『臓器強奪法案?』
8時間の委員会審議で今までの『人の死は心臓死』を変更。『脳死は人の死』とする臓器移植法改正案A案が18日衆院で可決される。
翌19日には、海外での自衛隊の武力行使に道を開く「海賊対処」派兵新法、租税特別措置法、改定国民年金法が参議院の議決を無視して衆議院が郵政選挙の賛成多数で成立させる。
一日に衆議院が参議院議決を覆して三つも法案を成立させたのは初めての出来事です。
『各党の態度』
臓器移植法案に対して共産党は『審議が尽くされていない』として棄権の党議拘束をした。
対して共産党の除く各党は党議拘束をかけず議員の判断に任した。
どちらが正しいのでしょうか。?
臓器法案での賛否ですが、自民党議員は概ね賛成で民主は賛成の議員もいるが反対の方が若干多い。
其の他の民社党、共産党、国民新党は反対か棄権する。
マスコミでは読売、産経、日経は法案賛成(臓器移植推進)で、其の他は慎重審議を主張している。
『マスコミの世論誘導』
光市母子殺害事件の最高裁差し戻し死刑判決には、被告少年の情状面の報道は皆無でひたすら犯罪の凶悪性と被害者家族の声だけを流したマスコミ各社の世論誘導の力が大きかった。
『被害者の人権』の美名の下に、光市事件を利用した『永山判例』の変更と治安不安を利用した刑罰厳罰化の方針が隠されていた。
今回もマスコミ各社は、法案審議に関して、マスコミ(特にテレビなどの映像メディア)はアメリカでの手術費用数億円をみんなでカンパする『美談』等が描かれている。
移植で無いと助からない乳児の映像を流して『日本国内では手術出来ない』として移植推進の方に世論を誘導していた。
『本当に脳死は人の死か?』
日本では100万人以上が毎年必ず死んでいるが、脳死者は0.数%数千人の少なさである。
脳死は現在の医療技術が生み出した隙間のような例外的な『ごく稀な死』である。
12年前に可決された臓器移植法では臓器移植の時だけ『脳死は人の死』とする二重基準、ダブルスタンダードだった。
同じ脳死者でも臓器移植のドナーは『死者』で、臓器移植に関係ないの脳死者は『死者』では無かく『生きている』としていた。
『全ての脳死は人の死』とするが以前の『原則は心臓死』の二重基準法案の方が、(矛盾しているが)少しは良かった。
今回日本人全体に長く定着していて別段何の不自由も無い一般的な『死の定義』である心臓死に変え、ごく稀な例外的な『脳死』を『新しい死の定義』に決める合理的な理由は、臓器移植推進以外には考えられない。
しかし仮に脳死法案に効果があり、臓器移植が十倍になったとしても年間数十件程度にしかならず『臓器移植』自体が稀な出来事で、移植希望者が誰でもが受けれる医療ではない。
目的(臓器移植)の為に、一般原則自体を変えるなどは本末転倒であるが、それ以前に稀な出来事(0・数%)を一般論(全体)とするなどは詭弁中の詭弁で許されるものではない。
『他人の死を期待するのはおぞましい』
『脳死』は人口呼吸器等の生命維持技術の大きな進歩により現代医学が作り出した死と生の過渡期の状態で、『心臓死から脳死へ』の動機は『生きている臓器の確保』以外には無いのである。
今の移植技術では『心臓死の臓器』では限界がある。
『死んだ臓器』では心臓移植は成功しないので『生きている心臓』を求めているのです。
移植を考えなけれ、今までの心停止自発呼吸の停止等の死の三兆候による心臓死で別に不都合は無い。
科学の進歩と其の限界の狭間の『脳死者』を、死者に分類する事によって『生きた心臓』を移植用に確保する事が可能となる。
最初の心臓移植が人種差別で悪名を馳せた南アフリカ共和国で行われ、二番目が矢張り激しい人種差別の60年代アメリカであったことは示唆的である。
『誰かの死』でしか成立しない医療行為(脳死移植)が真っ当で有るとするのは下品でおぞましい。
しかも万人に平等に適応出来ない仕組みになっている。
脳死者の臓器は圧倒的に少なく、対して移植希望者は多すぎて、『誰でもが必要なら受けられる医療』とは程遠い。
現に年間4000件近くの脳死による臓器移植が行われているアメリカで、事故で脳死したホームレスから金銭的に余裕のある人への臓器移植は有るが、其の逆の例は絶対に起こらないのです。
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人は生まれたときから「もう助からない」のです。必ず死にます。だから、「もう助からない」は臓器摘出の理由にならないことは自明です。
個体死だと断定できない人間の臓器を摘出すれば、間違いなく個体死に至る。本人が臓器提供を望んでいれば、医者および社会の多数が脳死者を確実な死へ突き落としてもよいのか?
なるほど、川で溺れている子供を救出しようとして自らの生命を懸けて子供を救出し、その代わりに自分が溺死するということは違法ではない。むしろ、飛び込んだ人間の判断を責めることは誰にもできない。
しかし、これは、あくまでも子供と救出者の2者間のことであって、救出者の自己判断の問題である。
臓器移植の場合に、救出者(ここでは臓器提供者・ドナー)と子供の2者の問題ではない。ここには、第三者が介在しているのである。この特殊性が論点なのだ。
まだ個体死していない人間の臓器を取り出す第三者である医者の行為および、その医者の行為を容認し、賛成する社会の意識の合力が、脳死者という1個の人間の生命を確実に断絶することになるのである。
溺れた子供を救出する尊い行為と脳死・臓器移植によるドナーの行為は同列であるが、脳死・臓器移植の場合では、第三者である医者および社会の合意が介在するのである。この特殊性を見落とすと誤った判断になるのではないか?
本人の同意も不要で脳死を人の死とするようなA案が成立すれば、どうなるであろうか?
A案は家族の同意を前提しているというが、A案の秩序に従えば、判断に迷う家族が現場では大部分であろうから、結局は、医師の判断に任せるということになり、脳死者の臓器は、医師の判断で摘出されることになるであろう。
今は、本人の同意が不可欠となっており、ドナー登録者も少ないから臓器移植は進まない。
しかし、A案が成立すれば、先に述べたように、家族の同意が必要だといっても大部分の家族は判断できないわけで、「わからない」ということになり、結局は「先生に任せます」ということになりはしないか?
そうなると、本人の同意もなしに、まだ生きている脳死者の臓器を摘出することになるのである。
これは、もはや、川で溺れる子供を救出して死んでしまうという自己判断による「美しい」死というレベルの立論としても成り立たない。
川で溺れている子供の救出を迷っている人間に対して、第三者である人間が川へ突き落とし、その結果、救出者が死亡し、子供が助かるということと同じレベルになる。
突き落とした人間の行為は殺人罪が成立し、子供が助かったからという結果、子供を助けたかったという動機があっても、絶対に許されない殺人行為ではないだろうか?
