2007/9/1 : そりゃ行きますよ。(きのこ) |
いつのまにか9月1日になっておりました。そりゃ行きますよ。公開初日ですから。ワタクシの二十代に決着をつけに。 さて。 黒ニアに踏まれたい会会員、きのこでござまいす。 22話ラストでデレたニアにうんうんとうなずきながらも、ちょっと惜しいなー、と思うダメ人間です。あとたった四話か……なんと幸せな2007年なことか。大団円を迎えたら今まで溜めこんた感想とか一気に垂れ流したい。ほんと。 しっかし、今期はほんとどれもレベルが高く、来年の揺り返しが怖いぐらいです。 全てを拾えているワケではありませんが、グレン、精霊、コイル、瀬戸嫁、大江戸、ぽてまよ、バッカノ、と一日一アニメにしても夢の一週間。まさに飽食の時代だゼ。 余談ですが、『SVS』があんなに長くなったのはプロット考えてる当時、グレンのOPを見て 「やっぱりVSものは熱くなくっちゃ嘘だな……!」 と奮い立ったからです。いや、これがホントに。もともと150pで終わらせる話だったって言ったらキミは信じるかい? ……えー。 そんな訳で、DDDは全四巻です。三巻じゃ終わりません。 あとアリカに悪魔払いされた患者さんは「悪魔憑き」じゃなくなったので、特例としてフツーに警察病院に送られたワケで、まあ、結果的にはセーフだったというオチです。 ◆◆◆ ドラマCDの裏話を一つ。 男主人公が空気なのは、『主人公はプレイヤーの分身なので内容にまったく干渉できないドラマCDにおいては出すべきではない』というつまらない信念から。ホントは志貴すら出したくなかったんだ。 それでも狂言回しは必要だったので、七夜っちにがんばってもらいました。 あと今現在、ワタクシの壁紙はライナーノーツにある白レンです。 これが制作サイドの特権だ……! |
2007/9/2 : むしろ若返った。(きのこ) |
かつて、世界を変えたアニメがあった。 十年が経ち、あのころの記憶も掠れ、他人事のように消費されていったものがあった。 『はやり廃りが娯楽の常。 昨日まで面白かったものが、明日にはなんだか微妙なものになっている。 楽しかったけどやりすぎて飽きてしまった。よく考えれば、こんなの時代遅れだよね――― こんな感じで、娯楽には鮮度がある。 いつまでも頂点に有り続ける娯楽はない。 娯楽自体は何一つ変わらずとも、消費する方の気持ちが変わっていく。 娯楽はその在り方を一途に守り続けるのに、変化を続ける生き物には、その誠実さを評価できない』 いつか、そうやって“確か”だった思い出も薄れていく。 あのころの熱狂も、焦燥も、愛憎も、ただのまやかしだったのではないかと言い聞かせるように納得して老けていく。 だが。 そんな不誠実な心を打ち砕くように、不死鳥は灰になってなお蘇った。 ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序 この怪物を覚えておけ。 かつて、どころの話ではない。 この作品には確かに世界を変える力があった。 そして今も、変えていく力がある。 あの頃のまま、いや数倍もの牙をもって、容赦なく蹂躙する力が。 少しでも興味がある者、かつての思い出を残す人は映画館で観るべきだ。 これはリメイクなんて生やさしい―――そう、そんな本当に“優しい”話ではない。 かつてエヴァに影響を受けた人間すべてを叩きのめし、瀕死にまで追い込んだ後になお惚れ直させる暴力の化身である。 約二時間、完全に燃え上がった。 日陰者(オタク)で良かったとニヤついた。 これだけのご馳走を、二度も、しかも最高の状態で楽しめる年代で良かったと吠えあげた。 愛憎いりまじり、かつての熱も今の醜態も知っているからこその喜び。 スタッフロールの後、あれだけ消費つくされたものを完膚無きまでに復元し超越したこの奇跡。 