きのふけふ
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■田原総一郎の虚論(平成20年11月14日)
田母神論文に對する田原総一郎氏の感想文が日経BPのウエブページに掲載されてゐる。敢へて「感想文」と書いたのは、さうとしか表現のしやうの無い文章だからである。田母神論文に對して眞つ向から批判するのではなく、「決起」とか「クーデター」とか、「2.26」とかの不穏當な言葉を用ゐて、あたかも田母神氏を始めとする自衛隊が危険であるかの如き暗示を振りまくといふ悪質で陰湿な文章であるからだ。この文章に對して呼ぶに感想文では些か穏當に過ぎる。政治的アジテーションと呼ぶべきかも知れない。いや、それは言論テロリズムと呼んでも良いかも知れない種類のものだ。
さて、田原氏曰く、決起の矛先はメディアに向ふのださうだ。自分達が偏向してゐるので自衛隊から恨まれてゐるといふことらしい。確かに自衛隊員でなくとも、メディアの偏向を不快に思ふ國民は多數存在することだらう。
他ならぬ私もその一人である。
私は日本人であるから、近代史は日本の視点で眺めることにしてゐる。人間といふのは本質的にさういふものだらう。
しかし、アメリカにはアメリカの歴史觀が存在することを私は否定しない。漢民族が主として彼らの國内的な理由で反日侮日に走ることも不愉快ではあるが、支那がさういふ國であることは受入れよう。
繰返しになるが、しかし日本人である私は、日本人として世界を眺め歴史を觀るのである。世界には多様な民族があり、多様な國家がある。その多様性を受入れてはじめて國家間の理解が可能となるのではないか。日本の大多數のマスメディアのやうに、中國共産黨の機關紙の如き言論をしてゐては永遠にその出發点點に立つことができぬ。全て聯合國側が正しく、日本が誤つてゐたといふやうな認識は相互理解を徒に遠ざけるだけだ。互ひに異なる立場にあることを認めあつてはじめて相互理解の端緒に付くことができるのである。その意味で、今回の田母神論文に對するマスメディアの過剰反應は百害あつて一利なし、と言はねばならぬ。
自衛隊は災害出動のための機關ではない。國を守るための軍隊なのである。彼等は、いざと言ふ時に命を掛けて國を守るべく日夜訓練してゐるのだ。それを虚假にするのはいい加減にやめにするが良い。
■歴史觀と國防と(平成20年11月11日)
田母神氏の参考人招致に關しては産経ニュースの記事に詳しいが、その論文に關聯して「文民統制」と稱して自衛隊への思想的締付けが嚴しくなりさうな雲行きである。
しかし、もし自虐史觀のやうなものを材料にして軍隊教育を行へば、自衛隊の士気に與へる影響は計り知れない。平和ボケの擧句の果てに、自國の軍隊を思想的に骨抜きにすることは御勘弁願ひたい。
あまりにも愚かし過ぎるから。
現状でも自衛隊は手足を縛られて戰場に送られるやうな状況になつてゐる。國を守る方々が誇りを持つて任務を遂行できるように勤めるのが文民の役割ではないか。
■民主黨鳩山由紀夫氏の歴史認識を批判する(平成20年11月3日)
続けて田母神航空幕僚長の論文問題で論ずる。毎日新聞の記事によると鳩山由紀夫民主黨幹事長は「航空自衛隊トップの戦争責任を否定する発言は許されない」として、「麻生太郎首相の歴史認識や浜田靖一防衛相の監督責任などを問う集中審議を要求する」といふ。祖父の鳩山一郎氏は帝國議會(衆議院)で統帥権干犯問題を惹起したが、その孫の由紀夫氏は自國の歴史を全否定する思想に染つてゐるかのやうだ。
