◆ 伝説の裏側 | 2009.3.27 |
人間には「しおどき」というものがございます。 加藤鷹の「二本ゆび」のことではございません。 人生の「引きぎわ」のことでございます。 我が国の文化では「引きぎわ」のあざやかな人間は「大人物」 として評価されてまいりました。 そうした我が国の文化の伝統になじまない「人物」が出現しております。 「小沢一郎」でございます。 約30億円を越える現金及び不動産を「秘匿」してきた「守銭奴」でございます。 目的の為には手段を選ばず、これまで数えきれないほどの「友」や「恩人」 を情容赦なく切り捨ててきた「非情の男」でございます。 「大恩人、金丸」への仕打ちなどはあの魑魅魍魎の館の政界の住人をして 「人間のやることではない」と震感せしめたほどの冷酷な逸話の持主でございます。 その冷血漢が政界に「居すわりたい」と涙を見せました。 「涙」は他者の為に流してこそ美しく人の心を動かすものでございます。 政治家であればなおのこと、決して自分の為に涙を流す 「恥知らず」を見せてはならないのでございます。 しかし小沢は「涙」で乗り切ろうとしました。 「哀れ」を通り越してなんと「汚い」男かとヘドが出る思いでございます。 かつての「ホンダ」の本田と藤沢のように、共に手をだずさえて 「舞台から降りよう」と「引導」を渡し合う「友」の不在が、 民主党の「役立たず」の評価に拍車をかけているのでございます。 人生の表舞台から立ち去り方の「あざやかさ」で「伝説」となったスターがいます。 「山口百恵」でございます。その絶頂期における突然の「結婚」そして引退表明は 「謎」とされ、その真相をめぐっては当時さまざまな憶測を呼びました。 所属プロダクションとの不仲説。人気の限界説。夫、三浦友和の「異常な嫉妬」 と諸説かしましいのでございましたが、そのなかで説得力を持って語られたのが 「大信田礼子の呪い」でございます。 「大信田礼子の呪い」とはいかなるものであったでありましょうか。 1974年大信田礼子は作曲家の都倉俊一と「結婚」しました。 前年山口百恵も映画「としごろ」で芸能界デニューを致しました。 映画と同時に同名の曲「としごろ」で山口百恵は歌手デビューも果たしております。 その曲を「作曲」したのが都倉俊一でした。その後「ひと夏の経験」 など都倉、山口コンビで数多くの「ヒット曲」が生まれております。 そうした関係があって山口百恵は「レッスン」の為、 ヒンパンに新婚の「都倉邸」を訪れていました。 新妻大信田礼子も二人の「芸術活動」に理解を示し、山口百恵が 「レッスン」に来ると用時をつくって外出することを常としていました。 いつものように山口百恵が「レッスン」に訪れたその日も、デパートに 買い物に行く為に大信田礼子は入れ変わるように家をでました。 しばらくして忘れ物をしたことに気がついた大信田礼子は急拠家へと帰りました。 応接室を開けると、そこで素っ裸の汗まみれになってジュウタンの上で「レッスン中」 の「二人」を発見したのでございます。 新妻大信田礼子は夫、都倉俊一に「百恵」と別れるように「懇願」しました。 しかし夫都倉俊一の反応は煮えきらないものでした。 「山口百恵にとって自分は最初の男だから責任をとらなければいけない」 というのが都倉俊一の言い分でした。 しかしこの山口百恵にとって「都倉俊一が最初の男」である の説にはいくつかの異論があります。 一つは山口百恵本人がそのベストセラーとなったエッセイ「蒼い時」で、 最初の男は夫となった三浦友和である、と告白しているところによります。 他に、実は我れこそは山口百恵の最初の男である、 と自称する男が芸能界に何人か存在していました。 雑誌編集者、映画関係者、広告代理店社員など複数人、存在しました。 その中の一人写真家のKなどは「百恵命」と染めあげたTシャツやジャンバー を着て仕事場に現われたり六本木を活歩してのパフォーマンスで話題を呼んでいました また篠山紀信が「オフレコ」で撮った「上半身ヌード」写真 が現像所ルートで流出した「事件」などもあって、 山口百恵への評価はただの「アイドル」ではない 「早熟の女」へと色彩を帯びつつあった季節が訪れていたのでございます。 「百恵とのジュウタンの上でのレッスン」事件があったとされたころ からほどなくして、大信田礼子と都倉俊一は「離婚」しました。 離婚の本当の決定的原因がなんであったか、他人の知るところでないことは勿論でございます。 事情通は「じゅうたんの上のレッスン」が原因と囁き合いました。 離婚後、その傷を癒そうと大信田礼子は酒に溺れる日を送りました。 酔いつぶれた彼女は自分をこうした境遇においやった「百恵」への 怨念を口にするのでありました。 いつかあのことをマスコミにバラして復讐してやる・・・・と。そうした大信田礼子の「呪い」 が山口百恵の関係者の知ることとなり相方の関係者が寄り合って話し合いがもたれました。 そして山口百恵の「結婚」と「表舞台からの永遠の引退」を条件とすることで大信田礼子が その「恨み」を水に流すことが了解されたのでありました。 そうした事情から、30年近く経った今日でもどんなことがあろうとも山口百恵は 「公の席」に再び姿を現すことはなくなったのであります。 こうしたいきさつの「真贋」は今日おいても明らかではありません。 しかし人生の絶頂にいたスターの、なんの未練を残すことのない山口百恵のあざやかな 引きぎわが、現役時代の栄光にも増してその「伝説」に今日においても 輝きを与えているのは事実であります。 私たちはSEXをしているとき「こんなのはじめて」 「いままでで一番気持がいい」と相手を称えます。 実際は「こんなの47回目」だったり「いままでで19番目の気持ち良さ」 であるのにもかかわらず、でございます。 かくのごとく誰れとて「正しい客観性」からではなく、 他人からの誤解や曲解、えこひいきや思い込み、 やさしさによって人への「評価」があるのでございます。 それゆえ成功者や人気者であればあるほど「謙虚」であることが求められる のでございます。権力を持った人間は、この世にその任において余人を持って 変えがたい人間など一人もいないのだ、ということを知るべきでございます。 「虎は死して皮を残し、人は名を残す」といいます。 「小沢一郎」は消えることで運をたぐり寄せた「山口百恵」の「伝説」に学び、 即刻退陣すべきでございます。 「戦場」では「戦いを止めること」でよりよく自分の存在を示すことになる、という ことがあるのでございます。 知るべきであります。人生の敗者は「敗れた者」 ではなく「変わることのできなかった者」であるということを。 |