2008年08月01日
兄に教えてもらった、文系と理系のたったひとつの違い
人間観察 | |
ある日、真ん中の兄*1と話していました。
俺「俺って結構理系っぽい思考パターンしてると思うんやけど」
兄「それはない。」
俺「何で?論理的な思考は結構得意な方やと思うで?」
兄「お前は自分が正しいと思うかどうかで物事を考えてるやろ。
それは典型的な文系型思考パターンや。」
この言葉で文系と理系の違いの本質に気づかされ、目の前が晴れた気がしました。
すなわち、文系と理系の違いは
文系・・・考えるときの基準が、自分の内心(自分が正しいと思うかどうか)
理系・・・考えるときの基準が、自分以外の客観的な事実
なのです。
一般に自然科学は理系といわれますが、この分野では実験で得られたデータや観察によって得られた客観的な事象を基に考察します。
一方社会科学や人文科学といったいわゆる文系の分野では、基本的に客観的なデータに基づいて考察することはせず*2、結論を出すに当たっては、客観的な事実と正しい論理を踏まえた上で、ある結論が妥当かどうか、それでいいと「自分が考えるかどうか」という価値判断を必ずします。
たとえば私が学んでいる法律学の分野の例を挙げると、法律学では至る所で学説の対立というものがあります。この法律学における学説の対立というのは、突き詰めれば「その学説を主張する人が正しいと思うから正しい」という価値判断に行き着くのです。ですので結論が正反対になる学説であっても、どちらかが間違いということは言えません。たとえ最高裁がどちらかの見解を支持しても、です。
これはおそらく他の社会科学でも同じではないのでしょうか。
一方理系の人は、「データがある事実を示しているから、自分の考えは正しい」と考えるのであって、「自分が正しいと思うから正しい」、とは考えないのです。
よく数学や理科が理系科目で国語や英語なんかは文系科目といわれますが、それは単にそれぞれの科目が理系の分野と文系の分野に属しているからそう呼ばれるだけで、逆に数学だから理系とかいうことではない*3のですね。
そして数学の問題を解くときに、「自分はこれが正しいと思うからこう解いてみた」と考える人は、結局数学が苦手になるというわけです。
また、かつての僕が考えていたように、論理的・分析的思考ができるから理系というわけでもありません。文系の科目でも(というかすべての科目において)論理的・分析的思考は必要です。
いわゆる理系の分野で使う手法を文系の分野で使うことはありますが、それは結論を導き出すためのツールの違いであって、根本的な思考の違いとは関係ありません。
このことを知った上で人と接すると、話しているうちに相手が理系的思考をするか文系的思考かが分かるので、それに応じた対応ができるようになります。(文系型思考をするから感情に流される傾向があるかもしれないな、とか)
逆に理系的思考の人は事実に基づいて話し、できるだけ感情を差し挟まないようにする傾向があるので文系的思考からするといらっとすることがあるのですが、「理系的思考をする人だから」とわかっていればこちらもできるだけ事実に即して話をする、というように対処することができます。
真ん中の兄は現在某国立大学の工学部で助教をしています。めちゃめちゃ頭いいです。一生勝てる気がしないですね。
<追記>
heis101さんから頂いたトラックバック(「差別化はいくらでもできる」のは、なにも社会科学に限った話ではない)を見て、思ったことを書いておきます。
兄に教えてもらった、文系と理系のたったひとつの違い - 院生兼務取締役の独り言
すなわち、文系と理系の違いは
文系・・・考えるときの基準が、自分の内心(自分が正しいと思うかどうか)
理系・・・考えるときの基準が、自分以外の客観的な事実
なのです。
この指摘は、経験的には非常に的を射ているように思うのですが、一方でまた、この違いは、文系と理系の方法論の違いに由来する違いではないだろうとも思うのです。
すなわち、「関心がどれくらいかぶるか」の違いが、上のような経験的な違いを生み出しているのではなかろうかと思うわけです。
TAKESANさんへのコメント返しをしたあとにこのエントリーを拝見したのですが、このときにこんなことを考えていました。
それは何かというと、「文系と理系の違いが考えるときの基準に何をおくかで変わるのは何故か?」ということについて考え、その答えは「結局研究の対象となるものの性質によって変わるんじゃないのか?」というものです。つまり、いわゆる文系とされる学問分野で研究されている対象は結論がどう転んでも、その結論が客観的な事実と正しい論理に基づいている限り、研究対象の性質上誰もそれを間違いと言うことができないのではないか、ということです。
