日めくり芸能界 2009年6月
【97年6月21日】天国へのチップ 勝新太郎、棺に現金500万円
土浦でのディナーショーの楽屋で会見を開いた勝新太郎、中村玉緒夫人(1992年10月24日)
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「パパ」。6月21日未明、勝新太郎(当時63歳)は(中村)玉緒夫人(同57)の声に反応してゆっくりと目を開いた。病室に大勢の人が集まっているのを見て「きょうは何の日なんだ。どういう日なんだ…」。
それが最後だった。自分の命が尽きようとしているとは思っていないかのような問いかけから数時間後、破天荒に生きた不世出の俳優は逝った。前年7月に下咽頭がんの告知を受け、8月からおよそ3カ月間入院。声帯の除去手術を避け、副作用も考えられる放射線治療と抗がん剤投与を選んだのは、役者にとっての生命線である「声」は絶ちたくなかったからだった。
11月18日に一度は退院。「酒、たばこはやめた。医者がやめろっていうから」。会見ではそう言いながらたばこの煙をくゆらせ、ビールを口に含んだ。おなじみの勝新節での「独演会」は快気を思わせた。だが、その間にも病魔は容赦なく勝の体をむしばみ続けた。1月7日には不調を訴えて再入院。放射線治療に伴う唾液腺炎と肺炎を併発し、吐血。数日間、生死の境をさまよった。
そこから持ち直したのは勝の執念といえるだろう。入退院を繰り返しつつ、3月には東京・渋谷区の自宅マンションに親しい仲間を集めてマージャンを楽しむまでに回復。それでも病状が思わしくないことは、周囲の目からも明らかだった。患部がのど仏の後ろだったため、最後の11カ月間は食事が全くできず「かっぷくの良かった勝さんとは思えないほどやせ細ってしまった」と見舞いに訪れた友人も驚きを隠せなかった。
勝は亡くなる半年前から自らの生涯を振り返る“遺言テープ”に肉声を吹き込んでいる。60余年を振り返る地道な作業の録音時間は20時間にも及んだが、「死期が近づくにつれ、徐々に声が弱くなっていたのが分かった」(関係者)。6月に入ってからは予断を許さない状態が続いた。容体が急変したのは19日の深夜。大量の血を吐いて意識を失い、昏睡状態に陥った。一時は奇跡的に持ち直したものの、21日早朝に再び危篤状態に。午前5時54分、玉緒夫人や家族にみとられ、静かに息を引き取った。
人なつこい笑顔、子供がそのまま大人になったようなスターで私生活も派手だった。多大な借金を抱えての勝プロ倒産劇。それでもやめなかった銀座や六本木での豪遊。90年1月、米国ハワイのホノルル空港でパンツの中に隠したコカインが見つかった際に「同じような事件を起こさないよう、今後はパンツを履かないようにする」と言い放った“迷言”会見は今でも語り草だ。
出棺を待つ勝の棺には愛用のサングラスや帽子に加え、500万円もの札束が一緒に納められた。「無事に三途の川が渡れますように」。豪快に遊び、チップを弾んだ亡き夫へ、玉緒夫人の最後の心遣いだった。
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