スタッフの十年間がどれほどのものだったか思い知らされ、“この十年、何も成長していない”と自らの手を睨みつけた戦慄を、きっと多くの人間が味わう事になる。 ようするに、俺たちはまたこの化け物に振り回されるのだ。 これを幸福と言わずなんと言おう。 これだけは若い子には経験しようのない、リアルエヴァ世代のご褒美だぜ? ……などとまあ、もったいつけて美辞麗句を並べ立てているワケですがっ! 観てきました「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序」! ああもうダメ。死ぬ。凄すぎて死ぬ。「破」まで誰かにコールドスリープしてほしい。もう細部にいたるまで楽しすぎてダメ。迎撃システムの動きだけで鼻血とかでる。ネタバレになるので書けませんが後半40分はもうなんつーか、抱いて!もう好きにして!という全面降伏。擬人化なんかしなくても素で可愛いよラミエルたん。もうこれを越えるビームキャラは登場しないんじゃないかっていうぐらい。劇場版の後、家かえってテレビ版のヤシマ作戦とか観たら「なにこの茶番?パイロット版?」とか言って笑ってそう。当時あんだけカッコイイとか連発してたクセにね!でもそれぐらいの破壊力。そして地獄力。見終わった後の井戸端会議で「カラーは明日にでもブレーレイディスクで発売すべき」と100%本気でコメントするつくりものじ。リッちゃんの水着白衣がなくなって悲しいと嘆く虚淵玄。そういえばリツコやけに男顔じゃなかった?といぶかしむ奈須きのこ。その時の我々は間違いなくテレビ版当時の我々であり、まさか本気であのころの“いてもたってもいられなさ”がやってくるとは思わなかった。二十代に決着などつかない。むしろ若返った。私ゃただでさえ精神年齢若いのにこれ以上若くされても困る! きのこロリ化フェノメノン! でもまあ、観た人みんな若返るんだから別にいいよねそんな些末な事は、と言い捨てて細かい演出の検証に入るダメな大人たち。レイトで観終わった後の、深夜零時の事である……。 ……と、こんな感じで新劇場版に関してなら二時間も三時間も話せるのですが、駄文はこのあたりでストップするのがどなた様にもよろしいかと。 最後に締め感想を。 新しいものを見せていただきました。感無量です。 スタッフロール中、誰一人として席をたたない映画というものを初めて体験しました。 (必然、劇場から外に出る時も混雑して出られなかったのも初体験) ◆◆◆ ―――夏はまだ終わってはいない。 そこの友よ、今日ならまだギリギリ間に合うぜ。 今年の夏の終わりは、日本最高峰のSF(おたく)アニメで飾るってのも、悪くない話だろう? |
2007/9/9 : 無題。(きのこ) |
深夜二時、作業がどうにも進まなくてメルブラver.Bを起動したらあら不思議。 手元にあったら起動してみてください。 もうこの二人でシナリオ作ればいいのよ! |
2007/9/23 : 無題。(きのこ) |
グレンラガン、ついに26話。 朝からこんなん見せられたらマジ困る! うああ……感想吐きたい感想吐きたい……いやでも我慢、来週まで我慢だきのこ……パゥワァはそこまで溜めておけ……。 でも、毎週 朝8:30のご馳走もいよいよ終わりなんだなあ……。 つまんない日曜日に戻るなあ……。 |
2007/9/30 : ありがとう。(きのこ) |
「穴を掘るなら天を衝く。 (無茶で無謀と笑われようと) 墓穴掘っても掘り抜けて 突き抜けたならオレの勝ち」 (天元突破グレンラガン 11話より) まさにその通り。貫き続けたアナタたちの勝ちでございます――― グレンラガンというアニメと、それを作り上げたスタッフにありったけの感謝と祝福を。 そんな訳で終わっちまいました、グレンラガンが。 すんげえアニメでした。ライブで、毎週日曜日の放映を楽しみにする、なんてワクワク感を与え続けてくれた奇跡でした。なあに汚れた大人ぶってやがる、オマエもまだまだ少年だろう? と勇気づけてくれたエールでした。