イナの独り言
国鉄201系電車をこよなく愛する作者が,現在居住する米国ペンシルベニア州の風景も織り交ぜながらご紹介します.
 



今まで京葉線で元気に通勤輸送に活躍していた,201系量産車の10連が,現在長野に向けて走っているそうです.

今回廃車回送されている10両の車番は,次のとおり


クハ201-36−モハ201-79−モハ200-79−クハ200-104+クハ201-103−モハ201-80−モハ200-80−モハ201-81−モハ200-81−クハ200−37

昭和57年8月10日に川崎重工業で落成した,量産車『第27編成』からの8両に,昭和58年11月1日に日本車輛製造で落成した「クハ103,104号車,モハ213〜215号車の編成」のクハのうち2両(茶文字で表示)が組まれた編成でした.
晩年には,京葉線で非分割の「72編成」として運用されていましたが,2008年6月ごろまでは(第27編成として)落成時の車輛たちだけで分割対応の「K1+51編成」として運用されていました.
最後の最後になってどうして編成が組み替えられたか・・・猫背さんが,最近コメントくださっていました.

量産車第27編成としては・・・



落成時の色合いからの色褪せが顕著で,後年しわ状の模様も表れてきた内装板,
(※この写真は1989年撮影・化粧板の艶はまだ美しいですが,色合いの変化は下でご紹介している路線図の周りで確認できます)
妻鴨居機器箱扉の縁が妻板縁のアルミアングルに干渉しないように削られており,
側扉レール中央部には「弾き金具」はありませんでした.

その生涯の大半を総武線系統ですごし,自分の乗車記録がそんなにある訳ではないのですが,とりあえず,以下の日に乗車しておりました.

1993年1月 5日 (モハ201-79)
1993年2月13日 (モハ201-79)

やはりモハ201形にしか乗っていない・・・

クハ201-103号車,クハ200-104号車については,乗車した記録が残っておりません.
もともとモハ厨であったことに加え,この車輛がどんな中間車を組み込んでいたかを考えれば,きわめて自然なことと思います.

さて,この記事では,10両中8両を占める第27編成を主に,その歴史を振り返ってみたいと思います.



第27編成といえば,トップ画像.
中野電車区に颯爽と現れたこの編成.
ま,鉄道ファン1982年9月号117ページの大島正氏のレポートでも総武線への201系登場は予告されており,それ自体は驚くものではありませんでしたが,それまで朱色だけだった201系電車で初のカラーバラエティという意味で,それは新鮮でしたね.
落成日が8月10日だったそうですが,営業列車に登場してきたのは8月14日とか,そんな感じの日付がお頭の中に残っています.大島氏のレポートにもあるように,整備後直ちに運用に入ったことが窺われます.
トップとこの画像の2枚は,兵庫から回着後営業運転に入るまでの間に,恨めしそうな顔をして電車の窓に張り付いていた自分が撮影したものです(爆

当時自分は受験生.
当然,夏休みといえば,総武線の沿線(代々木とか千駄ヶ谷♪・・・・解ってくださる方が沢山おいでのはず)に用事があったわけですが,その行き帰りに中野駅で始発を張ったりとか,できるだけのことはしていました.



2日目のトライでめでたく初乗車♪
今となっては,ジンカート処理の半光沢が大変懐かしいです.
やっぱ,塗装されたものとは違う.



目的地までめでたく乗車したのですねwwwww

黄色と黒のコントラストは周りでも良いと言われることが多かったと思います.201系の3色(ま,最近黄緑も出た訳ですが)の中でも,黄色が1番という声は結構聞かれてたと思います.
ただ,色の良し悪しなんて所詮個人の嗜好ですので大して意味あるわけもなく,自分は青の201系も大好きでした.発祥地のカラーであるところの朱色は言うに及ばず.



今回残留した2両,ここに写っているクハ201-37号車とクハ200-36号車とあわせた10両は,配属(転属)順に編成番号を振られた中野区の201系らしく,「カノ1番編成」を名乗っていました.


さて,この編成でもう一つ外せないのが,コレ



1989年9月3日の『三鷹電車区60周年イベント』において運転台で記念写真を撮ってもらったのが,クハ200-37号車でした.コレやった方,他においででしょうかwww

直前に制服と制帽まで貸してくださり,運転台に座ってインスタント写真.
とってもいい記念になりました.

