<<新しい歴史教科書をつくる会 山形県支部>>

■青葉慈蔵尊由来記■


● 青葉慈蔵尊由来記
「青葉慈蔵尊由来記」は渡井昇先生(さいたま市在住)がおまとめになったものです。先生は永きに亘って「民族の叫び」という、その時々実にタイムリーでわかりやすい内容の月刊ワープロ紙(B4両面)を発行され、全国同憂の士に無償で発送を続けられました。「新しい歴史教科書をつくる会」が産声をあげるずっとずっと前から歴史教科書の異常さについて警告を発してこられたおひとりです。先生のような無私の精神が底流にあればこその今のわれわれの運動だとつくづく思います。正気煥発掲示板で敗戦直後の満州のことが話題になったのを機に掲示板に「青葉慈蔵尊由来記」を転載させていただき、このことを先生に報告したところ大変喜んでいただきました。「ぜひ多くの方々に知って欲しい。とりわけロシアの方々に」との先生の言葉を受け、新たなコンテンツとして常備することにしました。ぜひお知りあいの方にもご紹介ください。

あなたは知っていますか。

赤十字看護婦として従軍し、

終戦後に異境の地満州で悲しくも壮絶な

自決を遂げた大和撫子たちのことを。

何故に、若き乙女たちは死を選んだのかを。

何故に、この慈蔵尊が建立されたのかを。



●青葉慈蔵尊由来記
 ―従軍看護婦団の悲壮なる自決―

痛恨の事のみ多き大東亜戦争の中で最も憤ほろしく許せないのは、米軍の原爆投下とともに、それ以上に、日ソ中立条約の有効を信じて対米和平の斡旋さえひたすら頼み込んでいたその相手ソ連から、背信の火事場泥棒に続いて加えられた史上未曽有の悪魔的惨虐であり、何よりも痛ましいのはその鬼畜の蛮行に曝された女性たちの悲劇であった。

 昭和二十一年六月、ソ連占領下の満州の長春でソ連軍の蛮行に抵抗して純操を守り抜いた従軍看護婦の集団自決は、その中の一つの事実であるが、あの時期における全ての受難同胞を代表して実に見事に日本人の魂を犯すべからざる威厳を示した、永遠に語り継がれるべき悲歌である。

〇卑劣なる悪魔の毒牙

 八月九日、突如ソ連軍の侵略が開始されるや、満州東部国境に近い虎林の関東軍野戦病院に軍医である夫と共に勤務していた堀喜美子婦長以下三十四名の従軍看護婦は移動を命ぜられ、一週間の強行軍を経て当時の首府新薪、今の長春に辿り着いたが、その日、八月十五日、そこで日本の降伏を知った。ソ連軍の南侵は急速であり、すでに中共軍も入って来ている。覚悟は出来ていたものの、栄えある白衣の天使が一転して虜囚の身である。
 これからどうなるのか誰にも判らなかった。殊に夫、堀軍医中尉と今生の別離になるとも知れず離れ離れとなった堀看護婦長に、男女二人の幼児が残されたのである。

 暗澹たる日々であったが、長春の通化路第八紅軍病院に一ケ月二百円の給与の約束で勤務することになって、ともかく帰国の望みを抱きながらその年は暮れた。
 明けて二十一年の春、城子溝にあるソ連の陸軍病院第二赤軍救護所から三名の看護婦を応援に派遣せよという命令が婦長に伝達された。惨劇はこの一枚の命令書から始まったのである。

 看護婦長堀善美子さんはこの命令を受けた時「ただ何となしに手が小刻みに震え、ふっと曇った胸に不安の黒雲が段々広がっていく行くのをどうしても消すことが出来なかつた」と言っている。ともあれ、命令には応援は一ケ月でよい、月給は三百円を支給するとあるが、この危険を感じる所へ誰を送るか。婦長と軍医は相談の上、仕事も出来、気も利く優秀な大島はなえさん、細井たか子さん、大塚てるさんの三名を漸く選び出した。

不運な白羽の矢を立てられた三名はそれでも極めて元気に一ケ月のお別れ告げて出掛けて行ったが、予定の一ケ月を過ぎても帰って来ないうちに、同じ城子溝の病院から、また三名の看護婦追加の申し込みが来た。
 やむを得ず、荒川静子さん、三戸はるみさん、澤田八重子さんの三名が第二回目の後続として送り出された。そうこうするうちに二ケ月経ったが誰一人として帰って来ない。そこへまた第三回目の命令である。一ケ月という約束など眼中にないらしいソ連の図々しさに痛憤したものの、戎厳令下の長春で占領軍の命令を拒否したならば、長春三百人の日本人が皆殺しされるかも知れぬという恐怖があった。もうこれきりと申し合わせて、しぶしぶまた、井出きみ子さん、澤本かなえさん、後藤よし子さんの三名を送った。