つーか2007年中盤の生き甲斐でした。 えー、この先はただのファンによるファンのための駄文でございます。 完全にワタクシがこうあってほしい、こうだったに違いない、と決めつけた宇宙ですので、客観的な視点を持つ人は見ちゃダメだ! 若すぎてこのダメライターを滅ぼしたくなるからネ! あと長すぎるので見やすく改行とかするの諦めた。誤字脱字も気にしない。ごめんなさい。 それでは漢の魂(ラップ)、グレンラガン感想、スタート。 ◆◆◆ などと勢いこんでみたものの、グレンラガンって何が面白かったんだろう?と首をかしげてみる自分もいたりする。 魅力的なキャラクター、破天荒なガジェット、ハイクオリティな映像と音楽と演出。はったりの効いたオタクSF的な兵器名称、設定群。 そのどれもが心を掴んでガッチリ放さなかったんですが、何よりスゲーと思ったのは“突破感”だと思うんだ。 突破感ってなんだ? 食えるのか? と言われると説明に困るのですが、えーとアレだ、ほら。グレンラガンを観ている時に、 “おいおい、オマエらどこまで行くんだ? その先は何もないぜ? 遠くに見える月は、人間には手の届かない場所なんだってば” とか思いませんでした? こういった“待て待て”感はみんな漠然と感じていたと思う。 グレンラガンは地底の村から始まって、最終的にどこまで“突き抜けた”かは27話つきあった僕らが一番分かっている事だ。 文明レベルが未開人のソレまで落ちた人類。日々、何の娯楽もなく生きる為だけで精一杯の原始的な暮らしから、あの地点まで駆け上がる事がどれほど荒唐無稽であり得ないか。笑い話ですらなくなった、無茶で無謀なお話です。 六話でカミナが月を見上げて「あの月まで行こうや、シモン」といつもの調子で語りかけますが、あの時、シモンや視聴者さえも「またいつもの思いつきで話してやがんなコイツ」と思ったのではないでしょうか。 それがアナタ、あら不思議。いまDVD3巻見直してごらんなさい。あれがカミナにとって切ないまでの「純粋な憧れ」……生きていくのなら目につくもの全てを目指して進んでいこう、という信念だと分かるんですよ。青臭いけど「無理と思うな。前進しろ」というのがグレンラガンのテーマの一つだとしたら、この台詞はまさに「この先」の物語を提示していたワケです。 地上を知らないモグラが空を知り。 地平の広さを知り、仲間を得て、海を渡り、月に至り、あまつさえ――― なんつーか走りすぎだろうという話。でもそのためらいのなさ、ブレーキの壊れっぷりがたまらなかった。 毎話毎話、視聴者の「次の話も凄そうだけど、まあきっとこういった話だろう」という安易な想像を上回るってのは、並の情熱じゃ成しえない。 そういった意味でも、グレンは毎話視聴者の期待を「突破」してくれていた。 てゆうかあ……。 そもそもこのアニメ自体がヘンじゃない? だいたいさ、文明レベルがあそこまで後退した、それこそファンタジー畑スレスレかつチンピラ同然の主人公たちが、最終的には多次元宇宙の果てを貫いて、行き詰まっていた人類の進化(宇宙)に風穴をあげるなんて話、誰がやろうと思う? そんなアニメ誰が作ろうと思う? たった2クールで。テレビアニメで。あらゆる創作の中で、最も時間と資金と人材との戦いが厳しいアニメ界で! そんな企画を聞いたら誰もが無謀と立ち止まる。 空を飛ぶ飛行機さえない俺たちなんだ、外国ですら遠いのに月になんかいけねえよ、現実を見ろ! せめてこの螺旋王ってヤツを倒すまでの話にしようぜ! と言いたくなる。 だがスタッフは「よし、行こう」と頷いた。無茶を通して走り出した。 作中のSF色が強くなればなるほど、スケールがアップすればするほど、スタッフの「まだやるの?」「まだやるさ!」なんて強がりが聞こえてきそうだった。ラスト四話あたりのカテドラル・テラの中身ってガイナスタッフじゃねーの?