heis101さんへの応答としては、「関心がかぶっていない」場合はもちろんのこと、「関心がかぶっていたとしても」、研究対象の性質上間違っていると言うことはできないのではないか、ということになります。
うーん、何だかぐるっと回って出発点に戻ってきた気分です。
- 8 http://d.hatena.ne.jp/iammg/20080730/1217359666
- 8 http://d.hatena.ne.jp/umedamochio/
- 6 http://d.hatena.ne.jp/iammg/20080705/1215255309
- 5 http://d.hatena.ne.jp/iammg/20080707/1215414752
- 4 http://d.hatena.ne.jp/iammg/20080730/1217439217
- 4 http://d.hatena.ne.jp/sjs7/20080730/1217428542
- 4 http://gijutu.blog.drecom.jp/archive/220
- 3 http://b.hatena.ne.jp/t?tag=iphone&of=25&sort=hot&threshold=3
- 3 http://d.hatena.ne.jp/httpmobile?http=//d.hatena.ne.jp/iammg/20080730/1217359666
- 3 http://www.google.co.jp/search?sourceid=navclient&hl=ja&ie=UTF-8&rls=GGLG,GGLG:2006-05,GGLG:ja&q=ヨドバシ 送料
ちょっと解らない所があったので、教えて頂ければありがたいです。
それは、こちらで言われる「文系/理系」が、ある思考様式のようなものを指す言葉なのか、それとも研究対象を指す言葉なのか、という所です。お書きのものを読むと、ここら辺がちょっと判然としないのでした。
仮に思考様式を分類する概念なのだとすれば、いささか、証拠不充分のままに論を展開しておられる、という感があります。
そもそも字面からして、文系理系というのは、研究対象による分類であると思うのですが、それを思考様式の分類に用いるのはつまり、それぞれに属する人に見られる代表的な様式である、のを含意しているはずです。
しかるに、その観点からの分類を行って良いと思えるような根拠を、私は寡聞にして知りません。
それから、
▼引 用▼
一方社会科学や人文科学といったいわゆる文系の分野では、基本的に客観的なデータに基づいて考察することはせず*2
▲引用終わり▲
この部分ですが、どうも私が知っている人文・社会科学諸分野とは違う人文・社会科学のお話をされているように思えました。もし、それらの分野について、「基本的に客観的なデータに基づいて考察すること」をしないという特徴を持っている、と紹介している文献などがあれば、教えて頂きたいです。
私が知る限りは、人文・社会科学では、現象の数量化(各尺度水準への当てはめ等)→実験・観察・調査 等によるデータ取得→統計的データ解析 が行われ、仮説なりが確かめられる、というプロセスを辿って実証していくもの、と思っています。また、仮説の反証や確証のサイクルを繰り返すのは、実証科学において共通している事と考えます。
後、
心理学は、文系/理系 のいずれに含まれるとお考えでしょうか。あるいは言語学はいかがでしょう。
長文、失礼いたしました。
もうこのエントリーを書いたのは1年近く前で、このときに何を考えていたのかはもう忘れているので、本分の記述および「現在の」私の考えに沿って返答させて頂きたく思います。
まず、このエントリーの裏の趣旨というのは、実は注3のところにあります。
注3というのはこれですね。
>>*3:したがって、自然科学=理系、人文科学と社会科学=文系という枠組みは、分野のラベリングという意味しかない
結局文系とか理系とかいう分類なんてほとんど意味ないのだけれど、敢えて説明するならこうなるよね、というのが実は一番言いたかったことなのですが、書いた当時の文章構成能力の低さから、たぶん伝わらない気がします。
それはさておき、ひとつずつ回答させて頂きます。
>こちらで言われる「文系/理系」が、ある思考様式のようなものを指す言葉なのか、それとも研究対象を指す言葉なのか