しかし、鳩山氏のいふ戰爭責任とは一體何であるか。私は安易に戰爭責任と言ふ全ての人に問ひたい。(イ)戰爭を引起こした責任をいふのか、(ロ)戰に敗れた責任をいふのか。(ハ)將兵の犯したとされる通常の戰爭犯罪の責任をいふのか。(ニ)それとも所謂東京裁判(極東國際軍事裁判)で處斷された方々(所謂A級戰犯)の責任をいふのか。そのいづれであるかを明確にせずに、戰爭責任を理由に田母神氏の主張を論ふのは不適當である。また、私の讀む限り、田母神氏の論文にこれらの「戰爭責任」を歪曲するがごとき論は無いと思ふ。
そもそも、戰爭といふものは力と力のぶつかり合ひがあるだけのことで、そこには善惡といふものは本質的に存在しない。どの國にとつても自らの戰爭は正義の戰爭であるし、敵國は惡であらう。
幕末の世界情勢はどうかといへば歐米列強による世界制覇がまさに成し遂げられんとする時であつた。廣大な南北アメリカ大陸はスペイン、ポルトガル、イギリス、フランス等の植民地となり、オーストラリア大陸及び印度亞大陸は英領、現在のベトナム、カンボジア、ラオスはフランス領(仏領印度支那)となつてゐた。阿片戰爭、太平天國の亂等を經て清朝の威信が衰へ支那は實質的に半植民地状態となつてゐた。日本の開國する頃にはアジアで獨立國といへるのは日本とタイのみであつた。
當時の日本の指導者達がこのままでは日本も植民地にされるといふ恐怖を持つたことは當然のことである。そして、征服され植民地化されることを免れるために、我國は歐米を模倣して國力を増大させ、軍事力を増強する道を選んだ。日本はこの軍事力によつて日清戰爭に勝利し朝鮮の獨立國たることを清に確認させ、日露戰爭に勝利してロシアが持つてゐた滿洲の権益を手に入れた。滿洲事変はこの権益と現地在住の日本人を守るために生じたものだ。コミンテルン(共産主義インターナショナル)及び中國共産党の謀略によつて、支那事変の深みにはまり、更にABCD包囲網による經済封鎖の中でハルノートを期に日本は米英を相手に大東亞戰爭に突入するわけだが、これとて他に手段があつたといふのなら、それを教へてもらひたいものだ。
歐米列強からの圧迫をはねのけるための日本の行動が、結果として滿洲國を獨立させ、支那で蒋介石と争ひ、大東亞戰爭で米英と戦ふこととなつたのである。歐米列強の暴虐は不問に付して、日本の關係する戰爭の責任が日本にのみあるかのごとき歴史認識は、私には到底受け入れることのできないもので、それこそ歴史を歪曲する行爲と言はざるをえない。
歴史に「もし」はあつてはならない。あつてはならないが敢へて考へてみることとするならば、日本のこの行動が無ければ世界はどのやうになつてゐたか想像に難くない。日本は植民地となり、歐米列強による植民地獲得競爭は最終段階を迎へたに相違ない。もしかすると、漢字も假名も失はれ、役所に行つたら英語などの宗主國の言葉で話し、書類に記載しなければならなくなつてゐたのかも知れないのである。或いは、現在でも世界は歐米列強の植民地状態のままであつたかも知れないのである。
植民地になるといふことはどういうことだらうか。二三例を擧げて考へてみよう。アメリカはイギリスから獨立した。しかしそれはアングロ・サクソン同士の内輪もめで一方が一方の支配の桎梏を斷ち切つたに過ぎない。その陰で北米大陸の先住民族はどうしてゐるのか。ハワイの先住民族はどうか。社會の主導權は舊宗主國から来た外來人種たちに握られたままではないか。オーストラリアもまた然り。南米大陸においても、獨立後の現在もスペイン語やポルトガル語が共用語として使用されてをり、一部の國を除き先住民族は現在にいたるも依然として從屬的立場におかれてゐるのではないか。
私は日本民族がこのやうな状態とならなかつたことを心から喜び、自衛のために行つた大日本帝國の行動を誇りに思ふものだ。田母神氏の論文に嘘は無い。
