先日、早大教授で北朝鮮問題の専門家である重村智計氏から近著「金正日の後継者」(ベスト新書)を送っていただきました。重村氏からは以前にも「金正日の正体」(講談社現代新書)を送付していただき感謝しています。この手の本は私にとって趣味の読書というより、仕事上・実務上の読書になるので「最近読んだ本について」シリーズでは取り上げていませんが、ちゃんと目を通しています。
では今回の「金正日の後継者」の中身はというと、金正日総書記の後継者は「3人の息子の誰かではない」というもので、最近メディアが報じている「正雲後継説」を否定する内容となっています。それが正しいのかどうかは、私は直接的な北朝鮮情報は何も持っていないのではっきり言って分かりません。ただ、上の2冊からは元記者でもある重村氏の情報に関する強いこだわりが感じられ、とても興味深いものがあります。
「金正日の正体」では、わざわざ「情報学のすすめ――記者の取材、学者の理論」という1章を立てていますし、「金正日の後継者」の方でも、序章「ウォルター・リップマンに学ぶ」で情報入手・確認方法や分析の仕方について論じてあり参考になりました。例えば産経が出てくる箇所を引用すると「日本の新聞は朝鮮総連の情報や、その機関紙の記事を引用してはいけない。ところが、産経新聞でさえ『朝鮮新報』の記事を引用報道することがある。多くの記者には、それが意図的な情報工作であるとの判断がない」と指摘しています。
耳の痛い指摘ですが、実際問題、私も北朝鮮や中国をめぐる報道や、現に動いている政局報道については、「ああ、工作記事だな」「何らかの目的に利用されているな」と感じることがしばしばあります。私は、「政府の陰謀だ」という類の話はほとんど信じませんが、一方で言論・報道活動にはさまざまな工作が仕掛けられる、偽情報をつかまされるものだということは実感しています。
経験上も、割と信用できる人からの北朝鮮情報であっても、別の人が全否定する、あるいは別の場所で全く裏がとれないので記事にしなかったところ、別の新聞や通信社がそれを書いてくるということが何度かありました。これを工作と決めつけることはできませんが、まあ自分の相場観を持って、怪しい情報かどうかを判断するしかないという気はします。現場の記者が「この情報は正しい」と信じても、上のデスクや部長、編集長が疑問を持てば、記事は不掲載、または小さな扱いということにもなります。
またまた話が余談に流れそうになりました。重村氏は「金正日の後継者」の中で、米国のジャーナリスト、リップマンの古典的名著「世論」(1922年刊行)を引いて、「テレビ・メディアが、不必要に北朝鮮をバッシングしている、という論旨である。これは『ステレオタイプ』な、テレビ報道批判である」「『北朝鮮バッシング』論はジャーナリズム放棄」と指摘しています。この「ステレオタイプ」という言葉、そもそもリップマンがその概念と認識を創造し、定着させたものだそうです。重村氏はこう書いています。
《彼は、メディアの報道が、ある種の同じような理解や解釈、判断を定着させることを「ステレオタイプ」と指摘した。そして、この「ステレオタイプ」な認識は、時に偏見を生み、あるいは紛争や戦争に国民を駆り立てる。彼は、ジャーナリズムの使命はこの「ステレオタイプ」な偏見や認識を指摘し、誤解や偏見を解消させ真実を伝えることだ、と指摘した。だから、ジャーナリストの使命は、「ステレオタイプな認識」を打破することなのだ》
《およそ十年前、日本では「北朝鮮が戦争を始める(朝鮮半島有事論)」と、「北朝鮮が崩壊する(北朝鮮崩壊論)」といった報道や主張が一般的であった。それ以前は、金日成主席を賞賛し、立派な指導者とする報道があった。また、韓国の報道弾圧や人権弾圧を指摘しながら、北朝鮮の独裁や人権問題には目をつぶった。これが、ステレオタイプな北朝鮮報道であった。》
…うーん、まさにその通りでしょうし、現在の日本の各種報道のあり方はまさにこの「ステレオタイプ」そのものだという思いもあります(もちろん、弊紙も私自身も含めて)。そして、ステレオタイプな報道・論調への反発が、逆の意味でのステレオタイプを生むこともありますね。自分はステレオタイプを脱し、それを批判しているつもりでいる人が、いつしかステレオタイプを形成していると…。
そこで、実際にリップマンの「世論」をひもといてみたのですが、実はこの人はけっこう物事に対して懐疑的だったり、悲観的だったり、皮肉屋だったりする部分があるようだと感じました。書いてあることは鋭く、納得がいくのですが、同時に決して安易に理想論を掲げてみせるようなタイプではないなという印象も受けた次第です。以下、きょうのテーマに合うものも必ずしもそうでもないものもありますが、報道関連を中心に気になった言葉をいくつか引用します。それにしてもこれが87年前に書かれたものかと驚きます
《古くから執拗に続いている信仰、つまり、真実は労して得るものではなくて、示唆され、暴露され、無料で提供されるものだという信仰は、われわれ新聞購読者の偏った金銭感覚にごく端的にあらわれている。その真実がいかに新聞のもうけにならないものであろうと、われわれは新聞が真実を提供すると期待している。(中略)このこともまた民主主義の「井の中」的な性格を示すものである。人手をかけてこそ得られるような情報を必要としてるのにそれが感じとられていない。情報はひとりでに、つまり無料で入ってくるはずとされている。もし市民の心から入ってこないなら、新聞から無料で入ってこなければならない。市民は電話、電車、自動車、娯楽の料金を支払う。しかしニュースのためには積極的に料金を支払おうとはしない》