本エントリーの文章からすると、敢えて文系/理系というものを説明するとするなら、ある思考様式を特徴とする学問が文系/理系なのであって、何を研究対象とするかによって文系/理系に分かれるものではない、ということです。
確かに文系/理系という字面からすれば研究対象によって分類されるように思われますが、一般に言われる「文系的思考」といった用語法において(これが私の思考の出発点です)は、最早何を研究しているかという点は捨象されているように思われる、ということですね。
なお、本エントリーは完全に私の経験と思考のみによって書いており、何か文献を参照したということはありません。
>この部分ですが、どうも私が知っている人文・社会科学諸分野とは違う人文・社会科学のお話をされているように思えました。
これは本文にも書いてありますが、人文・社会科学でもTAKESANさんがおっしゃるような現象の数量化等の客観的なデータに基づくプロセスを経ることはあります。これについて書いているのがこの一文です。
>>文系の科目でも(というかすべての科目において)論理的・分析的思考は必要です。
ですので、引用して頂いた以下の一文は確かにミスリーディングです。
>>一方社会科学や人文科学といったいわゆる文系の分野では、基本的に客観的なデータに基づいて考察することはせず*2
この文章で言いたかったことを現在の私の言葉で言い直すと(あとで本文も書き直しますが)、「いわゆる文系の分野では、ある人が「正しい」と考えることを否定することはできない。その結論に至った過程で収集したデータや論理に誤りがない限り。」ということになります。
具体的には、私が学んでいる法律学の分野では、至る所で学説の対立というものがあります。この法律学における学説の対立というのは、突き詰めれば「その学説を主張する人が正しいと思うから正しい」という価値判断に行き着くのです。これはおそらく他のいわゆる文系といわれる学問でも同じであろうと考えます。
一方、いわゆる理系の場合は、私はこの学問を修めたことがないので完全に推測になりますが、おそらく突き詰めると「こういう客観的事実があるから私が言ってることが正しい」というところに行き着くと思うのです。文系のように「私が正しいと思うから正しい」というのは通用しないのではないのでしょうか。
以上の考え方からすると、敢えて分類するのならばおそらく心理学は文系に属します。言語学という学問が何をする学問なのかよくわからないのでわかりません。外大の教授って何を研究しているんでしょうね?
とりあえずは以上です。また疑問点などがあればお願いいたします。
そもそも科学というものは仮説をたて、それに基づいてデータを収集し、そのデータから実験し、結果を得て、それをもとに考察するものです。そこに理系も文系もありません。
問題なのは、文系のなかに科学でない分野が混じっていることです。それが、人文学と法学です。これらは科学ではありません。
だから、「自分が正しいと思うから正しい」というような言葉がエントリー中に出てくるのです。
経済学や政治学などは、理系と同じようにできる限り客観的に結果を分析して、結論を導いています。以下の本を読んでみることをお薦めします。http://www.amazon.co.jp/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E7%A7%91%E5%AD%A6%E3%81%AE%E3%83%AA%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%81%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%B6%E3%82%A4%E3%83%B3%E2%80%95%E5%AE%9A%E6%80%A7%E7%9A%84%E7%A0%94%E7%A9%B6%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E7%A7%91%E5%AD%A6%E7%9A%84%E6%8E%A8%E8%AB%96-G-%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%B0/dp/4326301503
---
はてブでも辛辣な意見がありますが、私としてはそれらと同意見でして(言わんとする事に賛同)。あくまで文/理 というのは、研究対象に基づいた分類と看做すのが適当である、と思っています(しかもそれは、あくまで便宜的なものであると)。文/理 は文科/理科 とも書けますしね。