と思ったぐらいだ。 そんな企画を通して、かつやり通すだけの力はこりゃもう才能や結束の力だけじゃまだ足りない。文字通り何もかもブチ壊して突き進む気合いがなけりゃ到達できない果ての果て。その“ただ壁を突破しようとした力”が、グレンラガンというアニメそのものだったんだ思うんだ。 それが毎回視聴者の想像するイメージを上回ってカタチにしやがったものの正体。 自分たちがおもしろいと信じたモノ(グレンラガン)で、新しいモノ(記念碑)を生み出そうと燃え上がった。 そんなゲッター炉ばりの動力源で動ていた「天元突破グレンラガン」がバカみたいに面白かったのも当然だと思うんだ。 というか、その動力源が通じない世界なんて、悲しいほどつまらないと思わないかい? ◇◇ というのが勝手に想像した精神論の話。 もちろん、そんな根拠のない力だけで出来上がっているグレンラガンではありません。この作品を支えていたのは高度な制作技術です。 ガイナの「アニメを作る」レベルの高さは文字書きの自分なんかより絵描きさんの方が何倍も精通しているだろうから、そのあたりは卑怯にもスルー。 こちらは本とか構成面について思った事を吐き出してみる。 さて。グレンの物語展開の速さは色々なものを犠牲にした速さで、そのため、タメがないと感じる事もある。 事実、一話で地上に抜け出てしまった時なんか「アレれ? なんか速くね?」と思ったぐらいだ。が、これは“ドラマのサビを盛り上げる為の伏線”をあえて排除した結果なのである。グレンラガンは速さ、勢いにかけた作品だ。この「今までのドラマ作りの定義では必要とされていたもの」をとっばらうグレンラガンのルールは、21話で最大に花開くと思うのだが、それはまた後ほど。 グレンラガンは都合のいい話である。 それは誰もが思う感想だし、なにより作り手自身が「そうしよう」としているのが感じられる。この「都合のいい」は「気持ちのいい」に置き換えてもいい。 昨今の娯楽の消費スピードはハンパない。一つの物語の寿命は驚くほど短くなっている。ニコニコ動画を楽しんでいるユーザーはそれを骨身に感じているはずだ。 そんな中、次から付きへと大挙する娯楽を受け入れながら、かつ、数多の物語を学習しているユーザーに対して、悠長に「ドラマの起承転結」「キャラクターの起承転結」をやっていていいものか。 とくに27話という短い時間であれだけ無茶なプロットを通す為にはどうするか。 決まっている。ユーザーが想像できる部分、起承転結のうち承か転を、削れるのなら削ってしまえ。ユーザーが見たい部分だけを最高の料理で提出する。そう。確信的に、「観ていて気持ちのいい、都合のいいプロット展開」にすればいい。 誰それが仲間になった。 仲間になってから、そのキャラの紹介の為に一話まるまる使って感情移入してもらう。 それが従来のアニメのルールだ。この手法は王道で、それ故にタメがある。 だがグレンラガンはその重さより速さをとった。 どちらもプラスがありマイナスがあるのでどちらが優れているかは論じる事はできないが、グレンラガンはスピード、ドラマとしての重厚さよりドラマとしての豪快さをとったのだと思う。 このあたりの「グレンの法則」をはっきりと打ち出したのは二話のカミナのお父さんの話で、従来のドラマの形式ならあの話はもっと引っ張っていくもの、カミナという人間を転がしていくための核になるエピソードのハズだ。 それをあっさり、二話ラストでああいったカタチで落とす。二話全体の話のキーとして使っていながら、あっさりと、カミナのそれまでの過去をゼロにしてしまったのだ。 生き別れの父を捜す。それは伝統芸能と言えるお約束。 そんなお約束を提示しつつ、かつてないスピードでこれを打破する。 「そうか。このアニメは守るべき約束と、破るべき約束をきちんと分けているんだ」 そんな感想を、このあたりで視聴者は抱いたに違いない。 