月19日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 690
特急列車「サンダーバード」の車内で発生した強姦事件の報道に、心が暗くならなかった人はいないはずだ。
昨年8月3日、富山発大阪行きの特急列車、約40人もが乗り合わせた車内で、事件は発生した。犯行は犯人が乗車した午後9時20分直後から大阪到着の11時8分まで、1時間半以上にわたって、トイレ内、さらに洗面台のカーテンを閉めただけの空間に場所を移して続けられた。その間、ほかの乗客は誰一人抗議せず、力を合わせて女性を救う試みもなさず、文字どおり傍観したという。犯人がすごんだ、あるいは刃物を持っているかもしれないなどのリスクはあったであろうが、90分以上、誰もが見て見ぬふりをし、女性救出のリスクを取った人は40人のなかに一人もいなかった。
日本人や日本について絶望的な気持ちになってしまう右の事件から連想したのは、日本政府を被告として起こされてきた歴史問題をめぐる諸訴訟で、日本政府が事実関係についてまったく争ってこなかったという事実だ。
同件と列車内の強姦見逃し事件がどうつながるのかは後述するが、その前に、国が訴えられたとき国の代理人となるのは法務省の訟務検事である。法務官僚自体がエリート集団であり、訟務検事はまさにエリートとして、日本国を代弁し、日本国の立場と名誉を守る責任を担う人びとだ。しかし、彼らが真の意味で日本国の名誉を守ることはないのである。訴訟において彼らはいったいどんな論陣を張ってきたか。
たとえば「強制連行されて慰安婦にされた」と日本政府を訴えた女性たちに対し、彼らは決して反論しない。証言の検証もしない。女性たちの尋問さえ行なわない。訟務検事の戦法は、「除斥期間(損害賠償請求権は行為のときから20年で消滅)が過ぎている」「日本の戦争責任は賠償も含めてサンフランシスコ講和条約、あるいは、日韓基本条約などで果たされている」などの主張に象徴される。四角四面な法律論で勝訴しようとするだけなのだ。
4月の安倍晋三首相の訪米に時期を合わせるかのように、米国下院に提起された慰安婦問題の決議案に関して加藤良三駐米大使が採った手法も同様だ。氏は米国議会への書簡で、日本は幾度も謝罪したと弁明し、「日本は謝っていない」という批判は当たらないと主張したが、決議案に書かれた事実関係については反論しなかった。
決議案には「13歳の少女を含む最大20万人の女性たちが、旧日本軍又は政府によって組織的に拉致、連行され、性奴隷として働かされた」「終戦時には大量虐殺され、生存者はわずかだ」と書かれている。日本国の国益を担う大使として、どういう理由で、右の事実無根のいわれなき非難に沈黙を守りえたのかと、ただしたくなる。
日本国の“エリート”たちのこうした姿勢の結果、何が起きるか。歴史問題の裁判では、判決主文で日本国が勝訴したとしても、判決理由のなかには原告の訴えた“事実関係”はなんら訂正されることなく書き込まれるのだ。日本国が事実関係をまったく争わないため、当然の結果だ。日本国はこうして、いわれなき非難、歪曲された事実無根の中傷によって貶(おとし)められ続ける。
列車内の強姦を見て見ぬふりでやり過ごした人びとと日本のエリート官僚らは、明確な共通項によって結ばれる。現行憲法の価値観に骨の髄まで染まり、自分以外の者や、自分の利益、自分の出世、自分の安寧以外を見ようとしないという共通項だ。彼らの意識から、公や国家の観念が脱落しているのだ。
現行憲法が強調する個人の自由と権利の優先、責任と義務の軽視、公と国家の無視。そうした価値観こそが、一見、なんのつながりもないこの二つの事象を、じつは、しっかりと結び付けている。現行憲法が日本人の上に落とした計り知れない影の深さと、憲法改正の必要性を再認識するゆえんだ。