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2009-06-27
光と影なケージフォースはいよいよ今日!
いよいよ本日開催のケージフォース。前日計量、面白かったです。話題の高瀬選手は大物ぶりを発揮して、やや遅れて登場。ギリギリだった為、全裸計量。豪快でした。男子だと、こういう時は便利です。
※久保さんは高瀬選手のあそこに注目しているわけではないので念の為(笑)。メーター部分を見ています。
高瀬選手の入場曲、カッコいいですぜ。
ご本人から「この曲の何分何秒から使って、こっちに繋げれば盛り上がる」というご要望があり、確かにメチャクチャカッコいいので、現在シコシコ編集中! 確かにこれは盛り上がる!
プロレスの世界だと、音を流す叩き(オペレーター)のプロみたいな方が多く、選手の当日持込のCDをデッキの上に何枚も積み上げて、片っ端から流していくというパターンが多いみたいですが、格闘技の場合はオペレーションミスを防ぐ為、持込みは前日までというところが多いです。きちんと登場順に並べて焼きなおしちゃう。ケージフォースもこのパターン。選手の方々にはご面倒をお掛けしますが、そういう理由(格段にオペミスが減ります)なので、ご協力のほどを!
というわけで、光と影なケージフォース、まだ間に合いますぜ! 16時開場、17時開始。プレリミナリーはもっと前からやってます。
2009-06-26
なら性感帯
ビートルズの歌詞はシンプルだから、英語の勉強にいいと言うが、実はシンプル過ぎて、意味が取り辛い場合が多いように思う。
タイトルは、空耳アワーとかで散々取り上げられただろう「ノット・ア・セカンド・タイム」だが、下半身をぱんぱんにしていた中学生の耳には、どうしたって、そう聴こえたものだ。少し大人になって、意味を考えてみると、この詩の「ノット・ア・セカンド・タイム」の意味が取れない。
「お前が帰ってくることは2度とない、だから悲しいぜ」と未来系で言っているのか、「2度と帰ってくるな」と相手に向けて言っているのか、「2度とこんな思いはしたくないぜ」と自分に嘆いているのか、自分の英語力では、よくわからない。
よくわからないんだが、キツい時は、この曲をよく聴く。
「Not A Second Time」
You know you made me cry,
I see no use in wond'ring why,
I cried for you.
And now, you've changed your mind,
I see no reason to change mine,
I cried, it's through, oh.
Oh, you're giving me the same old line,
I'm wond'ring why,
You hurt me then, you're back again,
No, no, no, not a second time.
2009-06-23
心頭滅却しても湿気は苦手
どんなに忙しくても、このブログ、3日は空けないというのが自分への決め事で、今まで何とかキープしてた筈なんだが。
それにしても、携帯の日本語入力ってのは、何であんなに全角の英語を出し難いんだろうね。技術者は英数字は半角で打ちたがる傾向があるってのは聞いたことがあるが、おれは嫌いなんだよなあ半角。あとさー、携帯って、すぐ止まらない? いや、それは、おれがカネを払わないからだが。しかし、水道だったら半年くらいは待ってくれるぞ。まあ、おれが若い頃は1年くらい待ってくれたもんだが、最近は水道局まで冷たい。景気は悪いし、ましてや生き馬の目を抜く都会は、氷河期のように冷たい。
ああ、田舎に帰りたいなあ。
2009-06-16
生きていさえいればいいのよ
三沢光晴に続いて、テッド田辺さんも亡くなった。この方も1962年生まれだ。同い年が死ぬなあ。