 ところが、何事ぞ、厚顔無私、またしても第四回目を申し込んで来たのである。
 もはや我慢の限界であったが、しかし敗れた者の情なさ、どうすることも出来ない。やはり送る外ないと、四たび三名の女性が選ばれ、月曜日の午前中に出発することになった。それは六月十九日土曜日の夜であった。

 堀婦長が憂鬱な人選を終え八時過ぎに病院を出ようとした時、扉口によろめき倒れかかって来た傷だらけの女性がある。
 日本の振り紬をイブニングドレスに更生した肩も露な洋服をまとい、裸足で桃色の繻子の靴を片足だけしっかり握りしめている。落ち着いてよく見ると、何と第一回に派遣した大島はなえ看護婦ではないか。病室にかつぎ込んで手当したが危険は刻々と追って来る。堀婦長はこの時のことを次のように語っている。

 ≪しかし、聞くだけのことは聞かねばならないので、大島さんを揺すぶって起こし起こして聞いてみますと、哀れなこの看護婦は私の腕に抱かれながら、ほとんど意識を失いかけている臨終の眼を無理矢理にひきあけて、次のように物語るのでした。
「私たちはソ連の病院に頼まれていったはずですのに、あちらでは看護婦の仕事をさせられているのではありません。行った日から病院の仕事は全然しないで、ソ連将校の慰みものにされているのです。
 最初に行きました三人に、ほとんど毎晩三人も四人もの将校が代わる代わるやって来て私たちをいい慰みものにするのです。否と言えば殺されてしまうのです。
 私も殺されるぐらいはかまいませんが、次々と同僚の人たちが、ここから応援を名目にやって来るのを見て、何とかして知らせなければ死んでも死に切れないと考えましたので、厳重な監視の眼を盗んで脱走して来たのです」というのでした。
 聞いている私をはじめ、居残っていた病院の人たちも、その話にただ暗澹と息をのみ、激しい憤りに身内が震えてくるのを禁じ得ません。脱走した時、うしろから撃たれたのでしょう、十一発の銃創の外に、背中に鉄条網をくぐって来たかすり傷が十数本、血をふいて、みみずばれに腫れています。どんな気持ちで鉄条網をくぐって脱走してきたのか、どんな危険を冒して来たのか、その傷は何よりも雄弁に物語っているではありませんか。
 身を挺して次の犠牲者を出したくないと決死の覚悟で逃れて来たこの看護婦の話に、私の涙は噴水のように後から後から噴き出し釆ました。
 国が敗れたとしても個人の尊厳は冒すこと出来ないのではないのでしょうか。
 それをわずか七日間の参戦で勝ったというだけで、清純な女性を犯すとは何事ぞと、血の出るような叫びを、可憐な二十二歳の命が消えて行こうとする臨終の床に、魂をさく思いで叫んだのでした。
「婦長さん!もう後から人を送ってはいけません。お願いします」という言葉を最後に、その夜十時十五分、がっくりと息をひきとりました。泣いても泣いても涙が止まりませんでした。》

〇死をもって守る乙女の純操

 よく二十日日曜日満州の慣習に従い、土葬の野辺送りをすませ、髪の毛と爪をお骨代わりに箱に納め、大島さんには懐かしい三階の看護室に安置し、その夜は一同遅くまで思い出話に花を咲かせた。
 明くる月曜日朝、別にあてがわれている合宿所から出勤して来た婦長に、待ちかまえていた人事課長の張宇孝が「もう九時を過ぎているのに一人も出勤して来ない。患者がもうあんなに来ているのにどうするつもりだ」と怒鳴りつける。
婦長は、ハッとして夢中で三階の看護婦室に駆け上がった。そして見たものは・・・。婦長はこう語っている。