さて、ここで一應先に擧げた四つの戰爭責任について檢討して筆を收めることにしよう。
(イ)戰爭を引起こした責任の一端は世界を侵略した歐米列強にもある。當時の世界情勢に照らして考へれば、少なくとも日本のみに責任があつたわけではないことは明白である。
(ロ)戰に敗れた責任は、それはあるだらう。その責任については本来國内的に處理すべきであったが、連合國の行った東京裁判によってその機會は永遠に奪はれた。いづれにしても、この論文に關していへばこの責任は無關係である。
(ハ)將兵の犯したとされる通常の戰爭犯罪の責任については、世界各地で行われたBC級戦犯の裁判で解決済みである。この「裁判」が杜撰であったため、無實の罪を受け處斷された方が多數あつたことについてはここでは論じない。
(ニ)所謂東京裁判(極東國際軍事裁判)で處斷された方々(所謂A級戰犯)の責任については、當時有効な國際法に基いて設置されたものではなく、マッカーサーの発した「條例」にのみ基いて開廷されたもので、被告人側の証拠は殆ど却下され、検察側の証拠は傳聞でも採用されるなど、現在でもその正當性については多々議論があるもので、これをもつて日本乃至日本の指導者の戰爭責任について論ずることは公平ではない。
戰前戰中の日本は全て惡、支那及び朝鮮は被害者、連合國は正義と言ふが如き歴史認識を持つてゐる方は、これを機會に歴史を見返し、きちんと自分の頭でものを考へる習慣を身につけてもらひたい。
■航空幕僚長の歴史認識(平成20年10月31日)
アパグループ懸賞論文「眞の近現代史觀」に田母神俊雄さん(航空幕僚長)の投稿した論文が問題になつてをり、内規に反して事前の届出を怠つたことを理由に同氏は更迭される見込であるといふことだ。報道によると1995年の村山談話に反する内容であることも問題視されてゐるやうだ。確かに、立場を考へると、非難されるいはれなしとはいへないかも知れない。しかしそれは「立場上」といふことであつて、斷じて該論文の内容によるものであつてはならない。なぜなら、田母神氏の論文は至極穏當で論旨は妥當といへるものである。大変素晴しい論文であると思ふ。百聞は一見に如かず。ともかく論文を一讀することをお薦めする。
私は自衛隊の高官がかかる思想の持ち主であることを頼もしく思ふものである。また、いつまでも東京裁判史觀から脱却し得ずにゐる官僚閣僚政治家の諸君には深く憂慮するものだ。
日本は侵略のための侵略はしてゐない。それが開國から大東亞戰爭までの歴史に眞摯に向き合ふならば、萬人が到達すべき正しい結論であらう。
田母神氏の論文から一部を引用して終へることとしよう。これだけを讀むだけでも該論文の至極妥當であることが察せられることだらうから。
人は特別な思想を注入されない限りは自分の生まれた故郷や自分の生まれた国を自然に愛するものである。
(中略)
私たちは輝かしい日本の歴史を取り戻さなければならない。歴史を抹殺された国家は衰退の一途を辿るのみである。
■新常用漢字表および音訓制限について(平成20年10月21日火曜日)
けふ「ヤフー」のトップページに「人混み」表記を認める=「私」の読みに「わたし」も−文化審小委といふ表題を見つけ、早速讀んでみた。
その記事によると、文化審議會漢字小委員會は、新常用漢字(假称)ならびにその音訓の改訂原案をまとめたといふ。これまで認められてゐなかつた「人混み」の表記を許可し、變りにこれまで正しいとされてきた「人込み」の表記を用例から削除するといふ。また、「私」の字訓は「わたくし」のみを認め「わたし」の訓みは認めてこなかつたところを、「わたし」も正しい訓と認める豫定とのことだ。