もちろんこれは、こちらのエントリーを読んでの意見ですので、fly-higherさんの現在の認識を決め付ける、等の意図は無いのを付け加えておきます。
心理学や言語学は、と伺ったのは、それらが一応文系に属するものと看做されるけれども(言葉を研究するのは「理系」、と考える人は、多分そんなにいないですよね)、実はそれは学際的な分野であり、文/理 にすっきり分けられるものでは無いので、それについてはどのようにお考えかな、と思った次第です。
たとえば心理学は、精神物理学や知覚心理学のような実験心理学や、社会的現象と心理の関わりの構造を解明する社会心理学、あるいは応用分野としての教育心理学や臨床心理学があり、同じ「心理学」の語を冠する学問と言っても様々で、中には領域横断的分野もありますよね。
言語学にしても、心理言語学や計量言語学等があり、また、神経科学等の方面との連携で研究する分野があろうかと思います。これらはいずれも、生物学的論理や統計的調査と関連して研究がなされる分野で、そうなってくると、敢えて理科系との差異を強調する事に、大きな意味は無くなってくるのでは、と感じるんですね。
心理学研究法のテキストを紐解くと大概書いてあるのですが、やはりそこでは、なるだけ客観的にデータを採り、それを適切な方法により解析して現象の論理を解明し、仮説を検討する、とういプロセスがあります。
臨床心理学においてもエビデンスが重視されるので、”突き詰めれば「その学説を主張する人が正しいと思うから正しい」という価値判断に行き着く”というのは、ちょっと違和感を覚えると言うか、ピンとこないものがあります。文系学問にも当然、経験科学・実証科学と言える分野は沢山ある訳でして。
頂いたレスを読んでみると、文/理 の分類についての認識は、もしかするとさほど変わらないのかな、と思いつつも、やはりちょっと意見が異なっているかな、という気もします。
「いわゆる”文系”思考」とはこのようなものである、という風に括弧で括った用法であるのが明確であれば、もっと違った読み方になったのかも知れません。
「文系」が自然科学の無理解の言い訳で使われたり、「理系」が直感的思考を嫌う傾向であるかのように言われたり、そういったステレオタイプ的な発言を結構見る事がありますので、実際研究に携わっている方からすると、あまり一般化しないで欲しい、と思うのかな、と。
自分で書いたもので恐縮ですが、文系/理系 については、ブログでいくつか認めました⇒http://seisin-isiki-karada.cocolog-nifty.com/blog/cat15500773/index.html
本文よりむしろ、頂いたコメントが参考になると思います。
ただ, 以下重箱の隅をつつくような指摘ですが.
> そして数学の問題を解くときに、「自分はこれが正しいと思うからこう解いてみた」と考える人は、結局数学が苦手になるというわけです。
この数学は高校までの算数の延長の数学なのか, 大学以降の学問としての数学なのか判然としません.
両者は思考の方向性がかなり違うものであり, 後者は定義を無いところから生み出したり, 多くの「〜の予想」が存在したりするので, このエントリで言う「文系」的な面も持っています.
「〜の予想」なんてのは, 数学者たちが「それが正しいはずだ」と信じて挑戦するものですからね.
(同様に物理学でも, 理論に近いところでは「文系」的な面が強くなってくると思います. )
以上, 数学の記述について違和感を持ったので, 指摘してみました.
豆知識程度に申し上げますと・・・・
大学の学科的には圧倒的に文系で、臨床系なんかも大いに文系なカンジですけど、
「人の内心・内面への言及を厳しく禁じる心理学」もあります。
何故ならそれ(人の心)は客観的に観察できるものではなく、いかに推察しても万人に等しく説得力を持つ根拠がないからです。
誰もが等しく客観的に確認できる対象として「行動」に注目し、しかし「行動」を通して人の心理を推測する事を禁じ、
ただ操作された変数と観察された反応の法則性のみを追求する心理学では、
文理云々でなく「科学的であること」を教育されました。
精神分析学に対して行動分析学と呼ばれますが、応用分野ではスポーツのコーチングなども行われています。
このエントリーでは学問(科学)が何かを議論しているわけではないので、ご批判は的を外していますね。
ところで経済学にも同じ経済を対象にしてケインズ主義と新自由主義(+マルクス主義)という対立がありますが、これは何でなんでしょうね?