ちょっと緊張しつつブレーキハンドルに手をかけたら「ぷし〜っ」って音がしたのには相当ビビったなぁwwwそれでもハンドルの位置的には,車両が動くことはなかったはずで,安心しています.



運転台に座らせてもらったあとは,編成の車内を歩いていくことが出来ました.
ここぞとばかり撮ったモハ201-80号車の室内.
妻の扉が開いてはいるものの,こういう室内写真を撮れるチャンスはめったにないと思い,撮ったものです.
その後オレンジシートまでもが早くに消えていくとは予想できていませんでした.
今となっては,オリジナルの車内意匠を後世に伝えてくれます.



最後に活躍する舞台となる京葉線は,この頃新木場まででした.東京開業は1990年の春でしたっけ.

一方の,クハ201-103号車ですが・・・



「ついで」として,写真には幾度も登場しています.
なぜなら,試作車,それも2丁パンタを外して電装解除されたサハ201−901号車の隣に組まれていたから.



たくさんの方がこんな写真を撮ったのではと思います.



黄色時代の連結部の写真の反対側のものになりますね,どちらの車端にも行き先表示機がついてないのが懐かしいです.



「ついで」写真といえる,クハ201-103号車を先頭にした「京葉区72番編成」



こちらも同様・・・クハ200-104号車を先頭にした,「京葉区73番編成」
どちらの編成も,試作車組み込みの編成として最後まで人気を集めていたと思います.

201系の発展を感じさせてくれた新色の編成.
201系の出発点だった試作車と仲良く走り続けてくれた2両のクハ.
落成から,26年半ほど(2両のクハは25年3ヶ月ほど)の活躍でした.

今まで,本当にたくさんお世話になりました.
有難うございました.

(さてここで,Disclaimerです)
各編成の落成日情報は,鉄道ファン1982年12月号128ページならびに1984年3月号(すみませんページ番号不詳)の,「車両のうごき」欄を参照いたしました.
もちろん,日頃参照させていただいております鉄道ピクトリアル774号62ページからの「201系・203系電車 車歴表(鉄道ピクトリアル編集部編)」にも,同様の情報があるはずです.
猫背さんは当ブログ内で情報をお教えくださいました.
前納浩一さんは,103系掲示板(2008年06月22日(日)付け書き込み,#19210
,#19211)にて,当該編成の組み換えについて教えてくださいました.
また,2009年02月05日(木) 06時19分付けの書き込み(#19902)で,当該編成が本当に長野に向かっていることを教えてくださいました.

皆さんの貴重な情報のおかげを持ってこの記事をまとめることが出来ました.
本当に有難うございました.

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コメント
 
 
 
懐かしいです。 (細井忠邦)
2009-02-05 17:52:07
イナ@ペン様 皆様今晩は。黄色で初登場した頃、大変懐かしいです。お写真に写っている101系も勿論ですが。そうそう前にも書いたと思いますが、ムコは22番から1番へと、101系から201系にとバトンタッチしていきましたが、カノの方は1番から22番でした。家に帰ったらまたメモ帳をひっくり返してみたいですが、今思い出す所では、カノの101系は後期製造車が結構いたので、例えばクハ101−67がムコへ転属し、初期製造の(電装準備工事)のクハ101を置き換えました。またさらにツヌ(これまた懐かしい!)も巻き込んで、クハ100−78やクハ101−84(こちらはカノ?)などもムコに入ってきました。初期製造のクハ100は当時屋根の張り替えと一緒にベンチレーターの増設も行われ、独特な形態になっていたものが多かったですが、消えるのも早かったです。さて、毎度のことですが、まだまだ走れるのに悔しい思いです。そうそう昨日は池上線に乗る用事があり、乗ったのは100系でしたが、7700系を何本か見ました。あれも立派な更新車ですよね。外板はやや波打っている部分もありますが、まだまだ元気で頑張っていました。更に地方へ行った車もあるようですね。そう考えると、百歩引き下がって、これから大波をくらう203系、こちらも更新されるのが当然と思うのですが、如何なものでしょうか。内装を取り替え、アルミをきれいに磨き、制御装置は勿論最新にしたら、まだまだ活躍できると思います。まあとにかく総武線一期生のご冥福をお祈りするしかありません。
 