文化廳のウエブ・ページに詳しい内容が出てゐるので、興味のある向きは是非御覧いただきたい。
「私」の文字を「わたし」と訓ずることは百年前も五十年前も現在も變らず正しい日本語、正統な日本文化である。それを認めるとか認めないとか、大の大人が、しかも一應は有識者とされてゐる人達が、雁首を揃へて何をくだらない議論をしてゐるのか。何度書いたか判らないが、しかしそれでも繰返し言はせてもらふが、言語文化の問題に公権力が首を突込むのはもういい加減にやめにしていただきたい。言語にはそれ自身の生命力がある。大地に植ゑた植物のやうに、はふつておいたはうが正しい方向に自然に成長して行くものである。言語のことは言語自身の力に任せるべきである。
現在の漢字制限と表音假名遣ひとは、漢字廃止が大前提にあつてそれに向けた第一歩として敗戦直後にしかも聯合國の占領下に始めたことである。これは明らかな失政であり、またその施策は日本の傳統文化否定に他ならない。
君子は豹変す、と言ふ。官僚の諸君は、誤りを誤りと認め、正しい日本文化の復興に力を盡すべきではないか。
國會議員の間では、國語の正常化に關心を持つ議員が集まり「國語問題を考へる國會議員懇談會(國語議連)」が組織され、我が國語問題協議會もこれに協力してゐる。衆議院の解散も取り沙汰される昨今、小生は、「國語議連」に參加されてゐる議員の方達を應援しその健闘を切に祈るものである。
「國語議連」の名簿は國語問題協議會のサイトに掲載されてゐる。國語問題に關心のある向きは、是非應援してもらひたいものだ。
■所謂靖國神社問題について(平成20年9月14日日曜日)
けふ偶々テレビをつけたら、テレビ朝日で田原総一郎氏が自民黨の五人の總裁選候補者に意見を訊く番組が映し出された。靖國神社に関する問題だつたので、興味があつたから少しだけ各候補者の意見を聴いてゐたところ、驚いたことに全員が所謂A級戦犯の靖國合祀について反對である、といふ主旨のことを言ふ。麻生氏は、「衆參両院における全員賛成の決議」について言及してゐたが、サンフランシスコ講和條約發効直後の昭和27年に衆參両院で可決された「戰犯在所者の釋放等に關する決議」を指したものであらうが、「子供の頃の記憶で曖昧だ」といふ發言で終つてをり、折角ことの核心に迫つたのに、却つて自らの勉強不足を露呈した結果となつてゐる。
それぞれ立場があるので本音は言へないのかも知れないが、安倍前首相であつたならもう少し違ふ言葉になつてゐたと思ふ。さう思ふと、安倍晋三氏の内閣總理大臣の突然の辭任は今になつても返す返すも殘念に思ふ。
所謂戰争犯罪人について一応事實關係を簡單に述べておくと、
以上のことから、所謂戰争犯罪人は國際法的にも國内法的にもすでに犯罪人と呼ぶのは問題があるやうに思ふ。そもそも、極東國際軍事裁判は勝者が敗者を一方的に裁いたといふ意味で不當であり、近代の國際法の精神に背いた野蠻な行爲であつたのではないか。
日本の爲政者各位には、この事實を忘れずにゐてもらひたいと切に思ふ。
■支那といふ言葉(平成20年8月31日日曜日)
近頃、音樂評論(と言いへる程のものではないのであるが)の作成に力をいれてをり、國語論の部分の更新が疎かになつてしまつてゐる。まあ、本論を進める氣にならないので、搦め手から攻めてゐるわけだが。
最近よく思ふことは、言葉を失ふことはその言葉の代表する概念を失ふことだ、といふことである。例へば支那といふ言葉。今、人前でこの言葉を使ふと以降色眼鏡で見られること必定となつてゐる言葉なのだが、敗戦まではごく普通に使はれて來た言葉である。支那と言ふ言葉を失つて我々は代りに「中國」といふ言葉を強制されてゐる。