実際に研究されている方からのご意見、ありがとうございます。こうした普段滅多に出会うことのない方からのコメントを頂けるのも、はてブのおかげですね。
このエントリーを書いた私の中には、根底に何かにレッテルを貼る(=文系・理系という分類など)ことに対する疑問と、一般的に使われているレッテルの意義(=なぜ文系・理系という言葉を使うか、どういう意味で使っているか)への興味があります。これらを形にしたものが、このエントリーです。
ところで、ひとつだけまだ誤解があるようですので、述べさせてください。これは本文でもコメント欄でも書いたことですが、私は文系理系という分類をするときに、研究の方法論で区別するということは否定しています。具体的にはエビデンスを重視するから理系だといったことはなく、いわゆる文系の学問でもエビデンスを重視するものはいくらでもある、ということです。
ところで、頂いたエントリーのアドレスを開くと、ページが存在しないと言われてしまうのですが・・・
私が念頭に置いているのは高校までの数学ですね。高校までの数学は、おそらくすでにほとんど完全に確立されている分野しかやらないと思うので、そこに自分の考えなんかを持ちこむと、逆に体系にはじき返されてしまう→数学ができない子になる、といった意味です。
ちなみに本エントリーに出てくる私の兄は、「高校までの数学で差なんかつくはずがない」が持論ですw
基礎数学の分野はまったく想像がつきませんが、まあ文系とか理系とかそんなこと言ってるような場面ではないだろうということはわかります(笑)
行動分析は私自身、石田淳さんの本を読んで会社で従業員の教育に用いていますが、確かに心理学の分野でありながら非常に「科学的」ですね。行動を要素に分解し、各要素に対してどういう刺激を与えればどう人間が反応するかを分析して、誰でも再現可能ですから。
あ、ちょっと誤解させてしまったみたいですね。
私は研究者では無いです。書いたのは、研究者(専門家)が見たら異を唱えたくなるかも知れないな、という感想なのでした。
それから、ブログの件ですが、ココログに障害が発生していたようでして、ほとんどがご覧になったような状態みたいです。メンテナンス中とでも書いてくれればいいのですが、ココログは紛らわしい事しますね…。※今確認したら、閲覧は可能なようです
---
(観測や観察、調査等によって知られた)事実に基づいて研究を進めるか否か、が文理の分類の基準では無いとお考えとの事で、その部分に関しては、認識に違いは無いみたいですね。
これは余談で、ちょっと細かいですが、現在「エビデンス」と言えば、もう少し狭い意味で用いられる場合が多いと思います(EB○等の文脈で←○には M や N が入る)。で、一応上のコメントでは、その用法に則っています。
もちろん、なるべく客観的(「なるべく」と一々書くのは、そもそも「客観的な」とは何ぞやという問いも立てられる訳なので、そこに配慮しています)に採られたデータに基づいて研究する、というのを一般に、エビデンスに基づく、と言う事はあるとは思います(自分もそういう意味で使う場合もあります)。
上で行動分析学に触れていらっしゃる方もおられますが、構成概念としての「心」を前提するにしろ、それを認めずに徹底的行動主義を採るにしろ(心理学は方法的に、科学哲学的議論が付きまといますね)、いずれにしろ、現象を数量化して「どうなっているかを確かめる」部分は実証科学として共通する所かと思います。そしてそれは、社会学等にも通ずる、と。
いずれにしても、文/理 分類の軸としては、せいぜい研究対象で便宜的に分けられるくらいで、仮に、大まかに分けられる文系/理系 それぞれの学問に従事する人々の思考の様式に顕著が違いがあるとすれば、それこそ「社会科学的に」確かめられなければいけない事だよなあ、と思って、コメントをした次第です。何度も長々とコメントを書いて、失礼いたしました。
c(,_U_U
そうですね、文系理系という言葉の使われ方を研究するのは社会現象を研究することなので、社会科学の範疇であるように思われます。このエントリーは私の経験からどんな意味で文系とか理系という言葉が使われているかについて帰納的にまとめたものですが、ちゃんとデータを集めたりすると、また違ったものが見えてくるのかもしれません。
貴重なご意見、ありがとうございました!
「正しさ」ってなんだ?
このエントリーの趣旨からすれば、その質問に対する答えで文系的思考か理系的思考かが分かれる、ということになりましょう。
国立大学は、扱いが同じですけど。
理系の教育コースのほうが、高いですよね。
自分の主張の正しさや、発想の妥当性を、「事実」を証拠に固めようとすると、
「内心」が根拠になるより、高くつくのかもしれません。
ではさらにネチネチと、理系の人は『客観的に事実とされるものなら、それは正しい。』というそれ自体一つの「価値」を前提として(「価値判断="文系"思考」して)その上で世界を組み立てているのだ。と言ってはどうでしょう?(笑)
さらにこの命題に反論しようとすれば、どうしても文系思考になりませんかね?