極端な例をあげれば『人は必ず死に』生まれたての赤ん坊でも何時かは死にますが、
脳死宣告された患者は人工呼吸器を外せば否応無く死ぬが、適当な医療を行わなければ短時間で必ず死ぬ重症患者は大勢います。
脳死者は『脳が死んでいる』ので自己統一性が無いとか、自我ないとか言われていますが、其れなら脳幹だけが生きている植物状態や大脳が欠損して生まれてくる無脳症児も自我があるとも思えない。
この問題に関してお玉さんの所のコメント欄で、ある人が『脳死というのは、考える事も出来ず、機械が無ければ呼吸すらも出来ない状態です。
私がそんな状況になれば、とっとと殺して臓器移植して欲しいですよ。』 と語っている。
自分は『脳が死んで自我が何もない状態で身体だけ生きている状態が耐えられない』という意見ですね。
また愚樵空論では別の人が『・・脳死となり、どんな最新の治療法でもその回復の可能性が全く無い事が確実だと確認・納得できたなら、心臓がパルス信号で無理矢理にでも動く内に、臓器提供を希望します・・』と表明していた。
これ等は、案外健康で若い人なら大概の人が多かれ少なかれ考えている事ですよ。
例えばスポーツ選手なら競技で大怪我をして半身不随に成れば生きて居たいとは思わない。
しかし生まれつき半身不随ならどうするのですか。?
死を実感していないから簡単に明確な答えを出せるが、終末期のがん患者が同じ様な考え方を出来るでしょうか。?
たとえ健康な時にドナーカードを持っていても、本当に自分が死につつある状態でも同一でいられるだろうか。?
ただしこの様な病人の臓器に対しては移植関連業者は何の関心も示さない。欲しいのは健康な臓器なのです。
これは(自分は滅多な事では脳死のドナーにはならない事を知っている)強者の傲慢ですよ。
生と死。人間とそれ以外。
簡単に別けれる様で、よく考えて見ると難しい。
生と死は連続したプロセスで、死の無い生は無いし、生の無い死も無い。
基本的に生死の完全分離は無理なのです。
脳幹だけが機能していて自分で考える事が出来無い植物状態や最初から大脳小脳が無い無脳症児はコメント氏の考えでは『とっとと殺せ』に成りかねない。
脳が機能していれば生きている事になるのか。?
屁理屈を言えば、脳が無くても生きている生命体の方が地球上に多くいますよ。
物事、今回の臓器移植法のように厳格に別けれない。
人と人以外だって考え方は色々です。
アメリカのキリスト教原理主義者たちは『受精卵は人』と定義して、妊娠中絶を行った産婦人科医を殺しています。
受精卵を1個の人類の個体とするのは客観的で科学的なのであるが、そうであれば、産婦人科医の生命も1個の人類の固体としての生命であって、これを銃殺することは矛盾以外の何者でもない。完全に自我の肥大化を示した宗教の独善性が発揮されている。
科学的には、人類の個体としての生命は受精卵から始まり、心臓停止、呼吸停止、瞳孔散大の後、何十時間の間、霊安室に存置し、回復しない場合に、個体死として確定する。
人間の個体死、不可逆的な点は必ず存在し、人間は必ず個体死するのであるが、その時点が問題となっているのが、脳死問題である。
脳死状態は死の3兆候に先立って現象するのであるが、脳死状態に先立って、死の3兆候が現象することはない。要するに、脳死とは、個体死の臨界点、不可逆的な点、個体死の時間的な点を早くしているというのが事実である。
端的に言えば、「早く死になさい。ただし、臓器の提供を待っている他人のために」という自己犠牲を社会的に強制することに他ならない。
脳死状態であって、延命治療を続けても人間である以上、必ず死の3兆候基準を満たす時は来る。その時点を持って、個体死を迎えるのが人間の生である。
いわば、脳死状態から3兆候基準を満たすまでの間、生から死へのプロセスは、この世に生まれてきた人間が三途の河をゆっくりと歩んでいく道程である、と言える。
三途の河を渡る人間の生から死への道程を生のある現役の人間が治療し、看病し見送るのが科学的なヒューマニズムであろう。
脳死の人間に対し、「もういいだろう。早く死になさい。あなたは自分だけで生きることができないのだから」というとんでもなく冷酷な思想の源泉はどこにあるであろうか?
これは猛威を揮った新自由主義の考え方の典型である『アメリカで行われているので日本でも』というグローバルスタンダード(世界基準)の医療版ですよ。
『脳死は一般的な人の死たり得るか』
そんなことは大嘘ですよ。
欧米や日本の様に医療技術は発達して救命機器が完備しているから『脳死』が発生する。
医療が遅れている第三世界では脳死なんか初めから起こるはずも有りません。
今の最新医学では救命は出来ても治療は出来ない(技術革新と、その進歩の限界の)結果生まれたのが脳死です。
脳死を人の死とする欧米の死生感は、キリスト教的な一神教の独特の、肉体は「塵から生まれて塵に帰る」ものにすぎず一段劣る存在でしかなく、(宗教的に)必ず滅びる肉体ではなく不滅の霊魂(変わらない自我)だけが大事であると考える霊肉二元論的な宗教観が根底に有る。
それで欧米では、変わらない自我が無くなった(脳死した)肉体は無価値で、脳死移植のように廃品利用しても何ら道徳的な問題は発生しない。
しかし。この考えは、体と心は一体と考える日本人の道徳観・宗教観・世界観には馴染まない。
脳死移植がアメリカで年間数千例で日本が二桁に達しない事情(12年間で81例)は、一神教とは違う日本人の根本的な死生感が有り、法律が成立したからと言って劇的に変化しないでしょう。
この欧米の世界観・宗教観は容易に『優生学』に繋がります。
優生学はヒットラーのナチズムや強制収容所やユダヤ人大虐殺やホロコーストで有名ですが、何もドイツ一国が優生学を推進していた訳では有りません。
今、優生学と言えばユダヤ人大量虐殺を正当化した学説としてドイツで流行った『間違った科学』であるとする考え方が主流ですが、どうも事実は違うようです。
先ず『ドイツで』が誤解で、『欧米のキリスト教圏で流行った』が正解らしい。
アメリカでは『優生学』による強制断種法や有色人種との婚姻を禁止する法令が色々と作られている。
間違った学問(擬似科学)も間違いで、『優生学』は家畜の改良の実績を哺乳類の人にも応用した学問なので、(人も牛や犬も哺乳類としては同じなので)学問的には正しい(ニセ科学ではない)が、道徳的に間違っていたのです。
ご存知の様に、優生学とは社会ダーウィーニズムと関連が有りダーウィンの進化論の弱肉強食・適者生存の考え方を 社会や人類にも適用した恐るべき学問(科学)です。
しかし、生物科学として問題を立てたとしても、社会ダーウィニズム、ナチズム、アメリカの人種差別などは、非科学だと断定できます。
生物科学が示す知見によれば、生物の種が異なれば独自の次元を持った法則が存在するというわけです。生物種の階層性、次元性というものです。
では、生物種というものはどのような基準で生物科学は区別しているであろうか?