「中國」とか「中國語」とかといふ言葉があるが、これが我々日本人の歴史感覺を破壞してゐるのではないかと、漠然と考へてゐるのだが、けふは考へが纏まらない。
中國共産黨の支配する地域には複数の民族が生活してをり、當然のことながら言語も複數存在する。「中國語」といふ言葉を用ゐることは、現實に存在する「満州」「チベット」「蒙古(モンゴル)」その他の民族を我々の意識から消し去る効果があるのではないか、といふことだ。
■加藤紘一氏の不見識(平成20年7月9日水曜日)
自民黨の加藤紘一氏の發言がインターネット上で次のやうに報道されてゐる。
拉致被害者5人について「国家と国家の約束だから北朝鮮に返すべきだった」と発言した。(産経新聞)
日本國政府は犯罪被害者を犯罪組織から救出したのである。たまたまその犯罪者が國家の隠れ蓑をまとつてゐたに過ぎない。救出のために犯罪者に何らかの約束をしたとしても、それが被害者の人權を踏みにじることになると判つた上で、その約束を履行する必要がどこにあるのか。せつかく救出した被害者をみすみす犯罪國家に返したら良かつたとは、一體全體どういふ料簡か。もし本當に朝鮮に日本人を譲り渡すことが國益に適ふと考へるならば、自ら身代りとなつて北朝鮮で政治活動でもすればよからう。
金正日を「天皇陛下みたいな人物だ」と述べた、といふことも言語道斷だ。犯罪組織の首魁に傳統ある日本の天皇陛下をなずらへるとは何事だらうか。前後の文脈が判らないので輕々に論ずることは出來ないが不敬であることは間違ひない。陛下の支那御訪問時の内閣官房長官が加藤紘一であつたことは忘れてはならない事實である。
私は政黨としての自民黨は支持するが、加藤氏の支那朝鮮寄りの言動には常日頃から疑問を感じてゐる。日本の政治家なのだから日本人として日本の立場から物事を考へてもらひたい。この加藤氏の發言には正直なところ正氣を疑はざるを得ない氣持である。
「家族会」と「救う会」の抗議声明では(中略)「不見識極まりない発言だ。加藤氏の精神構造を強く疑わざるを得ない」と批判した。
當然である。
■パソコンの自作(その2)(平成20年1月14日月曜日)
本日は「成人の日」で會社は休み。ハッピー・マンデーとのことで、三連休である。祝祭日の起源を疎かにし、ただただ續けて休めさへすれば良しとする風潮のなせるところではあるが、連休は連休なので最大限に活用させてもらひ、パソコンを組立てなほす作業を行つた。三日間のうち日曜日は女房と買物に行つたし、けふは新パソコンの輕快な動きを樂しんでゐるのだから、實質金曜日の夜から土曜日までの間にすべての作業を完了させたことになる。
今回換装したのはハードディスクドライブ。年末の時點では半年ぐらゐ待つて、大容量の機器が更に安くなつたら交換しようと思つてゐたのであるが、結局我慢できなくなつて交換してしまつた。これで、私のパソコンは筐體(ケース)とフロッピーディスクドライブを除き全て購入時から入替つたこととなる。自分の使ひ方から考へて當面これ以上の性能向上は望むべくもないだらう。IDEの端子が足りないために外しておいた光學ドライブも、IDE規格のハードディスクを取外して代りに組込んだ。SATA接續のハードディスクでWindows XPを使ふと、標準のままではIDE互換モードで動作してしまひ、本來の性能が活かせないとの複数の記述をWeb上で見付けてゐたため、インストール後SATAドライバの導入など面倒なことが起こるかと思つてゐたのだが、Gigabyte製マザーボード附屬のドライバCDで自動的にドライバインストールした後に確認すると、きちんとSATAモードで認識されてゐる。私が調べられる程度の不具合は既に解決濟といふことか。
