その昔、小室ファミリーが集まって作った「you are the one」という曲があってだな……。

サイドバーに新作のamazonリンクを設置、過去作品の一覧を別ページで作った。ひととおり眺めてみて、小銭につながるリンクが個別記事の文脈に依存していなければ、まあいいかと思うようになった。

全体、自分においてがっくりくるのが、記事を読んでみてなるほどと思ったところに商品のリンクが張ってあって興ざめというパターンで、ライターの利他性に対して立ち上げた敬意がとたんに行き場を失って精神的に疲れるという流れ。amazonリンクを末尾につけるだけで、その前に書いた文章の説得力が損なわれるのはひどく損な話で、それは避けたいと前々から思っていた。

まあ、細かい話はどうでもいいんだが、amazonもgoogleもすでにインフラの一部になっているし、気にしているのは自分だけかもしれない。商品への言及があれば、そこにはごく自然に商業的リンクが張ってあって、読むほうもそれをあまり気にしない、それが今後のweb空間のスタンダードだとすれば、身振りを真似てみて、わかることもあるかなと思うわけで。

商業的リンクサービスとネズミ講が混在していたネットの一時期を知っているもので、アフィリエイトというと、まずインチキくさいという印象が先に立つ。自分も年くったなあと思う。

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ナチますか? ナチませんか?

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じいさんがハシゴに登るのがおっくうになったということで、剪定を代理、
一日一時間、三日がかり、梅雨はどこへ行ったんだ? 暑いよ。

本当は葉が伸びる前にミドリ摘みをして、剪定は冬前にやるんだろうが、
今回はしかたない、ボサボサになる前にバッサリ刈った。

クロマツは多少つよく鋏んでも枯れないから、融通が利く、
これの前にアカマツを一本やったけど、あれは面倒だった。

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セブンイレブン、いい身分。

祖母を含め、わが地域の老婦人らの会話は非常に辛辣である、
あの家の旦那が、嫁が、やれけしからん、やれ不遜だと口々にいう。

忌憚(きたん)なく大いに語り、また大いに笑う、
方言による会話は、その土地の人間でない限り、まず意味がわからない。

思うに、これは共通感覚の確認であり、本音の可視化に係る営みである、
おのおのがどこまでを可とみなすか、その感覚の共有が他に優先している。

つまり、互いの本音を知ればこそ、過度な不信や不安に陥らないのであり、
どのような行為であれ、諒解された範疇に収まる限り無害と解されるのである。

ここに、可視の本音は不可視の規範を構成し、抑止の力場を形成する、
そしてまた同時に寛容の予期として機能する、もってこれを世間という。

体罰教師は即刻懲戒、夫婦喧嘩で騒いだら隣の住人に警官を呼ばれた、
これらは世間が収縮した結果である、過度の懐疑が過度の反応を招いている。

互いに干渉せず、馴れ合いなどは厳に慎んで、個別化された社会を生きるか、
いまやそれも可能だが、しかしそれではだめなのだ。

個別、縮小、先鋭化された社会は互いに反目するのみならず、
一般に資力を有しない個は、かような社会を生きることができない。

世間が極度に収縮すると、不信や不安が社会を覆う、
果たしてわが地域の老婦人らの会話には、それらを駆逐する威力があるのだ。

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ハーゲンダッシュ

あさやけぼーだーらいんについて。

 