それは生殖です。人類と他生物を決定的に区別する客観的な根拠は生殖できるかできないか、にあります。
黒人、白人、黄色人、多様な民族は、人類として同一種です。これは生物科学の示す客観基準に従った場合、そうなります。どんな人種でも、どんな民族でも、互いに生殖可能だからです。しかし、99%のDNAが一致するチンパンジーと人類では、どうあがいても超えられない壁がある。人類とチンパンジーは、互いに生殖できない。ゆえに、人類とチンパンジーは質的に異なる種族となります。
これが生物科学の示す客観性です。
生物科学は明確に人類とその他の生物の区別の基準を示しているのです。
しかし、この生物科学の示す基準、すなわち、生物の種が異なれば独自の次元を持った法則が存在するというわけです。生物種の階層性、次元性を無視した理論と行為、したがって、非科学的で超人類的に肥大化した妄想が悲劇を起こすわけです。
他生物の種族を支配している法則、それぞれの生物種が独自の次元で生き残りを賭けた法則に生きるという中で、人類も一つの生物種として生きている。
それぞれの生物種は独自の生き残り戦略を持った存在であるが、例えば、チンパンジーと人類を同列視し、チンパンジー種の法則を人類種へ適用する理論と行為は、事実としても論理としても完全な誤りを示している。
チンパンジーと人類は事実として生殖不可能であって、違う種族である。同時に、チンパンジーと人類を同列視するという還元主義、次元性、階層性という論理においても誤りを犯している。
こうして、誤った思想とは、非科学であるといえ、誤った道徳もまた、非科学なのだと言える。しかし、道徳という場合、外面的な行為を指す場合ではなく、内面的な思想の自由を指す場合があるのであるから、思想・信仰の自由を認める限り、内面道徳としては、社会ダーウィニズムも容認する必要がある。
しかし、社会ダーウィニズムが外面化した場合において、もはや、そのような行為を容認することはできない。そのような行為も容認するというのであれば、そのことこそ非科学、無道徳だと言えるのである。
道徳の二面性とは、内心としての道徳と外形的に行為として存在する道徳という意味なのであって、道徳とはよくわからない科学とは無関係なのものということでは決してない。
道徳と科学を区別しなければならないということの意味は、内心・内面にとどまる限りは、非科学的、無道徳的、モラル・ハザード的に、何度でも殺人を犯してもいいという意味なのであって、外形上の行為としては、科学が規律するのである。
そこで外形上の行為を規律する科学とは何か?と問いを立て直すことが道徳の科学性となる。
まず「科学」と「非科学」を分けるという二分法で,既に前提が間違っています.数学や物理学も含めて,ある程度専門的に突き詰めていくと,この二つの間にはボーダーラインがあり,そのボーダーラインを決めているのが「論理性」だということが分かるのです.
逆に言うと,アメリカの福音教会がカトリックよりも原理主義的になったという側面も,「信仰」に論理性を認めるか否か,つまりカルトを「信仰として受け入れる」かどうかという問題に帰結します.これは一神教かどうかという問題とは関係なく,総ての信仰や「科学」で起こる事象であり,人々が「論理性」を失った時,原理主義が台頭するのです.
初期のカトリックで新約聖書が編纂された時,まず重要視されたのが旧約聖書との論理的整合性でした.イエスの発言つまり福音書を細かく精査し,どこが旧約の引用なのか,どこがイエスの独自の発言なのかを,聖職者たちがしらみつぶしに調べたのです.その時に使われたのがギリシア哲学であり,論理学だったのです.論理性を持たない宗教はカルトになるということを当時の聖職者は既に知っていたのです.
これ以上突っ込むと,ブログ主さんに長すぎると怒られるのでやめておきますけど.(^_^;)
『水からの伝言』のようなニセ科学?は明確に間違っているので『間違いで有る』と断定出来るが、『悪で有る』とまでは断定出来ない。
それでは優生学は如何であろうか。?
人種を『人の種』であると誤解して、かってのナチスや60年代のアメリカでは異人種間の性交を禁止する法律や強制断種、人種隔離政策が流行っていたが、これ等は明確に非科学的です。
何故なら人種は『人の種』ではなかったからです。
3万年前には(科学的)異人種であるネアンデルタール人も共存していましたが、いま現存する人類は我々ホモ・サピエンスただ一種しか地球上に残っていません。
それでは『優生学』の人類の品種改良は出来るのか。?ですが、この答えは『人類も哺乳類の一種』なので(学問的には)間違いなく成功します。
優生学は『ニセ科学』ではなく、科学的には正しい(正しい科学?)ですよ。
ただ道徳的に判断して、正しくない。
この『科学的正誤』を『科学的善悪』に誤解(変換)しているような例は、
菊池誠と其の信者達の『ニセ科学批判』グループの間違いと同じものです。
世界最初の核爆弾を開発したマンハッタン計画に参賀した科学者たちは、決してニセ科学に関係していたのではなく『正しい科学?』の第一人者揃いですよ。
原子爆弾は『正しい科学?の理論と技術』なくして決して生まれるものではない。
原子爆弾は科学的には正しいが、道徳的には完全に間違っている。
ニセ科学は、信じる関係者だけに災難や迷惑が降りかかりますが、正しい科学では(科学は普遍性があるので)信じる信じないにかかわらず全ての人々に災難が降りかかる仕組みになっています。
今の西欧近代科学は200年ぐらいの歴史しかなく、それ以前には宗教や哲学や錬金術や占星術なんかと共存していた。
科学が、古くギリシャ文化の紀元前まで遡れるとする考え方は、金持ちになった韓国人が先祖の系譜を数十代前まで遡れるとするのと良く似ている。
錬金術や占星術や占い師から科学が派生してくる。今の韓国人の半分以上が『先祖はヤンパン(両班)である』とする家系図を持っているとの話も有りますが、これでは貴族ばっかりだった事になる。
今では出世して『科学の権威』は何ものにも脅かされない最高権威なのですが、昔からそうではなく其の出自は卑しい。
日本なら、江戸時代の桜吹雪の遠山の金さんがもてはやされ『昔ヤンキーをしていた先生』とか『暴走族上がりの弁護士』なんかは逆に信用される。
外国では、『昔の恥』は『今でも恥』らしく何とか隠そうと必死に努力している。
全ての事柄に言えることですがボーダーラインがあり完全に二分出来ない。
「科学」と「非科学」を分ける時にも当然曖昧な部分は生まれる。
『生』と『死』にも曖昧なボーダーラインは有って当然で、人の命の重さを考えると、今回の一律に『脳死は人の死』は余りにも乱暴な考え方です。
科学は普遍的全ての物事の『正誤』の判定が出来るが、『善悪』の判定までは出来ないし、たとえ出来たとしてもすべきではない。
何故なら科学の判定は『普遍的』で有るから(内心の自由に係わらず)全ての人に影響する。
科学で善悪は判断できない。
善悪を判断するのは個々の世界観(哲学)や宗教観です。
既に述べましたが、どんな人種でも、どんな民族でも、どんな能力格差が生まれながらにあっても、同じ人類であって、生物科学上、同一種だからです。
民主主義=善悪決定権を諸個人に絶対的に保障しなければならない客観的、科学的な根拠は、天賦人権説などのような宗教的、非科学的な論拠、主観的な社会合意などではなく、客観的で科学的な生物科学を根拠とします。
ゆえに、100人中99人が宗教的な世界観、社会の多数合意が、どれだけ民主主義、つまり、善悪決定権は諸個人の平等に存在しているということを否定しても、科学的、客観的、普遍的には社会科学として民主主義を絶対に擁護し、民主主義の社会科学上の根拠、つまり、生物科学上の人類は同一種であるという客観性、科学性を対置する必要があります。
このことを押さえていない非科学的な善悪論、道徳論は、独裁制、全体主義といったような社会科学否定の主観的観念論、宗教論へ帰結します。
