Yukiko Tsunoda
角田 由紀子
1975年に弁護士登録、現在は静岡県弁護士会所属。1986年から東京強姦救援センターの法律アドバイザー。セクシャル・ハラスメントや性暴力、ドメスティック・バイオレンス事件などを多く手がけてきた。
角田 由紀子 さん(弁護士)
セクシャル・ハラスメントやドメスティック・バイオレンスといった言葉は、多くの人に知られるところとなり、社会も決してそれを許さなくなった。しかし、ひと昔前までは、同じ事柄が人権侵害や性暴力と認識されず、「単なる冗談」や「夫婦喧嘩」として扱われ、加害者の責任は問われず、被害者は泣き寝入りするほかなかった。
角田由紀子さんは、1986年から東京強姦救援センターの法律アドバイザーを務め、また日本初のセクシャル・ハラスメント事件の原告側の弁護を行うなど、性暴力にかかわる活動を積極的に行ってきた。いったい日本社会の何が変わり、何が今なお変化していないのか、を尋ねました。
そもそも弁護士になったきっかけは、正義の実現といったことに関心があったわけではなく、たんに就職先がなかったからです。
今から50年前の話ですが、私を含めた高校生の多くの女子にとって将来のロールモデルはなく、九州の田舎ということもありましたが、「いいところにお嫁に行く」ことが当然とされていました。女子大以外への進学を希望したところ「嫁の貰い手がない」と教師に反対される始末で、非常に抑圧的な環境でした。
ただ、私は母から「職業人になりなさい。女子大なら行く必要がない」と言われていたこともあり、女性というだけでバカにする教師や男子学生に対し、違和感をずっと抱いていました。だから彼らに対して「どうやって”敵討ち“をしてやろうか」と思っていたものです。
とりあえず、男子学生にとっても難しい東大へ入れば、周囲も女性を見直すのではないか。そこに行けば何とかなるのではないか?と思いました。
でも、大学に入ったものの男女雇用機会均等法のない時代ですから、いざ就職となれば、コネのない女子を受け入れる企業はなく、まして教員(中学・高校の国語教員の資格を取っていた)の口すら見つからない。まったく就職先が見つからなかったことから、自分で資格を取るしかないと思い、司法試験を受けたわけです。
ただ食べていくための職業が欲しいという単純な理由でした。弁護士という仕事の内容もよくわからなかったけれど、何しろ働けるし、これで生活できるという思いがすべてでした。
高校時代に感じた違和感から、大学では婦人問題研究会に入り、女性の生き方が「嫁に行くしかない」というのも、要するにこれは社会の仕組みの問題だと段々わかってきたものの、男性に伍してやっていこうという強い意気込みもなく、だから弁護士になって、今のような問題を扱うとは思いもしませんでした。
女性が法の中でどう位置づけられているかなど、そもそも法学という学問自体にそういう視点はありませんでしたし、今も多分そうでしょう。男性が作って、運用してきたわけですから当然ですね。
司法試験に受かるためですから、素直に、きわめて男性的な視点で学んでいました。だから強姦の問題にしても、何ひとつ批判的な視点は持ち合わせませんでした。教科書に書いてあることをそのまま取り込んで、試験で吐き出す。それがおかしいと考えるきっかけはありませんでした。
弁護士になり、男性と同じパスポートを手に入れたから、「これで同じようにやっていける」と思っていたら、そうではない現実に直面しました。女性と男性とでは、依頼される仕事は違い、儲かる仕事は女性には回ってこないのです。
つまり、女性弁護士への扱い方は、高校時代と基本的には変わりませんでした。男性の弁護士から「こういう仕事をやってくれないか」と回してもらいましたが、それは彼らにとって割にあわず、お金にならないような事件でした。たとえば、女性の離婚事件といった手間はかかってもお金にならない案件です。ちなみに日弁連の統計では、今でも弁護士の男女の収入差は倍の開きがあります。
これは法律とそれを取り巻く仕組み自体が変ではないか? 女性をそういう位置に留まらせる力があるのではないか?と、いろいろな事件を通じて考えるようになりました。