テンプレートにのっとった物語展開と、そのテンプレートの心地よい破壊。 当時、自分は「八話の内容を十二話あたりまでとっておけば最高の話だったのに!」と悔しがったものだが、全体から俯瞰すればまさに八話以外にはないタイミングであるのが分かる。これも、「あと何話かカミナのエピソードをやっていればもっとタメがあったのに!」というテンプレートの破壊である。 (というかマジ速すぎるぜ兄貴!) が、このスピード展開がグレンのルールであり、我々はこのあたりからグレンラガンに教育されていた。この今までにないスピード展開……その速度に馴れ始めていたのだ。 語らなくても分かること、作品中の一週間を語る為に一話使うなんて勿体ない。つまんないところはあえてカッとばす手法。小説でいうのなら行間を読む力、グレンラガン流の空気の読み方が視聴者に植え付けられていたワケだ。 恥ずかしながら、自分がそれを実感できたのは21話のラスト五分だった。 (コミケ三日目と重ねっていたあの話ですよ! チクショー!) 20話であれだけ盛り上げておいて、21話は冒頭から「一方その頃」のヨマコ先生のお話。これはこれで気になってたからいいのだけど、本筋に戻るのは次の22話か……と思わせておいて、残り五分の怒濤の展開。従来のアニメなら三十分かけてやらなくては説得力が生まれない“合流と出発”を五分間でやりとげ、かつ、三十分じっくりやる以上に盛り上げる。 ……はい。このスピードを自然に受け止められたのは、これまでずっとグレンラガンがそのルールを提示してくれていたからです。その時に初めて、ああ、このアニメはそういうアニメだったのか、と気づいたきのこであった。遅いわっ! (反面、視聴者の許容性にかけた綱渡りのようなストーリー展開であるのも事実なので、そのあたり賛否両論になるのは自明の理) ◆◆◆ えー、などと脱線したのでいつもの奈須きのこに戻りたいと思います。 色々と益体のない解説もどきなんかしてみましたが、そんなのはまあ、グレンに燃えた悦びのうち二割程度で。 ホントのところは、まあ、なんだ。 ニア と ヨーコ が 大好き だ――――――!!!!!!!! ハァハァ。あとヴィラルとラセンガンな! あたしゃ福井裕佳梨さんにゃあもうずっとノノの役でいて!むしろトップ2を四クールにして作り直して!と思っていた派なのですが、ニアには初登場から今日の8:51分まで心を奪われっぱなしでございました。 それまであんなにヨーコが可愛い可愛い言っていたのに! 自分でも恐ろしいほどの変わり身……! でもごめん、ニアはもう何もかもがツボなんだ……! デザインも声も性格も立ち位置も……! へへへ、もちろん黒ニアもたまんねえぜ。きっとアレですよ、20〜22話でシモンがみんなに責められるシーンにちゃーんと現れるのは「シモンをいじめていいのは私だけよ」理論であり、裁判を受けているシモンを月から監視していて「ああ、あの人(シモン)ったらロシウにまで敵扱いされて……!」とひとりゾクゾクしてたに違いないんだ。最低だな俺。でもニアは表に出ない天然のドSだと思いマス。 (余談ですが12話はヨーコVSニアの話としてたいへん興味深い話でもありました。 ヨーコってのは90年代のヒロインなんですよ。セクシー&パワフル。 で、ニアは2000年以降のヒロイン。リリカル&メルヘン。 当時、グレンラガンの視聴者の多くはヨーコ目当てだった(と信じている)ってのに、ニアの登場で一気にみんなの心はニアのものへ。視聴者のみならず大グレン団の面々もニアにメロメロなワケですよ。まさに90年代ヒロインの敗北! アニメの縮図、オタクの縮図がグレンラガンで繰り広げられている! 時代はやはり萌えなのか!と。 でも、そんな僕らの尻軽さとは別に、12話においてピンチになった今時のヒロインを90年代のカッコイイヒロインが助ける。二人は僕らなんて無視して和解して認め合う。 なんかすげえ嬉しい話でした。