 《入口には一同の靴がきちんと揃えてありました。障子を開けると大きな屏風が逆さまに立ててあります。中からプンと線香の匂いがしました。変だなと考えるひまもなく部屋に駆け上がってみました。胸がドキドキしました。二十二人の看護婦がズラリと二列に並んで眠っています。しかも満州赤十字看護婦の制服に制帽姿で、めいめい胸のあたりで両手を合わせて合掌しているではありませんか。
 脚は紐できちん縛ってあります。直感的な不安を感じ私はあわてて一人に触ってみました。もう冷たくなっているのでした。(中略)
 し−んとした死の部屋で、どの顔もどの顔も、極めて平和な、しかも美しい顔をして、制服制帽こそ長い間の従軍につぎが当たり色は褪せてていますが、折り目正しく、きちんと着ています。二列になった床の中央には机を持ち出し、その上に昨日各自の手でお弔いをした大島はなえさんの遺髪を飾り、お線香と水が供えられてあります。》

 その遺書にはこう書かれていた。

  『二十二名の私たちが自分の手で命を断ちますこと、軍医部長はじめ婦長にもさぞかしご迷惑と深くお詫び申し上げます。
 私たちは敗れたりとはいえ、かつての敵国人に犯されるよりは死をえらぴます。
 たとい命はなくなりましても、私どもの魂は永久に満州の土に止り、日本が再びこの地に還って来る日、御案内致します。その意味からも、私どものなきがらは土葬にして、この満州の土にしてください。』

 この後に全員の名前がそれぞれの手で記されてあった。

 現場検証に来たゲー・ペー・ウーにその遺書を見せ、婦長は溢れ落つる涙を拭きもあえず、投獄されようと厭う所でなく、嗚咽とともに、最初からの経緯をことごとくぶちまけてソ連の非道をなじった。さすがのゲー・ペー・ウーも顔色を変えて感動したようである。翌日直ちに「ソ連の命令として伝えられるもので納得行かぬものがあれば二十四時間以内にゲー・ペー・ウーに必ず問い合わせること」 「日本の女とソ連兵がジープその他の車に同乗してはならない」というような布令が出た。どうせソ連のことであるが、これで当面いくらかの効果はあったであろう。

 二十二名の自決の模様は、一番年長で監督をしていた二十六歳の井上鶴美さんが、皆に青酸カリを与えて一同の死を見届けた上、最後に自分も服毒して息絶えたものらしく、二十一名はきちんと膝を紐でくくり、静かに眼をつぶって合掌していたが、一番端でこと切れている井上さんだけは断末魔の苦悶の表情があった。
 彼女たちは死の当日、ボイラー室に大きな包みを二つ持ち込んで来て目の前で燃やしてもらい、汚れ物一枚残さず、日本女性の身だしなみのよさと覚悟のほどが偲ばれた。

 病院からこの非業の死を遂げた人々に送られたものは小さな花束一つ。誰にも金はない。遺書のとおり土葬にしようとしたところ、それではあまりに気の毒と同情した張宇孝人事課長の供養によって火葬に付し祖国に帰れることになった。

〇この壮絶に鬼も哭け

 二十二名のお骨を祀って四十九日を迎えた日、堀婦長はお供えのお饅頭を作る粉を買いに出掛けた時、たまたまミナカイデパートの地下室のダンスホールに、あの三回に分けてソ連の病院に瞞されて行った人たちがダンサーをしているということを知った。早速訪ねて行って、待っていると六人の看護婦は急いで出てきた。日本の着物を更生した肌も露わなイプニングドレスに、眉を細くひき、ルージュを濃く、いかにもナイトクラブのダンサー然としているが、顔は病人のように蒼白である。
「こんな所でこんなことをしないで、早く私どもの所に帰って来て」と極力勧めたが、俯いて肩を震わせて泣く彼女たちは、首を横にふるばかり。たまりかねた堀さんが、「あなた達はそんなことを好きでやっているのね。そこまで日本人も堕落したのか」と罵って三っつぱかりひっぱたいた。するとみんな一層しょげて、涙ながらに言うには、
「婦長さんがそれほどにまで私たちのことを考えて下さるなら申し上げます。最初私たちがソ連の病院に送られた時から、私たちは毎晩七八人のソ連の将校に犯されたので、すぐに国際梅毒をうつされてしまいました。私も看護婦です。今では大分悪化していることがわかります。こうなっては自分の体は屍に等しいのです。
 どうしてこの体で日本に帰れましょうか。仮に今後どのような幸運に恵まれて日本に帰れる日が来たとしても、この体では日本の土が踏めません。この性病がどんなに恐ろしいものか十二分に知っています。暴行の結果うつされたこの性病を私はソ連軍の一人でも多くうつしてやるつもりです。今は歩行も困難なくらいですが、それでも頑張って一人でも多くのお客をとることにしています。これが敗戦国のせめてもの復讐です」

