「お恥ずかしい事情を聞かせてしまいました…。」
敦の母親は、とても恐縮そうにそう喋った。
「いえ…。」



あまりにも、現実として捉えるには時間を要する状況に
先生は戸惑っていた。
下手な言葉をかけて、この家族に傷を与えてしまわないだろうか。
無理もない。
こんな状況に立たされて、そのまま何も考えずに平常心で
会話を続けられる人など、この世のどこにいるだろうか。


「敦君の言っていた事って…。」
「えぇ、全て本当のことです。」
母親の目には涙がいっぱいにたまっていた。



「私の父親に暴漢されてできた子が敦なんです…。
 私は、あの子が身ごもったとき、誰にも真実を告げることができませんでした。
 でも、私は身ごもった子が、誰の子であっても、自分のお腹の中にいる
 生命を…罪もなく、これから生きていこうと懸命に光を放っている一人の人間を
 殺す事なんてできませんでした。
 だから、どうしても産みたかったんです。
 それで、離婚する決意で、夫に真実を打ち明けました。
 夫も半狂乱に一度はなりました。
 でも、私の事は一切責めたてたりはしなかったんです。
 気持ちを何とか整理してくれて、この子には、生まれながらにして苦労を味わせてしまう
 けれども、誰よりも幸せだと思える家庭にしようじゃないかって言ってくれて、
 二人で頑張っていく決意をしたんです。」




真実を語り始める敦の母の声は震えていた。
もう、いいですよと止める先生だったが、話させてもらいたいという
母の気持ちは強かった。


「それから、私は誰よりも幸せな家庭を作っていこうと、夫と子ども達と常に
 向き合って生きていきました。
 でも、敦を見るたびに、この子の運命の重さを思って辛くなりました。
 敦は、いずれその現実を知ってしまう…その時にこの子はどうなってしまうのか…
 それが不安でたまりませんでした。
 その時期ができれば長く長く生きた後に知って欲しいと常に願っていました。
 でも、そのことを知ったのは、これからの希望を沢山思い描く年齢の時でした…。
 敦はすっかり荒れてしまいました。
 学校では普通の生徒を演じてくれてはいましたが、家では一切口も開いてくれず、
 顔も合わせてもらえませんでした。
 そして、話をしてくれたと思ったら東京じゃない学校に一人で住みたいって…。
 私達も、その気持ちに応えてあげるほかありませんでした。
 それで今のこの学校にご厄介になっているわけです…。
 始めから事情を説明できませんで、申し訳ございませんでした。」




それから、敦の母は何度も何度も安部先生に謝罪をした。
先生にと言うのも勿論だが、敦にも敦を取り囲む周りの人間、そして自分の生き方
そのものにも全て謝罪しているようにも聞こえた。



「お母さん…。お母さんは、どうなんですか?」
先生は、重い口を開いた。
「え…?」
「お母さんは、今どんな気持ちでいるんですか?」
「気持ち…。」
「えぇ。誰の気持ちも関与しないあなた自身の気持ちです。」
「私自身の…気持ちですか?」
この人は何を考えて、私にこのような質問をしてくるのだろう…?
敦の母は、そのような事を思いながらも、自分の思いについて考えていた。



「貴女自身の気持ちは、敦君を幸せにしてあげたいって思っているんですよね?
 自分の産んだ愛すべき子だと思っているんですよね?」
「それは、勿論。」
「どんな荒れた子になってしまったとしても、それは彼の重すぎる運命からくるものが
 絶対的な位置を占めてしまっているからでしょう。
 でも、貴女はそんな彼の運命も一緒に背負ってそれでも、幸せな家庭を築いてあげる
 覚悟をしたから、彼を産んだんですよね?」
「…。」敦の母は、黙って聞いていた。
「その子をお腹に宿らせた時から、普通じゃない運命の歯車が回ってしまうという事は
 覚悟していたから、誰との子であっても産もうと決心なさったんですよね?
 自分の残りの人生は、この子を身ごもってしまった罪を償って、
 彼のために全てを使ってしまってもいいと思ったんですよね?」



