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来日時の世話役がマイケルさん秘話明かす

 06年5月28日、都内の児童養護施設を訪問したマイケル・ジャクソンさん(画像は一部加工しています)
 06年5月28日、都内の児童養護施設を訪問したマイケル・ジャクソンさん(画像は一部加工しています)

 親日家だったマイケル・ジャクソンさんが幼児虐待疑惑の渦中の1993年に来日した際、プライベートで最も身近にいた日本人女性がいた。次原悦子さん。元サッカー日本代表・中田英寿選手をはじめ、多くのアスリートを抱えるPR&マネジメント会社「サニーサイドアップ」の社長である。92年から3回の来日でマイケル“ファミリー”の身の回りの世話などを担当した唯一の日本人が、素顔のマイケルさんと思い出を語った。

  ◇  ◇

 1993年9月7日。少年への性的虐待疑惑という大スキャンダルの渦中、マイケルさんは福岡空港に到着した。9月10、11日の福岡ドーム公演のための来日だった。

 AP、ロイター、CNNなどマスコミが世界中から集まった。その中で、兄のジャーメイン・ジャクソンの息子、親しい友人、ボディーガードら10数人の“マイケル・ファミリー”と常に行動を共にする“ナゾ”の日本人女性がいた。

 過熱する報道の中で、一部週刊誌などで“マイケルの親せきと結婚する日本人女性”と書きたてられたのが、次原さんだった(報道は事実無根)。

 アメリカのマイケルさんの個人事務所から1992年12月、東京ドームでの8日間公演の際にプライベートでのコーディネーターの依頼を受けたのがきっかけだった。

 92年の来日時は「とにかく東京を離れたい」とマイケルさんが希望。同年3月に開業したばかりの長崎・ハウステンボスを訪れた。「クリスタルドリーム」というガラスに映し出される映像と噴水による演出にすっかり魅了されたマイケルさんは突然、「これを買いたい!」「(米ロサンゼルスの邸宅兼遊戯施設)ネバーランドにあれを作りたい!」と言いだした。

 驚く間もなく急きょ担当したプロデューサーを探すと、重い病気で入院中。しかし、「マイケルのためなら」と病院を抜け出し、ホテルの部屋に会いに来てくれた。結局、諸般の事情で実現しなかったが、マイケルさんは熱心に説明を聞き、プロデューサーを抱きしめたという。

 ハウステンボスを気に入り、翌93年も福岡空港から直行。厳戒ガードでノーコメントを通したまま、好奇の目から逃れるように、一息をついた。 50年間の短い生涯のうちの40年間、パパラッチの標的となり続けたマイケルさん。日本滞在中にその素顔に触れた次原さんは「ウォシュレットに興味を持って『エツコこれはどう使うの?』と聞いてきたり、新幹線の移動中、『25』ってマスを埋めていくゲームを何時間も一緒にやったり。もみくちゃになっているファンの中に子供がいると『連れてきてあげて』と言って、抱きしめてあげたり、幼児虐待とか言われてましたけれど、本当に子供が好きで大切に思う心を感じました」と話す。

 ホテルの部屋には深夜でもかまわず世界中のファンから電話がかかり、どこへ行ってもファンとパパラッチに囲まれた。「いつも危険と隣り合わせで緊張感がいっぱいで。こんな生活が毎日…普通ではいられませんよね。でも人間らしくて優しい人でした。時に子供のように無邪気で。そして…寂しそうでした」と振り返る。

 そんなマイケルさんはいつも音楽と一緒だった。「ふっとした時に、ホテルの部屋とか、いつも歌ってるんです。鼻歌を。即興だと思います。本当にきれいな声で。何度か泣きそうになりました。本当にこの人は神様からギフトをもらった人なんだ、と。ある風の強い時でした。私が『何の歌?』と聞くと、『風の歌』って…」。

 マイケルさんと出会ったのは20代前半。当時、会社創立から7年。マネジメント1号となるトライアスリートと契約を結んだばかりだった。「不思議なご縁で始まりましたが、私の仕事の原点でもあるし、感謝の気持ちでいっぱいですし、一生忘れられない経験です。スーパースターの憂いも垣間見たし、ブラウン管の裏側からいろんなことを見たことで、今の仕事にもつながっています。お部屋で聞いた歌が忘れられない…本当に死んでしまったのかしら…」と早すぎる死を悼んだ。






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