こうして、道徳論、価値判断の基準は、社会の多数意識、社会の合意などではなく、人類普遍の科学的な原理を基準にするということが道徳の科学性、価値判断基準の科学性、法律解釈論の科学性となります。
道徳の内面性については絶対的に保障、擁護しなければんらないということの根拠も述べました。
しかし、社会科学は道徳の外面化としての行為を規律し、客観的に判定、審判する基準です。
人殺しは社会科学としては絶対に認めてはいけない人類の道徳行為基準です。道徳には科学的な普遍性があります。しかし、内心・内面道徳としては何度でも人殺しをしてもよい。内面道徳は絶対的に保障することが人類平等の科学です。
追記:人類を品種改良して、例えば、遺伝子治療で生まれながらの障害を治していくということであれば、社会科学ですよ。しかし、導入するにあたっては、民主主義国なのだから、遺伝子治療という社会科学、自然科学についての合意を形成し、社会科学・自然科学としての遺伝子治療を法制化していく手続きが絶対に必要です。
これが社会科学を基礎とし、道徳の科学性を基礎とする民主主義論です。社会科学が先にあって、民主主義(善悪決定権の平等)があるのであって、無基準、非科学的な民主主義論は独裁制、全体主義へ転化します。
今回の脳死・臓器移植の問題でいえば、社会合意が存在していたとしても、「脳死を人の死」だと断定する行為は、非科学的であって、科学的な道徳論としても完全に非科学的で無道徳であるし、まったく生命倫理としては誤った社会合意、主観的な善悪論です。
裁判所が脳死・臓器移植法の適用について、憲法違反である、という価値判断を倫理的、道徳的に自発性を持って客観的、社会科学的に判決する違憲法令審査権を発動したとして当然の問題だと思います。
人類の殺し合い、戦争の本能など存在しないと断定することが科学ですよ。ゆえに、人類の殺し合い、戦争行為などというものは、どんな時代でも非科学的であって、戦争、殺し合いに普遍性など客観的には存在しません。
人類史の時代において、特殊的に存在するというのが戦争、殺し合いです。
ですから、人類社会から戦争、殺し合いを消滅させる普段の努力は完全に客観的、普遍的な科学に基づいているのであって、諸個人の主観的な願望でもなんでもありません。
原子爆弾、戦争行為が存在する必然性、したがって人類史における特殊性はどこにあるか?これを発見したのが社会科学であり、人類の普遍的な科学的法則は原子爆弾、戦争行為を最悪のものであると判断していますし、そのような道徳的、倫理的な判断には客観的な基準、根拠があります。
殺し合い、戦争行為が善か悪か、わからない。道徳的か倫理的かは、わからない。したがって、時代の多数意識あるいは、独裁者が決定するしかない、というような意見は、結局は、道徳の基準というものは時代の多数意見や独裁者が決定した内容ということになってしまいます。
このような道徳論、倫理論は無道徳の典型であって、道徳の科学性、倫理の科学性を認めない価値相対主義へ帰結してしまいます。
このような道徳論、倫理論を基礎とする学校教育などを受ければ、子供たちはどうなるでしょうか?
結局は、自らの道徳的判断、倫理的判断について、基準が存在しないということになり、「上に従う人間」あるいは、社会の多数意識に従い、空気を読んで「民主主義」という名の全体主義に従う人間に対して、能動的、積極的に社会科学上の倫理・道徳行為を対置して、社会科学を手段に人類社会を変革していく主権者にはならないのではないでしょうか?
したがって、戦争・原子爆弾を無くしていくような主権者の平和運動だけが唯一の社会科学であって、憲法9条を完全に実現していくことが主権者としての道徳基準、倫理基準であるという道徳教育について、あやふやな態度になるではないでしょうか?
人類は生物科学上は戦争、殺し合いをする必然性を持つ存在であるだとか、生物科学上は戦争、殺し合いをする必然性を持っていないとまでは断定できない、とするような理論は非科学的ではないでしょうか?
人類は生物科学上、殺し合いをする存在とまでは言えず、殺し合いをしない存在とまでも言えない。要するに、殺し合いをするかしないか、戦争をするかしないか、という判断の科学的な基準は存在するか、しないかは、わからない。
ゆえに、イラク戦争も原子爆弾も諸個人によって、科学的だとも非科学的だとも言えるのであって、イラク戦争が科学的か非科学的かを判断する客観基準は存在しないし、原子爆弾を製造する行為が善か悪か、道徳的かそうではなか、倫理的かそうではないか?
このような判断をする基準として科学的な基準は存在するとまでは言えず、存在しないとまでもいえない。
したがって、戦争行為、原子爆弾製造が反倫理なのか?反道徳的なのか?それは諸個人の判断そのものが道徳であり、倫理である、ということでしょうか?
これは道徳・倫理の自発性を尊重する限りで完全に正しいのですが、戦争や殺し合いについて、「君たちの判断に任せる」というのは、あまりにも無責任、非科学的ではないでしょうか?
もう少し話を纏めて短く書かれる事を勧めます。
科学にはそれ以外の物には無いすごい力が有りますが万能ではない。
科学にも出来ない事も有ります。
今回の脳死判定のように生か死か、人か人以外かの様な簡単に判断出来るかに思えることでもボーダーラインは曖昧でグレーゾーンが有り一律の機械的な科学的判定が出来るとの考え方は危険で有るばかりでなく非人道的でおぞましい。
科学とは、一見すると関係ない色々のものを蒐集して其処に共通性、法則性を発見して行く学問ですが、一回限りの現象は科学の受け持つ範囲を超えています。
科学の正しさは再現性に有ります。
正しい学説は、誰が行っても同じ正しい結果が現れるので、社会全体から『科学は正しい』と見られる様になったわけです。
しかし『正しい』と人々に認定されている自然科学でも250年程度の知識の蓄積しか有りません。
社会科学はもっと短く150年程度の短さしかないし蓄積も其の分少ない
ですから限界が自ずから有るのは仕方が無い。
マルクスは恐慌が資本主義のシステムから必然的に起こる仕組みを解明したり、ダーウィンの進化論のように国家などの社会が固定されたものではなく進化、発展する事を発見する。
これ等の社会科学的知見は、これ等が繰り返されているから今までの『科学的な探求方法』で解明が可能だったのです。
科学は物凄い力が有りますが、何でも判定出来る程には万能ではありません。
科学で物事の正誤は判定できますが、善悪までは判定出来ません。
民主主義に『社会的善悪の決定権』があることは事実ですが、
其れと科学論とは同一には論じられません。
科学では例え一人の説であったとしても、(其の他の全員が反対したとしても)正しいものは正しい。
しかし民主主義の多数決原理では『科学的正誤』は判定でき無い。
つい最近も日本の考古学会は、旧石器捏造事件が発覚するまで、女子大非常勤講師だった竹岡俊樹くらいの、ごく少数だけが捏造で有ると批判していましたが、其の他の全員は捏造されたニセ科学信じていた。
考古学会に限らず全ての事に当てはまりますが、新しい学説は、
正しい正しくないに関係なく最初はごく少数派の異端です。
民主主義では極少数の異端の扱いは、
多数決原理で多数派が正しいとされているので、少数派は(存在自体は認めるが)『異端の主張は間違い。(認められない)』と判断される。
科学の世界では民主主義の諸原則は意味が無いばかりか滑稽でさえあります。
民主主義が関係するのは科学者個人個人の関係とか科学者の団体とかの人間関係の話で、本来科学と民主主義は無関係です。
科学者個人個人とか科学者の集団の関係では民主主義は大きな力を持っているが、
民主主義自体は、科学の判定能力とは本来関係ない。
今の民主主義社会や民主主義という考え方は社会科学の産物では有るでしょうが、民主主義=社会科学ではないと思います。
そして、ブログ主さんのいう道徳とは一神教、多神教などの宗教観念を言うのであって、日本でいえば、戦前の道徳教育にいう道徳でしょうか?