…インターネット社会が到来したからこうなったという話ではなく、もともとの構造的な問題だったわけですね。
《一連のニュース記事は、利害関係のない読者には全体的に検討されることはないかもしれないが、一部の読者にはきわめて明瞭な先入観がある記事を含んでいる。そうした記事はその人が新聞を判断する資料であるが、こうした個人的基準なしに読まれるニュースは正確度とは別の尺度で判断される。そこでは人びとが自分では虚構か現実かの区別のつけようのない問題が扱われている。真実かどうかを基準にして判断することはできない。だが、このようなニュースでも自分のステレオタイプに合致すれば、人びとはひるまない。彼らはニュースが自分の興味をひくかぎり読み続けるだろう》
…ステレオタイプ自体がある種のニーズを構成しているときに、歴然と営利企業である商業紙はどう対応すればいいのか。
《世界中のすべての記者が四六時中働き続けても、世界中のあらゆる出来事を目で見るわけにはいかない。記者の数はそれほど多くはない。また、同時に二か所以上の場所に居合わせる神通力は誰にもない。記者は千里眼ではないし、水晶玉をのぞきこんで意のままに世界を見ることもできないし、テレパシーの力を借りることもない。とはいえ、こうした比較的少数の人間が何とか受け持っている話題の広がりは、それが平均的日常ではないとしても、まさに奇跡というものだろう》
…いわんや弱小紙においておや。
《新聞がこうした定石に固執せざるをえないような圧力が多方面からかかっている。ある状況のステレオタイプ化された一面だけに注目すればよいという省力主義、これまで自分が学んだことのなかったものにも目を注ぐことのできるジャーナリストを見つけるむずかしさ、どんなに健筆家のジャーナリストでも伝統に縛られない新しい見方を納得のいくように説明できるだけのスペースを得がたい、というほとんど宿命的な事実、読者をすばやくひきつけるべしという経済的要請、まったく読者をひきつけることができなかった場合やニュースの記述が不十分だったり不手際だったりして、期待がはずれた読者の不興をかった場合の経済的危険。圧力はそうした各方面から加えられる》
…さらには社内評価や人間関係の圧力もありますね。
《読者に届けられる新聞は、ひと通りの選択がすべて終わったその結果である。どんな項目を印刷するのか、それをどの場所に印刷するのか、それぞれがどれほどのスペースを占めるようにするか、それぞれがどんな点を強調するか。このような選択にあたって客観的な基準といったものはない。あるのは慣例である》
…その慣例がけっこう堅牢なものでして。
《ニュースと真実とは同一物ではなく、はっきりと区別されなければならない。これが私にとってもっとも実り多いと思われる仮説である。ニュースのはたらきは一つの事件の存在を合図することである。真実のはたらきはそこに隠されている諸事実に光をあて、相互に関連づけ、人びとがそれを拠りどころとして行動できるような現実の姿を描き出すことである。社会的諸条件が認知、測定可能なかたちをとるようなところにおいてのみ、真実の本体とニュースの本体が一致する。人間の関心が及ぶ全分野からすれば、それは比較的小部分でしかない》
…全くその通りだと思います。私自身としては、「真実」という言葉は口にするのもはばかられるほど遠い存在のような気もします。
《正確な検査方法が存在しないということは、ほかのどんな説明よりもこの職業の性格を説明していると思う。かならずしもとくにこれといった能力や経験がなくとも処理できるような正確な情報の量はきわめて少ない。それ意外の情報はジャーナリスト自身の自由裁量に委ねられている。(中略)自分が弱いものだということを理解すればするほど、客観的に検査方法が存在しないかぎり、自分自身の意見のかなりの部分が自分自身のステレオタイプ、自分自身の規範、自分自身の関心の強弱によって成り立っていることを抵抗なく認めるようになる。ジャーナリストは自分が主観的なレンズを通して世の中を見ていることを知っている》
…はい、ほとんど何の抵抗もありません。同感です。
《(新聞は)そろって性悪でもないし、それほど深いたくらみを抱いているわけでもないとしても、民主主義理論がこれまでに認めてきたよりずっと脆い存在である。きわめて脆い存在であるから、人民主権の重荷をぜんぶ負うこともできないし、自然に手に入るものと民主政治論者が希望的に思っていた真相というものを自発的に提供することもできない。そして真実の全貌を提供してくれることを新聞に期待するとき、われわれは誤った基準を用いて判断している。われわれはニュースの有限的性格と社会の無限の複雑さを正しく捉えきれず、自分自身の忍耐力、公共の精神、そして万事に対応できる能力というものを買いかぶっている。われわれはおいしくない真実に対しても食欲をもっていると思いこんでいるが、自分自身の味覚をどんなに誠実に分析してもそんなものは見つかりっこないのだ》
…リップマンは、新聞は闇夜に光をあてて一部を浮かび上がらせる「サーチライト」のようなものだとも言っていますが、これはネットがいかに発達しようともそうは変わらないでしょうね。そうでありながら、また、そりも含めた諸々の限界を百も承知の上で、いかに「ステレオタイプな認識」の打破ができるのか。まあ、ふらふらしながらも細々と書き続けるしかないのでしょうね。
最後に、先日のエントリで「宣伝」した7月後半発売の「民主党解剖 この国を本当に任せられるのか?」(産経新聞出版)の表紙デザインが上がってきたのでついでに紹介します。私の売れなかった本よりは、はるかにかっこいいなあ、と思っています。どうぞよろしく。
by RAM
重村早大教授の近著と「ステレ…