ついでに筐體後部にケースファンを取付けたのだが、この取付に予想以上に手間取つてしまつた。取付用にブッシュ(Ainex MA-023A)を購入したのだが、これを使つての取付に四苦八苦。どうしてもこれが使へない。ゴム自體は結構柔らかくケースやファンの取付穴にブッシュを差込んで裏側から摘んで引張るとブッシュが伸びて簡単に穴に入るものなので、多分、この方法でブッシュを最初にファンに取付け、然る後にケースの穴にブッシュを挿入れ筐體外部からブッシュを摘んで引張ると簡単に装着できさうである。しかし、私のケースは外部からこのブッシュを摘むことができない構造になつてゐるのだ。(ドライバーは入れることができる。)仕方がないので、このゴム製ブッシュは仕舞つておいて、ケースファン附屬のテーパーネジで固定することとした。初めからネジ止めすれば5分で濟む作業が、30分以上かかつてしまつた。
改造後の構成は以下のとおり。
太字になつてゐるのが今回及び年末に換装した機器。大變調子よく稼動してゐる。
■ハッピーマンデー(平成20年1月14日月曜日)
本日は「成人の日」で會社は休み。ハッピーマンデーとのことで、三連休である。
ハッピーマンデー制度とは「成人の日」を初めとする祝日の日付を月曜日に移動することによつて人工的に連休を作りださうとする制度である。今のところ他に「海の日」「敬老の日」「体育の日」がこれに當るらしい。戰後、「勤労感謝の日」とか「體育の日」とか「文化の日」とか祝日の名稱が戰前のそれと斷絶し、多く祝日が意味不明のものとなつたことは既にsc恆存の指摘したところである。しかし、ハッピーマンデー制度は祝日の本來の意義を更に破壞する行爲ではあるまいか。
今のところ幸いにして戰前からの由緒ある祝祭日は移動の憂き目にあつてはゐないやうであるが、そもそも祝祭日とは國や民族の記念すべき事柄を共同體が祝ふためのものなのに、日付をずらしてしまへばその「いはれ」との關係が斷切られてしまふ。傳統文化の破壞もここまで來たか、との感慨を抱かずにはゐられない。現に、「秋の大型連休」と稱して勤労感謝の日までこの制度の對象としようとする動きがあるらしい。
この調子では新嘗祭(大嘗祭)の日や紀元節の日まで月曜日に變ることにもなりかねない。
民族の歴史を忘れ、その過去を否定する者は自らを否定することになる。
その道理に氣付かない人が多すぎる。
■年頭所感に代へて(平成20年1月1日火曜日)
年が明けて平成二十年となつた。家族のため、國語文化のためにこれからも精進してまゐる所存である。
本年もよろしくお願ひ申上げる。
しかし、「きのふけふ」といふ表題をつけておきながら二回目の更新が一月餘も後では我ながら先が思ひやられるものだ。本論の「現代國語への處方箋」の筆をなかなか進めることができないので、せめて時事に絡めて國語問題に切込まうとこの欄を設けたところがこの體たらくである。前回論じた「島嶼」の正しい漢字表記を同じ東京新聞の12月14日の朝刊に見付けて新聞を切抜きはしたのだが、仕事もさほど多忙ではないのにその後何故か筆を執らうといふ氣にならない。一日二日と過ぎるうちに期を逸してしまつたものである。(「島しょ」の表記が「島嶼」の意味であつたことはほぼ確實。)
閑話休題。下の文章を書いてゐて痛感したことは、コンピュータ關係のことを記さうとする時、「マザーボード、ケース」等の外來語や「CPU、HDD、パソコン」等の略語を避けて通ることができないといふことである。現代の日本人はこれを本來の母語である漢語と和語との組合せで表現することができない。これが現代日本に生きる我々のおかれた文化文明の實相なのである。
我々が外來の文物を外來の言葉のまま受入れるやうになつたのは何時からのことか。明治の日本人は外國の文明を律儀に漢字に移し變へて吸收したのだが。