そうであれば、道徳、善悪とは、そもそも宗教観念ですから、科学とは無縁だし、善悪、道徳を科学を基準に判定するなど不可能であって、滑稽ですね。
ただ、現代において道徳という場合、宗教観念を指す場合もありますが、道徳的な行為という場合、人間として正しい道、人道、倫理、したがって、社会科学上の法則性を持ってホモサピエンスでいる以上、普遍的に再現される存在だという意味もあります。
特に、道徳教育という場合、支配者は宗教的な道徳教育を持ち込んできますが、民主陣営の方では社会科学的な道徳教育、道徳論を対置していく必要があるのでは?という問題提起でした。
宗教的な道徳論を批判することは正しいし、宗教的な道徳論を宗教だと指摘することは科学的なのですが、それだけでは、主権者・国民にとっての科学的な道徳・倫理的判断力が育たないのではないでしょうか?
新しい社会を形成し、社会科学上の真理・真実を社会に実現していく主権者としての力量を育てようとするなら、正しい道徳・倫理とは何か?社会科学上の人道、倫理、道徳とは何か?という善悪判断能力について明確化しておく必要がないでしょうか?
社会を科学的に変革していくことに無気力、無意欲であるというのは、道徳教育の内容について、民主陣営の社会科学上の道徳・倫理教育が抑圧されてきたことが原因だから、対策としては、社会科学上の道徳・倫理教育を対置していく人類の民主主義運動、平和運動が必要だと思います。
その場合に、原子爆弾・戦争、殺し合いの問題が、まず初めに道徳上、倫理上の問題として存在します。
非科学的、宗教的な道徳教育か?それとも、社会科学に立脚する道徳教育か?
善悪論、善悪判断能力といっても、以上の2種類あると思います。
それに対して物事の『善悪』は其々の立ち居地によって違ってくる。
基本的に物事の善悪を決定するのは道徳です。
そして道徳は其々の世界観や哲学、宗教によって善悪を判断する。
個人個人の内心によって道徳は決定されますから、其々個人個人の正しい世界観なり哲学の重要性は言うまでも有りません。
矢張り客観的な科学判定が道徳(善悪)でも可能であるとの考え方は、科学が持つ特徴である普遍性の故に無理が有るでしょう。
其れは科学の限界を超えている。
今度の脳死判定法案ですが、移植を受ける側の患者や移植関係者の方は間違いなく科学的に正しく『善』であると思っているはずです。
この場合利害が対立するので結論(善悪)も正反対とならざるを得ない。
何故なら『悪』で有るとするなら『人(脳死患者)を殺して自分が助かる』話で、この様な状態に普通の人は耐えられない。
脳が死んでいる自己同一性が無い患者を一律に死者と考える事によって辛うじて成り立っているのが現在の心臓移植の置かれている現状です。
脳死移植は一部の人にとっては間違いなく『善』ですよ。
この『善悪』は科学で判定できると考えるのは、科学の普遍性の考えに抵触する。
立場によって、哲学や宗教、世界観によって『善悪』は変化します。
誰に対しても平等に普遍性のある科学と、このところが大きく違ってきてしまう。
世界共通の善悪を考えるのは危険です。
悪魔の碾き臼である新自由主義でも、ほんの僅かな人は利益を得るので、この人達ににとっては『善』ですが我々其の他大勢にとっては『悪』以外の何ものでもない。
道徳は個人個人が責任を持って正しくあるべきで、公教育の行う『誰にでも当てはまる普遍性を持っている科学』とは別物です。
道徳教育は、家庭とか地域の共同体が行うべきもので科学を教える公教育の介入は効果が無いばかりでなく弊害ばかりが大きいでしょう。
物事の科学的判定(正誤)は大胆であっても良いが、善悪の判定は慎重であるべきです。
科学が介入しても良い範囲と、してはいけない範囲を分けて考えるべきです。
人の尊厳の為にも、人の内心(道徳)とか『人の生き死に』に関しては慎重な上にも慎重に扱うべきでしょう。
広島の原爆資料館や長崎の浦上天主堂の見学。被爆者の体験談を聞く。在日朝鮮人の差別や部落差別のプリントを読んで先生の話を聞く。沖縄戦を描いた映画「対馬丸」を観る。
どの場合も感想文、作文の提出はあっても国語や社会、理科のように成績をつけたり点数をつけたりするようなことはありませんでした。序列化しなかったということです。
公教育における道徳教育の内容ですが、やはり、社会科学を基礎とする人権教育を学校では積極的に行う必要があるように思います。もちろん、教育は強制ではなく、強制は政治レベルの問題となります。
したがって、公教育においても強制でない限り、積極的に社会科学に基づく道徳教育、人権教育をしなければ支配者側の道徳教育に流されてしまって主権者・国民を育てることにはならないと思います。
人権の始まりは、人命なのであって、人命の存在しないところに精神も内心もありません。だから、みんな同じ人類として自分の生命も他人の生命も同じだけ大切にするという道徳が社会科学の基礎なんだ、と公教育し、その上で、人命に関係する問題を子供たちに考えさせる。
その場合に今回の脳死・臓器移植の問題でもいいと思います。いろいろな考え方や感じ方がある。しかし、人類としてみんな同じ生命を持っている。自分の生命も他人の生命も同じなんだ、という社会科学の基本だけを子供たちに伝えて、自由に議論、討論、作文させる。
そして、自分の生命と他人の生命に軽重を設けるような意見や、作文などがあれば、指導する。
「それは自分の生命と他人の生命に軽重を設けていないか?」と疑問を投げかける。強制はしない。社会科学の道徳へ導く。
強制することなしに、社会科学に基づく道徳的な善悪判断能力を育てていく。これが公教育ではないでしょうか?
粘り強い対話、議論を手段として自分の生命と他人の生命は同じであって、軽重はなく、みんな自然の寿命の限り、健康に生き抜いていくことを努力し、助け合うことが社会の科学なのだ、と教えることが道徳ではないでしょうか?
点数をつけなくていいし、合否の判断もしなくてもいい。しかし、人類が殺し合い、死なしあい、自殺し、戦争するような行為は非科学的で非合理的なんだ。だから、人類みんなで共に生きていく努力をすることが合理的で理性的なのであって社会科学の基礎だと教えることは科学の限界を超えているでしょうか?
これは憲法教育、人権教育、道徳教育として公教育で実現しなければならないのではないでしょうか?