弁護士になって3年目、日弁連の弁護団に加わって関わることになった再審事件の「徳島ラジオ商殺し事件」(注1)です。殺された男性の内縁の妻であった冨士茂子さんに対する検察官や裁判官の考えが、露骨に女性差別的なことに驚きました。彼女は事実婚を選び、法律婚を意識的に拒否していました。しかし、検察官はどういうふうに事件を仕立てたのか。そして、判決を読んで、「まっとうとされる法律婚」の仕組みの中に入らなかった女性を、法がどのように扱うのかが非常によくわかりました。社会的制裁そのものです。
彼女は離婚を経験しているのですが、判決は「二度まで結婚に失敗し」とか、「夫の女性関係への嫉妬心があり、内縁の妻という立場への不安から殺した」といった趣旨の文言で、動機を勝手に捏造していました。
今なら、そこまで露骨には書けないでしょうが、当時は判決文にそういうことが書かれていました。いずれにしても、法律婚という秩序に反抗した女性への非常にはっきりした敵意を感じました。
「女性はみんな結婚して正妻の地位に就きたがるもの」と判決は見ていましたが、彼女は自分からそれを拒否していました。離婚した経験から、結婚に、あるいは男性に依拠して生活することは、自分にとって生きやすいものではない。そうではないもっと自由な生き方を選んでいたのです。
しかし、裁判官や検察官の目から見ると、法律婚制度に入れてもらえなかったかわいそうな女がそれを恨んで夫を殺したという構成でしかなかった。
ある意味で目から鱗の思いを味わった事件でした。女性が法律婚を拒否し、自立・自律的に生きることはありえないし、信じられない。判決という名の下で行われていた徹底的な悪意の向け方を目の当たりにして、目が覚めましたね。
再審事件をきっかけに、法は女性を守らないことを実感し、どうしてだろうと考えるようになりました。よくよく考えれば当たり前で、明治に憲法ができてから敗戦までの50年間、女性には選挙権もなく、法律の世界から排除されてきました。法学部に入れてもらえず、女性を受け入れた法学部といえば、明治大学と東北大学とあとわずかの大学くらいです。
これまで制度的に女性をずっと排除したことで成り立っていた世界です。女性を無視するのは当然で、そんなことも私は知らなかったのです。
強姦被害者に実際に会って話を聞くようになり、そこで初めて、司法試験を受けるために勉強していた刑法の中の強姦罪がいかにとんでもない考え方によってつくられているかを知らされました。
暴行脅迫によってセックスを強要されたとしても、被害者が少々抵抗したくらいでは強姦と認められない。「本当に嫌であれば、死ぬ気で抵抗できたはずだ」といった、いわゆるレイプ神話がはびこっていました。
つまり、死ぬ気で抵抗して初めて被害者として認められるわけです。そこまでしないのは、強姦に当たらない、抵抗の仕方が足りない、大きな声を出さなかった、あるいはその後、ただちに逃げなかったのは合意していたからだというわけです。「そこにドアがあったのになぜ逃げなかったのか」と判決文でいわれたこともあります。逃げようと思えば、逃げられた。「逃げなかったのは、相手を受け入れた」という論法です。
でも、危機的な状況に陥ったとき、よりひどいことにならないために反抗しないことも対処の仕方だし、加害者の言うことを聞くこともありえるでしょう。
なんでそんなに罪を認めるハードルが高いのか、いったい誰がこういう法律をつくって、運用してきたんだと考えるようになりました。
そうすると家父長制社会の中の女の役割—男の血統を引き継いだ男の子を生んで、その子に財産を受け継がせること―を重要とする考え方の枠内に、法律も設定されていることにだんだんと気付くようになりました。
そこがすごく問題です。強姦されたのは、被害者に落ち度があったからだ、誘ったんだというわけです。こうした強姦についての根拠のない考えは社会に溢れています。
世の中の主流がそうした考えを信じていれば、女性であってもこの社会に生きている人は、それを空気みたいに取り入れてしまいます。そしてそれを自分の考えであるかのように内面化してしまうのです。
だから、被害にあったとき、自分をその目で見てしまう。被害を受けて怒りとともに浮かんでくるのは、その内面化された目です。「私がいけなかった」。こういう理屈は加害者を免責します。女性に明らかな強制をしなくても、自分で自分を責めてくれるわけですから都合がいい。男性中心社会の支配する側にとって、こんなにいいことはありませんよ。