十代の頃における、空も飛べるとさえ思えたあの万能の感覚と、
永遠とさえ感じられたあの時間の停滞とは、いったい何だったのだろう。

私たちは、しかしそれをいつの間にか失ってしまう、
果たしてそれはいかなる時点だったか、その境界とはどのようなものだったか。

けれどその解は与えられず、また導くこともかなわない、
ただ喪失の事実、すなわち「痛む今」があるのみである。

そして、かつての自分はその万能の直感をもって、
やがて訪れる喪失の確実性をすら、予感していたに違いない。

すると、過去がただまぶしく、この上なく尊いものに感じられるようになる、
その境界のようす、たとえば朝焼けの色あいをみるときにおいてそうである。

自己とは過去でできていて、世界とはまったき現在であるゆえん、
もってその相克がこそ、自己と世界とのかかわりである。

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おぜうの日記。

私は蜘蛛と蛇を殺さない、敬意を抱いてさえいる、理由はよくわからない、
元来、何かを守っている気がする、宿る場所に意味があるのかもしれない。

軒先の蜘蛛の巣に朝露がひかる、古寺の石段に蛇がやすんでいる、
彼らはいつも私の呼気に反応し、やおら私のほうをみる。

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アナロ熊「まるで話にならん」

意外に事態は最悪とならない、世界は慰めにみちている、
回復の兆候を見逃さない程度に敏感であれば、苦痛にうろたえることもない。

傷つきやすいから傷つきにくく、傷つきにくいから傷つきやすい、
幸も不幸も主観に過ぎない、ただ一己(いっこ)の境地があるだけだ。

蛇口をひねればお湯が出る、ある朝ドアを蹴破られない、
これは異常である、きっと異常でなくてはいけない。

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「君たちは戦車の上に百貨店を作るつもりかね」

天皇の正統性に係る物語は、神を始祖とする血統により強められるが、
そもそもの始まりは、民のために祈りつづける祭司としての位置づけにある。

天皇は、威迫をもって絶対上位に君臨する王や皇帝と異なり、
未規定の外部を調停することにより尊敬を集める(世襲的)カリスマである。

ゆえに天皇は脱人称的であり、(神ではないにせよ)社会の外に存在している、
天皇が統合の象徴であるとの謂(いい)は、くしくも的を射ていよう。

さて、天皇を語る際には、少なくとも明治初期および終戦直後において、
その運用にいかなる意図が介在したかを知らなくてはならない。

すなわち、急速な近代化を実現するための糾合装置としての天皇であり、
近代的市民を体現するための行動規範としての天皇である。

いずれにせよ、その背景にあるのは無知で素朴な国民の教導だ、
当時の指導者たちは、緊急の課題に対処するべく天皇を活用したのである。

だから、便宜としての天皇教の教義をなおも妄信することはまかりならない、
尊王にあらずんば国民にあらずか、その考え方こそ心配された国民の姿だ。

果たして、その上でなお、私は天皇に敬意をはらう、
日本人の実存において君主の存在は不可欠であり、それは私も例外でない。

多くの側室をとらない限り、遠からず皇統の男子は途絶えるだろう、
女系の天皇も容認せざるをえない、それはわかっている。

全体、日本の家族に係る伝統は、血筋主義でなく家筋主義だ、
一人娘が婿をとり、家督を継ぐことで家がつづく、これが習いだ。

しかるに天皇だけが血筋主義である、万世一系、神に連なる血であるからか、
くり返すが、天皇は祈る存在だ、血は必須の要件でないと、私は思っている。

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財団法人ナウなヤング

■知人の日記要旨

あまり絵にならないアベックが往来でニャンニャンしている。
はて、地球最後の日はまだ先のはずだが。

 

■コメント返信

ご両人の前で拍手(かしわで)打って、合掌して祈れ。

「なんやねんコラ」
「いや、ぼく彼女いないんで、あやかりたいなと思いまして」

効果は抜群だ。
池袋で一回やったことある。

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みょん の検索結果 約 308,000 件中 1 - 10 件目 (0.20 秒)

選択の前提自体が選択の対象となること、これを再帰性という、
この再帰性があらわになるとき、あらゆる選択はその根拠を失ってしまう。

かつて自明と思われていた暗黙の諒解はいずこかに消え、
あとに残されたわれわれは、拠(よ)って立つべき地平を失い、宙吊りとなった。

しかるに社会は不可逆に複雑化し、われわれの志向は今後永久に一致をみない、
ならばあいまいな前提を跳躍し、当座の選択を可能にする便宜が必要である。

かくて、あまねく人々が接近しうる単純な原理が抽象されることとなり、
全体は部分に対応づけられ、部分の集合が全体を(再)構成すると信じられた。

おのずと選択は儀礼化し、個別の内容は人々が看過できる程度に形式化される、
選択のつど、いつも同じ姿勢の跳躍がくり返されるが、誰もそのことに言及しない。

果たして、この終わりのない再帰性の切断は、いかにして可能か、
畢竟(ひっきょう)、再帰性を自覚する自己を無限に信頼するよりすべはない。

つまり、複雑なものを複雑なまま理解しうる、開かれた構えであり、
任意の系において選択の前後を等しく観測しうる、ゆるぎない自己である。

――原理は単純を、構造は複雑を極め、人は最も人らしく
(アップルシード 士郎正宗1985)、すなわち自己決定こそが人の本然である。

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できておる喃、藤木は……

選択の前提自体が選択の対象となること、これを再帰性という、
選択の前提を再帰的に問えば、そこにあるのは無限の後退にほかならない。

しかしてわれわれは、あらゆる選択を「敢えてする」こととなる、
選択の前提もまた選択、選択しない選択もまた選択であるからだ。

あまねく選択の際には、社会の履歴ないし文脈、すなわち伝統が介在するが、
その伝統も「たんにする」無垢を促す一方、「敢えてする」気づきを免れない。

ここに、端的に伝統に服する姿勢を伝統主義というとき、
再帰的な伝統のあり方に自覚的である伝統主義を、とくに保守主義という。

保守主義は伝統の前提を問いつづけるが、しかし答えが見つかることはない、
保守、すなわち右を名乗る者には、相当のタフネスが求められることとなる。

ときに、あらゆる選択において伝統がくまなく介在しているとするならば、
伝統を選択せよと強要することは、逆に非伝統的なふるまいとなる。

伝統的事物の前提を問わず、それ自体をありがたがるさま、強要するさま、
これらの短絡に傾く輩は、とうてい右を名乗るに値しない。

右に求められる最低限の素質は、再帰性に耐えられるだけのタフネスである、
そしてそれは、単純な線引きや明快な理想からは決して生まれないものだ。

極右とされるネオコンは、形而上の思想に依拠する点において極左的である、
ここに極右は極左と連関しており、真の右はまさしく右を問わねばならない。

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