 決然といいはる彼女たちに帰す言葉もなく別れた婦長は、病院中の性病の薬を集めてキャバレーに届けさせた。しかし、彼女たちは「日本の人たちが作ったこの薬品、こんな貴重な薬品をいただいては
申し訳ない。ソ連軍からうつされた私どもの病気を日本人の作った薬で治すのは勿体ない」と言って受け取らない。
そして重ねて訪ねて行った婦長に、「その御親切を無にするわけをお見せしましょう。ょう」と自分たちの部屋に案内して患部を見せた。制止できない症状。コンジロームが局部一杯に広がってその先が全部化膿して膿が流れ、無花菓(いちじく)の腐敗したのを見るような感じに、長年看護婦をして馴れているはずの堀さんも全身総毛立ちの寒気がしたという。
 この六人のうち四人は、堀さんたちの引き揚げに際しては、ハルピンに身売りまでしてその費用を稼いでくれたという。

〇この世は鬼あり仏あり

 このような犠牲をあとに、二十三年の暮、堀さんはその遺骨を抱き、幼い二人の子を連れて、千辛万苦、死線を越えて漸く祖国に辿り着いたが、それからまた大変であった。日本赤十字をはじめ国の関係の何処かで霊を祀ってもらいたいと奔走したが、いずれも冷たく拒否された。
 やむを得ず、遺骨は自分の郷里山口県徳山市の家に仮に納めたが、一日も早くちゃんとした安息の地を定めたい。清水市の桜ケ丘保健所に勤務し、二人の子供を育てながらも、亡き友たちのことは一日も忘れることはなかった。

 満州から一緒に引き揚げてきた軍医の平尾勉なる人物と相談して、冥福を祈るため毎月二百円ずつ貯金を積み立てる計画を立てたが、それではとても間に合わぬので、自分の持ち物一切、子供のものまでも質に入れて、五万八千円という大金を工面して平尾元軍医に預け、七回忌までに、彼女たちが満州に渡る直前二週間幕舎生活をして訓練を受けた思い出の地、群馬県吾妻郡大泉村に慰霊の御地蔵さんを建てることにした。堀さんは自分は現地に行けないが、平尾が当然実行してくれたものと信じていた。

 しかるに数年後、当時堀さんの話に感動して浪曲にし、仝国を巡演していた松岡寛さんがお詣りをするつもりで大泉村に行ってみると、何も建っていない。平尾が堀さんの信頼を裏切り、金を着服してしまっていたのである。堀さんの受けた傷心は察するに余りあるが、しかし苦労し抜いた彼女の心は正に地蔵様のように思いやりと慈愛に満ちていた。「こんな時代です。みんな苦しいのです。平尾さんは決して悪い人ではないけれど、家族を養うためにどうにも仕方がなかったのでしょう」といって、もう何も責めず、愚痴も言わなかった。

 ただ其処から再び悲しい従軍看護婦たちの安眠の地を求める忍苦の生活が始まった。しかし、この悪い奴がはびこる汚れた世にあっても、観世音菩薩はいろいろな人の形に身を現じて、堀さんに救いの手をさし伸ばして下さった。

 まず前述した松岡寛さん。やがて結ばれて夫婦になるのであるが、春日井梅鴬の門下で若梅鴬と名乗る人気の高い浪曲師であった。堀さんの話しに感激し、『あゝ従軍看護婦集団自殺』と題する浪曲を作って全国を巡業したが、それによっても、奇跡的にも、まったく手掛かりもなかった十九人の遺族が名乗り出ることになるのである。

 そして、も一人は、埼玉県大宮市の墓地青葉園の理事長吉田亀治氏。山下奉文将軍の副官を勤めたことがある元陸軍歩兵大尉であるが、侠骨稜々たる氏は、偶々この若梅篤師の浪曲を聴いて涙を流し、その青葉園の一角に地蔵尊を建立してくれることになったのである。

 またつけ加えれば、堀さんが身ぐるみ入質した質屋の御主人。話を聞いて、期限が来ても流すどころか、一切無利子無期限に預かりますということになった。

〇いざ受けたまえ紫の数珠

 かくして、昭和三十一年六月二十一日、名も爽やかな「青葉慈蔵専」の開眼供養が行われ、自決した二十二名の乙女たちの遺骨はその台下に納められ、大島看護婦たち非業の運命を倶にした同僚たちの霊も併せ祀られた。この日、堀さんは現在勤務している陸上自衛隊中央病院の制服も凛々しく、胸に溢れる無量の感慨をジッと噛みしめていた。