少し考えて、母親はこう答えた。
「えぇ…。その通りです。
 私は、大きな犯罪をするよりも、もっと重い罪を背負ったと思います。
 これは、刑務所に入って解決できる罪とは違います…。
 一生をかけて償っていかなくてはいけないものですから、
 私の人生は、もうあの子の為の人生にしようと思っているんです。」
安部先生は、少しキツイことを言いすぎたかと後悔をしていたが、
その気持ちは今の母親のそのままの気持ちである事を知って、
母の強さを感じた。



「これから、どうしたいと思っていらっしゃるんですか?」
「どんなに私達にはむかってきても、私達はその現実を受け止めてあげなくては
 いけないんです。
 だから、今あの子が東京に戻りたくないのであれば、それも
 いたしかたないかと思っています…。」
そう話す母親の姿がとても痛々しかった。
本当は、また家族一緒に仲良く過ごしていきたいだろうに…
そう思うと、安部先生の心もとても痛むのであった。



「でも、それって、逆に甘えさせすぎなんじゃないですか?」
「え…?」
突然の安部先生の言葉に、敦の母は動揺していた。
「それって、逆に敦君を特別扱いしすぎなんじゃないでしょうか?
 もしかしたら、それが逆に敦君に負担になっているのではないですか?
 さっき、敦君には、誰よりも幸せに生きていけるようにしていきたいと
 仰っていただきましたけども、それは、腫れ物に触るように
 特別に特別に扱っていく事なんでしょうか?」




先生の言葉は、とても現実を直視した、妥当な意見だと言えよう。
敦の両親は、彼のあまりに重過ぎる境遇という一種の偏見に捉われていて、
その境遇どおりの生活に自らひきいれてしまうような生活をさせているのではないか…
そう警告しているのだ。



「敦君だって、その重すぎる境遇に一人で耐え切れるわけがないんです。
 元々、人間なんて一人では生きていけない動物です。
 一人で突っ張っていても、やっぱりまだ子どもは子どもです。
 それは、親である貴女なら分かるでしょう?
 普通に暖かい家庭を恋しくもなるでしょう。
 逆に自分をこんな境遇に立たせた両親を散々恨むこともあるでしょう。
 でも、やっぱりたどり着くところは、自分の家庭なんだと思うんです。
 目をそむいていられないのが、自分の生まれ育った場所なんです。
 そこがなければ、自分の生きてきた証がなくなってしまいますしね。
 敦君も、そんな家庭の中で生活していったんです。
 あの時、作文で両親を本気で殺したいと書いていたのも、もしかしたら
 本音かもしれない。
 でも、それを行動よりも先に文章に書き起こすという事は、
 その前に何か躊躇している事があるから、
先にメッセージにしたんじゃないでしょうか?」




敦の母は、何も言えなかった。
敦のことを今まで特別視してきたつもりは一切なかった。
それを疑いもしていなかった。
でも、今こうして第三者から、その現実を突きつけられ、
自分の生き方自体を否定せざるをえなくなってしまった。
安部先生も、この母にこの気持ちを伝える事で
大きくショックを与えてしまうという事は、承知していた。
もしかしたら、今はそんな事は言うべきではないのかもしれない。
それでも、先生は賭けに出たかった。
このままでは、絶対にいけない。
いつまでも家族の歯車は狂ったままではいけないのだ。
いつまでも…。




廊下で、何か物音がした。
「誰かいるの?…敦君?」
先生は、その物音のする方へ歩み寄ってみた。
そこにいたのは、やはり敦だった。



敦は泣いていた。
今の話の一部始終を聞いていたのだろう。
「敦君…。ごめんなさいね。」
先生は謝った。
そして、教室の中に敦も招きいれた。
「先生は、謝る必要なんかないよ。」
暫くして、敦がそう言った。
先生は、悪くない…。
敦はしきりにそれだけを言った。
何度も、何度も…。
敦なりに、何かを考えながらいたのであろう。



「お母さん、今敦君は、私の家で生活しています。
 お母さんも、一晩どうですか?私の家に来ませんか?」
暫く母親は黙って遠くを見つめていたが、
やがて、無言のまま頷いた。



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