■パソコンの自作(平成20年1月1日火曜日)
昨年の暮。年末の休暇を利用してパソコンの改造を行つたので、その概要を説明してみたい。それまで四年間ほど利用してきたパソコンの調子が惡くなつて來たので、マザーボード、CPU、メモリ、電源ユニットを最新の機器に換装した。予算の関係でハードディスクドライブ(HDD)は既存の機器を流用し、OSもウインドウズXPのままだ。その他性能に関わりない機器も全て既存の機器を流用した。なれない作業に夕方始めた組立が深夜にまで及んだが、一昨日までに概ね設定を完了して、昨日あたりから實用に堪へる状態となつた。
構成は次のとほり。
太字になつてゐるのが今回換装した機器。処理速度と安定性の向上は期待どほりで満足してゐるが、機器交換の思はぬ效果があつて、それは音質の向上である。私は音樂のコレクション(數へたことはないのだがCDで五百枚はある)を全てパソコンに入れて、今も音樂を聽きながらこれを書いてゐるのだが、サウンド機能はマザーボードにオンボードで搭載されてゐるものなので(簡單にいふとオマケで付いてゐるやうなものなので)餘り期待はしてゐなかつたのだが、それまで使つてゐたものに較べて音質が斷然クリアになり、音樂を聽きながら他のソフトを開いても雜音が氣にならなくなつた。うれしい誤算である。
近いうちにHDDは最新のものに換装するつもりだ。
■漢字制限の亡靈(平成19年12月9日日曜日)
きのふの「東京新聞」一面の見出しに、「小島しょ国「時間はない」」といふ見出しが載つてゐた。
地球温暖化による海面上昇を論じた文章のやうだが、私は初めこれを「小島諸國時間はない」と讀んでしまつた。が、すぐに妙な違和感を覺えた。どうもさういふ意味ではなささうである。いくら敗戰後の新聞でも「諸國」を「しょ國」と書くことはしない。
どうやらこれは「小島嶼國時間はない」といふ趣旨ことを言ひたかつたのではないか。さう拝察できるまでに二秒くらゐかかつてしまつた。まづ間違ひなく「島嶼」のことを論つてゐるのだらう。記事本文を讀進めるうちにそれは確信に變つた。やはり私には「島嶼」としか讀めない。地球温暖化をはやく何とかしないと小島嶼国は海に沈むのだから。しかし「島しょ」で正しく判讀できる人が果してどれだけゐるのだらうか。「島嶼」といふ言葉を知らない人には、どんなに苦労してもこの文章は正しくは理解できまい。きちんと「小島嶼国」と書いてあれば、辭書で調べることも出來る。それが面倒なら、今まで自分の知らなかつた「小島嶼国」乃至は「島嶼」といふものが存在する、といふ程度のことは料簡できるだらう。「島嶼」であれば大抵の國語辭典には載つてゐるのだから、面倒さへ厭はなければ正しい理解に到達することは比較的容易である。
しかし「島しょ」では調べるといふことは事實上不可能である。私ですら「島嶼」のことを言つてゐるのだらうと推斷するしかないのだから。「島しょ」といふ表記からは正しい理解に到達するための階梯がはづされてしまつてゐるのである。この表記は「トーショ」といふ音を表すのみで「島嶼」といふ概念を表現してゐない。私に言はせればこんなものはもはや言葉ですらない。記者たるもの「音さへ傳はれば意味はどうでも良い」といふことでは務まるまい。これを書いた記者は、若しくは編輯長か用字係か分らぬが、ともかくかういふ表記を紙面に出した責任のある者は、自ら嚴重に戒める必要があらう。國民の言語生活に最も大きな影響力を持つ新聞社は襟を正してもらひたい。
當用漢字が常用漢字となつて漢字制限は終了したのだから、もうこんな馬鹿馬鹿しい表現は止めにして、そろそろ漢字制限の亡靈を退治しようではないか。