タイトルは傑作「ヴィヨンの妻」の最後の科白だが、それを書いた、今年、生誕100年の太宰治は39で死んだし、ジョン・レノンも40で死んだ。そうかと思うと、一部ネットで話題のスーザン・ボイル(ひとつ年上)みたいな例もあれば、隆慶一郎みたいに還暦過ぎてから作家となって、司馬遼太郎に唯一匹敵する歴史小説家(と言っていいと思う)に、わずか5年の活動になってしまった例もある。
色々な人生があるということだ。そんなことわかっている。けれど、こういうことがあると、思うことは多い。もうすぐ、桜桃忌。
ドブ川の水面に香る桜桃忌
イマイチですな。そんなこんなの人生。
2009-06-14
緑色は好きな色
触れないこととの方が不謹慎な気がするので。
自分の興味がプロレスから離れて、もう何年も経ち、会場に行くこともなくなり、キルゴアを立ち上げてからは、複数のプロレス団体の進行系の作業のお手伝いをしたことがあるものの、自分が総合の関係者であるゆえに、隣接ではあるけれど、だからこそ別の世界という意識が強かったプロレスの世界。自分から遠い世界、関係ない世界。
それなのに、この圧倒的な喪失感はなんだろう。何を書いたらいいのか、よくわからない。自分が人の死に、あまり動揺しない人間であることは、何回も書いている。だからニュースを読んで、自分の心が動揺していることに気が付いて、その自分の心の動きに、びっくりした。勿論、それ以上、死んだという事実に、ただ、びっくりした。
同い年だった。
2代目タイガーのマスクを脱いだ瞬間を、会場で見ている。が、その風景は会場の匂いと共にではなく、TVの映像のように、遠い華やかな世界の出来事として、自分の記憶の中では再生される。
安らかにお眠りください、三沢光晴。敬称をつけることの方が失礼な気がしてしまう。
2009-06-11
何故か見たくなる小向美奈子のおっぱい
不思議だよなあ。どんなタレントなのかも知らないし、特に好みのタイプでもないのに、やはりあれだけ報道されると見たくなる。いったいそれは、どんなおっぱいであるのか。うーむスライム乳って何?
村上春樹の新刊「1Q84」が、上下合わせて、早くも100万部突破だそうで。これも、うーむという感じ。いわゆる純文学にカタゴライズされる人で、ここまで売れる人は、未だかつて存在していなかったわけだが、実際、村上春樹を読んでいる人の多くは、それが純文学であるとか何とか、そんなことは考えてもいない筈で。
それにしたって、村上春樹ほど難解な小説が、これほど売れることが理解出来ない。難解と書くと語弊があるかもしれないが、文章が平易で読み易いことと、内容が難解であることは決して矛盾しない。いやまだ読んでないけどさ。まあ、難解だとは感じないのかもしれないな。多義的な解釈が許されるていること、というか、曖昧さは、難解さとは別物なのかもしれない。
で、散々話題にされるから、小向おっぱい的に読みたくなるという。
国民的作家の最新作を、おっぱいに例えたら不謹慎なような気もするが、デビュー作以来の熱心な読者なので(と言っていいと思う、ほぼ全作読んでるし)、このくらいは書いていいだろ。しかし、メジャーだよなあ。100万部ってのは。そろそろ読む時間も出来そうと思って、近所の本屋に行ったら、見事に売り切れ、吉祥寺まで出る用があったので、デカい本屋覗いても、2軒続けて売り切れだったので、それ以上探すの止めた。すげえ。
2009-06-10
何もないのに面白いのが偉い文章
最近は付き合いが切れてしまったんだが、若い頃(と言っても20代後半から30代の半ばまで)、よくしてもらっていた数歳年上の、文学やら思想やら何やらに詳しい、言わば師匠みたいな人がいて、その人が文学に対して言った名言がこのタイトル。
通常であれば、本や文章は、実学的な側面が大きいわけだ。読めば為になるとか、勉強になるとか。それが芸術系というか作品系というか、いわゆる創作物になってくると、微妙に話がずれてくるのだが、それでも今度は思想性とか哲学性とか、テーマがどうだとか、最近のばか者、いや失礼若者向けなら、萌えだとか、そういうことが云々されてきて。
