セブンイレブン、いい身分。
祖母を含め、わが地域の老婦人らの会話は非常に辛辣である、
あの家の旦那が、嫁が、やれけしからん、やれ不遜だと口々にいう。
忌憚(きたん)なく大いに語り、また大いに笑う、
方言による会話は、その土地の人間でない限り、まず意味がわからない。
思うに、これは共通感覚の確認であり、本音の可視化に係る営みである、
おのおのがどこまでを可とみなすか、その感覚の共有が他に優先している。
つまり、互いの本音を知ればこそ、過度な不信や不安に陥らないのであり、
どのような行為であれ、諒解された範疇に収まる限り無害と解されるのである。
ここに、可視の本音は不可視の規範を形成し、抑止の力場を形成する、
そしてまた同時に寛容の予期として機能する、もってこれを世間という。
体罰教師は即刻懲戒、夫婦喧嘩で騒いだら隣の住人に警官を呼ばれた、
これらは世間が収縮した結果である、過度の懐疑が過度の反応を招いている。
互いに干渉せず、馴れ合いなどは厳に慎んで、個別化された社会を生きるか、
いまやそれも可能だが、しかしそれではだめなのだ。
個別、矮小、先鋭化された社会は互いに反目するのみならず、
一般に資力を有しない個は、かような社会を生きることができない。
世間が極度に収縮すると、不信や不安が社会を覆う、
果たしてわが地域の老婦人らの会話には、それらを駆逐する威力があるのだ。
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