 像は高さ五尺余の小松石。左の掌に赤十字の制帽を載せて微笑んでいる。白衣が取り除かれて慈蔵尊が全身を現した時の情景を当時私は次のように書いた。
その一節。

 《今日この一隣のためにこそ生きて来たこの人たちの命であったのだ。覚えずよろめくように慈蔵専にシカと抱きついて咽び泣いた堀さんは、しかしすぐ気を取り直して起ち上がり、ふるえる手を伸ばして、慈蔵尊の右の手に紫の緒の数珠をかけた。息をのんで見守っていた私の眼は瞬間溢れる涙で何も見えなくなった。あちらこちらから畷り泣きの声が洩れる。
 あの満州で健気にも自らの純潔を守って自決していった乙女たちの悲しい願いは果たされたのである。あなたたちのほしがった紫の緒の数珠は、堀さんの約束通り慈蔵尊の御手にかけられ、とこしへに彼女たちの霊に捧げられたのである。
 天も泣くこの時、降るともなく一滴、また一滴、雨の雫が頬をうつのであった。》

 《堀さんが今日捧げた紫の数珠、それはあの乙女たちがかわるがわる夢枕に立って、婦長持っている紫の数珠を下さいと泣いて訴える。あげますよ、あげますよ、あなたたちのお地蔵さんを建てて、その手に掛けてあげますよ・・・と夢に現に、約束をし続けて来たその数珠であったのだ。
 純白の仏像に紫の数珠。白衣の天使たちが微笑んでいるではないか。この世ならぬ美しきものを仰いで、私どもの涙は、払えども払えども止まらなかった。》 (『救国運動』昭和三十一年六月号)

 こうして敗戦国民の悲哀と恥辱を限りなく味わいながら地下に哭いていた看護婦の乙女たちの御霊は、ようやく安眠の地を得て、「青葉慈蔵専」に、その在りし日の可憐な姿と美しい心を表現したのである。

〇芳魂とこしなえに此処に

 それから更に月日は流れて平成八年六月二十一日、五十周忌の命日に、有志の手により、次のような由来を記した顕彰碑が、慈蔵尊の側に建てられ、遺書とともに乙女たちの姓名も刻まれた。

 『昭和二十一年春 ソ連占領下の旧満州国の新京の第八病院に従軍看護婦三十四名が抑留され勤務していたが ソ連軍により次々に理不尽なる徴発を受けその九名の消息も不明のまま更に四回目三名の派遣を命ぜられた
 拒否することは不可能であることを覚悟したその夜 最初に派遣された大島看浅婦が満身創痍瀕死の身を以て逃げ帰り全員堪え難い陵辱を受けている惨状を報告して息絶えた
慟哭してこれを葬った二十二名の乙女たちは 六月二十一日黎明近く 制服制帽整然として枕を並べて自決した
 先に拉致された同僚たちも 恨みを呑んで自ら悲惨なる運命を選び満州の土に消えた
 二十三年の暮れ 堀婦長に抱かれて帰国した二十二柱の遺骨は幾辛酸の末 漸く青葉園園主の義侠により此地に建立された青葉慈蔵尊の台下に納められた
九名の友の霊も併せ祀られ 昭和三十年六月二十一日開眼供養が行われて今日に至った
 凛烈なる自決の死によってソ連軍の暴戻に抗議し 日本女性の誇りと純血を守り抜いた白衣の天使たちの芳魂とこしなえに此処に眠る  合掌

 堀看護婦長、今は松岡喜美子さんは、その一生を貫く悲願と祈りの故に、年老いても若々しい精神を以て、後進の看護婦養成に専念しておられる。
 痛ましい限りだが、先日(平成8年)最愛の子、槙子さんを亡くされた。あの死線をともに越えて来た当時一才のお嬢さんである。さすが気丈の松岡さんもこのショックには絶えられず、お慰めする術もなかったが、「青葉慈蔵専」の御霊たちの励ましによってであろう、ようやく身心とも快復され、後進の指導に打ち込んでおられる。
 国の勲章というようなものは、送るなら誰よりも、このような人に送るべきではないかとしみじみ思う。