なんつーか、どっちも可愛いじゃん!と。バカですね) そんな感じで第二部完(グッバイ螺旋王)まではキャラクターの魅力がやや勝っていたグレンですが、第三部からはもう、ほら……今までの戦いってプロローグなんですよ、的な飛躍がたまんなかった。 これまでの痛快さから一転しての圧倒的な戦力差。 構図の逆転。 善悪の逆転。 キャラクターの逆転。 その中でも決して代わらない、『彼』から受け継いだシモンの信念。 21話以降の展開は本当に手に汗にぎるもので、常にこちらの想像を上回ってくれました。 こんなシーンがみたい。 こんな逆転がみたい。 ……今は失われたあの人物が、最後の最後で、長くその背中を目指して歩き続けた少年に“よう、立派になったじゃねえか”と肩をたたくシーンがみたい。 一話から付き合ってきた多くの視聴者。 おそらく誰もが“きっと最後はそうなる”と予想した『そのシーン』を、グレンラガンは最高のカタチで果たしてくれました。 そう、26話のあのシーンですよ。二人の邂逅は分かっていながら目頭が熱くなった。悲しくてじゃねえ、嬉しくてこみ上げたんだ。……うん。涙ってのはやっぱり、人間の悲哀にではなく、人間の偉業に対して流さなくてはいけないのです。 そうして最終話のハイパーバトル。ラストはロボ同士の一騎打ち、というテンプレートの連続と、そんなお約束感を鼻で笑いとばす演出力。ああ、せっかく天元を突破はしたんだ、ここまでやらなくちゃ勿体ないぜ! 惑星破壊ビームとかぬるいぬるい! こちとら銀河系カッターでございます! お約束だろうとなんだろうと、このレベルで作り上げたらそりゃあもう王道を超えた超王道ですよ奥さん! (……なんてバカな絵を作りながら、きっちりSFマインド溢れる設定がバックボーンにあるのもガイナらしい。タイトルにもなったSF短編も宇宙を選ぶ話だと知り合いのライターさんに教えてもらいました。個人的には確率変動弾という単語の圧倒的な説得力と、敵機存在確率時空率近確マイナス10、近未来プラス8に吹いた) ……とまあ。 こうして振り返ってみると、約束を守り約束を破る、というのは娯楽として一つの到達点ではないだろうか。 「天元突破グレンラガン」とは何かと語ってきましたが、そんなものは必要なかった。。 身勝手な解説も、恥ずかしい感想もいらない。 『観たいものを最高のカタチで見せてくれたもの』 このアニメを評する言葉は、それだけで良いのだから。 ◆◆◆ そんなわけで気が付けば二時間近く感想を打っている自分に気づく。 最後に、派手なシーンではなかったけれど心に残ったシーンから引用を。 24話でのゾシィの最期の台詞。 「オレ、どこまで行けた?」 最期までチンピラそのものだった彼は、転じて“一般人”である自分たちそのものだった。 その彼がやれやれと残した言葉に、なぜか心打たれた。 もう随分と昔のように感じる第一話。あの段階でグレンラガンが、シモンが、あの連中が、あんな場所にまで行くと誰が思ったか? 空すら飛べなかった人類が、星の海を渡り宇宙深奥にたどり着くなんておとぎ話を誰が想像し、実現すると思ったか? どこまで行けた? ハ、いまさら訊くなよそんなコト。 命が続く限り、どこまでも行ってやるぜ。 そんな天元を突破する物語において、彼の台詞は、多くの視聴者の代弁だったと思うのです。 2007年中、最も長いスパンで熱中させてくれた作品が終わりました。 毎週、グレン見終わった後は半日近くもだえていたもんです。あの憤り。この燃え上がった感情、グレンについて誰かと話したいという欲求。……十年前に失って久しい、自分では手の届かない作品への憧れと焦燥。 (※奇しくも、それはエヴァ劇場版でも味わわされたんですが) それも今日でおしまいです。 今はただ寂しい。自分も己なりの武器を持ってどっかの果てを目指したり夢見たりするのは、もう少し落ち着いてからといたしましょう。 |