今は以前の東西南北さんが受けた様な道徳教育とは変化しているようですよ。
>・・国語や社会、理科のように成績をつけたり点数をつけたりするようなことはありませんでした。序列化しなかったということです。
今の基本は全ての事柄に対する数値化と序列化ですが、
これが『科学』を名目に行われている。
何故なら『科学』なら誰に対してもでも普遍的で平等でしかも正誤は明確です。
数値化も優劣の序列化も『道徳が科学』なら理論的には可能なのです。
全ては数値化され、文部科学省や教育委員会なんかが一目で其々の優劣が判断できるのと幻想が存在するのです。
全国一律の学力テストなんかもこの発想の延長ですが、勿論道徳教育とても例外ではない。
何とも不愉快で腹立たしい話ですが、官僚が考え付きそうな事ですよ。
教育権は何に由来しているか。?
公教育の主体は公か?其れとも一人一人の個人か。?
今公教育の名の下に全国一律の道徳教育が行われ、個々の個人個人の内心の自由が脅かされている。
確かに文部科学省の発想の様に、道徳教育も社会科学なら数値化も序列化も、科学の持つ客観性と普遍性の性格の故に可能なのですよ。
ですから『道徳』と社会科学にはある程度の関連性はあったとしても、『道徳』は社会科学とは別物です。
何故なら道徳とは個人に由来するもので、科学の様に全ての個人(社会全部)に普遍的な一律な正義の存在は、原理的に無理が有る。
一律化も無理なら、本来数値化も序列化も無理なのです。
『道徳』と『社会科学』とを混同しているのではないかとの疑念が浮かびました。
『道徳』と社会科学には、ある程度の関連性はありますが、両者はまったくの別もものです
例えるなら、『道徳』を社会科学という物差しで優劣や正誤を判定する事は出来ますが、だからと言って個人が着ている服(其々の道徳)とそれを測る物差し(社会科学)とは社会的役割や性質が根本的に違っている。
道徳と科学の関係については、
道徳としての『水からの伝言』
(ニセ科学とニセ・ニセ科学批判 / 2008年11月19日
http://blog.goo.ne.jp/syokunin-2008/e/68ed80374d1b4d9439df53a60018d56a
道徳と科学全般との関連を論じたもので、興味が有れば御覧下さい。
1)論理性の欠如,論理的一貫性のなさ.都合が悪くなるとすぐに別の話題を持ち出して逃げる.
2)「どんな人種でも、どんな民族でも、どんな能力格差が生まれながらにあっても、同じ人類であって、生物科学上、同一種だからです。」というのは「神話」ですよ.種が同じであっても,生物学上では「亜種」というものが存在します.「人種」というものがその典型例でしょう.
2)で言うと,例えば黒人に運動能力に長けた人が多いのはなぜか,という問題の立て方ができます.要するに国家などの援助で十分な教育環境と栄養補給さえあれば,サッカーのワールドカップに見られるように極貧の途上国でもお金が有り余っている先進国のチームと互角に対戦できるということです.
また,人種間ではどうしても「亜種」ということも手伝って,特定の疾患に罹りやすいというデメリットも生じます.典型的な例が,江戸時代に人口爆発を起こしたせいで明治時代に島民のかなりがハワイへ移住した山口県の周防大島の出身の日系人の例です.彼らの糖尿病罹患率は世界一です.理由は簡単で,白人と同じ食生活をし,毎日3000〜5000kcalもの摂取カロリーを保っているからです.もちろんハワイの原住民も同様に黄色人種ですから,白人のバカ食いに影響され,体格が異様に大きくなり糖尿病に罹患した人が多い.日系人とハワイ人が同じ黄色人種ということでお互いに交流が進み,その結果「高見山」が来日して初のアメリカ人力士になったことは有名ですね.しかし,彼も横綱を引退して親方になってからは,肥満体がひどくなってしまった.黄色人種の悲しさです.
もうちょっと,生物学を学ばれてからコメントされて下さい.教養部で習ったような「自然科学」「人文科学」「社会科学」の枠組みでいつまでも議論していると,時代遅れと笑われてしまいますよ.マルクス・レーニン主義もまた進化し続けているのです.カール・ポランニーの「経済人類学」がその典型例じゃないですか!(ちくま学芸文庫)
それにしても東西南北さんといい、kaetzchenさんといい、ブログ記事と関係が薄い話をコメント欄に長々と書き込むので、最期まで読んた根気のある読者は多分『果して、最初の記事の趣旨は何であったとだろうか。?』と思いますよ。
余程、記憶力がないと最初の話しを忘れ果てて、??になるでしょう。
今度の話は脳死移植で、私としては、直接には『脳死移植の持つ問題点』とか、『脳死移植(科学)と道徳の関連』とか『科学と道徳の受け持ち範囲』、
『欧米の脳死移植を支える宗教観(霊肉二元論)』其処から派生した『優生学』と『社会ダーウィニズム』なんかへと話が進んで欲しかった。
東西南北さんの話も、民主主義の原則論の話なら十分に記事と関連がある。
何故なら幾等技術が発達しても圧倒的な脳死の臓器不足の結果、誰もが受けれ医療ではない致命的な欠陥がある。
これは、そもそも民主主義の平等の原則に脳死移植は抵触する可能性がある。
ただ、『社会科学』が『個々の道徳的な判断』や『道徳の持つ善悪を判断する基準』を『科学的な正誤』を判断する能力がある事実から、『科学が善悪を判断する』ると短縮してしまう誤解をしていた様です。
科学は『科学が受け持つ範囲』においては何ものにも負けない万能で最強で無敵です。
ただ科学が持つ最強の武器『客観性』と『普遍性』の故に、客観的でも普遍的でもないものに対しては本来の力を発揮出来ないし、またすべきでない。
人間の生命現象一般なら科学が受け持つ範囲ですが、個人の命の重みは科学でははかれない。
自分の命は唯一かけがえの無いもので、本人にとって客観的でも普遍的でもない。
『命は地球より重い』という言葉があるが誰にとっても、これは真理ですよ。
自分自身にとっての『自分の命』は、地球全体より意味がある。
他人が「脳死は人の死ではない」とか「移植医療はおぞましい」とか言うのは余計なお世話であり、個人の判断をとやかく言いわれたくありません。
治療拒否の自由は個人の尊厳の判断ですが、医師が臓器を摘出して脳死者を確実に死に至らしめる行為は、尊厳死でもないし、自己決定権でもありません。
純粋に統計的に言っても、脳死の状態から蘇生する確率は限りなくゼロに等しいのに対し、移植医療で命が救われる可能性のある方は、日本で年間数千人います。 どちらが命を大切にすることになるかは、明白です。
なお、脳死判定や臓器摘出の手続きの問題は、また別の話です。 あと、移植医療は、将来的には人工臓器や再生医療に置き換えられるべきものです。
1「脳死の状態から蘇生する確率は限りなくゼロに等しい」
そうなんですよ。個体死であると断定するのは、意見に過ぎないのです。だから、意見の問題ではなく、事実の問題なんです。限り無く個体死に近いが個体死とまでは言えない。ならば、従前の3兆候基準でいいのではないですか?
2 「脳死判定や臓器摘出の手続きの問題は、また別の話です。あと、移植医療は、将来的には人工臓器や再生医療に置き換えられるべきものです。」
この点は同意です。ただ、個体としての生命の始まりである受精卵を分裂させて臓器を培養するような再生医療については、脳死・臓器移植に反対する理由と同じです。要は、自己決定権、尊厳死という個人の尊厳の問題、次元ではなく、この問題は人命の問題なのですよ。
何か議論に基本的な誤解が有るようですね。
私は、今回衆議院で可決された脳死臓器の移植推進法案に対して『下品でおぞましい』と主張しているのであって、
『移植医療』全般に対して『下品でおぞましい』と反対しているわけではなりません。
東西南北さんも何ら移植医療反対を主張しているとは思えません。
ですから『移植医療』に対する考え方には、
輸血を拒否する特殊なカルト信者を除けば、日本の全ての一般市民は、若干のニュアンスの違い程度はあるかもしれませんが『根本的な考え方の違い』は最初から存在しないのです。
違いが存在するのは『脳死は人の死』であるのか。?