この名言を言った人によれば、川端康成が一番偉いのだそうだ。川端の作品なんて、若い頃に2・3冊読んだきりなので、一番偉いと言われると全然ピンと来ないんだが、確かに当時から、「何もないのに面白いのが偉い文章」というのは、そうかもなあとは思っていて。だから、自分でも、そういう文章を書きたがる。格闘技の感想だとか、業界的な提言だとか、マスコミの悪口だとか、そっちの方が、反応もあるしウケるんだが、何もない文章の方が偉い文章だという思いは、書けば書くほど、強まっていく。実際に書いてみればわかるんだが、そういう文章を、文章だけで読ませきるのは難しいんだよね。だからこそ、偉いわけだ。
もっともっと偉い文章が書きたい。
2009-06-09
クリック、ドラッグ、ロックンロール
6月9日はロックの日(だそうで)。この語呂合わせ、ロックは鍵のロックで、ロックンロールではないんだが、書くのは音楽の方のロックな話。
自分が「ロック」を純粋に音楽のジャンルとしての「ロック」とは別の意味を乗せて使う場合、「ロック」と書き、「ロックンロール」とは書かない。概ね「ロック的」の「的」を省略していると考えてもらえばよい。
この辺り不思議なもので、「ロックンロール」というと、純粋に音楽のジャンルを指し、同じく純粋に音楽のジャンルである「ロック」より、指し示すジャンルは狭義だ。勿論、日本以外の話は知らないよ。英語の「rock」と「rock'n roll」の話は。が、少なくとも日本には、自分以外にも「ロック」を「ロック的」な意味で使う人は、多数存在する。
では、その「ロック的」とは何なのかと言えば、これはもう過去ログ参照というか、いや過去ログ読んでも決して明快には書いてないわけだが、まあ、その辺がロックなのである。それじゃあ、益々わかんねえよ。
いやね、こう、チマチマPCいじって仕事していると、ああロックじゃねえよなあ、ロックがいいよなあと思っていたら、PC使いがロックになるフレーズを思いついたので、タイトルを書きたかっただけなんだよな。単なる駄洒落じゃねえかとか、どっかで見たことあるぞとか、言ってはいけない。ググっても5件しかないから許してくれ。おれがロックだし。これじゃ、さらに、わからねえ。
2009-06-06
ひとつなぎの財宝を目指して
この3週間ほど、人生7番目くらいの忙しさで死にそうになっているんだが、それが実際にどのくらい忙しいかは別として、何でそんな風に思ってしまうのかと言えば、複数の仕事がバッティングするからで、現在のプラオリティとしては、本業優先で(そりゃさすがに生きていかなくちゃいかんのですわ)、かと言って、あまりに他のことを待たせるわけにもいかず、せめて言い訳したり調整したりする時間は割かなくてはならず、そういうのにかける時間は大してかかるわけじゃないと言いつつも、やはり心のどっかに負担がかかることが「ああ忙しい」と感じる原因であるという。珍しく、紙にToDoリストとか作って、机の前に貼ったりして、普段はPC上の付箋ソフトで十分なんだが、それじゃ整理しきれない事態になっているという。
そういう状態だと、ブログを書くことは、まさに数少ない息抜きタイムなわけだが、書きたいことがいくらあっても、真っ当でいい文章に仕上げようと練ることは、ストレスの塊に突入することでもあるので、勿論それは楽しい作業とも言えるんだが、やはり純粋な息抜きタイムという感じではない。
だから、大河ドラマとかスーパーヒーロータイムについて書くのは、さほど文章も練らないで済むし、貴重であるとも言えるんだが、実は自分にとっての最高のリラックスタイムは、ここ数年「少年ジャンプ」だったりする。否、正確に書けばジャンプというより「ワンピース」なのだ。