そうです。しかし、このままでは引き下がれないと訴訟に踏み切ったことで、被害者の女性の意識が変わった例もあります。2000年に刑事訴訟法が変わり、告訴の期間が犯人を知ってから(多くは被害にあってから)6ヶ月以内という制限がなくなりました。それ以前は、この6ヶ月以内でないと刑事事件として取り上げられませんでした。被害後少し時間が経ってやっと落ち着いて、「さて、どうしよう」となった頃には、6ヶ月なんて過ぎています。そもそも刑事事件として告訴できない時代が長くあったのです。
だから、その代わりの方法として加害者への損害賠償請求裁判を始めました。裁判の過程が被害者にとっての回復に役立つこともありました。裁判の中で自分の正しさを主張し、相手と対峙することで本来の力を取り戻せたケースもありました。
同意していたということです。同意していたら犯罪にはなりませんから。それは今でもセクシャル・ハラスメントの事件でも山ほど持ち出されます。
セクシャル・ハラスメント問題を通じて知り合いになった女性がアメリカでDV被害者の支援活動をやっていて、私たちにその考えを教えてくれました。そこで日本でも調査をしようということになりました。
そういう調査が可能になったのは、福岡の最初の判決(注2)があり、セクシャル・ハラスメントについての闘いと支援があって、DVについても法的な対応が必要だということを言えるようになったのです。
強姦救援センターで現場の被害者の声を聞いたことが土台になって、セクシャル・ハラスメントの問題を考え、それを基盤にまた、DVの問題を考えるなど、次々と重なってきた感じです。
福岡で89年に裁判を起こしたとき、「なぜ名誉毀損にしないのか」と周囲に言われたものです。最初の事案は、言葉によるセクシャル・ハラスメントでした。当時は、「こんな言葉がなぜ問題なのか。誰でも言っているではないか」という感じでした。
けれども、セクシャル・ハラスメントは、その裁判のときに初めて起きた問題ではなく、女の人が外で働き始めてからずっとあったことでした。みんな我慢したり、泣き寝入りさせられたりしてきた。職場でなんとかやっていきたければ、顔で笑って心で泣くという対応をせざるをえなかった。みんなそうやってきたのに、なんで騒ぐのかという反応がありました。
しかし、今まで言えなかっただけです。女性が働くということにセクシャル・ハラスメントは折り込み済みで、生き残るためには我慢が必要だとされてきました。
セクシャル・ハラスメントの裁判と併行して、女性グループが全国的な実態調査をやりました。そのときに出てきた声に、こういうものがありました。「自分たちが受けてきた扱いは辛いものでしたが、セクシャル・ハラスメントという言葉もないし、それが問題だとする告発の方法もなかったのです」と。言葉がないから「人間関係がうまくいかない」という言い方で辞めていった人が多い。言葉ができても、働きながら裁判をする事は容易ではありません。
ですから、初期の頃は、職場を辞めた後で裁判を起こすことがほとんどでした。いまは裁判を積み重ねることで、被害者に損害賠償して当然だという社会的な了解ができ、職場に留まりながら裁判をする人も出てきており、そのことは変わってきました。
そういう意味で名付けることの力はすごく大きい。セクシャル・ハラスメントもDVも出来事自体はずっと昔からありました。ただ、それを適確にあらわす名前がないと、きちんと「これだ」と取り上げて見せることができない。アメーバーみたいな状態に埋もれていると、何が問題か焦点が定まらず、議論ができません。名前をつけ、「これはセクシャル・ハラスメントというものです」と取り上げることができ、それについて考えられるようになるのです。
DVもたんなる夫婦喧嘩とされ、結婚したらそんなことは当たり前とされていました。「我慢しろ。みんな辛抱してきたんだ」ということで、加害者は免責されてきた。それがとんでもない人権侵害だと取り上げることで、輪郭がはっきりしてきたわけです。
DVについては、女性の経済的自立の難しさが、彼女が暴力にさらされても、そこに留まるしかない状況を生んでいます。実際に、暴力から逃れてシェルターに避難しても、また戻らざるをえない人もいます。政府の調査を見ると、シェルターに逃れても、20%が夫のもとに帰り、自立に踏み出す人は14%くらいしかいません。これは「夫を許した」という話ではなく、食べていけないからです。その状況が暴力を許しているのです。