 
 
お見送りできました (ONDA201)
2009-02-05 18:41:53
こんにちは

いつもコメントありがとうございます。
今回の回送は出社前に見送ることができました。後ほど報告する予定です。
 
 
 
残り60両 (元立川、今豊洲)
2009-02-05 21:04:43
イナ@ペンさん、
サプライズも無しに予定通り長野に(自力で)行かされたんですね、毎度のことながら残念。
今回の写真はイナ@ペンさんがヲタということがわかりやすく写真になってますね、制服姿の記念写真ですか。
 
 
 
コメント有難うございます (イナ@ペン)
2009-02-06 07:53:56
細井さん,ONDA201さん,元立川、今豊洲さん,こんにちは.

いつもながらですが,古い写真ばっかりのこの記事にコメントくださいまして有難うございます.

>101系
中野区といえば,それまで101系だけだった「いわば楽園」だったのですよね.
101系ヲタの皆さんのことはあまり考えずに,201系来た来たと喜んでいた自分でした.
本当に,あたらし物好きのミーハーヲタなんですが,どういう訳かアレには全然惹かれないんですよね.
なんでかな・・・・

>7700系,でもって203系
車体だけでも永く使うことまで否定されてきた昨今の状況はどうしたものかと思います.
7700系は,車体で考えればもうすぐ50年選手登場でしょうか.
オールステンレスなので腐食の心配もないし,7700系のパンフで「一応車体もチェックしたけど全然オケーイでした」って書いてあるわけです.
まぁ50年も使えば,ねぇ・・・というのはあるでしょうが,203系のようにたかだか25年で無塗装アルミ車体がグジョグジョになっていくというのは,ちょっと悲しいですね.

>お見送り
ブログ記事拝見しました.お疲れさまでした.
でも,つくづく車体が傷んでないのですね.
ま,こんなに綺麗な車体で解体場に送られていったというのは,こうして写真で残していただけていますが,ン10年経ったらどういう風に見られるか楽しみですね.
「日本は,こんなに豊かだったのか・・・」みたいに思われたりしてw

>ヲタ度バリバリ
すみません,こんなものですが思わずご紹介しちゃいました.
ただ,これは皆さん列を作って並んでいたイベントでして,自分以外にもたくさんの方が同じ体験をされていました.
多くはお子様でしたけどね(爆)

今から考えれば至れり尽くせりのイベントだったと思います.

ま,普通の方はパノラマアルプスやら旧形国電やらに向かっていってたわけですがwwwww

>あと60両
そうですね,四季彩やらクハ1号車というのはあるにせよ,10連単位ではあと6本なんですね.

もともと1008-224=784両の量産車が首都圏に投入されたのでして,残り60両でも65両でも,もう風前の灯ですね.
今残った京葉線の分割対応編成だって,中央線の2本だって,先が見えているのです.
それに加えて今現在無傷だった203系も・・・.
つくづく,日本は豊かな国だと思います.

クハ103・104号車だけですが,青い時代の写真が遅まきながら出てきました.あとで少し足してみたいと思います.

これからもよろしくお願いいたします.
 
 
 
車両の動き (ONDA201)
2009-02-11 13:01:01
こんにちは
参考文献ですが、
鉄道ファン1982-12,128ページ,車両のうごき
鉄道ファン1984-3,132ページ,車両のうごき
に載っておりました。
国鉄時代の雑誌は毎月出ていましたね・・・。
 
 
 
おぉ,お助け有難うございます (イナ@ペン)
2009-02-11 15:41:34
ONDA201さん,おはようございます.引き続きコメント有難うございます.

>RF誌の掲載ページ
フォローくださいまして,有難うございます.実はRF誌に関しては,201系にからむセクションだけをスキャンしたものが手許にあるのです.
ご覧になったONDAさんはお気付きかと思うのですが,RF1984-3月号の方の車両のうごきのページには,ページ番号がついていませんです.そんな訳でこのような煮え切らない表示になってしまいました.

折角いただいた情報ですので,記事自体に反映させていただこうと思っています.
ただ・・・今週末くらいまでにwww

それでは,これからもよろしくお願いいたします.
 