現在の新章(今のインペルダウン編はシャボンディ諸島編とは別章といえなくもないが、続きとみれば)に入ってからの、旧キャラ新キャラ入り混じっての乱戦模様は、これはもう堪えられないくらい面白く、まさに月曜の朝が待ちきれない状態というか、大抵の場合は曜日が変わる頃に近所のコンビニにジャンプを買いに行くことになる。
何が凄いって、6月に54巻が出たマンガなわけである。なのに、このテンションの維持と益々冴える緻密な構成力。絵の構成だけでなく、ストーリーの構成力が凄いのだ。ちょっと前に登場して、おっさん読者は全員痺れまくった、シルバーズ・レイリーというキャラにしても、ボア・ハンコックというキャラにしても、かなり昔からキャラ設定がなされていて、作者の尾田栄一郎の作品全体の構想にまったくブレがないことは、単行本のオマケで作者自身が述べている。最初から最後の一点目指して進んでいる感じなのだ。なので、ジャンプにありがちのインフレ感がないまま、ストーリーの厚みは増し、世界観は深まるばかり。
最近のマンガは長過ぎることが問題みたいな話を、それが作品論からの話でなく、竹熊健太郎がよく書くような業界構造論的な話を含め、よく見かける。「ワンピース」にしても「キャラが一杯出過ぎて、もう何がなんだかわかんなーい」的な感想はあるらしく、そりゃ確かにそうかもしれない、54巻読み続けている人は、そんなに多くないのかもしれない。それにしたって数十万人規模でいるのは確かなんだが。
それでもと思う。「ワンピース」の場合は、これだけの長さが必要である必然性かあって長いのであって、かつ、その長さを継続するだけの商業的な成功を得ているからこそ続くのであって、その辺りを含め、ここまで面白ければ、いくら長くてもいいのだというのが、読者としての結論。是非とも、おれが死ぬ前日まで話を続けて欲しい、その日に最終話を迎えて欲しい。「よし、ワンピースも終わったか、おれの人生もオシマイ」みたいな。
2009-06-03
最近は怖がられてあまり質問されない
よく「長尾さんのブログは、字ぱっかりで、難しいことが書いてあって、さっぱりわかんないので読んでません」とか言われて、どぼじでどぼじでと、零れ落ちた涙がアメリカンクラッカーを始めてしまうんだが、根が色々な意味で難しい人間なので、しょうがないよなとも思う。
こう見えても、一応、技術者なので、昔はPC系の質問をされることが多かったのに、最近は滅多になくなってしまった。もしかすると、歳を取って益々頑固で嫌な奴になり、あっちこっちから嫌われているだけなのかもとも思うが、それならそれで、もういいやという感じであって、最近になって、ひょっとすると、万が一、白馬に乗ったお姫様は迎えに来てくれないのかもとも思うのだが、いやナニ大丈夫、もうすぐ迎えに来てくれる、西荻周辺は道が分かり難くてね、もう30年くらい、近所で迷っているんだと思うな。
物事をわかり易く説明するとか、丁寧に説明するとか、そういうことは昔から自信があって、本業では「教え屋」とか「教師になれ」とか「1を訊くと10しゃべるのでウザい」とか散々言われていたのであって、確かに日常生活では、クドいくらいに色々なことを丁寧に説明したがるタイプなんだが、それは訊かれた場合であって、訊かれない場合は、意外と冷たかったりする。ましてや、過去十数年に渡って、延々PCの操作を、初心者に訊かれ続けて、往々にして、延々サポートしたにも関わらず、何も悪くないことで誤解されて文句言われたりする経験を、散々してきているので、もうPC関連は、わざと不親切にするようにしている。あと、サイト更新したいなら、エディタでHTML開きなさい(グリフォン向け)。
但しだ、HTMLに関しては、何も不親切で言っているだけではないのだ。別にね、HTML全部をエディタで編集しろと言っているわけではない。そっちの方が全然早く簡単なケースが多いから、しかも何をやるにしても、そうやってわかってやった方が、絶対役に立つから、基本とか原理とかを教えてあげようとしているのに、「このリンクをここに貼るにはどうすればいいか」だけが気になって、そのものずばりの答えや、結論だけ訊きたがる人は、自分の本質的な成長を自分で拒否しているわけである。