 最後に特記しておく。
 この日本魂の権化と仰ぐべき女性たちは日本赤十字より派遣されて「満州赤十字」に所属していたというだけの理由を以て「日本」の従軍看護婦として扱われず、靖国神社にも祀られず、国から何の援助も弔意も受けていない。それでよいのか。法律とはそんなものか。彼女たちの祖国はそんな国であったのか。耐え難い悲しみと憤りをもって国民同胞各位にご報告申し上げる。(中村 武彦)

 六月二十一日、青葉慈蔵専の前で、自決した従軍看護婦さんたちの五十一回命日の慰霊祭が営まれた。多くの心探き男女が参列して、あらためて遺烈を賛仰し後に続くことを誓ったが、その場で、松岡喜美子さんが挨拶に立ち、厚生省や総理府に陳情しても官僚的な対応を受けただけだった経過を報告し、せめて大臣・局長でなくてもよい、当局の誰かから、「看護婦諸君よくやってくれた、有難う」とか「相済まぬ」という一片の暖かい言葉を霊前に供えてやっていただけませんかと嘆願したが、それでも聞き入れてて貰えなかったと、涙ながらに訴えておられた。
 なんという政府の冷淡と不条理。あきらめてはっておけることではないと痛感した。

   平成九年六月十日付け「新日本」第949号より転記

*    *    *    *    *

 昭和二十三年九月のある朝、その日午後七時、南新京駅に集結という、突然の帰国命令が出た。堀婦長は子供たちに準備を言い残すと走り出していた。そうです。ダンスホールで働いている、あの六人の看護婦、細井たか子・後藤よし子・荒川静子・澤田八重子・井出きみ子・澤本かなえさんらの所です。「みんな帰れるのよ。帰国命令が出たのよ、今夜七時、南新京駅へ集まるのよ」と話した。
 彼女たちの言葉は、「七時までに準備して必ず参ります」というものだった。

 しかし、その約束には衝撃的な永遠の別れが堀婦長を待っていた。約束の時間の二時間前に行き、六人の来るのを待ったが細井さんらの姿は見えなかった。
 そのうち引揚げ用の貨車が入り、堀婦長は二人の子供らと共に貨車に乗った。
 そして目線は六人の姿を求めて遠く近くをさまよった。その時、意外に近くに制服制帽の荒井、細井、後藤さん三人が貨車に向かって来るのが見えた。
 三人を貨車に引っ張り上げ、堀婦長は「あとの三人は?」と問うと、「あとから来ます。これ、食料の足しにしてください」と言って抱えていた大きな包みを差し出し、「婦長さん、私たち澤本さんたちを探してきます」と言って貨車を降り始めた。

 飛び降りた三人の姿が堀婦長の視界から消えてものの一分もしないうちに、「バーンという銃声、続いてもう一発」の銃声が鳴った。誰かが、貨車の下の方だ、と叫んだ。
 何事かと堀婦長が立ち上がろうとしたその時、「婦長さぁん、さようならぁ・・・」と言う細井たか子さんの声が聞こえると同時に三発目の銃声が鳴った。
 堀婦長は反射的に貨車を飛び降り自分の乗っていた貨車の下に目を注ぐと、「うおぅー」と狼のような声を上げて走り寄った。後藤さんと荒川さんの身体を覆うようにして倒れていた細井さんの右手には拳銃が握られていた。

 おそらく、気丈な細井さんが先に二人を射殺し、最後に自分のコメカミを撃ったことが、堀婦長にはわかった。当然即死であった。
「わかる、わかるよう。あんたたち、こうする外なかったのね。こうしなければあの忌まわしい記憶から逃れる術がなかったのね。ごめんね。・・・早く、楽になってね。今度はもっと強い運をもらって生まれてくるのよ」 堀婦長はそう言って線路の砂利の上に座っていた。
嗚咽の中で冥福を祈り、もう一度合掌してさて遺髪をと、思いついた矢先引揚げ列車は無情にも、発車の汽笛を鳴らし、堀婦長は車上の人となった。
 結局、澤本かなえ・澤田八重子・井出きみ子さんの三人は姿を見せなかった。
 また、ソ連の病院に派遣された九人のうち、二人の行方は杳(よう)として知れずに終わった。

  堀喜美子著「従軍看護婦の集団自殺」より


「青葉慈蔵尊」の所在地

 ◎ところ:埼玉県大宮市三橋5の934「青葉園」 故山下奉文陸軍大将御墓近く」
 ◎交通手段:JR大宮駅 西口下車 西武バス5番のりば 「佐知川原行」にて約8分 「青葉園」下車
 ◎「慰霊祭」の時期:毎年6月下旬に行われます。


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