『脳死者は既に死んでいるのか』の一点だけです。
そして今までは『人の死』とは『脳死』ではなく『心臓死』(死の三兆候)だった。
それが今回唐突に小泉郵政選挙の自民党300議席の力で衆議院で『脳死は人の死』と法律で決められた。
目的は脳死患者からの臓器移植の推進です。
この辺の事情は法案提案者の一人である自民党の中山太郎はその辺の事情を明け透けに語っているが正に『下品でおぞましい』限りですよ。
建設的な討論を行う心構えは、討論相手との共通点の有る無しで有ると考えています。
様は、討論相手との共有部分を確認する事ですね。共通点から出発して、相違点の克服に努力したり、相違点が何に由来しているかを確認する。
まったく考え方の異なる相手(敵同士)でも、土俵が同じなら対話は成立する。
ましてや対話を求めている相手なら、有益な会話が成立しないわけが有りません。
もえおじさんも、私も其の他の皆さんも、現在の脳死臓器移植が医学の発展段階の産物で、完成された技術体系だとは思っていない。
今の最新医療(先端科学)かもしれないが、同時に過渡期の緊急避難的な未熟な技術でも有る。
ですから議論の全ては、『脳死は人の死か』に収斂するのです。
そしてそれは臓器移植法成立までは何となく『心臓死』として人々は認知していた。単なる看做しですね。
実は12年目前の臓器移植法成立以前には明確な基準は無かったようです。
だから現行の法律では『心臓死』が人の死で、臓器移植時だけ便宜的に『脳死も人の死』としたのです。
其れ以前は『人の死』の明確な基準は無くて、その時立ち会った医者が宣告し家族も納得するから『人の死』と皆が認めていた。
死と宣告されても「もがり」という服喪期間を設けて『死』を納得する時間をかけていた。
今でも火葬には死後24時間以上の時間的間隔が必要で、一晩遺体と共に寝起きする通夜の風習は当たり前の事で、人の命には十分すぎるほどの時間をかけていたのです。
基本的に人は『人の死』を先送りしてきた。
脳死移植の目的(欲望)が無ければ、長年苦しんできた年寄りの病死ならともかく、若年の人の死では事故か病気かにかかわらず関係者は狼狽し、信じられない。死を信じたくない。
ですから、なるべくなら『若者の死』を先送りしたいと思います。
完全に諦める為にはある程度の時間が必要なのですが、それが近親者の当然の人情でしょう。
今回の『脳死は人の死』は『死の先送り』ではなく『死の前倒し』です。
目的は『生きている臓器の確保』で今の医療技術では死んだ臓器では限界がある。
だからなるべく新鮮な『生きた臓器』が必要となる。
移植を行える程度には医学が進歩したが、技術的にまだまだ未熟なのです。
脳死も、命を助けるほどには救急救命医療は進歩したが、治療できる程の技術は無い。だから脳死者が生まれてしまった。
子供の脳死はまだまだ未解明な部分が有り、即断は禁物で判定には時間が必要だが、移植(目的)の為には早い判断が求められる。
其の反対の年寄りの重病人の末期患者なら脳死判定は簡単でも別段問題も起きないが、その様な患者の臓器は移植関係者は見向きもしない。
今のA法案は過渡期の未熟な緊急避難的な医療を法律で固定する悪法であると言わざるを得ない。
『脳死は人の死』であるのかどうかに関しては、現状の医療技術では(脳死の人を)蘇生できないという意味に過ぎないと考えます。 ですから、将来変化する可能性が絶対ないとは言えない。 むしろ、移植医療を可能にするために、政治的に脳死を人の死と定めざるをえなかったと解釈されます。 私は、その意図自体は間違っていなかったと思います。
繰り返しになりますが、脳死を人の死と判断するかどうか、移植医療を受け入れるかどうかは、個人の判断にゆだねられるべきものです。 ですから、本人の意思を健康保険証や免許証などに確実に記録する仕組みが必要です。
ちなみに、将来もし人工心臓が手軽に使用できるようになれば、かなりの「心臓死」を食い止めることが可能になります。 その際には、死の常識も変化します。
脳死賛成者でも『脳死者は死につつある』との認識ですが、『死につつある』が正しいとするなら、其の時点で脳死者は間違いなく生きていますよ。
そして今生きている全ての者は例外なく死ぬので、多少の時間的な差があるだけで全ての人は『死につつある』状態であるとも解釈できます。
この問題をクリアしないと全ての議論は無意味ですよ。
もえおじさん。
>『私が言った「移植医療はおぞましい」というのは、あくまでそのような反対意見もあるという意味です。』
は、無理があるでしょう。
何故なら、世間一般にも、当ブログ記事やコメント欄でも、その様な反対意見は見当たりません。
もえおじさんの今回のような、唐突な意見の表明は誤解の元です。
(一番最初の当該のコメントを削除するか、訂正する方が良いと思いますが、)
>『脳死は人の死』であるのかどうかに関しては、現状の医療技術では(脳死の人を)蘇生できないという意味に過ぎないと考えます。<
このことではA法案に賛成反対にかかわらず、殆んどの一般市民は同じ意見です。
そして今回『脳死は人の死』と政治的な意図を持って決定された。
>『繰り返しになりますが』以降のもえおじさんの発言は論旨が一貫せず意味不明です。
何故なら、
脳死や臓器移植に対する見解では一般市民の見解に大きな違いは無いのです。
意見が分かれるのは、『脳死移植』なのです。
議論の全ては、『脳死は人の死か』に収斂するのです。
そして今、日本人の間には其のようなコンセンサスは有りません。
しかし脳死移植を合法化するためには絶対に『脳死は人の死』である事を法的に決定する必要が有った。
そうしないと、臓器移植は『殺人罪』になるのですよ。
人の死とは何かを定義しておかないと脳死移植は成立しない。
今本人全般に合意が無いにも拘らず、
>『個人の判断にゆだねられるべきものです』
は、議論を無視しているか、脳死移植と其の他の移植を意識的に混同しているかのどちらかです。
話の前提が成り立たないのですよ。
今度の法案がそのまま参議院で成立して今の十倍の生きた臓器が手に入ってとしても、たかだか年間数十例の少なさですよ。
焼け石に水程度で、圧倒的に少なく、全く必要としている臓器の数には足りません。
この事からも、日本人の間に『脳死は人の死』と未だ合意には達していない証拠です。
因みに『脳死は人の死』が定着しているアメリカでも年間3〜4千例で矢張り必要量には絶対数が足りない。
しかもトンデモナイ高い費用が長い間必要に成る。
一番厳しい条件のC案の提出者で医師でもある社民党議員は医療費削減で救急医療や小児医療が崩壊状態の今稚拙に臓器移植を進めるとの方針に激怒しています。
一人を臓器移植で救う金で何十倍何百倍の命が救えるかもしれないのです。
脳死移植は完成された技術ではなく未熟な過渡期の致命的欠陥がある。
その意味では原子力発電問題と似ています。