「別にこのリンクをここに貼れさえすればいいんだ、技術屋でもないんだし、そんなこと成長しなくてもいいやい」という人は、一生、質問できる人を回りにキープするという労力が必要となるわけだ。そういう人生もあるにはある。ただ、そういう人生は、自分の人生としては好きではない、自分で勝手に学んでしまう方がよっぽど楽しいぜと考える人もいる、という想像力くらいは、せめて持って欲しい。もしくはカネおくれ。
2009-06-02
高田の背番号も知らないわけではない
国内のペナントレースがどうなっているかも知らない癖して、イチローの打率は知っている。野球に関心が薄れても、イチローや松井の戦績くらいはネットでチェックするからだ。
格闘技ファンでも、国内状況、特に自分が関わっているようなインディーな世界は、まったくわかってない(というより、わかろうとしない)人は多くて、その割には海外の状況とかには異様に詳しくて、何だかなと思うことが多いんだが、何のことはない、自分も野球に関しては、そうなっているという。
自分から、積極的に関わろうとしない限り、格闘技に関していえば、会場に足を運ぶか、ネットであれば相当マイナーなところまでチェックしようとしない限り、一見すべての情報は等価に転がっているネットであっても、それは自分から情報を取りに行くからであって、受動的に情報を得ている場合は(例えば、ルーチンワークで一般ニュース系サイトを見るだけというレベルは、最早受動的と言っていいだろう)、こと海外のメジャーな情報など、国内マイナー情報よりは、はるかに親切にわかり易く提示されていているということだ。
この前の「DREAM」で、試合後のカンセコに群がるカメラマンの多さにも驚いたが、石井の「戦極」参戦が、一般ニュースとして散々流れることにも驚く。メジャーはいかにしてメジャーになるのか。誰がメジャーであると決めればメジャーなのか。個人のリテラシーとは別に、世間の基準というものは確かにあって、それを読み対応する能力が必要なんだが、わかっちゃいるけど面倒くさい。どうも、根がマイナー指向でいかん。
2009-06-01
表裏比興
ああ、ちょっと面白くなったと気を許したら、やっぱり茶番になっちゃった。「天地人」ですが。
この脚本家だと、岩松了をもってしても、「表裏比興の者」の真田昌幸が、食い意地張った、ただの小悪党になっちゃうという。おまけに、娘の長澤まさみをエロ忍者に育ててるし。しかもせっかく忍者に育てたのに、しっかり監視までつけて男関係チェックしてるし。経費の無駄だと思う。チェックした挙句、隣国の家老に惚れてるし。ダメじゃん、くノ一として失敗作だろ。
それにしても、エッチなパパだよなあとか、こう書いていくと、実は結構面白い設定のような気もするんだが、まったく面白くなってないところが大問題。
徳川に攻められたら、忍者が出てきて、ばんばん炸裂弾投げちゃう真田ってのは、やっぱり、大河ドラマとしては間違っていると思う。そこまでやるなら、岩松了の科白は延々軽薄なギャグ一色にしてさ。で、キメで一瞬冷めて、長澤まさみにドスの効いた科白をぼそっ。そういう演技が出来る人なんだからさあ。そこまでやってくれるなら、どんなに軽くても(いや軽ければ軽いほど)、面白いと思うんだがなあ。相方で、ふせえりの登場希望。
ああそうだ、三木聡の新作「インスタント沼」が封切られたんだ。観たい観たい暇がない観たい。
2009-05-31
「適材適所」は子供に伝わるのか?
いやあ、今日の「シンケンジャー」は凄かった。テーマが「適材適所」。小学生低学年は読めないよ! 23時台のリーマンモノのドラマで出てきそうな内容。いくら何でも対象年齢高過ぎで、果たして世間の子供はついて来ているのか?