昨今の疑似科学批判にまつわる一連の流れの中でも、上記の暗黙の前提はよく現れてるのではないかな〜と思います。
結局は時と場合に応じて柔軟に双方の思考方法を使えるのがベストなんでしょうね…と無難な結論が出てしまいそうです^^;
ちなみになんですが、今読んでいる岩波現代文庫の『聞かせてよ、ファインマンさん』に、ノーベル賞物理学者のファインマン氏が社会科学を「疑似科学」とまで言って言ってしまっています。その理由が、まさにこのエントリの内容に絡みそうなところにあるようです。以下ところどころ抜粋です(*が私のコメント、()は文章その部分の私の意約):
「科学が成功したせいで、一種の疑似科学といったものが生まれたと僕は思うね。その科学でない科学の一例が社会科学だ。なぜかというとあれは形式に従うだけで、科学的な方法(*これが「客観的な事実の観測」のことを言ってるのではないですかね?)に従っていないからだよ。」(p.35)
「(疑似科学のエキスパートの言うことは)そりゃほんとうかも知れないし、ほんとうでないかも知れないが、どちらにせよ証明なんかぜんぜんなしだ。」(同p)
「僕は何かをほんとうに知るということがどんなに大変なことか、実験を確認するときにはどれだけ念を入れなくてはならないか、まちがいをしでかしたり、自分をうっかりだましてしまったりすることがどんなにたやすいかを、肝に銘じているからなんだ。」(p.35-36)
「それを研究しようというのに、はじめから何を発見できるはずだなどと、前もって決めてかかっちゃだめだ。(*価値判断に基づく仮説思考?)そただそれについてもっといろんなことを知ろうと、努力するだけにとどめるべきなんだよ。」(p.37)
彼の意見に対しては、もちろん社会科学のプロフェッショナルからは「話にならぬ」をはじめとする、数ギガトンクラスの反論の束が寄せられることでしょう。(まぁここでそれはさておき^^;)
ファイマン氏は、"理系"科学を奉じている人のようです。ただ、別の宗教などを語っている頁を合わせてみると、そのことに自覚的でもあるようです。
>id:saku_tuki
>「正しさ」ってなんだ?
>このエントリーの趣旨からすれば、その質問に対する答えで文系的思考か理系的思考かが分かれる、ということになりましょう。
ぃぇぃぇ、それに答えられるのは「文系」的思考だけでしょう(笑)
「理系」的には「客観的な事実」というのが唯一の答えでしょうが、実はその答え自体が「文系」的であります。
心は事物や論理から長い時間をかけて生じたもので、単なる事物や論理を超えたものです。
さらにその上に美や哲学や宗教など価値的なものが生じて、これが東大でいうところの思想文化学科の扱うところです。
他にも文学部が扱うものとして言語や社会や歴史や文化があったり、広く文系が扱うものとして政治や法や経済や組織がある。これらは全部心に基づくものです。
スキルの必要な応用科学も心に基づくけど、これは事物と論理を重んじる科学的手法によって洗練されているので理系が扱っている。
事物と論理そのものは特に理学部で扱う。
ざっと素描するとそんな感じですね。
科学を支えるものはスキルと科学哲学で、どちらも心から生じたものです。
ですが、両方とも「事物と論理を尊重しよう、心は二の次にしよう」という約束事に則っています。
だからある程度さかのぼったときの根っこは文系かもしれないけど、さらに根っこにある理系的領域を扱うのに適する。
扱っている領域は理系の方が文系より根源的だけど、手法だけみると理系の手法も、文系の領域である心から派生したものである。
領域だけみるなら理系が根源的だが、手法を気にすると、手法はどっちが古いとか言えない。だから、領域と手法を混同してはならない。といったところでしょうか。何か面白みのない説明で済みません。
冒頭に「私は三人兄弟の末っ子で〜」と断りを入れるか「次兄」と書くのが理系
ということ?