もし、移植医療が基礎医療を財政的に圧迫するのであれば、制度を変える必要があります。 移植医療というのは特権的な高度医療なので、費用を税金で賄うことには反対です。 これは、また別の問題です。
「脳死者から臓器の呈供を受けて移植してもらった人は、かなり長く、巧く行けば健康な人と同等に長生きできる、と思い込んでいる者が多いが、実は、被移植者の平均余命は健康人に比べてかなり短いことを、全米臓器移植機構2003年8月公表の統計が示している。
移植された臓器の種類により大きな差があるが、10年生きえた人の割合は、心臓45.6%、肝臓45.5%、膵臓20.5%、肺18.6%、小腸0%である。
さらに問題なのは、被移植者(レシピエント)が生きていられるのはすべて移植のおかげと信じられているが、実は心臓移植を受けずに生き長らえる期間の平均と、受けて生き長らえる期間の平均とを比べることのできる統計調査が、1991 年にアメリカで行われて、その結果意外な事実が判明した。
すなわち、「(移植)待機患者のうちで、心臓移植の必要を宣告されてから移植を受けられないまま 1年後も生存している者の割合は67%」であるのに「対して、心臓移植を受けたレシピエントのうち1年後も生存している者の割合」「は88%であった。」 つまりこの場合の心臓移植の延命効果は21%である。
次に、平均待機期間の6ヶ月間待機した患者がその時点でも心臓移植を受けられない場合の1年生存率は83%であり(生存率が上昇しているのは、移植の必要宣告後に受けた内科的治療の効果と思われる。)、延命効果は5%に低下する。
「つまり、心臓移植の必要を言われて内科治療で6ヶ月間生きた者は、6ヶ月後に移植を受けようと受けまいと、その時点からの1年生存率には大差がないのである。」
さらに9ヶ月待機してその間内科治療を受けた人の1年生存率は88%で、延命効果はゼロであり、「待機日数が9ヶ月を越えた場合は、」「待機患者とすでに心臓移植を受けた者の1年生存率は逆転し」「移植手術を受けずに内科治療に専念した方が生き長らえる蓋然性が高くなる。
心臓移植の延命効果はマイナスになるのだ。」
日本国内ではこのような統計は(あえて?)取られていないようです。
ご存じの方がいらっしゃいますか?
今回の記事の趣旨は、脳死は人の死か、『臓器強奪法案?』と最初に書いて有る様に衆議院で自民党300議席の威力で成立したA法案のいかがわしさや強欲さおぞましさを示しています。
脳死移植は当人同士が合意していれば成り立つとの考えはそもそもナンセンスです。
(当人は其の時点で意思が無い)
ドナーが過去の元気溌剌な時に行った意思表明(意見)が、現状の『死につつある状態』というような極限状態と(意見が)全く同じで有ると言う、ありえない前提に立っています。
人は置かれた立場や其の他の条件で、全く正反対の行動や考え方になる。
それが人間です。
死刑や終身刑になるにもかかわらず、誰がやってもいない犯罪を自白しますか。?
誰でも普通なら絶対に『自分はそんなことは無い』と考えている。
しかし全くの無実でも一定の条件では殆んどの人が自白してしまうのですよ。
もえおじさんの意見は客観的な条件を無視しています。
それが当てはまるのは、当人同士が納得して行う生体間移植ですよ。
しかし、これもごく親しい親族(親子とか兄弟)程度に制限しないと金目当ての臓器売買に繋がりかねません。
費用は別の問題ではなく、この問題の本質です。
日本は資本主意の国で、全ての主要な価値は資本の倫理で判断され動いています。
予算が無制限に有ればどの様な研究でも手術でも行う事が出来るが、金には限りがあるのですよ。
最近1歳の子供がアメリカで心臓移植を受けたが多臓器不全無くなる事件では、家族が病院から請求された額が3億数千万円。
もしも手術が成功していても今後十年以上にわたって生存中はずっと月額数十万円の医療費が医療関係者には落ちる仕組みになっています。
よくアメリカの軍事問題とは、日本の公共事業と同じ性格のものだと言われたいますが、全てが民営化(営利目的)されたいるアメリカでは脳死移植とは、
日本の無駄に大きい予算の食う箱物公共事業と同じ性格を持っています。
残念ながら、この記事に関しては、殆んどの日本人は知らないと思います。
原因は医療関係者にも有るでしょうが、最大の原因はマスコミのキャンペーンですよ。
昨今のマスコミでは移植問題に関しては、可哀想な病気の子供を写して『手術したら元気な体に』と一方的に宣伝する。
手術に成功したとしても、普通の元気な一般の子供達と同じ様に元気には絶対に成らないのに。
真実のほんの一部だけを切り取って、一部分だけを何回も何回も繰り返し放送し、さも真実全部で有るかの様に世論を誘導する悪質なプロパバンダの一種ですね。
全くの犯罪行為に限りなく近いペテン、詐欺行為ですよ。
ほんとに腹が立つ。
光市母子殺害事件の少年の死刑要求キャンペーンと全く同じ構図になっている。
今の日本世界全般は殺人事件も一般犯罪も世界的に少ないだけではなく、歴史的に見ても過去の日本と比べて極端に犯罪件数が少なくなっている。
にも拘らず、犯罪の凶悪化や少年犯罪の多発がヒステリックに叫ばれ、皆は日本の治安の悪化が現実のものだと信じている。
誰でも、過去と比べられる統計を見ればマスコミの治安悪化報道が一目で嘘と判るのに。
善良な一般市民はマスコミ宣伝を信じ切っていて疑う事を知らない。
そして今、日本は極端な刑罰の厳罰化の方向に動いてしまった。
ただ,専門家でないブログ主さんの書かれた「脳死移植は完成された技術ではなく未熟な過渡期の致命的欠陥がある。
その意味では原子力発電問題と似ています。」という言葉の重みは皆さんにも分かって頂きたい.
私は博士課程の学生の頃に発生生物学と分子遺伝学の中間のような基礎的な技術を開発してました.やがてその技術は臓器移植や万能細胞などあらゆる臨床医学へ応用されていきました.あの時,特許をとっておけば大金持ちになれたのになと悔やんでいます(笑)
基礎医学と呼ばれる生物学というものは,そういった無数の研究者の無償の努力によって積み重ねられたものが多いです.私はたまたま小4の後半,市立病院の院内学級で登校拒否をした経験があります.同級生には心臓が弱くて寝たきりの子や,ガンに侵された中学生もいました.彼は読書好きで両腕を骨折して本が読めない私に本を差し出して,一緒に読んでくれました.そしてある日,彼は数冊の本を私にくれて,次の朝,飛び降り死体で見つかったのです.彼のためにも自分は生きなくてはならないと思ったのが,生物学への最初の目覚めだったのかも知れません.
恐らく,私のような生きるか死ぬかという経験を子供の頃にされた方は少ないと思います.私の発言の「きつさ」はそんな経験から来ているのかも知れません.死刑も病死も病気を苦にしての自殺も,自ら選んだ死ではないことを,私は知って頂きたい.ブログ主さんの言われる通り,「マスコミに騙されるな」です.
# また議論とそれた発言ですみませんでした.