経済力を持った夫に依存しないと生活できないという関係自体が、彼に“安心して”暴力を振るわせる原因になっています。DVの問題は女性の経済的地位と密接につながっている問題なのです。
概念化するのに必要なこととして、ひとつは出来事の実態、実相をよく観察することです。「これはいったい何だろう?」と、いろんな角度から事物を見る、逃げないで取り組む、どうしてそうなっているかを考えることが重要です。
「世の中こうなっているからしょうがない」と考えないこと。「こうなっていることがおかしい」ということだってあります。だから逃げないで向き合う。
それから困難なことにぶつかっても、簡単に反省しないことです。安易な反省は、自分に落ち度を発見することになりがちです。
そうではなく、「なんでこうなっているんだろう」と外的な条件について検討する態度が必要です。だから、やたら“自己責任”をとらない。「どうして、自分はこうなったのか」というとき、「私の能力が足りなかった」とか「私がいけなかった」といったことは、そういうふうに考えたい人が最後に考えたらいい。自分のことはひとまず棚にあげて、客観的に物ごとを見ることが必要です。それと「世の中は昔からこうなっていた」から、「今後もこうならないといけない」ということはありません。
女性の立場は、昔と今とでは違い、よい方向に変わっています。ということは、社会を変える力を私たちが持っているということです。その力はどこかからやって来るのではなく、日々の疑問をおろそかにしないで、それに取り組んで、解決の道を考えることから生まれてきたものです。
おかしいことは、おかしい。おかしいと思う自分がおかしいのではありません。ただ、いろんなことに疑問を持つと世の中とうまくいかないことは多くなりますね。
異議を申し立てるのはしんどい。体制に順応していたらいろんなことを考えないですみます。でも、「この道を行くのは嫌だ」と思ったら、自分の道をとぼとぼでも行くしかない。それはおもしろいことでもあり、新しいことをつくることでもあります。
その他大勢にくっ付いて行くのは、それもよいでしょう。しかし、不満に思いながら付いて行くのであれば、自分の道を行くほうが、生きている実感をつかめます。
おかしいと自分が思ったことについては、「おかしい」と文句を言っていたことです。不正に引き下がらない。「人と同じことをするのは、意味がない」と母から教えられました。人と違うことに値打ちがある。そのことを怖がることはないし、とても意味のあることです。
社会で少数派になっても恐くないのは、そのことにこそ意味があると思えるからです。他人の言いなりにならず、自分の中に生じた違和感を大事にして、それを追求する。私の場合、自分の受けた性差別(そのときは、その言葉を知りませんでしたが)に屈服したくないという思いが、世の中の仕組みを捉えるきっかけになりました。辛いことがあっても、そこからわくわくすることが生まれてきて、それに励まされる。そういう生き方もあるのですよ。
(注1)
1953年11月5日、徳島県徳島市でラジオ販売業の三枝亀三郎さんが殺害された。徳島市警は暴力団員らを別件逮捕するが、自白が得られず捜査は難航。その後、住み込み店員の証言から冨士さんによる犯行と断定し、逮捕。店員の証言は、誘導尋問によって導き出された疑いが強いものであったが、懲役13年の判決が下された。第5次再審請求中の1979年11月15日に、冨士さんは腎臓がんのため死去。その後、1985年7月9日に徳島地方裁判所は無罪判決を出した。捜査機関の杜撰さが随所に現れた事件であった。
(注2)福岡県の出版社に勤務していた女性が上司を相手取りセクシャル・ハラスメントを理由とした民事裁判。原告は全面勝訴し、企業などでセクハラ防止対策がとられるきっかけにもなった。
Yukiko Tsunoda
角田 由紀子
1975年に弁護士登録、現在は静岡県弁護士会所属。1986年から東京強姦救援センターの法律アドバイザー。セクシャル・ハラスメントや性暴力、ドメスティック・バイオレンス事件などを多く手がけてきた。主な著書に『性の法律学』,『性差別と暴力』(有斐閣)など。
【角田 由紀子さんの本】
『性差別と暴力:続・性の法律学』
(有斐閣)