適材適所は当たり前なんだが、往々にして、その適材が周辺にいなかったり、雇う余力がなかったり、組織たるもの、そういう基礎体力が最初の勝負なんだよな。そこがベンチャーを成功させる為の第一の門。
その辺り、シンケンレッドの志葉家は、殿であるだけあって、資産家みたいなので、あんなに黒子をフル雇用する余裕があって羨ましい限りである。それにしたって、固定資産税や相続税は大変だ。切り盛りに才覚は必要。
2009-05-30
世界には概ねラザロやプーがいる
金曜の夜だというのに、しこしこ仕事をしていて、今週は土日もびっちり仕事だ、今晩くらいゆっくり寝ようと思ったら、そういう時に限って疲れ過ぎていて、2時間で眼が覚めてしまう。くそっ、せっかく寝ることを自分に許したのにと思って、代わりに、届いていたけど、見る時間が作れなかった、ジョージ・ロイ・ヒルの「スローターハウス5」を観る。
やはりこれは超傑作だ。冷静な眼で見れば同時期に撮られた「明日に向って撃て」や「スティング」より、出来がいいのではないか。端役まで含めてすべての役者がドンピシャな表情を見せ、カットは緻密に編集され、もうこれ以上はないのではと思う繋ぎ具合。そこに被るグレン・グールドの名曲。音の被せ方、使い方、自分がジョージ・ロイ・ヒルに多大な影響を受けていることを再確認した。
原作がカート・ヴォネガットであるからSFなのである。主人公は時間を超越してしまい、自分の人生のあらゆる時点に、同時に遍在するという話。こういう書き方をするとわかり難いかもしれないが、映画を観るにあたっては、そんなことは気にする必要はない。爺さんとなった主人公のキチガイ親父的回想シーンがフラッシュバックされ、延々繋がっていると理解しても何ら問題ない。
ましてやポストモダン的・ライトノベル的に、「時間を超越する」という設定は、実は今時の若者には分かり易い設定なのではないか。きっと、時代がヴォネガットに追いつき始めているのだ。ライトノベル・ファンでも、特にゲームやアニメと合わせて理屈をこねたがるようなファンは必見だよ。若者にこそ観て欲しい。さらにカルト映画ファンだというなら、この映画を観ていないのはモグリ。今すく観なさい。
第2次世界大戦において、原爆投下の広島以上の死者を出したとされる、ドイツの古都・ドレスデンの空襲という出来事がメインになっていくため、反戦映画的なコピーと共に語られることもあるが、そんなことも、どうでもよろしい。極論してしまえば、戦争はその他多くの悲惨な出来事と等価。心温まる小さな逸話が積み重なるように、悲惨な出来事も積み重なるのである。時は淡々と繰り返し、人は死んでいく。まさにヴォネガット的「そういうものだ」の世界。明るい虚無。だからこそのオプティミズム。
ジョージ・ロイ・ヒルは、この映画の10年後に、似たテーマ、似た感触で、これまた傑作の「ガープの世界」を撮っている。ロビン・ウイリアムスの俳優として才能が開花した映画であることもあり、こちらはメジャー扱いされることも多い。しみじみ素敵な映画。
似た感触であるんだが、原作のジョン・アーヴィングは、ヴォネガットとは異なり基本的にはリアリズムの作家であり、SF的な出来事は起きない。が、それだけの違いであり、感触はよく似ている。SF的な設定であることで、メタフィクショナルな批評性が発生するという意味では、この「スローターハウス5」の方が、自分の好みである。勿論「ガープの世界」も、かなり好きな映画なんだが。
この2作、原作も超傑作で、先に読んでも全然構わないと思う。先に読んでしまって、映画を後から観ても、映画が原作に負けていない稀有な例。まあ「ガープの世界」の原作は上下巻で長いけどねえ。
「スローターハウス5」ではラザロという人物が、そして「ガープの世界」ではプーという人物が、物語のキーになる。世界には、常に、ラザロやプーが遍在する。だからこそ、世界は虚無であり、ゆえに美しくなる可能性を秘めている。その意味は、この2作をじっくり観て頂ければ、理解できると思う。