 
 
メモから (細井忠邦)
2009-02-11 21:48:31
イナ@ペン様 皆様今晩は。前に考古学の方で書き込んだかもしれませんが、もう一度メモ帳をひっくり返してみました。「82年8月11日総武線用201系登場。朝ムコ留置、午後カノ入り」とあります。営業に入ったのは8月14日よりとも書いてあります。もう一つ、前回投稿のうち101系の動き、クハ101−84はカノからムコへ移動、(82年12月10日付け)でした。この後9月6日のメモでは、クハ201−34他午前ムコ留置とあります。その後のドラマは201とは離れますが、有名な関西線水没101系リリーフ劇です。9月18日ムコ留置、関西線救済編成、クモハ101−38+モハ100−146(オレンジ、全面に黄色帯入り)+サハ100−219(ウグイス)+サハ100−27(カナリア)+モハ101−52+クモハ100−47(ウグイス黄色帯入り)とあります。この編成は9月19日に西下しました。
 
 
 
当時のお話 (イナ@ペン)
2009-02-13 07:43:03
細井さん,こんにちは.引き続きコメント有難うございます.

上のほうにも記したとおり,ミーハーヲタだった(今でもそうです)自分としては,カノに201系が入ったことしかお頭になかったのです.そりゃ入るものがあれば出るものがあるでしょう・・・ご教示有難うございます.
クハ101-84号車は,おぼろげながら記憶に残っていたりします.
おそらく美しかったとかそんな特徴だったんだろうと思いますが,カノから転属したものだったというのはここで細井さんが教えてくださるまでは全く存じませんでした.黄色から朱色に塗り替えた直後だったら,さぞかし美しい朱色だったでしょう.

>王寺の101系置き換え用101系
懐かしいですね.京阪神にはなかったクハも含まれていたとかの裏話をあちこちで皆さんから教えていただいたと思うのですが,国鉄時代ならではのエピソードですね.
でも,当時京阪神送りになった101系というのは,王寺の件がなかったら,まず間違いなく別の場所に行くはずだったのですね.
その101系がどれだけ関西で生き永らえたのか自分は存じませんが(調べりゃイイだろと苦言を呈したくもなります),時の運といいますか,そんなものを感じます.

それでは,またよろしくお願いいたします.
 
 
 
黄色が眩しい頃 (猫背)
2009-02-25 12:22:00
こんにちは。
少し時間の経った記事に失礼します(ゆっくり書く時間が…汗)

登場時の中野構内での様子、101系や103系に囲まれながら輝いてますね。車窓からの根性撮り(自分も高校時代、浦和区に103、205、209が綺麗に並んでいるのを見つけて同じように撮りました…周りに迷惑かけないよう南浦和止まりの空いてる車両を選んだり)駅で撮る時より緊張感があったと思います。ましてやフィルムカメラで乱射撮りなんてコマ数が勿体無くて出来ませんでした。デジカメを使うようになって便利さに驚くと共に、今まで持っていた「写真を撮る事へのスタイル」が変わってしまうのかな?などと余計な心配をしたり(笑)

話が逸れちゃいましたが、登場時のジンカート処理の美しさが良く分かる画像ですね。経年で下辺部が少し波打ち、入場時にパテ&削り整形して黒塗装となりましたが、綺麗でも新製間もない頃とはまた違う感じです。
原型のジンカート処理のマスク部、綺麗な車体に黒光りする足回り、そして前面連結器の空気管周りがまだ錆びずに“鉄の輝き”を放っている辺りに「出来立て」感が伝わってきて見入ってしまいますw

中野区の編成札は101系からの流用だと思われます(確証は無いです)が、白い鉄板にやや擦れた「1」や、角ばった書体の「|□」などが印象的でした。
編成札の画像は中間クハのものですので、ミツ区に移動後しばらくして('89年前後?)オレンジに黒文字のプラスチック札に交換された後、旧札を中間クハに移動した時のものですね。しばらくして中間クハの札は無くなりました。

運転台の写真はいい記念ですね。自分は小学生の頃、登場したばかりの205系を当ても無く待っていたら、運転士サンが「ニーマルゴは当分来ないよ〜」と言いながら「乗ってみる?」と折り返しで停車中の運転席に座らせてもらいました。今では色々とアレですが、その時の緊張と嬉しさ、客室とは違う乗務員室の空気は今でも鮮明に思い出せます。

M車の床にある主電動機点検蓋(という名称でしたっけ)、一部の車両は目立たないように(?)縁を茶色に塗装したヤツが居た記憶があります。
妻窓やオレンジシート、これぞ201系の客室、ですね。
水色モケットに交換された当初は新鮮に映りましたが、退色が激しいのと車内での色彩的なトータルバランスに微妙な違和感を感じたり…この辺りは相模線205系が新モケット(他区205と同様の緑柄)に交換さてしまった時の違和感も同じです。
結局はストックの共通化(客室の色彩考慮<コスト削減)なんでしょうけど…

毎度ながらまとまりなくダラダラと失礼しました。
新製直後のピカピカな姿、何度見てもイイですね。
 
 
 
コメント有難うございます (イナ@ペン)
2009-02-26 10:31:38
猫背さん,こんばんは.
いわば昔の寄せ集め写真だけしかない記事ではありますが,コメントくださいまして有難うございます.

>ジンカート処理
今から思い返せば,ジンカートの部分が塗られたのは90年代の初頭なのですが,あのときに限って申せば,塗装されて綺麗になったなと思いました.
ただこうして登場時の色艶を見てしまいますと,桁違いにジンカートの方が美しいですね.
まぁ言い換えますとジンカートが(およそ10年の間に)経年を示してきていたということになる訳ですが・・・.

連結器の部分の輝き,全く気にしていませんでした.確かにあの部分が再び輝くことは,あまりないでしょうね(連結器を交換することなんて,そんなに・・・).
編成札の変遷,ご教示有難うございます.本記事の画像の撮影日はいただいたインスタント写真に書かれている通りでして,猫背さんがおっしゃった時系列と完璧に合致するのが気持ちイイですね.

床の点検ブタというものも,時代が変わるにつれてなくなっちゃいましたね.まぁ無いほうが乗客としては嬉しいですし,フタの上は乗り心地がイマイチ・・・とか考えると嬉しい変化ではあったのですが,フタのちょうど中間(言い換えれば台車中心)の真上って,実は何気ですごく乗り心地良いのですよね.自分が選んで乗るスポットの一つでした.
で,点検ブタの縁ですが,新製時には床材の色に塗られていました.103系ならグレー,201系試作車なら水色,そして量産車では茶色.
ご存じの通り,あんな場所ですので,お客さんが乗ったらすぐにすれてなくなってしまいます.自分の写真に,塗装が残っている画像なんかあるのだろうか・・・ちょっと疑わしいです.雑誌の新車ガイドの写真から探してくるくらいしか出来ないのかもしれません.

三鷹区時代の「10」の編成札(マンマの文字を良くぞ探してくださいましたm(__)m),記事中にも見えていますが,あの微妙な雰囲気は忘れられませんですね.特に試作車を間に挟んでからはそれも含めて編成が微妙な雰囲気を醸し出してくれていたなと思います.
その「|□」編成も,千葉寄りの5両は既にお星様になっちゃったんですね.

水色のモケットは,201系の粘着ヲタとしては,「悔しかった」です.悔しがられても困ったでしょうが>201系
201系といえば・・・の重要な位置を占めていたオレンジシートがなくなっちゃったのですからそう思ったのは自然だろうと思います.
でもって,205系には小奇麗なシートが用意されたにもかかわらず,201系は103系と同じ,要するに「寒色系の化粧板でも暖色系の化粧板でも,そこそこ合う色の」モケットにされてしまったのは,悔しかったなぁ・・・.
103系の更新車に現れていた,濃淡の水色で3−1−3に分けられてたシートは,自分は大好きでした.
これについては,手許に当時の時代の流れを示す新聞記事があるのですが・・・・・.

もう最近慣れちゃったかのようですが,首都圏(古いですか)に残る201系は10連6本+α(四季彩とかクハのトップナンバーとか)になっちゃったんですね.国電総研さんの情報によれば,あと1年チョイの運命のようですし.
もう一度,運良く首都圏で乗れることを願っています.

繰り返しになりますが,クハ1号車について,ヲタの立場で何か出来るのであれば,やりたいですし知りたいです.

そんなこんなで,これからもよろしくお願いいたします.
 
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